羅針盤の向こう

一条 しいな

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 季節は冬になっていた。
 僕は期末テストに追われ、レポートやら飲み会やら、忙しかった。亜麻、あのレズの女の子と食事会をした。戸井田の彼女と一緒に。楽しい席だった。終始笑っていたような気がした。
 真澄ちゃんの本は十二月に出すらしい。詳しくは聞かなかった。そんなことを僕は思い出しながら駆け足でかけていた。冬の寒さが身にしみる。冷えて顔が痛い。東京はまだ暖かい方だ。
 地方に行けば更に寒い。遊園地に行こうとか、冬休みは地元の友人と遊ぶとかいろいろ。そんな会話をしていた。
「おはようございます」
 朝から仕込みを始めることになった。喜一さんは振り返ると「おはよう」とぶっきらぼうだけど挨拶してくれる。
「あんた達やるわよ」
 鈴さんが言った。おばちゃん達はやめなかった。鈴さんは踏ん張っている。強いなと僕は思った。鈴さんは自信たっぷりな顔をした。
 弟を見ていた。
「頼もしい限りよ」と目が言っていた。朝早く起きて仕込み。小麦粉を機械に入れて、こねる。休ませ、熟成させる。こんな簡単なことだが、なかなか奥が深い。素人の僕にはそれくらいしかわからない。第一、僕はそんなにパンが好きというわけでもないからだ。
「おい」
 怒鳴られながらも作業をする。喜一さんは怖い。鈴さんも怖い。それは真剣だからというのはわかりきっていることだ。本気で好きで愛情という陳腐な言葉では片づけられないものを持っているのではないかと僕は想像する。
 仕込みが終わると帰っていいよと言われた。今日は仕込みだけだ。体がだるい。
 そうだ、夜のライブがあるんだと気がついた。整体は空いているかなとスマホで確認していた。
「喜一さん」
「ん。お疲れ」
「お疲れ様です」
 空元気に僕は言った。着替えの事務室はおばちゃん達の姿なく、僕と喜一さんだけだった。喜一さんはうなずいて「整体、行くか」と言われた。
「空きを見ています」
「ん。おまえ、学校は」
 教授が出張で休講があるんですと答えた。
「今、忙しいのか」
「レポートとテスト」
「ああ飲み会とか」
「飲めませんけど、食べるくらいはします」
 なんかと言った喜一さんがいた。少し疲れた顔をした。喜一さんは笑っていた。
「まあ学生の本分を忘れないように、な。俺は行く」
 そう言われてしまった。僕はなんとなくつまらなかった。避けられた理由がよくわからなかった。
「あんた、まだいたの」
「これから出ます」
 僕は逃げるように立ち去った。泥船に乗るのはなぜですかとは問う度胸はなかった。ただ、きっと喜一さんは姉が好きだったのではないか。姉のパンが世界で一番好きなのかもしれない。それを守りたかったからかと僕は考えていた。
 整体は空いている。喜一さんは先に座っていた。僕は隣に座ってみた。喜一さんは寝ているようだった。僕はじっと観察するわけにもいかず、勉強をしていた。
「喜一さん」
 という声が聞こえて喜一さんは部屋に入って行った。喜一さんはなにを考えているのか僕にはわからなかった。
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