羅針盤の向こう

一条 しいな

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 真澄ちゃんはニコニコしながら宣言すると、その場から立ち去る。守ってくれるのではないかと僕はつぶやきそうになった。
 真澄ちゃんを見送る。そうして、朝のご飯の惣菜パンを買って、食べ物を買った。荷物が多いので、歩いて行く。さっきの穏やかな気持ちがどこかに行ってしまった。あれだけ輝いていた太陽が今はなにも思わない。ただ、あるだけ。
 そうして僕は歩く。あの意地悪な女子高生が言ったことが頭の中で巡る。そう、夜が曲を作れない。SNSのメッセージでは作っていると言った。嘘ではない。
 でも、曲は作れない。なんで、と問いかけたいのは夜だろう。ある作家は幸せなとき小説が書かないと言われている。今は夜が幸せなのだろうか。そんなことを思っていた。もし、幸せならば、いいことだが、アーティストとしては不幸だ。
 夜はこのまま、終わらせたくない。そう、夜はまだ続いてほしいから。
「夜」
 僕はどうしていいのか、わからなかった。幸せより不幸の方がいいのだろうか。それって正しいことなのか。悪いことでは。
 なにか夜の感性に訴えるものが、僕にはないからか。そんなことを思う。そんな僕はいきなり別れを切り出されたら、どうしようと考えていた。きっと立ち直れない。そんなことを思う。そうして、僕はどうしようなく、すがるのだろう。夜に。
 待ち合わせ場所に向かう。歩いて行く。いつもの夕暮れが不気味なものに見える。暗いもの。赤い色、それが血の色のようにも見える。そんな真っ赤ではないが、優しいはずの紅がなぜか、わからないけど、胸がざわめく。
 コンビニの店員がいらっしゃいませと言う。夜はぼんやりと雑誌を読んでいる。それで、げっと、声をあげている僕がいた。さっきの女子高生が夜の側で話しかけている。
「あのね、それでね。そいつ、オカマを味方にして私をいじめたの」
「夜、あの」
「よっ」
 夜は相手にしなかったようだった。気にしていないのかと、僕が考えると「中嶋ちゃんをいじめたんだってな」と言われた。僕は愕然とした。
「違う。この子が勝手につきまとって」
「違うよ。夜、こいつが私に言い寄ってきて、分が悪くなったら、オカマを呼んで」
「どっちが正しいか。なんてわからない」
「夜、それはわかっている。女の子の方を信じるんだね」
「正しいのか、わからないけどさ。中嶋ちゃんさ。ちょっと、無理があるなー」
「えっ」
「女を誘う度胸も、こいつにはないし。オネエはなんとなく想像がつくのよ。アイツねー。でも、中嶋ちゃんは傷ついているんだよね」
「そうだよ」
「まあ、困った」
「そんな困ること?」
「だって、コイツに変な虫がついたから」
「えっ」
「中嶋ちゃん、虫ね」
「そんな、違うよ。違うよ。だって、私は虫じゃないよ」
「どうやってここがわかった?」
「言えない」
「言え」
「最近ここにいるって、ファンの子から聞いたから」
「あー、そう。他には」
「変なやつとつるんでいる」
「おまえ、変なやつだって、笑える」
 クスクスと笑っている夜がいた。目がギラギラ光っている。
「友達じゃないよね。こんなやつ」
「友達じゃない」
 えっと僕はショックを受けていた。そうかもしれない。僕と夜は夜の。
「想い人。こいつは俺の」
 一瞬、時が止まった。そうして、女子高生はいきなり僕に掴む。腕を。
「殺してやる」
「いや、まて」
「夜の好きはみんなのものなの」
「落ち着いて」
 なぜか、夜は落ち着いている。そうして、スマホを持っている。
「ああ、ノリ。元気? いい曲かけそう。今、すごく腹が立っているから」
「ちょっと、夜。なんとかしろ」
 僕が叫ぶと、女の子はいきなり噛み付いた。腕を痛いと、叫ぶと夜は「嫌いになるよ。俺。そういうふうに想い人をいじめる人は」と言っていた。
「いやだー」
 いきなり女の子は泣き始めた。夜がそう仕向けたのか、わからない。ただ、泣きべそをかいている女の子に僕はオロオロした。周りから鋭い視線を感じる。
「夜、ちょっと、なんとかしろよ」
「あー、今は無理。ごめん」
「ごめんじゃないよ」
 そのまま、夜が立ち去った。そうして、残った僕と彼女。彼女は大声からすすり泣きに変わっていた。僕はため息をついた。
「外の空気を吸う?」
 いったん、コンビニの外に出たら、すすり泣きする女の子と僕で、余計に周りの視線が痛くなった。とりあえず、彼女を隠すように一緒にいる。
「一人で帰られる?」
「無理」
「公園に行く?」
「いやだ。なにかするつもり?」
「しないから。ちょっと待って。飲み物、なにが飲みたい?」
「ミルクティー」
「わかった。ホット?」
「冷たいの」
「わかった」
 自動販売機で買う。自分の分には買わなかった。ペットボトルに入った冷たいミルクティーを買って、渡す。彼女は僕をにらみながら飲んでいる。
「これでいい気になるなよ」
「ならないから」
「泣き止まないからな」
「泣き止んでよ」
 はあーとため息をついた。いっきに疲れた。道の端で彼女は涙を流して行く。
「最寄り駅まで送る」
「それならいい」
「なんで、一人だと危ない」
「まるで、いらないから」
「なにが」
「夜にとって、私が泣いたら、変わると思った。でも、夜は私が泣いてもなんとも思っていない」
「それも俺も同じだ。夜にとって、俺なんてただの友達だ」
「違うと思う。腹立つけど、あんたは夜の大切な人だよ。曲が作れなかったら、すぐに別れるよ。夜は」
「そっか」
「照れるな。調子に乗るな」
「ごめん」
「謝るな。腹立つ。お人好し」
「教えてくれてありがとう」
「?」
「教えてくれなかったら、きっと、不安だったから」
「やっぱり好きなんだ。両思いか。夜を惑わす悪いやつだ」
 彼女は新たな涙を流している。少しだけ大人しくなった。駅前のベンチに来て、座る。そうして、彼女は目を閉じた。疲れたようだ。
「お菓子を買って」
「なんで?」
「いいじゃん。だってさ、あんたは夜の心を持っているんだよ」
「そんなものはすぐに飽きるよ」
 ふーんと、彼女は言った。目が赤い。ウサギみたいだと僕は考えていた。手間がかかるウサギだ。そんなことを考えていた。
「お菓子を買えば、落ち着くの?」
「どうだろうね」
「じゃあ、買わないよ」
「わかったよ。でも、無理なんだ。失恋したから」
「そうだね」
 そうだよなとつぶやいた。僕だったら世界で一番の不幸な人間だと思っているだろうなとわかる。そのような気持ちになって、絶望的して、苦しくてたまらないだろうなと想像できる。
「あんたの慰めなんていらないから」
「いや、慰めというか、なんというかな」
「絶対にこの借りは返す。私が夜を目覚めさせる」
「はあ」
「なんだ。女子高生の方が、価値があるんだよ」
 あまり聞きたい話ではないと思った。そうして「そういうのは、あまり気にしないタイプだと思う。犯罪だし」と僕がいうと「あー、わかっている」と足をバダバタと上下に動かす。スカートからパンツが見えたらどうするんだろうか。
「じゃあ、帰れるね」
「少しだけ付き合え」
 なんで、と僕がいうと、中嶋さんは黙っていた。
「家に帰ったら、家族になにがあったと言われるから。落ち着くまでここにいて」と渋々と中嶋さんは言った。
「そう言われても、僕だってやることがある」
「そんなことは知らない」
「知ってくれると嬉しいな」
「お人好し」
 そんな会話をしていた。
「やっぱり、あんたは顔だけね」
 ミルクティー片手に中嶋さんは言う。そうして、ハンカチで顔を拭く。疲れているのは僕だけではないようだ。泣き疲れた中嶋さんは声に力がない。
「帰る」
「そう、気をつけてね」
「優しいだけではダメだからね。夜は最低な人間だから」
「はあ」
「だって、私を泣かせたからだよ」
 そのまま、彼女は人ごみの中にもぐりこんで行く。そうして、僕は彼女の背中を見つめていた。もしかしたら、夜の気まぐれがなかったら僕も彼女と同じだっただろう。
 息を吐く。そうして、しばらく空を見上げていた。星が見えない。夜の駅ビルの光にさえぎられている。星を見るのは好きですかと言われたことを思い出した。
 記憶が刺激される。とある作家が好きでねと言う話を高校生のとき、聞いた。そう、たしかに、声が思い出せる。
 べつにその小説が、詳しいわけではない。はあーと聞いていた。先生は嬉しそうだった。それを思い出す。先生にとって僕はただの生徒だ。それを思い出した。
 憂鬱な気分になる。そう、僕の記憶だ。そんな記憶を勝手に思い出せる脳も脳だ。懐かしいより苦しい。あのときの苦い記憶が蘇ってくる。好きだった。言えなかった。言う気になれなかった。ただ、ひたすら恋い焦がれ、好きの言葉を聞きたかった。
 そんなものは、今はない。苦しく、悲しい片思いだった。人を好きになるなんて、面倒だと初めて思った。
『どうして、曲が作れなかった?』とメッセージを送りたい。それを聞きたいから。でも、聞けない。
 夜の街を歩いて行く。自分の足取りが重くてたまらない。今日は、厄日か、なにかなのだろうか。
 夜と会えると思ったのに。昔の記憶を思い出したけど、いい思い出じゃない。そう言い切れないけど、あまりいい気分にはなれなかった。
 自分と同じような学生が歩いて行く。そうして、街の中の人々は家に帰って行く。僕もその一人だとようやく気がついた。
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