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「タケルと修造」
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連日の猛暑と熱中症予防を伝える今朝のニュースを、タケルは思い出してグランドを見つめた。
暑いのはもちろんだが、世界が眩しすぎて、もはやここは日本ではないのではないかとも思えてくる。
今は試合の真っ最中、各国がその威信をかけて競い合う世界大会の最中、その準決勝も佳境の試合終了3分前、ロスタイムを加味したとしても、日本代表がこの試合に勝つには、どうしてもこの瞬間にキックを決めなければならない。
そしてなんという事か、その大役を今、タケルが担っていた。
「なんでスポサン(スポーツサングラス)忘れたんだろ…俺。」
遥か先に見えているポールが、太陽の光でさらに輝いて見えている。
周囲では、緊張した表情でチームの仲間も、相手国のチームの選手たちも、自分を見つめている。
「今回はお前が一番最年長だ、プロとしての経験も、実力も、キックのコントロールも安定している。」
監督がそう言って、この場面に立たされることになっていたが、まさか本当にこの場面がくるとは思っていなかった。
タケルはゾーンに立ち、ボールをセットして、「集中」とつぶやく。
この一蹴に、チームの勝敗がかかっている。
監督の言う通り、この場面でどう蹴ればよいのかは、頭も体もしっかり覚えている。
ただこの異常な熱気と眩しさが、今自分の最大の障壁だ。
本当に、出がけに玄関に忘れてきたスポーツサングラスのことが、恋しくてしょうがなかった。
ああ、本当にその日はただ酷く暑くてそこから先の事は、本当によく覚えていない。
それからしばらく経って、タケルは現役選手を引退し、スポンサーの紹介でパーソナルジムのトレーナーや、社会人リーグのコーチ、時折テレビのタレントとしてバラエティー番組に出演したりしながら、なんとなく日々を過ごしていた。
通常的に身体を動かしたり、多少激しく運動することには何の支障もなかったのだが、試合に出たり根詰めて肉体を酷使するような生活を、タケルはすることができない身体になってしまっていた。
関係者も相当惜しみながらの引退であったが、タケル自身、ただアスリートとして真面目にラグビー選手としての本文を全うしていた記憶しかなく、何がどうしてこうなったのか、自分の状況が把握できず、報道関係者からのインタビューにも返答にこまるばかりで、タケルは未だに、自分が何故グラウンドに立っていなかったのか理解できずにおり、どこか気の抜けたような生活を送っていた。
もっとも、自分を案じてくれた関係者たちへの恩義も、知人たちの存在も忘れてはいない。
仕事はきっちりこなしているし、それなりに連絡がくれば応じている。
ただ少しでも時間ができてしまうと、自分の現状を思わず考えてしまい、呆然としてしまう日々。
だから、臨時で部活動の顧問になってほしいと、かつての担任教師から連絡があった時には、自分の現状に戸惑いながらも少し嬉しくなり、タケルは日を空けず高校へ参上することを約束したのだった。
(元ラグビー選手:鵜家野タケルのイメージ画像。画像は生成AIで作成したものです。)
それでも、なかなかその高校に行くに行けないまま日が過ぎ、悶々としたまま、タケルはある日、自宅アパートの近くにある市民グラウンドで少し身体でも動かそうと思い、服を着替えて家を出ようとした。
ランニングシューズを履き、玄関に立つと、ドアのガラスの向こうに、人の影があった。
「宅配・・・は頼んだ覚えが…ないな。」
以前現役時代にマンションに住んでいた時は、時折熱狂的なファンが、勝手に家前まで来ていた事があった。
タケルはかなり人気のあった選手で、実際そのおかげで時折テレビ番組のオファーもくるのだが、タケルの風貌は一部の人間に相当人気があり、そのせいで何度か警察沙汰になるような出来事もあったので、そのマンションは結局引退と同時に早々に引き払い、関係者しか知らない、今のアパートに引っ越してきたのである。
もともと身を寄せる実家もなく、家族と呼べるのもタケルにとっては姉一人ぐらいで、親しい間柄も、幼馴染の安西良子一人、孤独であったわけではないが、在学時も広く浅く、だれとも知り合い程度にしか付き合ってこなかったうえ、高校大学はひたすらラグビーに打ち込む生活、寮で生活はしていたがチームメイトともやはりそれほどの接点はつくらず過ごしてきた。
誰とでもうまくやる、敵は作らず、されど深い親友なども作らず、皆からは「いい人間だが感情が希薄で何を考えてるか時々わからない男」と認識され生きてきた。
そういえば、社会人チームに入っても、プロとして日本代表の選抜選手に選ばれても、そうだったかもしれない。
インタビューにはそつなく選んだ言葉を返せばいいし、チームの中では協調して皆と共に行動し、会話にも受け答えして、必要とされればすぐに動くし、誘われれば飲みにもいく。
在学時に先輩たちから無理やりたたきこまれた処世術で、大人になってもずっとそつなく暮らしてきたが、周囲が自然に自分に対して盛り上がって、自分もそれにそつなく応じる、まるでラグビー会のアイドル的プレイヤーを演じているような日々だったかもしれない、とタケルはふと、思い返してしまった。
なり続けるノックの音で、タケルははっと我に返った。
「今、空けます!」
そしてドアを開けると、そこにスーツ姿の紳士が一人立っていた。
身長はタケルの胸元ぐらいの高さ、160センチぐらいだろうか、小柄な中年の男性。
歳は感じるが、鼻が高く、イギリス人のハーフのような、透き通るような白い肌で、青みがかった眼。
趣味のいいグラスをかけており、スーツも片手に持ったステッキも、間違いなくいい身分の人だ。
「なんだ、いるんじゃないですか。早く出てきなさい。」
紳士は少しあきれたような口調で、しかしほっとした様子でタケルを叱った。
「あぁ…すいませんス。」
だが、謝りながらタケルは、突然自分を叱るその紳士を不思議に思った。
見ず知らずの人物に、いきなりそんな風な事を言われるのは、普通のことなのだろうか。
仮に大家さんだとしても、自分の顔を見た瞬間、まずは「あぁ!」とはしゃぐ人の方が多いのに。
「なんて呆けた顔をしているのですか、それでも君は、あの鵜家野タケルですか?」
紳士はさらにあきれて、今度は少し残念そうな顔になった。
「いや、すいません。…その、なんというか・・・、経験がなくて。」
「なんの経験です?」
「初めて会った人に、そんなふうに叱られると言うか、まあ、すぐに出なかったのは自分が悪いんですが。」
タケルがそう言った瞬間、紳士は今度は目を丸くして、口をぽかん、と開けた。
だが、紳士はすぐにまた表情を変え、酷く悲しそうな顔でタケルを見つめた。
「えっと、俺何か悪い事言いました?」
「君は…、君というやつは!」
身体をわなわなと震わせ、紳士は顔を真っ赤に染めて、ステッキを振り上げた。
だが、紳士はそれを振り下ろす事はなく、しばらく必死に怒りをこらえた形相でタケルを見た後、
「はぁ…馬鹿垂れですね。」
と首を横にふって、ステッキをゆっくり足元に下ろして、深いため息をついた。
ただ、その一言に、タケルはその紳士の事を、どこかで知っていると思った。
誰だろうかと必死に記憶の中で人物を検索し、そうしてようやく、それが大学時代に会った人だと思いだした。
「先生・・・!なんの科目かわすれたけど…大学の時の!?」
「・・・それだけ思い出しただけでも、いいとしましょう。」
紳士はまた深いため息をつくと、また首を横に振って、タケルをじろりと見た。
「すいません…、なんかもう、ずっとバタバタしすぎてて。」
「そういうのは、言い訳にならないんですよ、鵜家野君。」
言葉を濁すタケルに、紳士はもう呆れても、怒ってもいない、静かな口調で言った。
「大学の時から、君はあまり他人に関心をもたない人間でしたから、少し予想はしていたのです。」
紳士はそう言ってから、タケルの恰好を見た。
「運動、しに行くところでしたか?」
「ウス。ちょっと気分でも晴らそうかと。」
「・・・確かに、よどんでいますね、色々と。」
紳士の青みがかった両目は、まるで力のある、澄んだ水晶のようにタケルには見えた。
思わず吸い込まれそうな、色々なものを見透かされそうな、逸らせない視線だと思えた。
「よどんで、ますか?」
「部屋の空気も、君自身がまとっている悶々とした雰囲気も、心身によろしくないと思います。」
「すごいですね、俺が何を考えてるかなんて、わかる人ほとんどいないのに。」
「どうでしょうね、君がそう思っているだけかもしれませんよ。」
「いやぁ…、そうですかね。」
「少なくとも私は、大学時代から君が対して人間的には何も変わってない事はわかります。」
「えぇ…」
「誰にでも優しく、頼られれば誰よりも動き、悪口を言わない、大衆にも加担しない。」
褒めると言うよりは、箇条書きを読むような口調の、紳士の言葉。
「ですがその一方で、私は君が誰かを褒める事も、心からの応援をすることも、友達の名を呼ぶことも…」
見たことがない、とはっきり言われ、タケルはどきりとして紳士を見つめた。
「そして何より、いつも空気のように気迫で、自分をちゃんと見せない。」
つまるところ、人とまともに関わろうとしていない自分の事を、タケルは紳士に突っ込まれていた。
「だから、君は、恐らく大学時代に関わった人間のほぼ大部分を、名前もちゃんと知らないでしょう。」
だから、自分の名前もきっと知らない、覚えていないだろうと、紳士は名刺をタケルに渡した。
「舘 修造(たち しゅうぞう)。大学では君が時折顔をだしていた、陸上部の顧問をしていました。」
「あ、ああ!」
名前を聞いて、タケルはようやく記憶がもどってきたような気分になった。
タケルは大学時代にラグビー部の傍ら、時折陸上部から助っ人を頼まれて、部に参加していたことがあった。
その時に確かに、小柄で物静かな紳士風の顧問が、陸上部員の練習を指導していたのを見た、ような気がした。
「そんな頻繁には行ってなかった気が、するんスけど…」
「頻繁には来ていなくても、君の運動能力は抜けていて、私も驚いてましたから。」
「そうなんスか?」
「君は身体を動かしているときは、本当に楽しそうで目立ってましたから。」
「はぁ」
紳士の眼が、少し輝いてきたような気がした。
「それで、いまから身体を動かしにいくんでしょう?私もせっかくなので、一緒に行ってもいいですか?」
「それは、もちろん。」
タケルは紳士・修造と一緒に、アパートを出てグラウンドに出かけることにした。
修造は小柄だが歩くテンポが軽快で、タケルは修造に合わせるように歩こうと思っていたが、気にする必要がない様子だった。むしろゆっくり歩いていると、修造がタケルを急かして、早くグラウンドへ行こうと言うのだった。
「君は脚が長いんだから、もっと姿勢よく、しゃっきりと歩いた方が恰好がいいですよ。」
「なんスか、それ・・・」
「ほら、背筋をのばして!どこに君のファンがいるかもわからないんだから、しゃきっと!」
「俺もう引退してますし、休日くらいのんびりしたいじゃないですか。」
「馬鹿垂れですね!テレビにだって時々でてるでしょう。お仕事こなくなりますよ?」
「それはそれで、ジムの仕事もありますから困りませんよ。」
「そうじゃないんです、君のことを好いているファンの中には、子供たちだっているんですから。」
何を言ってるかさっぱりわからない、とタケルは小さなため息をもらした。
「本当に、世の中に君が関心をもたないのは別にいいんです、それでも。」
修造はタケルの先をどんどん進んでいきながら、タケルに言い続けた。
「でもね、世の中は君が思っているより、君に関心がある。君にはそれに応える幾分の義務があるのです。」
社会において著名であると言う事は、そこに関わるイメージと、役割が付与されると言う事。
日本代表ラグビー選手として、プロリーグの名物プレイヤーとして、意図せずなったとしても、タケルに付与されたその肩書というものは、タケルを知る、タケルは知らない数多の人間の中の価値を有する。
「つまり、君は一度家の外にでたなら、元日本代表選手の鵜家野タケルとして振る舞う義務があるのですよ。」
知っている。とタケルは内心で修造に答えた。
その義務が、自分にまとわりついてくるのは、選手時代からずっと知っている。
だからこそ、何かしら不祥事に巻き込まれないように気を付けていたし、体裁も常に保ってきた。
「でも、そういうのが、きっと君の元気を奪ってしまった、とでも言うのでしょうかね。」
「え?」
「君が関わらなくても、周囲の社会が、世界が君を放っておかないでしょ。」
修造は脚をふと止めて、タケルに振り返った。
「君は私が知る限り、周囲と深いかかわりを持とうとしなかったのに、世界が君と関わりすぎたんですよ。」
「・・・あぁ」
「なんて顔をしてるんですか。ほら、まずはシャキッとして、一緒に歩きましょう。」
修造はタケルの隣に並ぶと、タケルの腕をとってまた歩き出した。
腕を組んでいるような状態で並んで歩くのが、タケルは少し恥ずかしかったが、修造は男同士で腕を組むことなど気にもせずに、楽しそうにタケルを引率して歩いてゆく。
そしてある程度タケルの歩く速度がのってきたところで、修造はタケルの腕を解放した。
「ほら、歩くと景色が綺麗ですよね。」
気が付くと、グラウンドまでの道のりの、川沿いにある土手の所を歩き出していた。
「グラウンドって、あれですよね。ここに来るまでに歩きながら、見てたんですよ。」
「ああ、そこっス。」
なんだか不思議な男だ、とタケルは修造を見て思った。
この紳士からは、賢さの匂いがする。
「君が試合でグラウンドを駆ける姿を、私もずっと、テレビで応援してたんですよ。」
「そうなん、…ですか?」
「もちろん、君が初めて試合に出た時には、妻と一緒に応援にもいったんですよ。」
「ええ!そうなんスか!?ありがとうございます!」
タケルが驚いて礼を言うと、はじめて修造がタケルに笑顔を見せた。
それは、まるで少年のような、心を掴まれるような笑顔にタケルには見えた。
「君が大学で初めて陸上部に顔を出してから、私はずっと君のファンなんです、だからね。」
涼し気な、穏やかな笑みを浮かべたまま、修造はタケルに言った。
「君を大好きなファンを、私を、あんまりがっかりさせないでください。」
(続く)
暑いのはもちろんだが、世界が眩しすぎて、もはやここは日本ではないのではないかとも思えてくる。
今は試合の真っ最中、各国がその威信をかけて競い合う世界大会の最中、その準決勝も佳境の試合終了3分前、ロスタイムを加味したとしても、日本代表がこの試合に勝つには、どうしてもこの瞬間にキックを決めなければならない。
そしてなんという事か、その大役を今、タケルが担っていた。
「なんでスポサン(スポーツサングラス)忘れたんだろ…俺。」
遥か先に見えているポールが、太陽の光でさらに輝いて見えている。
周囲では、緊張した表情でチームの仲間も、相手国のチームの選手たちも、自分を見つめている。
「今回はお前が一番最年長だ、プロとしての経験も、実力も、キックのコントロールも安定している。」
監督がそう言って、この場面に立たされることになっていたが、まさか本当にこの場面がくるとは思っていなかった。
タケルはゾーンに立ち、ボールをセットして、「集中」とつぶやく。
この一蹴に、チームの勝敗がかかっている。
監督の言う通り、この場面でどう蹴ればよいのかは、頭も体もしっかり覚えている。
ただこの異常な熱気と眩しさが、今自分の最大の障壁だ。
本当に、出がけに玄関に忘れてきたスポーツサングラスのことが、恋しくてしょうがなかった。
ああ、本当にその日はただ酷く暑くてそこから先の事は、本当によく覚えていない。
それからしばらく経って、タケルは現役選手を引退し、スポンサーの紹介でパーソナルジムのトレーナーや、社会人リーグのコーチ、時折テレビのタレントとしてバラエティー番組に出演したりしながら、なんとなく日々を過ごしていた。
通常的に身体を動かしたり、多少激しく運動することには何の支障もなかったのだが、試合に出たり根詰めて肉体を酷使するような生活を、タケルはすることができない身体になってしまっていた。
関係者も相当惜しみながらの引退であったが、タケル自身、ただアスリートとして真面目にラグビー選手としての本文を全うしていた記憶しかなく、何がどうしてこうなったのか、自分の状況が把握できず、報道関係者からのインタビューにも返答にこまるばかりで、タケルは未だに、自分が何故グラウンドに立っていなかったのか理解できずにおり、どこか気の抜けたような生活を送っていた。
もっとも、自分を案じてくれた関係者たちへの恩義も、知人たちの存在も忘れてはいない。
仕事はきっちりこなしているし、それなりに連絡がくれば応じている。
ただ少しでも時間ができてしまうと、自分の現状を思わず考えてしまい、呆然としてしまう日々。
だから、臨時で部活動の顧問になってほしいと、かつての担任教師から連絡があった時には、自分の現状に戸惑いながらも少し嬉しくなり、タケルは日を空けず高校へ参上することを約束したのだった。
(元ラグビー選手:鵜家野タケルのイメージ画像。画像は生成AIで作成したものです。)
それでも、なかなかその高校に行くに行けないまま日が過ぎ、悶々としたまま、タケルはある日、自宅アパートの近くにある市民グラウンドで少し身体でも動かそうと思い、服を着替えて家を出ようとした。
ランニングシューズを履き、玄関に立つと、ドアのガラスの向こうに、人の影があった。
「宅配・・・は頼んだ覚えが…ないな。」
以前現役時代にマンションに住んでいた時は、時折熱狂的なファンが、勝手に家前まで来ていた事があった。
タケルはかなり人気のあった選手で、実際そのおかげで時折テレビ番組のオファーもくるのだが、タケルの風貌は一部の人間に相当人気があり、そのせいで何度か警察沙汰になるような出来事もあったので、そのマンションは結局引退と同時に早々に引き払い、関係者しか知らない、今のアパートに引っ越してきたのである。
もともと身を寄せる実家もなく、家族と呼べるのもタケルにとっては姉一人ぐらいで、親しい間柄も、幼馴染の安西良子一人、孤独であったわけではないが、在学時も広く浅く、だれとも知り合い程度にしか付き合ってこなかったうえ、高校大学はひたすらラグビーに打ち込む生活、寮で生活はしていたがチームメイトともやはりそれほどの接点はつくらず過ごしてきた。
誰とでもうまくやる、敵は作らず、されど深い親友なども作らず、皆からは「いい人間だが感情が希薄で何を考えてるか時々わからない男」と認識され生きてきた。
そういえば、社会人チームに入っても、プロとして日本代表の選抜選手に選ばれても、そうだったかもしれない。
インタビューにはそつなく選んだ言葉を返せばいいし、チームの中では協調して皆と共に行動し、会話にも受け答えして、必要とされればすぐに動くし、誘われれば飲みにもいく。
在学時に先輩たちから無理やりたたきこまれた処世術で、大人になってもずっとそつなく暮らしてきたが、周囲が自然に自分に対して盛り上がって、自分もそれにそつなく応じる、まるでラグビー会のアイドル的プレイヤーを演じているような日々だったかもしれない、とタケルはふと、思い返してしまった。
なり続けるノックの音で、タケルははっと我に返った。
「今、空けます!」
そしてドアを開けると、そこにスーツ姿の紳士が一人立っていた。
身長はタケルの胸元ぐらいの高さ、160センチぐらいだろうか、小柄な中年の男性。
歳は感じるが、鼻が高く、イギリス人のハーフのような、透き通るような白い肌で、青みがかった眼。
趣味のいいグラスをかけており、スーツも片手に持ったステッキも、間違いなくいい身分の人だ。
「なんだ、いるんじゃないですか。早く出てきなさい。」
紳士は少しあきれたような口調で、しかしほっとした様子でタケルを叱った。
「あぁ…すいませんス。」
だが、謝りながらタケルは、突然自分を叱るその紳士を不思議に思った。
見ず知らずの人物に、いきなりそんな風な事を言われるのは、普通のことなのだろうか。
仮に大家さんだとしても、自分の顔を見た瞬間、まずは「あぁ!」とはしゃぐ人の方が多いのに。
「なんて呆けた顔をしているのですか、それでも君は、あの鵜家野タケルですか?」
紳士はさらにあきれて、今度は少し残念そうな顔になった。
「いや、すいません。…その、なんというか・・・、経験がなくて。」
「なんの経験です?」
「初めて会った人に、そんなふうに叱られると言うか、まあ、すぐに出なかったのは自分が悪いんですが。」
タケルがそう言った瞬間、紳士は今度は目を丸くして、口をぽかん、と開けた。
だが、紳士はすぐにまた表情を変え、酷く悲しそうな顔でタケルを見つめた。
「えっと、俺何か悪い事言いました?」
「君は…、君というやつは!」
身体をわなわなと震わせ、紳士は顔を真っ赤に染めて、ステッキを振り上げた。
だが、紳士はそれを振り下ろす事はなく、しばらく必死に怒りをこらえた形相でタケルを見た後、
「はぁ…馬鹿垂れですね。」
と首を横にふって、ステッキをゆっくり足元に下ろして、深いため息をついた。
ただ、その一言に、タケルはその紳士の事を、どこかで知っていると思った。
誰だろうかと必死に記憶の中で人物を検索し、そうしてようやく、それが大学時代に会った人だと思いだした。
「先生・・・!なんの科目かわすれたけど…大学の時の!?」
「・・・それだけ思い出しただけでも、いいとしましょう。」
紳士はまた深いため息をつくと、また首を横に振って、タケルをじろりと見た。
「すいません…、なんかもう、ずっとバタバタしすぎてて。」
「そういうのは、言い訳にならないんですよ、鵜家野君。」
言葉を濁すタケルに、紳士はもう呆れても、怒ってもいない、静かな口調で言った。
「大学の時から、君はあまり他人に関心をもたない人間でしたから、少し予想はしていたのです。」
紳士はそう言ってから、タケルの恰好を見た。
「運動、しに行くところでしたか?」
「ウス。ちょっと気分でも晴らそうかと。」
「・・・確かに、よどんでいますね、色々と。」
紳士の青みがかった両目は、まるで力のある、澄んだ水晶のようにタケルには見えた。
思わず吸い込まれそうな、色々なものを見透かされそうな、逸らせない視線だと思えた。
「よどんで、ますか?」
「部屋の空気も、君自身がまとっている悶々とした雰囲気も、心身によろしくないと思います。」
「すごいですね、俺が何を考えてるかなんて、わかる人ほとんどいないのに。」
「どうでしょうね、君がそう思っているだけかもしれませんよ。」
「いやぁ…、そうですかね。」
「少なくとも私は、大学時代から君が対して人間的には何も変わってない事はわかります。」
「えぇ…」
「誰にでも優しく、頼られれば誰よりも動き、悪口を言わない、大衆にも加担しない。」
褒めると言うよりは、箇条書きを読むような口調の、紳士の言葉。
「ですがその一方で、私は君が誰かを褒める事も、心からの応援をすることも、友達の名を呼ぶことも…」
見たことがない、とはっきり言われ、タケルはどきりとして紳士を見つめた。
「そして何より、いつも空気のように気迫で、自分をちゃんと見せない。」
つまるところ、人とまともに関わろうとしていない自分の事を、タケルは紳士に突っ込まれていた。
「だから、君は、恐らく大学時代に関わった人間のほぼ大部分を、名前もちゃんと知らないでしょう。」
だから、自分の名前もきっと知らない、覚えていないだろうと、紳士は名刺をタケルに渡した。
「舘 修造(たち しゅうぞう)。大学では君が時折顔をだしていた、陸上部の顧問をしていました。」
「あ、ああ!」
名前を聞いて、タケルはようやく記憶がもどってきたような気分になった。
タケルは大学時代にラグビー部の傍ら、時折陸上部から助っ人を頼まれて、部に参加していたことがあった。
その時に確かに、小柄で物静かな紳士風の顧問が、陸上部員の練習を指導していたのを見た、ような気がした。
「そんな頻繁には行ってなかった気が、するんスけど…」
「頻繁には来ていなくても、君の運動能力は抜けていて、私も驚いてましたから。」
「そうなんスか?」
「君は身体を動かしているときは、本当に楽しそうで目立ってましたから。」
「はぁ」
紳士の眼が、少し輝いてきたような気がした。
「それで、いまから身体を動かしにいくんでしょう?私もせっかくなので、一緒に行ってもいいですか?」
「それは、もちろん。」
タケルは紳士・修造と一緒に、アパートを出てグラウンドに出かけることにした。
修造は小柄だが歩くテンポが軽快で、タケルは修造に合わせるように歩こうと思っていたが、気にする必要がない様子だった。むしろゆっくり歩いていると、修造がタケルを急かして、早くグラウンドへ行こうと言うのだった。
「君は脚が長いんだから、もっと姿勢よく、しゃっきりと歩いた方が恰好がいいですよ。」
「なんスか、それ・・・」
「ほら、背筋をのばして!どこに君のファンがいるかもわからないんだから、しゃきっと!」
「俺もう引退してますし、休日くらいのんびりしたいじゃないですか。」
「馬鹿垂れですね!テレビにだって時々でてるでしょう。お仕事こなくなりますよ?」
「それはそれで、ジムの仕事もありますから困りませんよ。」
「そうじゃないんです、君のことを好いているファンの中には、子供たちだっているんですから。」
何を言ってるかさっぱりわからない、とタケルは小さなため息をもらした。
「本当に、世の中に君が関心をもたないのは別にいいんです、それでも。」
修造はタケルの先をどんどん進んでいきながら、タケルに言い続けた。
「でもね、世の中は君が思っているより、君に関心がある。君にはそれに応える幾分の義務があるのです。」
社会において著名であると言う事は、そこに関わるイメージと、役割が付与されると言う事。
日本代表ラグビー選手として、プロリーグの名物プレイヤーとして、意図せずなったとしても、タケルに付与されたその肩書というものは、タケルを知る、タケルは知らない数多の人間の中の価値を有する。
「つまり、君は一度家の外にでたなら、元日本代表選手の鵜家野タケルとして振る舞う義務があるのですよ。」
知っている。とタケルは内心で修造に答えた。
その義務が、自分にまとわりついてくるのは、選手時代からずっと知っている。
だからこそ、何かしら不祥事に巻き込まれないように気を付けていたし、体裁も常に保ってきた。
「でも、そういうのが、きっと君の元気を奪ってしまった、とでも言うのでしょうかね。」
「え?」
「君が関わらなくても、周囲の社会が、世界が君を放っておかないでしょ。」
修造は脚をふと止めて、タケルに振り返った。
「君は私が知る限り、周囲と深いかかわりを持とうとしなかったのに、世界が君と関わりすぎたんですよ。」
「・・・あぁ」
「なんて顔をしてるんですか。ほら、まずはシャキッとして、一緒に歩きましょう。」
修造はタケルの隣に並ぶと、タケルの腕をとってまた歩き出した。
腕を組んでいるような状態で並んで歩くのが、タケルは少し恥ずかしかったが、修造は男同士で腕を組むことなど気にもせずに、楽しそうにタケルを引率して歩いてゆく。
そしてある程度タケルの歩く速度がのってきたところで、修造はタケルの腕を解放した。
「ほら、歩くと景色が綺麗ですよね。」
気が付くと、グラウンドまでの道のりの、川沿いにある土手の所を歩き出していた。
「グラウンドって、あれですよね。ここに来るまでに歩きながら、見てたんですよ。」
「ああ、そこっス。」
なんだか不思議な男だ、とタケルは修造を見て思った。
この紳士からは、賢さの匂いがする。
「君が試合でグラウンドを駆ける姿を、私もずっと、テレビで応援してたんですよ。」
「そうなん、…ですか?」
「もちろん、君が初めて試合に出た時には、妻と一緒に応援にもいったんですよ。」
「ええ!そうなんスか!?ありがとうございます!」
タケルが驚いて礼を言うと、はじめて修造がタケルに笑顔を見せた。
それは、まるで少年のような、心を掴まれるような笑顔にタケルには見えた。
「君が大学で初めて陸上部に顔を出してから、私はずっと君のファンなんです、だからね。」
涼し気な、穏やかな笑みを浮かべたまま、修造はタケルに言った。
「君を大好きなファンを、私を、あんまりがっかりさせないでください。」
(続く)
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