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第三章:チーズの町、ミルクの風
53、チーズとレモンの時間(前半)
しおりを挟む土屋さんの工房に入るのは、これで三度目。でも、今日だけはいつもと違う緊張感があった。
制服のままの私は、ことさら手を念入りに洗い、工房のエプロンをそっと着る。
白くて、しっかりした布の感触が、ちょっぴり大人になった気持ちにさせてくれた。
「じゃあ、始めましょうか。今日は素材の声を聞く練習だよ」
そう言って土屋さんが出してきたのは、まっ白なクリームチーズの塊、冷えた卵、薄力粉、そして淡いクリーム色の発酵バター。
「これ、ぜんぶ冷蔵庫から出したばかり。今触ると、どんな感じかな?」
私はそっとチーズに指を当てた。冷たくて、少しだけ弾力がある。
「……かたい、です。でも、表面はしっとりしてるかも」
「うん、いい観察だね。冷たいまま混ぜると、うまく馴染まない。だから室温に戻すのは大事なんだ。素材の気持ちになって考えると、わかりやすいよ」
横で聞いていた奏汰も、うなずいた。
「……じゃあ、冷たいまま力を入れて混ぜると、分離したり、だまになったりするんだね」
「そうそう。それから、チーズの香りも。まだ冷たいと香りは出ないけど……」
土屋さんは、室温で柔らかくなった別のクリームチーズを、スプーンですくってみせる。
「これ、嗅いでごらん」
私はおそるおそる顔を近づけた。すると、やさしい酸味とほんのり甘いミルクの香りがふわっと広がった。
「……やさしいにおい。こないだ作ったときよりも、ずっと……なんか、おいしそう」
「それが香りのタイミング。チーズも生きてるんだ。冷たいうちは眠ってる。目を覚ますと、いい声で歌い出すんだよ」
土屋さんは、冗談のようにそう言って笑ったけど、私は本気でそう思った。
そのあと、ふたりで分担しながら試作に入った。
今回は、レモンとチーズの二層ケーキ。
下の層はしっとりしたレアチーズ、上の層はレモン風味のふわふわスフレ。
前に挑戦したレシピに酸味の層を加えるというアイデアを、奏汰が提案した。
【レシピメモ】
◎下層(レアチーズ)
・クリームチーズ 100g
・生クリーム 80ml
・グラニュー糖 30g
・レモン汁 小さじ1
・ゼラチン(ふやかし済)3g
・プレーンヨーグルト 20g
◎上層(レモンスフレ)
・卵白 2個分
・グラニュー糖 30g
・卵黄 1個
・薄力粉 10g
・レモンの皮すりおろし 少々
・バター 10g
・牛乳 50ml
「ゼラチンは一気に入れないようにね。温度差があると、かたまりができるから」
土屋さんがそう言うと、ことりはミニボウルの底を湯煎に当てながら、ゼラチン液を少しずつ加えた。
「……さっきのチーズの声って、こういうこと?」
「うん。かたまる時間、溶けるスピード。素材がちょうどいいよって言ってくれる瞬間を感じてあげるんだ」
私はうなずきながら、そっと泡立てた生クリームを混ぜた。全体がふわりとして、まるで空気を食べているようだった。
上層のスフレは、メレンゲをふんわり泡立てたあと、レモンの皮を最後に加える。
「ことり、さっきすっぱいのがいいって言ってたから、皮は入れすぎないように気をつけて。苦くなるかも」
奏汰の助言を聞きながら、私はおろし金をそっと動かした。
「レモンのにおい、すごいね」
「皮が一番香るからね。香りは余韻って、土屋さんが言ってた」
型に下層のレアチーズを流し、冷やして固めてから、上にスフレ生地を流し入れて焼く。
スチームをしっかり入れ、表面が焼き固まるまでは絶対にオーブンを開けない。
「……あと十五分か……」
タイマーを見ながら、ふたりでじっと見守る。
キッチンの奥で土屋さんが、静かに洗い物をしながら見守っていた。
焼きあがったケーキを冷蔵庫で冷やし、数時間後、ようやくカットできた。
断面は、ちゃんと二層。下は白くてなめらか、上はほんのり焼き色のついた黄色い層。
「いくよ……せーの」
ふたりでひとくち。
「……おいしい!」
「上がふわっとして、下がとろける。レモンの香りもちゃんと残ってる……」
私は、自然と笑っていた。
「これが、素材の声かぁ……」
「ね、聞こえてきた気がするよね」
土屋さんは、少し離れたところで、うれしそうにうなずいた。
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