12 / 78
第一章:画面を抜けて
12、ツチヤさんの工房へ(後半)
しおりを挟む
「ねえ、ことりちゃん。ちょっとだけ、やってみる?」
見学がひと段落したころ、ゆきこさんが声をかけてくれた。
白衣を着せてもらい、髪を帽子の中にきちんとしまう。
いつもの遊び着とはまったく違う格好に、私は少し緊張した。
「このフィナンシェの生地、もう寝かせてあるからね。今から型に流して、焼いていくところ」
ステンレスのボウルには、とろりとした淡いベージュの生地。
バターの香りとアーモンドパウダーの甘い匂いがふんわり立ちのぼってくる。
「フィナンシェって、焦がしバターとアーモンドパウダーを使う焼き菓子なんだよ」
横からそうたがそっとささやいてくれた。
私はそっとスプーンですくって、生地を型に流し込んでいった。
同じように見える型なのに、生地の入り方で高さや形が微妙に変わってしまう。
「プロの人は、どこを見てるの?」
そうたがそう聞くと、ゆきこさんは「香りと音かな」と答えた。
「型に流すときのとろりって音も、焼いてる途中に生地がふわっと立ち上がるときの気配も、なんていうか…空気に聞いてるって感じ」
「空気?」
「うん。焼き菓子って、焼き色じゃなくて、香ばしくなってくる前の香りで一番いいタイミングがわかるの」
そう言いながら、ゆきこさんはオーブンの前に立った。
私は思わずつぶやいた。
「まるで魔法使いみたい…」
「そう見えるだけで、実はほとんど地道な観察だよ」
ゆきこさんは、にっこり笑って言った。
フィナンシェが焼きあがるころには、工房の中が甘い香りで満ちていた。
私の胸の奥も、じんわりと温かくなる。
(この香りを、おぼえておきたいな)
焼き立てのフィナンシェをひとつ渡された。
「火傷しないようにね。ちょっと冷ましてから」
少しだけ待って、私はそっとひとくちかじった。
外はカリッと香ばしくて、中はしっとり。
バターとナッツの香りが、口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
自然と笑みがこぼれた。
工房の外に出ると、陽ざしがまぶしかった。
ゆきこさんは、私たちに小さな手提げ袋を渡してくれた。
中には、自分たちで型に流したフィナンシェと、レシピカードが入っていた。
〈ツチヤのフィナンシェ:材料とポイント
卵白:3個分
粉糖:100g
アーモンドパウダー:40g
小麦粉:30g
無塩バター:100g(焦がしバターにする)
・バターを鍋で加熱し、茶色く色づくまで焦がす(ナッツの香りが出たらOK)
・卵白に粉糖を加え、泡立てないように混ぜる
・アーモンドパウダー、小麦粉を加えて混ぜ、最後に焦がしバターを加える
・一晩寝かせてから、型に流し、200℃で10~12分焼く
※香りと膨らむ音をよく聴いてね!〉
私は、レシピカードの最後に手書きで添えられていた一文に目を留めた。
〈あなたの感覚が、一番の調味料です〉
私はその言葉を、そっとノートに書き写した。
その日の夜。
私は自分の部屋で、《旅するスイーツノート》を開いた。
見学の感想と、フィナンシェの作り方、ゆきこさんの言葉。
匂いや音まで、なるべく忘れないうちに書き留めた。
〈今日の気づき
・お菓子は「まぜて焼けばできる」ものじゃない
・材料の温度、空気の動き、焼いているときの香り――ぜんぶが味になる
・プロの人は、道具じゃなく空気を見てる
空気の気持ちを、感じられるようになりたい〉
翌日。
学校で、そうたと並んで給食を食べていたときのこと。
「昨日のノート、もう書いた?」
そうたに聞かれて、私はうなずいた。
「うん。香りのこととか、音のこととか。忘れたくないから」
「……ことりってさ、不思議な書き方するよね。でも、すごくいい」
「え?」
「僕、いつもグラムとか温度とかばっかりメモしてるけど、ことりのノートって、お菓子の気持ちが書いてあるみたいだよ」
私は一瞬、何も言えなかった。
けれどそのあと、じんわりとうれしさが広がった。
(私の感じたことも、誰かに届いてるんだ)
そう思えたのは、きっと初めてだった。
その夜。
私はもう一度、レシピカードを見直してみた。
〈あなたの感覚が、一番の調味料です〉
(私にも、感じる力があるのかな)
ほんの少しだけ、自分を信じてみたくなった。
見学がひと段落したころ、ゆきこさんが声をかけてくれた。
白衣を着せてもらい、髪を帽子の中にきちんとしまう。
いつもの遊び着とはまったく違う格好に、私は少し緊張した。
「このフィナンシェの生地、もう寝かせてあるからね。今から型に流して、焼いていくところ」
ステンレスのボウルには、とろりとした淡いベージュの生地。
バターの香りとアーモンドパウダーの甘い匂いがふんわり立ちのぼってくる。
「フィナンシェって、焦がしバターとアーモンドパウダーを使う焼き菓子なんだよ」
横からそうたがそっとささやいてくれた。
私はそっとスプーンですくって、生地を型に流し込んでいった。
同じように見える型なのに、生地の入り方で高さや形が微妙に変わってしまう。
「プロの人は、どこを見てるの?」
そうたがそう聞くと、ゆきこさんは「香りと音かな」と答えた。
「型に流すときのとろりって音も、焼いてる途中に生地がふわっと立ち上がるときの気配も、なんていうか…空気に聞いてるって感じ」
「空気?」
「うん。焼き菓子って、焼き色じゃなくて、香ばしくなってくる前の香りで一番いいタイミングがわかるの」
そう言いながら、ゆきこさんはオーブンの前に立った。
私は思わずつぶやいた。
「まるで魔法使いみたい…」
「そう見えるだけで、実はほとんど地道な観察だよ」
ゆきこさんは、にっこり笑って言った。
フィナンシェが焼きあがるころには、工房の中が甘い香りで満ちていた。
私の胸の奥も、じんわりと温かくなる。
(この香りを、おぼえておきたいな)
焼き立てのフィナンシェをひとつ渡された。
「火傷しないようにね。ちょっと冷ましてから」
少しだけ待って、私はそっとひとくちかじった。
外はカリッと香ばしくて、中はしっとり。
バターとナッツの香りが、口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
自然と笑みがこぼれた。
工房の外に出ると、陽ざしがまぶしかった。
ゆきこさんは、私たちに小さな手提げ袋を渡してくれた。
中には、自分たちで型に流したフィナンシェと、レシピカードが入っていた。
〈ツチヤのフィナンシェ:材料とポイント
卵白:3個分
粉糖:100g
アーモンドパウダー:40g
小麦粉:30g
無塩バター:100g(焦がしバターにする)
・バターを鍋で加熱し、茶色く色づくまで焦がす(ナッツの香りが出たらOK)
・卵白に粉糖を加え、泡立てないように混ぜる
・アーモンドパウダー、小麦粉を加えて混ぜ、最後に焦がしバターを加える
・一晩寝かせてから、型に流し、200℃で10~12分焼く
※香りと膨らむ音をよく聴いてね!〉
私は、レシピカードの最後に手書きで添えられていた一文に目を留めた。
〈あなたの感覚が、一番の調味料です〉
私はその言葉を、そっとノートに書き写した。
その日の夜。
私は自分の部屋で、《旅するスイーツノート》を開いた。
見学の感想と、フィナンシェの作り方、ゆきこさんの言葉。
匂いや音まで、なるべく忘れないうちに書き留めた。
〈今日の気づき
・お菓子は「まぜて焼けばできる」ものじゃない
・材料の温度、空気の動き、焼いているときの香り――ぜんぶが味になる
・プロの人は、道具じゃなく空気を見てる
空気の気持ちを、感じられるようになりたい〉
翌日。
学校で、そうたと並んで給食を食べていたときのこと。
「昨日のノート、もう書いた?」
そうたに聞かれて、私はうなずいた。
「うん。香りのこととか、音のこととか。忘れたくないから」
「……ことりってさ、不思議な書き方するよね。でも、すごくいい」
「え?」
「僕、いつもグラムとか温度とかばっかりメモしてるけど、ことりのノートって、お菓子の気持ちが書いてあるみたいだよ」
私は一瞬、何も言えなかった。
けれどそのあと、じんわりとうれしさが広がった。
(私の感じたことも、誰かに届いてるんだ)
そう思えたのは、きっと初めてだった。
その夜。
私はもう一度、レシピカードを見直してみた。
〈あなたの感覚が、一番の調味料です〉
(私にも、感じる力があるのかな)
ほんの少しだけ、自分を信じてみたくなった。
0
あなたにおすすめの小説
四尾がつむぐえにし、そこかしこ
月芝
児童書・童話
その日、小学校に激震が走った。
憧れのキラキラ王子さまが転校する。
女子たちの嘆きはひとしお。
彼に淡い想いを抱いていたユイもまた動揺を隠せない。
だからとてどうこうする勇気もない。
うつむき複雑な気持ちを抱えたままの帰り道。
家の近所に見覚えのない小路を見つけたユイは、少し寄り道してみることにする。
まさかそんな小さな冒険が、あんなに大ごとになるなんて……。
ひょんなことから石の祠に祀られた三尾の稲荷にコンコン見込まれて、
三つのお仕事を手伝うことになったユイ。
達成すれば、なんと一つだけ何でも願い事を叶えてくれるという。
もしかしたら、もしかしちゃうかも?
そこかしこにて泡沫のごとくあらわれては消えてゆく、えにしたち。
結んで、切って、ほどいて、繋いで、笑って、泣いて。
いろんな不思議を知り、数多のえにしを目にし、触れた先にて、
はたしてユイは何を求め願うのか。
少女のちょっと不思議な冒険譚。
ここに開幕。
14歳で定年ってマジ!? 世界を変えた少年漫画家、再起のノート
谷川 雅
児童書・童話
この世界、子どもがエリート。
“スーパーチャイルド制度”によって、能力のピークは12歳。
そして14歳で、まさかの《定年》。
6歳の星野幸弘は、将来の夢「世界を笑顔にする漫画家」を目指して全力疾走する。
だけど、定年まで残された時間はわずか8年……!
――そして14歳。夢は叶わぬまま、制度に押し流されるように“退場”を迎える。
だが、そんな幸弘の前に現れたのは、
「まちがえた人間」のノートが集まる、不思議な図書室だった。
これは、間違えたままじゃ終われなかった少年たちの“再スタート”の物語。
描けなかった物語の“つづき”は、きっと君の手の中にある。
独占欲強めの最強な不良さん、溺愛は盲目なほど。
猫菜こん
児童書・童話
小さな頃から、巻き込まれで絡まれ体質の私。
中学生になって、もう巻き込まれないようにひっそり暮らそう!
そう意気込んでいたのに……。
「可愛すぎる。もっと抱きしめさせてくれ。」
私、最強の不良さんに見初められちゃったみたいです。
巻き込まれ体質の不憫な中学生
ふわふわしているけど、しっかりした芯の持ち主
咲城和凜(さきしろかりん)
×
圧倒的な力とセンスを持つ、負け知らずの最強不良
和凜以外に容赦がない
天狼絆那(てんろうきずな)
些細な事だったのに、どうしてか私にくっつくイケメンさん。
彼曰く、私に一目惚れしたらしく……?
「おい、俺の和凜に何しやがる。」
「お前が無事なら、もうそれでいい……っ。」
「この世に存在している言葉だけじゃ表せないくらい、愛している。」
王道で溺愛、甘すぎる恋物語。
最強不良さんの溺愛は、独占的で盲目的。
ノースキャンプの見張り台
こいちろう
児童書・童話
時代劇で見かけるような、古めかしい木づくりの橋。それを渡ると、向こう岸にノースキャンプがある。アーミーグリーンの北門と、その傍の監視塔。まるで映画村のセットだ。
進駐軍のキャンプ跡。周りを鉄さびた有刺鉄線に囲まれた、まるで要塞みたいな町だった。進駐軍が去ってからは住宅地になって、たくさんの子どもが暮らしていた。
赤茶色にさび付いた監視塔。その下に広がる広っぱは、子どもたちの最高の遊び場だ。見張っているのか、見守っているのか、鉄塔の、あのてっぺんから、いつも誰かに見られているんじゃないか?ユーイチはいつもそんな風に感じていた。
【完結】夫に穢された純愛が兄に止めを刺されるまで
猫都299
児童書・童話
タイムリープしたかもしれない。中学生に戻っている? 夫に愛されなかった惨めな人生をやり直せそうだ。彼を振り向かせたい。しかしタイムリープ前の夫には多くの愛人がいた。純愛信者で奥手で恋愛経験もほぼない喪女にはハードルが高過ぎる。まずは同じ土俵で向き合えるように修行しよう。この際、己の理想もかなぐり捨てる。逆ハーレムを作ってメンバーが集まったら告白する! 兄(血は繋がっていない)にも色々教えてもらおう。…………メンバーが夫しか集まらなかった。
※小説家になろう、カクヨム、アルファポリス、Nolaノベル、Tales、ツギクルの6サイトに投稿しています。
※ノベルアップ+にて不定期に進捗状況を報告しています。
※文字数を調整した【応募版】は2026年1月3日より、Nolaノベル、ツギクル、ベリーズカフェ、野いちごに投稿中です。
※2026.1.5に完結しました! 修正中です。
こちら第二編集部!
月芝
児童書・童話
かつては全国でも有数の生徒数を誇ったマンモス小学校も、
いまや少子化の波に押されて、かつての勢いはない。
生徒数も全盛期の三分の一にまで減ってしまった。
そんな小学校には、ふたつの校内新聞がある。
第一編集部が発行している「パンダ通信」
第二編集部が発行している「エリマキトカゲ通信」
片やカジュアルでおしゃれで今時のトレンドにも敏感にて、
主に女生徒たちから絶大な支持をえている。
片や手堅い紙面造りが仇となり、保護者らと一部のマニアには
熱烈に支持されているものの、もはや風前の灯……。
編集部の規模、人員、発行部数も人気も雲泥の差にて、このままでは廃刊もありうる。
この危機的状況を打破すべく、第二編集部は起死回生の企画を立ち上げた。
それは――
廃刊の危機を回避すべく、立ち上がった弱小第二編集部の面々。
これは企画を押しつけ……げふんげふん、もといまかされた女子部員たちが、
取材絡みでちょっと不思議なことを体験する物語である。
「いっすん坊」てなんなんだ
こいちろう
児童書・童話
ヨシキは中学一年生。毎年お盆は瀬戸内海の小さな島に帰省する。去年は帰れなかったから二年ぶりだ。石段を上った崖の上にお寺があって、書院の裏は狭い瀬戸を見下ろす絶壁だ。その崖にあった小さなセミ穴にいとこのユキちゃんと一緒に吸い込まれた。長い長い穴の底。そこにいたのがいっすん坊だ。ずっとこの島の歴史と、生きてきた全ての人の過去を記録しているという。ユキちゃんは神様だと信じているが、どうもうさんくさいやつだ。するといっすん坊が、「それなら、おまえの振り返りたい過去を三つだけ、再現してみせてやろう」という。
自分の過去の振り返りから、両親への愛を再認識するヨシキ・・・
トウシューズにはキャラメルひとつぶ
白妙スイ@1/9新刊発売
児童書・童話
白鳥 莉瀬(しらとり りぜ)はバレエが大好きな中学一年生。
小学四年生からバレエを習いはじめたのでほかの子よりずいぶん遅いスタートであったが、持ち前の前向きさと努力で同い年の子たちより下のクラスであるものの、着実に実力をつけていっている。
あるとき、ひょんなことからバレエ教室の先生である、乙津(おつ)先生の息子で中学二年生の乙津 隼斗(おつ はやと)と知り合いになる。
隼斗は陸上部に所属しており、一位を取ることより自分の実力を磨くことのほうが好きな性格。
莉瀬は自分と似ている部分を見いだして、隼斗と仲良くなると共に、だんだん惹かれていく。
バレエと陸上、打ちこむことは違っても、頑張る姿が好きだから。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる