灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの

武内れい

文字の大きさ
97 / 120
番外編:光と鎖の狭間で

11、祈りの名を持たぬ彼へ(前半)

しおりを挟む

 エリダヴォン邸に通うようになって、どれくらいの時間が経ったのだろう。
 季節は、少しずつ春から夏へと変わりつつあった。

 玄関を開けると、いつも通り丁寧な挨拶をしてくれる使用人たち。
 ダリアンも変わらず穏やかで、私のことを「来てくれてありがとう」と優しく迎えてくれる。
 それなのに、私は最近になって、何かが少しずつおかしいと感じはじめていた。

 気づいたのは、ほんの些細なことからだった。

 たとえば、廊下の隅で擦れ合う影と低い声。
 応接間の奥で、私たちが入ってきた途端にすっと引かれる視線。
 倫の話をしているとき、大人たちの瞳がほんのわずかに鋭くなる瞬間。

 何かを隠している――そんな空気を、私は敏感に感じ取っていた。

 倫の態度も、少しずつ変化していた。何より私のことを「宮乃」と呼んでくれるようになった。
 そして、私の前では以前よりもよく笑うようになったし、冗談にも反応するようになった。
 でも、ふとしたとき――たとえば急にドアが開いたときや、大人の気配を察したとき――彼の顔から一気に色が消える。

 そして、あの手。
 彼は最近、右手首のあたりをやけに気にするようになった。
 手袋をはめている日もあれば、長袖をぎゅっと引き寄せて隠すようにしていることもある。
 聞いても、「ちょっとした擦り傷です」としか言わない。
 でも、そのちょっとしたの積み重ねが、妙に多すぎた。

 それでも私は、倫の今が穏やかに見えていたから、深くは追及できなかった。
 あのときの――あの、最初に会った日、倫が見せた異様な笑みと唐突なキス。
 そして、それをなかったかのように処理しようとするダリアンの姿。
 あの場では流してしまったけれど、心の奥では、まだ何かがずっと引っかかっていた。

 その違和感が確信に変わったのは、雨上がりの午後だった。

 その日は、午後から屋敷の中庭を散歩することになっていた。
 小雨が上がったばかりで、石畳にはまだところどころ水たまりが残っていたけれど、空は明るく、鳥の声も穏やかに響いていた。

「少し滑りやすいから、気をつけてね」

 私は倫にそう声をかけた。彼は「はい」と頷いたものの、どこか様子が落ち着かないように見えた。

 そして次の瞬間だった。

 倫がふと足を滑らせて、片膝をつくようにして倒れた。

「倫っ!」

 私は反射的に駆け寄り、彼の肩に手をかけた。
 そのときだった。倫のシャツが少しめくれ、背中の肌が露わになった。
 そして――私は、見てしまった。

 そこにあったのは、人の肌とは思えない痕だった。

 まるで鎖を巻きつけられていたような、節のような盛り上がり。
 ところどころに紫がかった色素沈着。
 そして、腕には不自然に歪んだ輪郭。まるで、一度折れた骨が正しく癒えず、ねじれたまま固まってしまったかのような――そんな歪み。

 私は息を呑んだ。

「……倫、それ……痛くないの……?」

 思わず震える声が漏れた。倫は一瞬だけ目を伏せて、それから穏やかな表情でこう言った。

「折れたのは、去年です。……もう慣れました」

 その言葉に、全身の血の気が引いた。
 「もう慣れました」――痛みに慣れるなんてことが、本当にあるの?
 そう口に出しかけて、私は言葉を飲み込んだ。

 その言葉の裏にあるものを、私は直感的に理解してしまった。

 ――この子は、ずっと痛みの中で生きてきたんだ。
 痛いと訴えたところで、何も変わらなかった。
 だから、痛みを感じないふりをすることを覚えた。
 そうすることでしか、自分を守れなかった。

 私は倫の手をそっと握りしめ、何か言いたかったけれど、言葉にならなかった。

 遠くで、誰かの笑い声がした。
 あの声は、屋敷の廊下でいつも聞こえる、影の中の大人たちの声。
 その声が、あの傷跡の存在と、確かに繋がっている気がしてならなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

処理中です...