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番外編:光と鎖の狭間で
11、祈りの名を持たぬ彼へ(前半)
しおりを挟むエリダヴォン邸に通うようになって、どれくらいの時間が経ったのだろう。
季節は、少しずつ春から夏へと変わりつつあった。
玄関を開けると、いつも通り丁寧な挨拶をしてくれる使用人たち。
ダリアンも変わらず穏やかで、私のことを「来てくれてありがとう」と優しく迎えてくれる。
それなのに、私は最近になって、何かが少しずつおかしいと感じはじめていた。
気づいたのは、ほんの些細なことからだった。
たとえば、廊下の隅で擦れ合う影と低い声。
応接間の奥で、私たちが入ってきた途端にすっと引かれる視線。
倫の話をしているとき、大人たちの瞳がほんのわずかに鋭くなる瞬間。
何かを隠している――そんな空気を、私は敏感に感じ取っていた。
倫の態度も、少しずつ変化していた。何より私のことを「宮乃」と呼んでくれるようになった。
そして、私の前では以前よりもよく笑うようになったし、冗談にも反応するようになった。
でも、ふとしたとき――たとえば急にドアが開いたときや、大人の気配を察したとき――彼の顔から一気に色が消える。
そして、あの手。
彼は最近、右手首のあたりをやけに気にするようになった。
手袋をはめている日もあれば、長袖をぎゅっと引き寄せて隠すようにしていることもある。
聞いても、「ちょっとした擦り傷です」としか言わない。
でも、そのちょっとしたの積み重ねが、妙に多すぎた。
それでも私は、倫の今が穏やかに見えていたから、深くは追及できなかった。
あのときの――あの、最初に会った日、倫が見せた異様な笑みと唐突なキス。
そして、それをなかったかのように処理しようとするダリアンの姿。
あの場では流してしまったけれど、心の奥では、まだ何かがずっと引っかかっていた。
その違和感が確信に変わったのは、雨上がりの午後だった。
その日は、午後から屋敷の中庭を散歩することになっていた。
小雨が上がったばかりで、石畳にはまだところどころ水たまりが残っていたけれど、空は明るく、鳥の声も穏やかに響いていた。
「少し滑りやすいから、気をつけてね」
私は倫にそう声をかけた。彼は「はい」と頷いたものの、どこか様子が落ち着かないように見えた。
そして次の瞬間だった。
倫がふと足を滑らせて、片膝をつくようにして倒れた。
「倫っ!」
私は反射的に駆け寄り、彼の肩に手をかけた。
そのときだった。倫のシャツが少しめくれ、背中の肌が露わになった。
そして――私は、見てしまった。
そこにあったのは、人の肌とは思えない痕だった。
まるで鎖を巻きつけられていたような、節のような盛り上がり。
ところどころに紫がかった色素沈着。
そして、腕には不自然に歪んだ輪郭。まるで、一度折れた骨が正しく癒えず、ねじれたまま固まってしまったかのような――そんな歪み。
私は息を呑んだ。
「……倫、それ……痛くないの……?」
思わず震える声が漏れた。倫は一瞬だけ目を伏せて、それから穏やかな表情でこう言った。
「折れたのは、去年です。……もう慣れました」
その言葉に、全身の血の気が引いた。
「もう慣れました」――痛みに慣れるなんてことが、本当にあるの?
そう口に出しかけて、私は言葉を飲み込んだ。
その言葉の裏にあるものを、私は直感的に理解してしまった。
――この子は、ずっと痛みの中で生きてきたんだ。
痛いと訴えたところで、何も変わらなかった。
だから、痛みを感じないふりをすることを覚えた。
そうすることでしか、自分を守れなかった。
私は倫の手をそっと握りしめ、何か言いたかったけれど、言葉にならなかった。
遠くで、誰かの笑い声がした。
あの声は、屋敷の廊下でいつも聞こえる、影の中の大人たちの声。
その声が、あの傷跡の存在と、確かに繋がっている気がしてならなかった。
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