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番外編:光と鎖の狭間で
12、祈りの名を持たぬ彼へ(後半)
しおりを挟む私は、それ以上、倫に何も聞けなかった。
背中に刻まれた傷。折れたまま癒えた腕。
そして、「慣れました」と当たり前のように言った彼の声。
何かを言えば、この子はそう望まれたならと自分を捧げてしまうような気がして――私は、言葉を飲み込むしかなかった。
けれど、見てしまったものは、見なかったことにはできない。
それはまるで、目の奥に焼きついたように、私の心の中でじわじわと痛みを広げていった。
その日の帰り際。
私はふとした拍子に、屋敷の一角――応接間の隣にある重厚な扉の前を通りかかった。
ほんの一瞬、扉がわずかに開いて、中から男たちの低い声が漏れ聞こえた。
「――時間がない。選定は予定通りに進める」
「後継者の適性は十分だ。次の段階へ移行しても問題ないはず」
「……感情の波はまだ制御に不安が残る。予備の手段も並行で――」
私は咄嗟に壁の陰に身を寄せ、耳を澄ませた。
「次の段階」「後継者」「選定」――
その言葉たちは、あまりに唐突で、意味も曖昧だったけれど、嫌な重みだけがはっきりと伝わってきた。
誰かを選ぶこと。誰かを育てること。
それが、何のために? そして、誰のために?
私は音を立てないよう、その場から離れた。
心臓の鼓動が早かった。手のひらにじっとりと汗が滲んでいた。
その日、車での帰路。
グレイウォード夫妻はあたたかく迎えてくれたけれど、私は口数が少なかった。
彼らは私の様子に気づいたようだったが、何も聞かず、ただ静かに寄り添ってくれた。
それから数日後のことだった。
私は、ある書庫にあるダリアンの資料にふと目を通す機会を得た。
〈エリダヴォン財団 特別育成対象個体〉
表紙にそう書かれたファイルの中には、いくつかのコードネームと日付、身体検査の数値や行動記録のような項目が並んでいた。
私は、ある名に目を留めた。
【Z-302/通称:Rin】
その下に書かれていた「神経反応」「共感性反射」「接触テスト反応値」の記録。
どれも、まるで彼を人間としてではなく試験体として記述しているかのようだった。
震える手でファイルを閉じた私は、初めてはっきりと自覚した。
――倫は、人として育てられていない。
優しくしてもらえないどころじゃない。
遊ぶことも、笑うことも、叱られることも、抱きしめられることも――全部、与えられてこなかった。
彼は、選ばれたから育てられたのではなく、“使われるために管理されていた”のだ。
あの日、ダリアンが言った言葉を思い出す。
「彼は……生まれてからずっと、人と関わる機会を持てなかった」
「特別な環境で育てられたんだ」
「君がそばにいることで、彼の世界は少しずつ変わるだろう」
それが、ただの優しさでなかったことを、私はようやく理解した。
彼らは、倫を変えたいんじゃない。
私に、変えさせたいんだ。
それによって、倫を次の段階へ仕上げるために。
私は、目の前が真っ白になるような気がした。
この屋敷の中で起きていることは、きっと私の想像を遥かに超えている。
でも、だからこそ――
私は、逃げ出すことができなかった。
倫の目を思い出す。
初めて見たときの、あの笑み。媚びたようでいて、どこか空虚な瞳。
その裏にある、本当の「助けて」が、ようやく聞こえてきた気がした。
――私が、ここに来た意味は何?
今までずっと考えていた答えが、少しずつ形になっていく。
私は、誰かの人質じゃない。倫の心に触れるためにここに来た。
そう、彼が気づいていないなら、私が気づいてあげる。
彼が痛みを隠すなら、私が「痛いって言っていいよ」と伝える。
その決意は、私の中で静かに、でも確かに育っていった。
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