恋や友情が、なくても

武内れい

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第一章:日常のさざ波

1、朝、そっと目を合わせて(前半)

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 春の朝はまだ冷たくて、朝見ほのかは制服の上着の襟を少し立てながら、いつもの登校路を歩いていた。手には昨日のピアノの練習で使った楽譜が入った小さなバッグ。肩にかけたストラップには、音符の形をした小さなチャームが揺れている。

 朝の空気は少し白っぽくて、吐く息がほんの少しだけ白くなる。道端には黄色い菜の花が風に揺れ、春の香りがかすかに鼻をくすぐる。ほのかは足を止めて花を見た。
 まだ冷たい風にふわりと散った桜の花びらが、地面に薄く絨毯のように広がっているのも見えた。

「今日も、普通の一日だな」ほのかは小さくそうつぶやきながら、鞄の重みを感じた。重いのは楽譜だけじゃない。
 ピアノも塾も水泳も、全部やってるのは知っているけれど、正直疲れている。でも、それを誰かに言うことはできなかった。

 時計の針が7時半を指すころ、学校へと続く細い道を歩きながら、遠くの信号が青に変わるのが見えた。いつもは誰かと一緒になることはないのに、その日は背後から軽やかな足音が近づいてきた。

「おはよー」高森颯太の声だった。振り返ると、同じマンションに住む男の子が、いつもよりちょっと低めの声で挨拶をしていた。普段は無造作な髪の毛が風になびき、少し寝癖が残ったままだ。

「……おはよう」ほのかは少し驚きつつ、言葉を返す。言葉少なに、でも胸の奥が少しずつ高鳴っていくのがわかった。

 颯太はすれ違いざまに軽く手を振って、前に歩いていく。いつもはなんでもない通り過ぎる瞬間が、今日は少し違って感じられた。ほのかは思わずその背中を見送った。

 心の中で何かが跳ねるような気がして、いつもより視線がずっと長く背中に向けられていた。

「なんでこんなにドキドキするんだろう」

 顔が熱くなってきて、ほのかは急に目をそらした。朝の静かな通りには、遠くでサラリーマンたちの足音や話し声が響く。そんな普通の光景が、まるで特別なものに見えた。

 ほのかは、しばらく歩きながら、自分の気持ちがどうしてこんなに揺れているのか、よくわからなかった。
 ただ、颯太の「おはよー」という声が、朝の冷たさの中で小さなぬくもりのように胸に残っていた。

(今日も普通の日だけど、さっきのおはようが、なんだかちょっとだけ違う感じにしてくれた)

 小さな音符のチャームがバッグの肩から揺れるたびに、ほのかはほんの少しだけ笑った。
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