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後編②
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翌日。
大学の講義が午後からの僕は午前中の少し遅い時間に起きてきて母の用意してくれた朝食をとっていたとき、スマホが着信音を響かせた。確認すると父からで、どうやら家に仕事に使う資料を忘れてしまったようで、それを会社に届けにきてほしいとのことだった。
父は時々抜けていることがあるから、たまに忘れ物もする。その時はいつも母が届けているのだが、その母も今日は外で仕事があって家にいない。
僕はわかったと父に返事し、父の部屋に置きっぱなしになっていた資料を持って家を出た。
会社に着いて父に連絡し、受付に事情を話して待たせてもらっていると、父ではなく兄が僕のもとにやってきた。父は今手が離せないらしく、代わりに兄が資料を取りに来てくれたようだ。
「わざわざありがとう、朝人」
「どーいたしまして。父さんにはきつく言っといてね」
「ははっ、わかったよ」
「それじゃあ——」
「竜宮さん!」
兄に帰ることを伝えようとしたとき、会話を遮る形で誰かが声をかけてきた。兄がそちらに視線を向けて「どうも」と会釈したので振り向けば、そこには今一番会いたくない人、葉月さんがいた。厳密にいえば、葉月さんとその父親の二人なんだけども。
どうやら今日は打合せのためにこの会社に来たらしい。
「あぁ、朝人さんもいらっしゃっていたのですね。ご無沙汰しております」
「……こんにちは」
なんとか平静を装ってにこりと笑い挨拶を返した。隣に立つ葉月さんを見ないようにしながら。
「……それじゃあ兄さん、僕は行くね」
「あぁ。気をつけてな」
「うん。では、失礼します」
東雲さんに会釈してその横を通り過ぎ、僕は早足に会社をあとにした。
ドクドクと変に早鐘を打っている心臓を深呼吸で落ち着かせると、ずきっと頭が痛んだ。一瞬だったので多分気のせいだろうと、気を取り直して歩を進めようとしたとき。
「朝人さん!」
そう、馴染みのある声で呼び止められた。
その声の主はもう知っている。振り向きたくなくて、聞こえなかったふりでもしようかと思ったが、それは通らないであろう距離まで彼は来てしまっていた。
大人しく振り向いて、こちらに駆け寄ってきた彼を見上げる。数週間ぶりに見た彼は、相変わらずきらきらとしたオーラを放っていた。
「ごめん、急に呼び止めて……」
「……お仕事はいいんですか」
「うん、問題ないよ。……久しぶりだね。顔が見られてよかった」
葉月さんがふっと微笑んだ。
優しいその笑顔も、僕を懐柔するためのものなんだと思ったら辛くて、見たくなくてぱっと俯く。
「昨日お店に行ったんだけど、朝人さんが体調不良で帰ったと聞いて心配してたんだ。体調はもう大丈夫なの?」
「はい」
「よかった……。あと少しで仕事が落ち着きそうだから、もしよかったら今度、食事でも——」
「葉月さん」
彼の言葉を遮るように名前を呼ぶと、葉月さんはきょとんと僕を見た。
俯いてしばらく何も言わない僕を不審に思ったのだろう。彼は「まだ体調悪いの?」と言って手を伸ばしたが、僕は咄嗟にそれを振り払った。
手を振り払われた葉月さんは驚いたように目を見開き僕を見る。僕がこうやって彼を拒否るのは、初めてのことだ。
「……すみません、しばらく忙しいので」
「朝人さん、なにか——」
「僕急いでいるので、それじゃあ」
「あっ、朝人さん!」
呼び止める声を無視して、僕は駆けだした。
おそらく今日、父から東雲さんたちにあの件を伝えられる。そうなったら彼にとって僕は用無しだ。これから先、今日みたいな偶然がない限り会うこともない。
走るのに疲れて立ち止まり呼吸を整える。さっき見た彼の優しい笑顔とか声が思い出されて、僕は頭を振ってそれを追い出した。泣きたくないのに、涙が勝手に溢れて止まらない。
僕はただ彼に利用されていただけの存在だ。そんなことはわかりきっている。それなのに……まだ性懲りもなく、葉月さんのことが好きなんだと思い知らされる。
なんとか涙を止めようといろいろ試したがなかなか止まってくれず、結局大学へは泣きはらした状態で行くこととなった。全く気乗りもしなかったけどバイトも行って、でも何もしていないよりは幾分かましだった。
バイトを終えて着替えを済ませたとき、またずきりと頭が痛んだ。心なしか、意識もぼーっとしている。風邪か、もしくは泣きすぎたせいかもしれない。
早く帰って、今日は早めに寝てしまおう。そう思って店を出て少し歩いたところで、「ねぇ」と後ろから話しかけられ振り向いた。するとそこには、スーツ姿の知らない男の人が立っていた。
「……はい?」
「きみ、もしかしてオメガ?」
「え?」
この人は誰だろうとか、突然の質問の意味をまわらない頭でかみ砕いていたとき、一瞬の隙をついて男は僕の目の前まで距離をつめてきてそして、両肩をがっと掴まれた。
「きみヒート中だよね。だめだよ、そんな状態でひとりで歩いてたらそこらへんのアルファに襲われてしまう。お家は何処かな、送って行ってあげるよ」
「ッ、え?」
ヒート?
そんな、次のヒートはまだ少し先の予定だ。それに、オメガのフェロモンの匂いも出ないよう薬も飲んでいる。今までヒートの周期も乱れたことがない。だから、ヒートなんかじゃ……。
そう思った途端、動悸が激しくなって体温が上がる。力も抜けて立っていられなくて、僕はその場にへたり込んだ。
大学の講義が午後からの僕は午前中の少し遅い時間に起きてきて母の用意してくれた朝食をとっていたとき、スマホが着信音を響かせた。確認すると父からで、どうやら家に仕事に使う資料を忘れてしまったようで、それを会社に届けにきてほしいとのことだった。
父は時々抜けていることがあるから、たまに忘れ物もする。その時はいつも母が届けているのだが、その母も今日は外で仕事があって家にいない。
僕はわかったと父に返事し、父の部屋に置きっぱなしになっていた資料を持って家を出た。
会社に着いて父に連絡し、受付に事情を話して待たせてもらっていると、父ではなく兄が僕のもとにやってきた。父は今手が離せないらしく、代わりに兄が資料を取りに来てくれたようだ。
「わざわざありがとう、朝人」
「どーいたしまして。父さんにはきつく言っといてね」
「ははっ、わかったよ」
「それじゃあ——」
「竜宮さん!」
兄に帰ることを伝えようとしたとき、会話を遮る形で誰かが声をかけてきた。兄がそちらに視線を向けて「どうも」と会釈したので振り向けば、そこには今一番会いたくない人、葉月さんがいた。厳密にいえば、葉月さんとその父親の二人なんだけども。
どうやら今日は打合せのためにこの会社に来たらしい。
「あぁ、朝人さんもいらっしゃっていたのですね。ご無沙汰しております」
「……こんにちは」
なんとか平静を装ってにこりと笑い挨拶を返した。隣に立つ葉月さんを見ないようにしながら。
「……それじゃあ兄さん、僕は行くね」
「あぁ。気をつけてな」
「うん。では、失礼します」
東雲さんに会釈してその横を通り過ぎ、僕は早足に会社をあとにした。
ドクドクと変に早鐘を打っている心臓を深呼吸で落ち着かせると、ずきっと頭が痛んだ。一瞬だったので多分気のせいだろうと、気を取り直して歩を進めようとしたとき。
「朝人さん!」
そう、馴染みのある声で呼び止められた。
その声の主はもう知っている。振り向きたくなくて、聞こえなかったふりでもしようかと思ったが、それは通らないであろう距離まで彼は来てしまっていた。
大人しく振り向いて、こちらに駆け寄ってきた彼を見上げる。数週間ぶりに見た彼は、相変わらずきらきらとしたオーラを放っていた。
「ごめん、急に呼び止めて……」
「……お仕事はいいんですか」
「うん、問題ないよ。……久しぶりだね。顔が見られてよかった」
葉月さんがふっと微笑んだ。
優しいその笑顔も、僕を懐柔するためのものなんだと思ったら辛くて、見たくなくてぱっと俯く。
「昨日お店に行ったんだけど、朝人さんが体調不良で帰ったと聞いて心配してたんだ。体調はもう大丈夫なの?」
「はい」
「よかった……。あと少しで仕事が落ち着きそうだから、もしよかったら今度、食事でも——」
「葉月さん」
彼の言葉を遮るように名前を呼ぶと、葉月さんはきょとんと僕を見た。
俯いてしばらく何も言わない僕を不審に思ったのだろう。彼は「まだ体調悪いの?」と言って手を伸ばしたが、僕は咄嗟にそれを振り払った。
手を振り払われた葉月さんは驚いたように目を見開き僕を見る。僕がこうやって彼を拒否るのは、初めてのことだ。
「……すみません、しばらく忙しいので」
「朝人さん、なにか——」
「僕急いでいるので、それじゃあ」
「あっ、朝人さん!」
呼び止める声を無視して、僕は駆けだした。
おそらく今日、父から東雲さんたちにあの件を伝えられる。そうなったら彼にとって僕は用無しだ。これから先、今日みたいな偶然がない限り会うこともない。
走るのに疲れて立ち止まり呼吸を整える。さっき見た彼の優しい笑顔とか声が思い出されて、僕は頭を振ってそれを追い出した。泣きたくないのに、涙が勝手に溢れて止まらない。
僕はただ彼に利用されていただけの存在だ。そんなことはわかりきっている。それなのに……まだ性懲りもなく、葉月さんのことが好きなんだと思い知らされる。
なんとか涙を止めようといろいろ試したがなかなか止まってくれず、結局大学へは泣きはらした状態で行くこととなった。全く気乗りもしなかったけどバイトも行って、でも何もしていないよりは幾分かましだった。
バイトを終えて着替えを済ませたとき、またずきりと頭が痛んだ。心なしか、意識もぼーっとしている。風邪か、もしくは泣きすぎたせいかもしれない。
早く帰って、今日は早めに寝てしまおう。そう思って店を出て少し歩いたところで、「ねぇ」と後ろから話しかけられ振り向いた。するとそこには、スーツ姿の知らない男の人が立っていた。
「……はい?」
「きみ、もしかしてオメガ?」
「え?」
この人は誰だろうとか、突然の質問の意味をまわらない頭でかみ砕いていたとき、一瞬の隙をついて男は僕の目の前まで距離をつめてきてそして、両肩をがっと掴まれた。
「きみヒート中だよね。だめだよ、そんな状態でひとりで歩いてたらそこらへんのアルファに襲われてしまう。お家は何処かな、送って行ってあげるよ」
「ッ、え?」
ヒート?
そんな、次のヒートはまだ少し先の予定だ。それに、オメガのフェロモンの匂いも出ないよう薬も飲んでいる。今までヒートの周期も乱れたことがない。だから、ヒートなんかじゃ……。
そう思った途端、動悸が激しくなって体温が上がる。力も抜けて立っていられなくて、僕はその場にへたり込んだ。
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