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序章
11.しんだひと
しおりを挟むみたま様を背負って、少し歩いた時だった。
僕は二言三言、魚達と話しながら元の道を辿っていた。意識を失った彼女を介抱するには、先ほどの部屋の中の方がいいと考えたからだ。それは突然やってきた。
再び、地を割るような轟音が鳴り響く。地獄の釜を開けたような、嘆きと恨みが煮詰まったような恐ろしい人の声にも聞こえた。
「っ!」
激しい音にバランスを崩しそうになって慌てて抱え直す。その為に後ろを振り返って、言葉を失った。
とてつもなく大きな何かが、いる。
鏡の中で見たみたま様や、さっき彼女を襲っていた目の影なんかとは比べものにならない。
大きな異形が、
どこまでも黒く、
深い不定形の暗闇が、
いつのまにか背後に迫っている。その中から無数の目がこちらをギョロリと睨んでいる。
「———————っ!!!」
叫びそうになって、しかし刺激を与えるわけにもいかず、声のない悲鳴が喉から漏れる。
あまりの恐ろしさに、一歩、また一歩、後ずさる。野生の熊に遭遇した時、人は死んだふりをすべきだなんて定説はあるけれど、実際にそんな状況になったら手を打てるような余裕なんかないらしい。
怪物は何も言わない。奇妙な均衡状態が保たれていた。静かに、静かに勘付かれないようまた一歩後退ろうとして、目の前の怪物は声を上げた。
【⬛︎⬛︎、⬛︎さま、かみ、さま。】
魚達と同じように脳に直接届く不思議な声。様々な人の嘆きがないまぜになったかのような響く低音。雑音がひどく、ところどころ聞き取れない
【⬛︎⬛︎ないで、やくそく、まもっ⬛︎。】
【きみをたぶらかした、⬛︎⬛︎は⬛︎⬛︎てあげる。】
明確な、自分たちに向けられた殺意。それを皮切りに暗闇が無作為に蠢いた。
【かみさま、つれて、い⬛︎⬛︎】
蠢く、揺らめく、襲いかかる。
僕は踵を返し、走り出した。
周囲の黒の澱みが、いつのまにか極彩色の目を持って、見ている、覗いている、伺っている、こちらを。
迷路のようにこちらの道を阻み、惑わせる。
来た時は絶対こんな道じゃあなかった!なのにどうして!背後の怪物はそれらを避けることもなく、ひたすら飲み込み、同化し量を増して追いかけてくる。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!!!)
向かう先に、先ほどの魚達が見える。こっちこっちとヒレを振っているで、それを目指して走り続ける。安全な場所など、最初に来た部屋以外に分からない。なら、そこへ向かうしかない。目的地は変わらない。
逃げ続け、足が動く限り動こうともがく。ようやく白い扉が見えてきた、安心の息を漏らそうとして、目の前の光景が信じられず、僕は思わず弱音が漏れた。
「……っ、そんな。どうして!」
目の前に、一面真っ黒の澱みが広がっていたのだ。触れることのできない黒いそれはまるで湖のように広がっており、迂回する事はできないほどの大きさで藍色の地面を侵していた。
その先に僕が出てきた扉がポツンと立っている。
『はやくはやく』
『とびらだよ!』
『いそいで』
『あそこあそこ!』
隣に並んだ魚達は焦れたように先を指差す。
けれど。僕にはどうしようもできない。思い切って澱みに足を入れたが、全く底に着きそうになく、泳ぐにも彼女を背負ったままでは無理だ。
と、踏み入れかけた澱みにも目が現れて、僕は腰を抜かしそうになった。
【かみさま、そいつ、⬛︎⬛︎⬛︎……!!!!】
ゾワゾワする声が背後から迫る、振り返らずともあれがもうすぐ近くまで来ているのが分かった。
「ねぇ君たち!みたま様だけでも背に乗せて逃げられない?!」
彼らの返事も聞かず、彼らの背に触れようと片手を伸ばした。どんな品種なのかは知らないが魚なら泳ぐことができるはずだというやけっぱちじみた予測だった。
(っ……)
しかし僕の手は彼らの背に触れる事はなく、ゆっくりと沈んでいく。あの影に触れた時のように冷気が背筋を走った。
『むりだよ』
『ぼくたち、かるいんだ』
『ヒトのおもいにたえられない』
『だからとびら』
魚達は早く早くと急かすが、進むのはとても無理だ。
【————つかま⬛︎⬛︎ ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎】
ああ、背後から声がする。僕たちを追い詰める怪物の気配が色濃くなったのを感じた。
(この子だけでも、なんとか……)
溺れるのを覚悟して、足を一歩踏み入れようとした。
—————その刹那。
メキメキメキッ……!
足元に緑の何かが突然現れた。それは蔦だ、所々に青い小さな花がある。
呆気に取られた僕を差し置いて、一気に向こう岸まで伸びていき、太さと量をますます増していった。
背負ったみたま様が動いたような気がして、一歩遅れて“扉やあの道を塞いでいた草花”であると認識する。
「っ……!渡れる!」
背後の彼女が道を作ってくれたのだ。茎一つ一つは細くとも、花冠のようにしっかりと編まれ、形作られていく。
躊躇う余裕はない。
勇気を出して蔦の上を踏み締めると、少したわむものの沈むことなく二人の体重を支えた。いける、と確認して一気に駆け抜けた。
足元に小さな“死んだ人”が絡みついてもつれさせようと邪魔をする、一度でも足を止めたらそのまま引き摺り込まれると直感した。
(はやく、はやく、部屋の中に!!!)
死の気配がすぐそこまで迫っていた。自分がどうしたいか分からない、だなんて思っておきながらどうしようもなく“死にたくない”と、“死なせたくない”が入り混じって無茶苦茶だ。
『とびら!』
やっとの思いで扉に辿り着いて、乱れる息を吐き出しながら目の前のそれに齧り付く。
中が安全かどうかを考える余裕はなかった。またすぐ先は淀みの行き止まりが見えたし、何より逃げ続けるのであればジリ貧であることは明らかだったからだ。
祈るように金色のノブを回す。軋んだ金属の音を立てて、扉は抵抗なく開いた。
僕は無我夢中でその中に飛び込んだ。
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