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第16話『女神の涙は、誰のため』
しおりを挟む「……エレナ様は泣かれるのですね」
その声に、エレナは一瞬だけまぶたを震わせた。
振り返れば、そこにいたのは侍女のリィナ。
控えめな姿勢で、しかし目はまっすぐ彼女を見ていた。
エレナの膝の上には、先ほどまで読んでいた祈祷書が乗っている。
そのページは、手のひらほどの水染みににじんでいた。
「泣いてなどいないわ、リィナ。……蝋燭の煙で目が少し滲んだだけよ」
「ならば、これは……?」
リィナが差し出したのは、濡れたハンカチだった。
「……あなたもずいぶん、生意気になったのね」
エレナは小さく笑い、ハンカチを受け取る。
だがその笑顔は、いつもの“聖女の仮面”とはどこか違っていた。
脆く、揺れやすく、少女の頃の名残すら感じさせるそれに、リィナは息をのむ。
「なぜ、泣かれたのですか。……あの方と、何かあったのですか?」
“あの方”――ライオネル。
彼女の参謀であり、王国最強の軍司令であり、
唯一、彼女の“素顔”を正面から見つめる男。
彼が過去の記録を掘り起こし、そして燃やしたこと。
それは、彼女にとって“初めて守られた”記憶だった。
「リィナ。人が涙を流すのは、悲しいときだけじゃないのよ」
「……では、嬉しかったのですか?」
エレナは黙って、うなずいた。
それは自分でも信じがたいほど、柔らかな感情だった。
ずっと自分が支配してきたこの国で――
初めて、誰かに“赦された”と感じた。
そしてその赦しは、“自分のための涙”を許す唯一の契機だった。
「ねえ、リィナ。あなたは、私が“悪い女”だと思う?」
唐突な問いに、リィナは答えに詰まった。
だが、すぐに顔を上げてきっぱりと答える。
「……はい」
静寂が落ちる。
エレナは、やや目を見開いたが――すぐに笑った。
「……それがあなたの誠実さね」
「でも、私は“悪い女”だからこそ、国を守れるのだと信じています」
「そう……」
エレナの指が、机の祈祷書を閉じた。
「だからこそ、私は泣いてはいけなかった。
“涙を流す聖女”なんて、誰も求めていないもの」
だが、それでも涙は零れていた。
それが誰のためなのか、自分でも分からなかった。
王のためか、ライオネルのためか、それとも――母のためか。
あるいは、自分自身のためだったのかもしれない。
◆
そのころ、城下町の小さな聖堂では、ひとりの神官が密やかに祈っていた。
その名は、ユーグ・フェリスタ。
王都から離れた第九教区で地道に活動する彼は、旧教会派の残党と見なされ、長く都から遠ざけられていた人物だった。
「……聖女とは、“神の声を代弁する者”。
ならば、神が語らぬ今、我々は何を信じるべきか……」
彼は聖堂の奥に隠された“古文書”を開いた。
そこには、かつての枢機卿たちが残した記録が綴られていた。
《“神託の器”の選定において、王権との接近は禁忌とすること。
聖女は“民と祈り”に属し、“王と力”に交わるべからず。》
「……エレナ・ライネルトよ。
あなたはそのすべてに逆らい、今や王の隣に座した。
それは……神の意志ではなく、あなた自身の意志だ」
ユーグの瞳には、燃えるような確信が宿っていた。
「私は再び都に上る。
そして“聖女の裁き”を、神の名のもとに問おう」
◆
その夜、エレナの夢の中に母の声が響いた。
それはかすかで、柔らかく、そして懐かしかった。
――“エレナ。あなたは、笑っていいのよ”――
彼女が目を開けたとき、夜明けの光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
世界はまだ沈黙している。
神もまだ語らない。
だが、彼女の中ではひとつだけ、確かな“音”が鳴っていた。
それは、彼女の胸の奥に生まれた――
“自分という存在”を受け入れる、小さな祈りの鐘。
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