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(わたし、そんなに飲んだっけ?)
金曜の夜──見知らぬ部屋で目覚める前日、菜穂の前には妖精が座っていた。
大きさは人間と変わらない。立てば菜穂より背が高そうだ。
彼女との間には、紫色のクロスを敷いた小さなテーブルがある。机上に置かれた水晶玉が放つ光が、薄暗い森を照らしていた。ほかに光源はない。
四方を囲む森の木々には、ときおり透明な水晶の枝が混じっている。
銀色の髪に青い葉っぱの冠をかぶった妖精は、切れ長の目を持つ美女だ。すらりとした体躯を袖のない真っ白なドレスで包んでいた。
どうして、こんなことになったのだろう。
今日は有給休暇を取って、大学時代からの友人の結婚式に出席した。
新婚旅行へ向かう新郎新婦を見送った後、招待されていたべつの友達と街をぶらついて、最終的にバーへ行った。街を見下ろす夜景が売りのホテル最上階のバーで窓際の特等席を陣取って、しゃべっては飲み、しゃべっては飲み──景色は少しも見ていない。
菜穂は苦笑した。
(うん、かなり飲んだ)
下戸で、会社の飲み会では食べてばかりの菜穂は、久しぶりに会った酒豪の友達につられて何杯もカクテルを飲んだ。
真夏の酔っ払いの夢だ、妖精が見えても不思議はない。
彼女は水晶玉に手を伸ばし、無機質な声で問いかけてくる。
「あなたが今、一番知りたいことはなんですか?」
(現実に戻る方法かな……)
菜穂はアクビを漏らした。酔うと眠くなる体質なのだ。
妖精と会う前も眠っていた。いや、今もまだ眠っているのだろう。
ぼやけた頭に、夫や子どもの待つ家へ帰って行った友達の顔が浮かんでくる。
ひとり暮らしのアパートへ戻っても自分を待つものはいない。
成人式に兄からもらった真珠のネックレスを指先で転がす。
先日帰った実家に菜穂のスペースはなかった。大きくなった甥っ子、兄の子どもたちに、お小遣い目当ての歓迎はされたけれど。
「……今日の結婚式で、大学時代の友達みんな結婚しちゃったんです」
酔いのせいか、初対面の妖精に自分語りを始めてしまう。
「残ったのは、わたしだけ。みんな誕生日が遅いから、三十歳すぎてるのもわたしだけなんです。結婚出来ないのは仕方ないと思ってます。合コンも行かない、婚活もしないのが悪いんだから」
大学時代に二週間だけつき合って別れた彼氏の記憶が蘇るたび、恋愛に向かない自分を思い出す。行きずりの関係を楽しめるほどの強さもない。
仕事をして家事をして、たまに友達と遊んで──淡々と日常を送り、それで満足していたはずの菜穂が、心の奥底に隠していた願望が不意に浮かび上がる。
「でも……だれかを好きになりたいなあ、って」
実らなくても構わない。恋のときめきを感じてみたかった。
妖精は頷いて、テーブルの上で両手を動かした。白い指は細くしなやかだ。
彼女の手の下にはトランプほどの大きさのカードが数枚ある。
(タロットカード?)
以前占い好きの友達に見せてもらったものと似ていた。
妖精が一枚抜き出して、水晶玉にかざす。
向き合う男女を描いたカードが、球の中で拡大される。
「あなたはもう、恋をしているようですが」
菜穂は、ぽかん、と口を開けた。
会社の同僚以外の男性とのつき合いはない。
第一つき合いといっても仕事だけ、プライベートのメアドや電話番号は知らない。
ほかの男性の知り合い、学生時代の同級生や先輩後輩にいたっては、顔も名前も思い出せなかった。
「気になる方もいらっしゃいませんか?」
その瞬間、ある後ろ姿が脳裏をよぎった。
汗で貼りついたTシャツに肩甲骨が浮かんだ、長身で逞しい背中。
優しくて温かいけれど、カウンターに阻まれた、遠い遠い人。
(どうして、あの人を思い出すの?)
「いらっしゃるようですね」
「ち、違います。そういうんじゃないんです。今浮かんできたのは、会社の近くにある将馬亭ってラーメン屋の店長さんで、そこのラーメンがすごく美味しくて、嬉しいことがあったときご褒美に食べると喜びを倍増してくれるし、辛いときに食べると癒してくれるから……憧れ? そう、憧れてるだけなんです」
いらっしゃいと言う低い声やラーメンを出してくれる太い腕に心臓が飛び跳ねるときもあるし、少し迫力がありながらも整った顔に見惚れたこともあるけれど、恋なんて大層なものではない。
挨拶と注文以外の言葉を交わしたことはないし、常連と呼ばれるほど通っていないから、向こうは菜穂の顔も覚えていないだろう。
「とっても落ち着くお店なんです。たまに店長が客や店員を怒鳴りつけてるお店とかあるじゃないですか。わたし、どんなに流行ってても、そういうお店はダメで。でも将馬亭の店長さんは違うんです。声を荒げること自体ないし、前に一度、失敗して落ち込んだバイトさんの頭を撫でてあげてるのを見たことあって」
大きな手で撫でられて、その店員が癒されていくのがわかった。
「……いいなあ、って」
思わず漏れた声が甘い。
「あ、いえ、違うんですけど。恋とかじゃなくて、お気に入りのお店の素敵な店長さんってだけなんです」
言い訳する自分の必死さが恥ずかしかった。
「それでは、これをお使いになってはいかがでしょう?」
水晶玉に妖精が持っているイヤリングが映し出された。
無色透明の小さなガラスキューブの連なりを、細い金色の鎖でつないだネジ式のイヤリング。
「恋の魔法をかけてあります。これをつけてその方にお会いになられたら、真実がわかります。あなたの心にあるのが恋だとしたら、なにか進展があるでしょう。恋でなければ、なにも起こりません。代わりにべつの恋をする機会が訪れます」
菜穂は髪を長く伸ばしたことがない。
いつも肩より短いショートヘアなのは、耳と首が敏感だからだ。
だからぶら下がり型のイヤリングをつけたことはなかった。今つけているネックレスと揃いの真珠のイヤリングはクリップ型だ。
「これをお受け取りになられてもなられなくても、三十分三千円の基本料金は変わりませんので、ご安心ください」
金曜の夜──見知らぬ部屋で目覚める前日、菜穂の前には妖精が座っていた。
大きさは人間と変わらない。立てば菜穂より背が高そうだ。
彼女との間には、紫色のクロスを敷いた小さなテーブルがある。机上に置かれた水晶玉が放つ光が、薄暗い森を照らしていた。ほかに光源はない。
四方を囲む森の木々には、ときおり透明な水晶の枝が混じっている。
銀色の髪に青い葉っぱの冠をかぶった妖精は、切れ長の目を持つ美女だ。すらりとした体躯を袖のない真っ白なドレスで包んでいた。
どうして、こんなことになったのだろう。
今日は有給休暇を取って、大学時代からの友人の結婚式に出席した。
新婚旅行へ向かう新郎新婦を見送った後、招待されていたべつの友達と街をぶらついて、最終的にバーへ行った。街を見下ろす夜景が売りのホテル最上階のバーで窓際の特等席を陣取って、しゃべっては飲み、しゃべっては飲み──景色は少しも見ていない。
菜穂は苦笑した。
(うん、かなり飲んだ)
下戸で、会社の飲み会では食べてばかりの菜穂は、久しぶりに会った酒豪の友達につられて何杯もカクテルを飲んだ。
真夏の酔っ払いの夢だ、妖精が見えても不思議はない。
彼女は水晶玉に手を伸ばし、無機質な声で問いかけてくる。
「あなたが今、一番知りたいことはなんですか?」
(現実に戻る方法かな……)
菜穂はアクビを漏らした。酔うと眠くなる体質なのだ。
妖精と会う前も眠っていた。いや、今もまだ眠っているのだろう。
ぼやけた頭に、夫や子どもの待つ家へ帰って行った友達の顔が浮かんでくる。
ひとり暮らしのアパートへ戻っても自分を待つものはいない。
成人式に兄からもらった真珠のネックレスを指先で転がす。
先日帰った実家に菜穂のスペースはなかった。大きくなった甥っ子、兄の子どもたちに、お小遣い目当ての歓迎はされたけれど。
「……今日の結婚式で、大学時代の友達みんな結婚しちゃったんです」
酔いのせいか、初対面の妖精に自分語りを始めてしまう。
「残ったのは、わたしだけ。みんな誕生日が遅いから、三十歳すぎてるのもわたしだけなんです。結婚出来ないのは仕方ないと思ってます。合コンも行かない、婚活もしないのが悪いんだから」
大学時代に二週間だけつき合って別れた彼氏の記憶が蘇るたび、恋愛に向かない自分を思い出す。行きずりの関係を楽しめるほどの強さもない。
仕事をして家事をして、たまに友達と遊んで──淡々と日常を送り、それで満足していたはずの菜穂が、心の奥底に隠していた願望が不意に浮かび上がる。
「でも……だれかを好きになりたいなあ、って」
実らなくても構わない。恋のときめきを感じてみたかった。
妖精は頷いて、テーブルの上で両手を動かした。白い指は細くしなやかだ。
彼女の手の下にはトランプほどの大きさのカードが数枚ある。
(タロットカード?)
以前占い好きの友達に見せてもらったものと似ていた。
妖精が一枚抜き出して、水晶玉にかざす。
向き合う男女を描いたカードが、球の中で拡大される。
「あなたはもう、恋をしているようですが」
菜穂は、ぽかん、と口を開けた。
会社の同僚以外の男性とのつき合いはない。
第一つき合いといっても仕事だけ、プライベートのメアドや電話番号は知らない。
ほかの男性の知り合い、学生時代の同級生や先輩後輩にいたっては、顔も名前も思い出せなかった。
「気になる方もいらっしゃいませんか?」
その瞬間、ある後ろ姿が脳裏をよぎった。
汗で貼りついたTシャツに肩甲骨が浮かんだ、長身で逞しい背中。
優しくて温かいけれど、カウンターに阻まれた、遠い遠い人。
(どうして、あの人を思い出すの?)
「いらっしゃるようですね」
「ち、違います。そういうんじゃないんです。今浮かんできたのは、会社の近くにある将馬亭ってラーメン屋の店長さんで、そこのラーメンがすごく美味しくて、嬉しいことがあったときご褒美に食べると喜びを倍増してくれるし、辛いときに食べると癒してくれるから……憧れ? そう、憧れてるだけなんです」
いらっしゃいと言う低い声やラーメンを出してくれる太い腕に心臓が飛び跳ねるときもあるし、少し迫力がありながらも整った顔に見惚れたこともあるけれど、恋なんて大層なものではない。
挨拶と注文以外の言葉を交わしたことはないし、常連と呼ばれるほど通っていないから、向こうは菜穂の顔も覚えていないだろう。
「とっても落ち着くお店なんです。たまに店長が客や店員を怒鳴りつけてるお店とかあるじゃないですか。わたし、どんなに流行ってても、そういうお店はダメで。でも将馬亭の店長さんは違うんです。声を荒げること自体ないし、前に一度、失敗して落ち込んだバイトさんの頭を撫でてあげてるのを見たことあって」
大きな手で撫でられて、その店員が癒されていくのがわかった。
「……いいなあ、って」
思わず漏れた声が甘い。
「あ、いえ、違うんですけど。恋とかじゃなくて、お気に入りのお店の素敵な店長さんってだけなんです」
言い訳する自分の必死さが恥ずかしかった。
「それでは、これをお使いになってはいかがでしょう?」
水晶玉に妖精が持っているイヤリングが映し出された。
無色透明の小さなガラスキューブの連なりを、細い金色の鎖でつないだネジ式のイヤリング。
「恋の魔法をかけてあります。これをつけてその方にお会いになられたら、真実がわかります。あなたの心にあるのが恋だとしたら、なにか進展があるでしょう。恋でなければ、なにも起こりません。代わりにべつの恋をする機会が訪れます」
菜穂は髪を長く伸ばしたことがない。
いつも肩より短いショートヘアなのは、耳と首が敏感だからだ。
だからぶら下がり型のイヤリングをつけたことはなかった。今つけているネックレスと揃いの真珠のイヤリングはクリップ型だ。
「これをお受け取りになられてもなられなくても、三十分三千円の基本料金は変わりませんので、ご安心ください」
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