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目を覚まして、菜穂はひどく空っぽな気分になった。
匂いとぬくもりは残っているが、タオルケットの中には自分しかいない。
激しい孤独を感じて、ぼんやりと辺りを見回す。
六畳の和室、将馬亭の二階だ。
少々色褪せた畳に毛羽立ちはない。代わりに襖が破れている。
網戸を買って猫は侵入しなくなったものの、べつの破壊者が現れていた。
トントンと、軋まなくなった階段を上がってくる足音がする。
廊下側の襖が開いた。
「起きたか、菜穂」
「起こしてくれれば良かったのに」
「コイツが腹減ったってうるさいから、昨夜の残りのおじや食わせてきた」
菜穂は立ち上がり、作務衣姿の将馬の腕から子どもを受け取った。
「あーちゃ」
笑顔で飛び込んでくる幼児は葛城将太、もうすぐ二歳。
緑のサロペットに包まれたお尻は紙オムツで膨らんでいた。
襖破りの犯人は、菜穂と将馬のひと粒種だ。
父親そっくりの幼い顔に微笑みかける。
「将ちゃん、おはよう」
「おあよーじゃじゃいます」
ぺこりと頭を下げる息子と彼を抱く妻を見て、将馬が目尻を下げる。
「どうしたの?」
「いや、なんか、いいなと思って」
「そうなの?」
「にゃの?」
「ああ」
(マザコンじゃないって言ってたけど)
早くに両親を亡くした将馬には、家庭への憧れがあったのかもしれない。
菜穂はときどき、彼が幼いころの将馬亭でも今と同じような光景が繰り広げられていたのではないかと考えて、不思議な気分になる。
──この三年、いろいろなことがあった。
将馬亭の名を冠したカップ麺は人気を博し、今は全国で販売されている。
もっとも菜穂は、かつての夫の言葉通り彼が作ったラーメン以外食べていない。
店で生ラーメンを食べたいとの要望に答え、将馬は榊にのれん分けして、土日も営業する二号店をオープンさせた。本店は相変わらず土日休みで、オフィス街近くの商店街にある知る人ぞ知る名店だ。
榊に商才があったのか、去年結婚した田崎の占いの力か、二号店は繁盛し、本店以外の経営はふたりに任せるということで、将馬は店舗拡大を許可した。来年は海外に五号店がオープンする。
寿退社した菜穂と前後して、美佐子も会社を辞めていた。
彼女は地元タウン誌のライターになり、食べ歩きを仕事にしたのだ。たまに将馬亭にも取材に来た。食べ歩きのパートナーも新しい恋人も今はいないらしい。
常連客の吉村は相変わらず毎日食べに来る。
本店が休みの土日は、榊の店でダメ出しをしていると聞く。
菜穂にとって一番劇的だったのは、もちろん将馬と結婚したことだ。
以来毎日、店の手伝いと将太の子育てに駆け回っている。
近くに住む夫の祖父母にも手伝ってもらっていた。
(将馬くんに相応しい人間になれたなんて思えないけど)
夫と子ども、ふたりを失うことは出来ない。
朝起きて同じ布団にいなかっただけで寂しくなる。
これからも自分なりに頑張っていくしかない。
でもそれが菜穂の幸せなのだった。あの夜まで、想像したこともなかったけれど。
「菜穂」
「なぁに?」
「後でナポリタン作ってくれ」
年下の恋人は年下の夫になってからのほうが甘えん坊になった。
店が休みの日の朝は大体いつも、彼の好物になったナポリタンを作っている。
大好物の料理を聞いて、小さな瞳が輝いた。
「しょーちゃも、くー!」
「将太はおじや食っただろうが」
「くーの!」
「仕方ねえなあ、腹壊すなよ」
嬉しげに笑う将馬は、長身を傾けて菜穂の耳元で囁いた。
グロスどころではないくらい繰り返されてきた、熱い吐息と低い声。
「おはよう、菜穂。……愛してる」
ガラスのイヤリングがなくなっても、恋の魔法は、今も菜穂を包んでいる。
匂いとぬくもりは残っているが、タオルケットの中には自分しかいない。
激しい孤独を感じて、ぼんやりと辺りを見回す。
六畳の和室、将馬亭の二階だ。
少々色褪せた畳に毛羽立ちはない。代わりに襖が破れている。
網戸を買って猫は侵入しなくなったものの、べつの破壊者が現れていた。
トントンと、軋まなくなった階段を上がってくる足音がする。
廊下側の襖が開いた。
「起きたか、菜穂」
「起こしてくれれば良かったのに」
「コイツが腹減ったってうるさいから、昨夜の残りのおじや食わせてきた」
菜穂は立ち上がり、作務衣姿の将馬の腕から子どもを受け取った。
「あーちゃ」
笑顔で飛び込んでくる幼児は葛城将太、もうすぐ二歳。
緑のサロペットに包まれたお尻は紙オムツで膨らんでいた。
襖破りの犯人は、菜穂と将馬のひと粒種だ。
父親そっくりの幼い顔に微笑みかける。
「将ちゃん、おはよう」
「おあよーじゃじゃいます」
ぺこりと頭を下げる息子と彼を抱く妻を見て、将馬が目尻を下げる。
「どうしたの?」
「いや、なんか、いいなと思って」
「そうなの?」
「にゃの?」
「ああ」
(マザコンじゃないって言ってたけど)
早くに両親を亡くした将馬には、家庭への憧れがあったのかもしれない。
菜穂はときどき、彼が幼いころの将馬亭でも今と同じような光景が繰り広げられていたのではないかと考えて、不思議な気分になる。
──この三年、いろいろなことがあった。
将馬亭の名を冠したカップ麺は人気を博し、今は全国で販売されている。
もっとも菜穂は、かつての夫の言葉通り彼が作ったラーメン以外食べていない。
店で生ラーメンを食べたいとの要望に答え、将馬は榊にのれん分けして、土日も営業する二号店をオープンさせた。本店は相変わらず土日休みで、オフィス街近くの商店街にある知る人ぞ知る名店だ。
榊に商才があったのか、去年結婚した田崎の占いの力か、二号店は繁盛し、本店以外の経営はふたりに任せるということで、将馬は店舗拡大を許可した。来年は海外に五号店がオープンする。
寿退社した菜穂と前後して、美佐子も会社を辞めていた。
彼女は地元タウン誌のライターになり、食べ歩きを仕事にしたのだ。たまに将馬亭にも取材に来た。食べ歩きのパートナーも新しい恋人も今はいないらしい。
常連客の吉村は相変わらず毎日食べに来る。
本店が休みの土日は、榊の店でダメ出しをしていると聞く。
菜穂にとって一番劇的だったのは、もちろん将馬と結婚したことだ。
以来毎日、店の手伝いと将太の子育てに駆け回っている。
近くに住む夫の祖父母にも手伝ってもらっていた。
(将馬くんに相応しい人間になれたなんて思えないけど)
夫と子ども、ふたりを失うことは出来ない。
朝起きて同じ布団にいなかっただけで寂しくなる。
これからも自分なりに頑張っていくしかない。
でもそれが菜穂の幸せなのだった。あの夜まで、想像したこともなかったけれど。
「菜穂」
「なぁに?」
「後でナポリタン作ってくれ」
年下の恋人は年下の夫になってからのほうが甘えん坊になった。
店が休みの日の朝は大体いつも、彼の好物になったナポリタンを作っている。
大好物の料理を聞いて、小さな瞳が輝いた。
「しょーちゃも、くー!」
「将太はおじや食っただろうが」
「くーの!」
「仕方ねえなあ、腹壊すなよ」
嬉しげに笑う将馬は、長身を傾けて菜穂の耳元で囁いた。
グロスどころではないくらい繰り返されてきた、熱い吐息と低い声。
「おはよう、菜穂。……愛してる」
ガラスのイヤリングがなくなっても、恋の魔法は、今も菜穂を包んでいる。
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