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おまけ・恋の魔法は焼きギョーザ
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「え」
満員御礼のざわめきの中、なぜかその小さな叫びが耳に飛び込んできた。
背中を向けたまま、将馬は様子を窺った。
カウンターの向こうで、ふたり連れの女性客が会話を進めていく。
「ここ、ラーメンしかないの?」
「ラーメン屋さんだもん」
「わたし、ラーメンて油っぽくて苦手なの。うどんのほうが好き」
「ここのなら大丈夫よ」
「えー」
「すいませーん、ラーメンふたつ」
「はい、毎度」
店員たちと一緒に視線を向けて、ふたりを確認する。
ラーメン屋に来て、ラーメンが苦手だなどとほざいていたのは、ショートカットの女だった。連れに注文された後も困惑した表情で俯いている。同伴者と同年代とすれば二十代半ばくらいだけれど、学生でも通りそうなほどあどけない顔をしていた。
多少腹は立つものの、客は客だ。
将馬はいつもと同じように、全力を尽くしたラーメンを店員に渡した。
今の店内の状態なら自分で運んだほうが良かったかもしれないが、開店直後に巻き起こった数々の出来事から、将馬は女性客へ注文を運ぶのはやめている。
「あ」
また、あの声が聞こえてきた。
「美味しい」
「でしょ? あたしの勧める店に間違いはないんだから」
「この間のケーキバイキングの店も?」
「あれは……あれは十年前なら美味しかったと思うわ。あたし、自分の若さを過信してたのよねえ」
「そうね。イナゴのように貪欲な学生時代なら、あの油っぽいケーキも全種類食べられたかも」
「でしょ?……ううん、ごめん。十年前でも無理かもしれない」
くすくすと笑う声がする。
「このお店のラーメンで、あのケーキの不味さが吹き飛んじゃった」
横目で見ると、さっきまでの困惑はどこへやら、ショートカットの女性客は幸せそうな笑みを浮かべて、将馬のラーメンを食べていた。
──それから、彼女はたまに店を訪れるようになった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「どうだ?」
「美味かったッス!」
汁一滴残さずに、榊は新作のラーメンを食べ終えた。
ほかの店員は学生だったり、ほかに打ち込んでいるものがあったりするため、閉店後賄いを食べてすぐ帰るが、彼はやることがないからと、厨房の掃除や今夜のようなメニュー開発を手伝ってくれている。
「普通のよりもさっぱりしてるし、野菜が多くてヘルシーで、何杯でも食べられそうです」
「それ、いいな」
「なにがですか?」
「名前だよ。野菜が多いヘルシーラーメン……語呂が悪いか?」
「そうッスねー。野菜いっぱい、野菜たっぷり、野菜どっさり?」
「野菜たっぷりヘルシーラーメンはどうだ」
「女性客に受けそうですね」
「……そうか」
「あ、すんません。店長って女嫌いなんですよね。吉村さんに聞きました。昔、夜の蝶のお姉さんたちに、ひどい目に遭わされたって」
おしゃべりな常連客の顔を思い出し、将馬は溜息をついた。
「べつに、そういうわけじゃない」
とはいえ、ここ数年女体とご無沙汰しているのは事実だ。
仕事に打ち込んでいたと言えば聞こえはいいけれど、念願だった父の店の再開を果たし、開店直後の繁忙期を乗り越えてからはモチベーションが下がっていた。
それが戻ってきたのは──
「女でも男でも、お客さんの笑顔が見れたら、俺は嬉しいよ」
頭に浮かぶのが、ただひとりの笑みだということには気づかない振りをする。
ふたりは単なる店長と客。それ以上でも以下でもない。
「うちの人気なら一品だけで大丈夫なのに、店長は現状に甘んじず、新しいメニューを作り出しちゃうんですねー」
空っぽの丼を見て、榊が溜息をついている。
ふたつ年下の彼は自分を将馬と比べて、よく落ち込んでいた。
「つき合ってくれてありがとな、榊。そろそろ占いハウス閉まるころだろ」
「そうでした、青葉ちゃん迎えに行かないと! あ、でも丼……」
客席に座っていた榊は、丼を持って腰を浮かせた。
「俺が洗うから気にするな。駅前は酔っ払いが多くて危ないから、早く行ってやれ」
「ウッス」
すでに着替えていた榊は、荷物を持って店の玄関を飛び出していった。
将馬から見れば、愛し愛される相手と暮らしている榊のほうが羨ましい。
以前繁華街に用事があって、占いハウスまで同行したことがある。
裏口から出てきた女性が榊を見たとき浮かべた、幸せそうな笑みが忘れられない。
すぐ我に返った彼女は真っ赤になって、職場の人間と一緒なら連絡しろと怒っていたけれど、それも榊を思えばこその言動だ。
自分を見るだけで笑顔になってくれる人間など、将馬にはいない。
母方の祖父母だって、一番は孫より配偶者だ。もちろんそれでいいと思う。
亡くなった両親だって、一番大切なのは息子でも、一番愛しているのはお互いだった。父の背中を思い出しながら、将馬はカウンターを出た。
玄関の鍵を閉め、丼を洗い、二階へ上がる。
眠るときも目覚めるときも将馬はひとりだ。
「……今度猫が入り込んで来たら、そのまま飼おうかな」
階段の軋む音が、将馬の悲しい呟きを消してくれた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「焼きギョーザ始めたんだ」
「はい、すいません」
将馬の返答に、吉村は目を丸くした。
「なんで謝るの?」
「……そうですね?」
首を傾げた将馬を見て、カウンターの向こうで吉村が笑う。
ランチタイムの将馬亭は満員御礼で、客席は全部埋まっていた。
「ラーメンマニアのチョー常連客だからって、この店にラーメン以外のメニューが増えるのを怒ったりしないよ。今日は焼きギョーザもちょうだい」
「はい、毎度」
おしぼりで手を拭きながら、彼はメニューを見回す。
「開店直後に比べると、かなり増えたよね。どう? オフィス街のお客さんも来るようになった?」
「おかげ様で」
「これだけあったら、一週間毎日通っても注文がかぶらないね。まあ、僕はラーメンひと筋なんだけど」
店内のざわめきを背中で聞きながら、将馬は料理台に向かった。
榊たち店員が客をさばいてくれるから、自分は料理に専念出来る。
たまに常連客と会話する余裕まであるのも彼らのおかげだ。
熱したフライパンに油を落とす。
しばらく焼いて水を入れ、蓋を閉めて少々。
我ながら食欲をそそる匂いが辺りに漂う。
「はい、お待ち」
「待ってました。……うん。こりゃ美味いね。ラーメンに合うよ」
「ありがとうございます」
出来たての焼きギョーザを頬張りながら、吉村が顔を上げる。
「そういえば店長、彼女出来た?」
「なんですか、いきなり」
「いや、こないだ夜来たとき、女のお客さんの応対してたから」
「……たまたまです」
「レジまでしてたじゃない」
「店長、チャーハンふたつお願いします」
「わかった」
吉村はからかうような表情のまま、ラーメンを食べ始めた。
榊は気が利く。
あのときのことは、正直思い出したくなかった。
彼女はいつもレシートを受け取らない。それだけのことだ。
だけど、と弱い心が思ってしまう。もしかしたら将馬の下心を見抜いて、面倒なことは嫌だと、メアドを書いたレシートを拒んだのかもしれない。
どんなにメニューを増やしても、近くの会社に通う彼女がランチに来ないのは、常連になって将馬に馴れ馴れしくされるのが嫌だからかもしれない。
注文と挨拶しか交わしたことのない相手に、ここまで思うのは自意識過剰だ。
わかっていても考えてしまう。
先日、店員たちに見抜かれた通り、自分は彼女に恋しているようだ。
──名前も知らない彼女に。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……菜穂」
彼女は腕の中、寝ぼけ眼で笑みを浮かべた。
夏の朝、汗ばんだ体はやわらかく、甘い香りを漂わせている。男を誘う香りだ。
「将馬くん」
つき合い始めて、まだたったの一週間なのに、先週の金曜の夜口説かれるまで彼女なしで生きていた自分が信じられない。
将馬の命が、ふわあ、とアクビを漏らす。
「すぐご飯、作るね……」
昨夜は、いや、昨夜も無理をさせてしまった。
彼女と違い、自分は経験がなかったわけではない。
なのにどうしてこう、自制が効かなくなるのだろう。
思いながらも、将馬は彼女のおでこに流れる汗をついばんだ。こうして触れていると、また理性が飛んでいく。
「悪い。起こすつもりじゃなかったんだ。まだ寝てろ。朝メシは俺が作ってやる」
先週買った避妊具を使い果たしたことを思い出し、将馬は耐えた。
プロポーズにOKをもらったんだから使わなくてもいいのではないかという考えがちらりと浮かんだが、年下なのをいいことにこれ以上甘えたら、優しいようで締めるところは締める年上の恋人に捨てられてしまうかもしれない。
それはごめんだ。
「なにか食いたいものあるか?」
「……おねだり、していいの?」
「もちろんだ」
「じゃあねえ、焼きギョーザが食べたいな」
「焼きギョーザ?」
「うん。将馬くんのお店の。平日のお昼食べると午後の仕事に差し障るでしょ? だからいつか、お休みの日におねだりしようと思ってたの」
「そうか」
口元が緩むのが自分でわかった。
体の経験こそあるものの、将馬は処女だった菜穂と変わらない恋愛初心者だ。
彼女への気持ちに気づくのも時間がかかったし、気づいてからもまともなアプローチが出来ていたとは言いがたい。榊とその恋人がお節介をしてくれていなければ、今もふたりはカウンターに隔てられていただろう。
それでも。
自分が生きてきたこれまでで、恋人を喜ばせることが出来る。
焼きギョーザを食べた彼女はまた、幸せそうに微笑んでくれるだろうか。
そっと布団に寝かせると、寝ぼけていた菜穂は再び安らかな寝息を立て始めた。
このアパートの台所を使うのは初めてだけれど、木曜の朝張りついていたとき、調味料や調理器具の配置は大体把握している。
あの日のナポリタンの味が舌に蘇った。
また作ってもらいたいと思いつつ、将馬は寝息を漏らす菜穂に顔を近づける。
なにもついていない耳たぶに、キス。
「ん、将馬くん……?」
ずっと前から彼女が好きだった。それは事実だ。
しかしあの夜、この耳で揺れていたガラスのイヤリングは、恋に怯える臆病な将馬にトドメを刺した。もう待つだけの自分じゃない。
(今度は俺が、特製焼きギョーザで恋の魔法をかけてやる)
下着とジーンズだけ穿いて台所へ向かう。
やがて、狭いアパートは食欲をそそる焼きギョーザの匂いで包まれた。
満員御礼のざわめきの中、なぜかその小さな叫びが耳に飛び込んできた。
背中を向けたまま、将馬は様子を窺った。
カウンターの向こうで、ふたり連れの女性客が会話を進めていく。
「ここ、ラーメンしかないの?」
「ラーメン屋さんだもん」
「わたし、ラーメンて油っぽくて苦手なの。うどんのほうが好き」
「ここのなら大丈夫よ」
「えー」
「すいませーん、ラーメンふたつ」
「はい、毎度」
店員たちと一緒に視線を向けて、ふたりを確認する。
ラーメン屋に来て、ラーメンが苦手だなどとほざいていたのは、ショートカットの女だった。連れに注文された後も困惑した表情で俯いている。同伴者と同年代とすれば二十代半ばくらいだけれど、学生でも通りそうなほどあどけない顔をしていた。
多少腹は立つものの、客は客だ。
将馬はいつもと同じように、全力を尽くしたラーメンを店員に渡した。
今の店内の状態なら自分で運んだほうが良かったかもしれないが、開店直後に巻き起こった数々の出来事から、将馬は女性客へ注文を運ぶのはやめている。
「あ」
また、あの声が聞こえてきた。
「美味しい」
「でしょ? あたしの勧める店に間違いはないんだから」
「この間のケーキバイキングの店も?」
「あれは……あれは十年前なら美味しかったと思うわ。あたし、自分の若さを過信してたのよねえ」
「そうね。イナゴのように貪欲な学生時代なら、あの油っぽいケーキも全種類食べられたかも」
「でしょ?……ううん、ごめん。十年前でも無理かもしれない」
くすくすと笑う声がする。
「このお店のラーメンで、あのケーキの不味さが吹き飛んじゃった」
横目で見ると、さっきまでの困惑はどこへやら、ショートカットの女性客は幸せそうな笑みを浮かべて、将馬のラーメンを食べていた。
──それから、彼女はたまに店を訪れるようになった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「どうだ?」
「美味かったッス!」
汁一滴残さずに、榊は新作のラーメンを食べ終えた。
ほかの店員は学生だったり、ほかに打ち込んでいるものがあったりするため、閉店後賄いを食べてすぐ帰るが、彼はやることがないからと、厨房の掃除や今夜のようなメニュー開発を手伝ってくれている。
「普通のよりもさっぱりしてるし、野菜が多くてヘルシーで、何杯でも食べられそうです」
「それ、いいな」
「なにがですか?」
「名前だよ。野菜が多いヘルシーラーメン……語呂が悪いか?」
「そうッスねー。野菜いっぱい、野菜たっぷり、野菜どっさり?」
「野菜たっぷりヘルシーラーメンはどうだ」
「女性客に受けそうですね」
「……そうか」
「あ、すんません。店長って女嫌いなんですよね。吉村さんに聞きました。昔、夜の蝶のお姉さんたちに、ひどい目に遭わされたって」
おしゃべりな常連客の顔を思い出し、将馬は溜息をついた。
「べつに、そういうわけじゃない」
とはいえ、ここ数年女体とご無沙汰しているのは事実だ。
仕事に打ち込んでいたと言えば聞こえはいいけれど、念願だった父の店の再開を果たし、開店直後の繁忙期を乗り越えてからはモチベーションが下がっていた。
それが戻ってきたのは──
「女でも男でも、お客さんの笑顔が見れたら、俺は嬉しいよ」
頭に浮かぶのが、ただひとりの笑みだということには気づかない振りをする。
ふたりは単なる店長と客。それ以上でも以下でもない。
「うちの人気なら一品だけで大丈夫なのに、店長は現状に甘んじず、新しいメニューを作り出しちゃうんですねー」
空っぽの丼を見て、榊が溜息をついている。
ふたつ年下の彼は自分を将馬と比べて、よく落ち込んでいた。
「つき合ってくれてありがとな、榊。そろそろ占いハウス閉まるころだろ」
「そうでした、青葉ちゃん迎えに行かないと! あ、でも丼……」
客席に座っていた榊は、丼を持って腰を浮かせた。
「俺が洗うから気にするな。駅前は酔っ払いが多くて危ないから、早く行ってやれ」
「ウッス」
すでに着替えていた榊は、荷物を持って店の玄関を飛び出していった。
将馬から見れば、愛し愛される相手と暮らしている榊のほうが羨ましい。
以前繁華街に用事があって、占いハウスまで同行したことがある。
裏口から出てきた女性が榊を見たとき浮かべた、幸せそうな笑みが忘れられない。
すぐ我に返った彼女は真っ赤になって、職場の人間と一緒なら連絡しろと怒っていたけれど、それも榊を思えばこその言動だ。
自分を見るだけで笑顔になってくれる人間など、将馬にはいない。
母方の祖父母だって、一番は孫より配偶者だ。もちろんそれでいいと思う。
亡くなった両親だって、一番大切なのは息子でも、一番愛しているのはお互いだった。父の背中を思い出しながら、将馬はカウンターを出た。
玄関の鍵を閉め、丼を洗い、二階へ上がる。
眠るときも目覚めるときも将馬はひとりだ。
「……今度猫が入り込んで来たら、そのまま飼おうかな」
階段の軋む音が、将馬の悲しい呟きを消してくれた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「焼きギョーザ始めたんだ」
「はい、すいません」
将馬の返答に、吉村は目を丸くした。
「なんで謝るの?」
「……そうですね?」
首を傾げた将馬を見て、カウンターの向こうで吉村が笑う。
ランチタイムの将馬亭は満員御礼で、客席は全部埋まっていた。
「ラーメンマニアのチョー常連客だからって、この店にラーメン以外のメニューが増えるのを怒ったりしないよ。今日は焼きギョーザもちょうだい」
「はい、毎度」
おしぼりで手を拭きながら、彼はメニューを見回す。
「開店直後に比べると、かなり増えたよね。どう? オフィス街のお客さんも来るようになった?」
「おかげ様で」
「これだけあったら、一週間毎日通っても注文がかぶらないね。まあ、僕はラーメンひと筋なんだけど」
店内のざわめきを背中で聞きながら、将馬は料理台に向かった。
榊たち店員が客をさばいてくれるから、自分は料理に専念出来る。
たまに常連客と会話する余裕まであるのも彼らのおかげだ。
熱したフライパンに油を落とす。
しばらく焼いて水を入れ、蓋を閉めて少々。
我ながら食欲をそそる匂いが辺りに漂う。
「はい、お待ち」
「待ってました。……うん。こりゃ美味いね。ラーメンに合うよ」
「ありがとうございます」
出来たての焼きギョーザを頬張りながら、吉村が顔を上げる。
「そういえば店長、彼女出来た?」
「なんですか、いきなり」
「いや、こないだ夜来たとき、女のお客さんの応対してたから」
「……たまたまです」
「レジまでしてたじゃない」
「店長、チャーハンふたつお願いします」
「わかった」
吉村はからかうような表情のまま、ラーメンを食べ始めた。
榊は気が利く。
あのときのことは、正直思い出したくなかった。
彼女はいつもレシートを受け取らない。それだけのことだ。
だけど、と弱い心が思ってしまう。もしかしたら将馬の下心を見抜いて、面倒なことは嫌だと、メアドを書いたレシートを拒んだのかもしれない。
どんなにメニューを増やしても、近くの会社に通う彼女がランチに来ないのは、常連になって将馬に馴れ馴れしくされるのが嫌だからかもしれない。
注文と挨拶しか交わしたことのない相手に、ここまで思うのは自意識過剰だ。
わかっていても考えてしまう。
先日、店員たちに見抜かれた通り、自分は彼女に恋しているようだ。
──名前も知らない彼女に。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……菜穂」
彼女は腕の中、寝ぼけ眼で笑みを浮かべた。
夏の朝、汗ばんだ体はやわらかく、甘い香りを漂わせている。男を誘う香りだ。
「将馬くん」
つき合い始めて、まだたったの一週間なのに、先週の金曜の夜口説かれるまで彼女なしで生きていた自分が信じられない。
将馬の命が、ふわあ、とアクビを漏らす。
「すぐご飯、作るね……」
昨夜は、いや、昨夜も無理をさせてしまった。
彼女と違い、自分は経験がなかったわけではない。
なのにどうしてこう、自制が効かなくなるのだろう。
思いながらも、将馬は彼女のおでこに流れる汗をついばんだ。こうして触れていると、また理性が飛んでいく。
「悪い。起こすつもりじゃなかったんだ。まだ寝てろ。朝メシは俺が作ってやる」
先週買った避妊具を使い果たしたことを思い出し、将馬は耐えた。
プロポーズにOKをもらったんだから使わなくてもいいのではないかという考えがちらりと浮かんだが、年下なのをいいことにこれ以上甘えたら、優しいようで締めるところは締める年上の恋人に捨てられてしまうかもしれない。
それはごめんだ。
「なにか食いたいものあるか?」
「……おねだり、していいの?」
「もちろんだ」
「じゃあねえ、焼きギョーザが食べたいな」
「焼きギョーザ?」
「うん。将馬くんのお店の。平日のお昼食べると午後の仕事に差し障るでしょ? だからいつか、お休みの日におねだりしようと思ってたの」
「そうか」
口元が緩むのが自分でわかった。
体の経験こそあるものの、将馬は処女だった菜穂と変わらない恋愛初心者だ。
彼女への気持ちに気づくのも時間がかかったし、気づいてからもまともなアプローチが出来ていたとは言いがたい。榊とその恋人がお節介をしてくれていなければ、今もふたりはカウンターに隔てられていただろう。
それでも。
自分が生きてきたこれまでで、恋人を喜ばせることが出来る。
焼きギョーザを食べた彼女はまた、幸せそうに微笑んでくれるだろうか。
そっと布団に寝かせると、寝ぼけていた菜穂は再び安らかな寝息を立て始めた。
このアパートの台所を使うのは初めてだけれど、木曜の朝張りついていたとき、調味料や調理器具の配置は大体把握している。
あの日のナポリタンの味が舌に蘇った。
また作ってもらいたいと思いつつ、将馬は寝息を漏らす菜穂に顔を近づける。
なにもついていない耳たぶに、キス。
「ん、将馬くん……?」
ずっと前から彼女が好きだった。それは事実だ。
しかしあの夜、この耳で揺れていたガラスのイヤリングは、恋に怯える臆病な将馬にトドメを刺した。もう待つだけの自分じゃない。
(今度は俺が、特製焼きギョーザで恋の魔法をかけてやる)
下着とジーンズだけ穿いて台所へ向かう。
やがて、狭いアパートは食欲をそそる焼きギョーザの匂いで包まれた。
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