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第六章『主なき聖剣』
第四百九十九話『大きな溝の向こう側』
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ガルガリの中でも最高級と目される宿、その最上階にポツンと陣取る最高額の部屋。『たまの贅沢』と称してわざわざ自費でその部屋に宿泊するのが、いつしかケラー・ヴェルケンの習慣になっていた。
部屋に入るなり右手にある棚に荷物をまとめたバッグを置き、寝間着に着替える暇すら惜しんでベッドに飛び込む。本来貴族夫婦や家族が宿泊することを想定しているのであろうその大きくスプリングの効いた空間の中で、ケラーはゆっくりと四肢を伸ばした。
気が付けば唸り声とともに心地のいい感覚が全身を駆け抜けていて、無意識の内に溜まっていた疲労を嫌でも自覚させられる。いつも通りの業務と同じ感覚で臨むべきところが、気が付けば力が入ってしまっていたのかもしれない。――まあ、その原因は大体想像が付いてしまうのだが。
「……本当に、あの方はいったい何を考えているというのでしょう」
カルロを自身の手駒として加えることからして謎だったが、王国からの客人に対して皇帝の名代として向かわせるのはもっと謎だ。帝国に、ひいては皇帝に仕える者の端くれとして皇帝の私兵たちとはある程度の交流があるが、実力も立ち振る舞いもカルロより優れたものはごまんといたはずだ。しばらく顔を合わせないうちにカルロが劇的な成長を遂げたのかとも思っていたが、それも不本意ながら戦いを共にしたことによって否定されている。確かに悪癖は消えているが、それでもカルロの大筋は変わらない。……今剣を交えることがあったとしても、ケラーは特に苦労せず勝利することができるだろう。
カルロの口から初めて過去が語られたときは思う事もあったが、それとこれとは別の話だ。言い方は冷たいが、カルロの両親のような事例は帝国で生きていれば往々にして目の当たりにするものでしかない。それで悲劇の主人公を気取るのならば、少々思い込みが強すぎると言うしかなかった。
魔術の才能は間違いなくある、接近戦に持ち込まれてもやり合える身体能力もそこそこある、それは認めよう。だが、あくまで『そこそこ』だ。絶対的な才能には敵わないし、帝国の過酷な環境はカルロを超えた才能を持つ人間を次々と掘り起こしてくる。……戦いから逃れられないのがこの国であるからこそ、戦いにおいて才能を持つ者を帝国は決して見逃さないのだ。
好奇心を滾らせて挑んだリリスとの模擬戦は、皮肉にもケラーの考えを裏付ける格好の証拠だ。ただの審判だったケラーの背筋すら凍り付く程、リリスの魔術は恐ろしかった。最低限の動作や魔術の行使によって淡々と相手の強みを潰し、一度自分の得意分野に引きずり込んだが最後逃れることは許されない。――もし何も知らずにリリスの戦いを見ていたら、ケラーは間違いなく帝国出身であると勘違いをしていただろう。
もしもリリスが、あるいはリリスとツバキが二人で馬車に対して襲撃を仕掛けてきていたら、ケラーたちはそれを鎮圧することができるのだろうか。ふと頭の中でその情景を想像した数秒後、背中に寒気が走ってケラーは考えるのをやめる。脳内に浮かんだのは、見るも無残な死の情景だった。
ここまで研鑽を積み重ねてきたことに対する誇りはもちろんケラーにもあるが、それはあくまで小細工の類だ。弱さ、足りなさをどうにか誤魔化して立つ者と自らの強みを分かったうえで押し付けて来る者の間には、どうしたって埋めようのない大きな溝がある。……その溝の名を、世間はきっと『才能』とでも呼ぶのだろう。
「ええ、ええ。……分かっていたことです」
仮に何度リリスに挑む機会があろうとも、ケラーの力ではリリスに傷一つ付けることは出来ないだろう。全ての小細工は正面から叩きのめされ、絶対的な氷の前に全ては一瞬にして呑み込まれる。それから逃れる方法があるとすれば一つ、どうにかして戦わずに済む状況を保ち続けることだ。
力が全てと言われてはいるが、帝国で真っ先に死ぬのは最も弱いものではない。自分の実力をはき違え、無謀な戦いを挑んだ者だ。身の程を知らず高みに挑めば、待っているのは死だけである。
ケラーは、自分がそこそこの人間でしかないことを知っている。戦う事で毎日を食いつないで行けるとしても、戦う事で何かを変えられる人間ではないことを知っている。……それが出来るような存在がどんなオーラを纏っているのか、ケラーはこの眼で見てしまったから。
皇帝の行動に納得が行ったことなんてほとんどないし、意図を理解出来たことすら数えるほどしかない。だが、その反面ケラーはどこかで確信してもいるのだ。……その突拍子もないことの中に繋がりを見出せるような人間こそが、『皇帝』を目指すに相応しい器を持つ者の証なのだろうと。
ケラーには皇帝を理解できないし、理解しようとも思わない。今までに積み重ねてきた経験は、自らの身の程を悟るためには十分すぎた。……皇帝もまた、溝の向こう側に立っている人間だ。
「……あなたも、散々それを見てきたはずでしょう」
瞑目し、小さく呟く。今まで何度も言おうとしてきて言いそびれてきたその言葉を、ケラーは無意識の内に外へ出す。……ケラーから見たカルロは、どう考えても『身の程知らず』な人間だった。
皇帝に挑みかかる人間として、明らかにカルロは器が足らない人間だ。今日遭遇した賊たちとは比べるべくもないが、ケラーの後塵を拝する時点で実力の底は知れている。……カルロだってまたケラーと同じ側、溝の向こう側に立つ人間を見つめることしかできない立場のはずなのだ。
なのに、カルロはあくまで手を伸ばそうとする。挑む立場で居ようとする。いつまで経っても身の程知らずで、好奇心が命ずるままに手を伸ばそうとする。それが徒に寿命を縮めることにしかならないことぐらい、誰にだって分かるはずなのに。
「……何故、貴方は」
嬉々としてリリスたちに挑戦状を叩きつけて見せたあの横顔を思い出して、胸の奥底が乱暴に搔き乱される。今まで生きてきて得てきたはずの考えを、カルロは容易に否定しようとする。その背中を押しているのは、間違いなく皇帝であるはずで。
「……貴方たちは、一体何を――」
才能と言う名の溝の向こう側に立つ存在を、ケラーは諦念とともに見つめている。決してたどり着くことは出来ないと、戦わずにいること以外道はないと、そんな結論を下しながら。……ならば、その向こう側に立つ者たちはどんな視線をこちらに向けているのだろうか。『最初から視界に入っていない』なんて、そんな身もふたもない答えが真実かもしれないけれど。
けれど、少なくとも皇帝の視線はカルロを捉えている。ならばその眼は、帝国の頂点に立ったその才能は彼に何を見出そうとしているのか――
「……ヴェルケン様、お休みの所失礼します!」
決して答えが出ることのない疑問がグルグルと脳内を渦巻き始めたその最中、乱暴なノックとともに部下の声が部屋の外から聞こえてくる。普段は穏やかな声色は焦りの色に染まっていて、それが緊急事態の予感を余計に強く感じさせた。
個人的な疑問を一時的に意識の外へ押しやり、ベッドから身を起こして扉を開ける。扉のすぐ前に立っていた国境警備隊の部下は、今までに見たことがないほどに大量の冷や汗を額に浮かべながらケラーの方を見つめていて。
「……すみません、帝都の側から伝令が来ていた物で! 夜間の訪問が無礼であることは理解しておりますが、これは今すぐにでも伝えなければならないと思い……‼」
早口で事情を説明したのち、部下は一枚の紙を押し付けるように手渡してくる。明らかに不吉な予感を感じながら、ケラーはまず一番上の行に目を通し――
「――は、あ?」
その一行、文字にしてみれば二十文字にも満たない報告書のタイトルが示すものを理解した瞬間、ケラーの口があんぐりと開く。誇張でも何でもなく、この書類には帝国で『緊急事態』が起きたことがはっきりと示されていて。
それぞれがそれぞれの形で羽を伸ばすその片隅で、事件は確かに動き出す。――やがて帝国全土を揺るがすことになる『帝都大戦』の予兆は、一枚の報告書となってケラーの手元へ届いていた。
部屋に入るなり右手にある棚に荷物をまとめたバッグを置き、寝間着に着替える暇すら惜しんでベッドに飛び込む。本来貴族夫婦や家族が宿泊することを想定しているのであろうその大きくスプリングの効いた空間の中で、ケラーはゆっくりと四肢を伸ばした。
気が付けば唸り声とともに心地のいい感覚が全身を駆け抜けていて、無意識の内に溜まっていた疲労を嫌でも自覚させられる。いつも通りの業務と同じ感覚で臨むべきところが、気が付けば力が入ってしまっていたのかもしれない。――まあ、その原因は大体想像が付いてしまうのだが。
「……本当に、あの方はいったい何を考えているというのでしょう」
カルロを自身の手駒として加えることからして謎だったが、王国からの客人に対して皇帝の名代として向かわせるのはもっと謎だ。帝国に、ひいては皇帝に仕える者の端くれとして皇帝の私兵たちとはある程度の交流があるが、実力も立ち振る舞いもカルロより優れたものはごまんといたはずだ。しばらく顔を合わせないうちにカルロが劇的な成長を遂げたのかとも思っていたが、それも不本意ながら戦いを共にしたことによって否定されている。確かに悪癖は消えているが、それでもカルロの大筋は変わらない。……今剣を交えることがあったとしても、ケラーは特に苦労せず勝利することができるだろう。
カルロの口から初めて過去が語られたときは思う事もあったが、それとこれとは別の話だ。言い方は冷たいが、カルロの両親のような事例は帝国で生きていれば往々にして目の当たりにするものでしかない。それで悲劇の主人公を気取るのならば、少々思い込みが強すぎると言うしかなかった。
魔術の才能は間違いなくある、接近戦に持ち込まれてもやり合える身体能力もそこそこある、それは認めよう。だが、あくまで『そこそこ』だ。絶対的な才能には敵わないし、帝国の過酷な環境はカルロを超えた才能を持つ人間を次々と掘り起こしてくる。……戦いから逃れられないのがこの国であるからこそ、戦いにおいて才能を持つ者を帝国は決して見逃さないのだ。
好奇心を滾らせて挑んだリリスとの模擬戦は、皮肉にもケラーの考えを裏付ける格好の証拠だ。ただの審判だったケラーの背筋すら凍り付く程、リリスの魔術は恐ろしかった。最低限の動作や魔術の行使によって淡々と相手の強みを潰し、一度自分の得意分野に引きずり込んだが最後逃れることは許されない。――もし何も知らずにリリスの戦いを見ていたら、ケラーは間違いなく帝国出身であると勘違いをしていただろう。
もしもリリスが、あるいはリリスとツバキが二人で馬車に対して襲撃を仕掛けてきていたら、ケラーたちはそれを鎮圧することができるのだろうか。ふと頭の中でその情景を想像した数秒後、背中に寒気が走ってケラーは考えるのをやめる。脳内に浮かんだのは、見るも無残な死の情景だった。
ここまで研鑽を積み重ねてきたことに対する誇りはもちろんケラーにもあるが、それはあくまで小細工の類だ。弱さ、足りなさをどうにか誤魔化して立つ者と自らの強みを分かったうえで押し付けて来る者の間には、どうしたって埋めようのない大きな溝がある。……その溝の名を、世間はきっと『才能』とでも呼ぶのだろう。
「ええ、ええ。……分かっていたことです」
仮に何度リリスに挑む機会があろうとも、ケラーの力ではリリスに傷一つ付けることは出来ないだろう。全ての小細工は正面から叩きのめされ、絶対的な氷の前に全ては一瞬にして呑み込まれる。それから逃れる方法があるとすれば一つ、どうにかして戦わずに済む状況を保ち続けることだ。
力が全てと言われてはいるが、帝国で真っ先に死ぬのは最も弱いものではない。自分の実力をはき違え、無謀な戦いを挑んだ者だ。身の程を知らず高みに挑めば、待っているのは死だけである。
ケラーは、自分がそこそこの人間でしかないことを知っている。戦う事で毎日を食いつないで行けるとしても、戦う事で何かを変えられる人間ではないことを知っている。……それが出来るような存在がどんなオーラを纏っているのか、ケラーはこの眼で見てしまったから。
皇帝の行動に納得が行ったことなんてほとんどないし、意図を理解出来たことすら数えるほどしかない。だが、その反面ケラーはどこかで確信してもいるのだ。……その突拍子もないことの中に繋がりを見出せるような人間こそが、『皇帝』を目指すに相応しい器を持つ者の証なのだろうと。
ケラーには皇帝を理解できないし、理解しようとも思わない。今までに積み重ねてきた経験は、自らの身の程を悟るためには十分すぎた。……皇帝もまた、溝の向こう側に立っている人間だ。
「……あなたも、散々それを見てきたはずでしょう」
瞑目し、小さく呟く。今まで何度も言おうとしてきて言いそびれてきたその言葉を、ケラーは無意識の内に外へ出す。……ケラーから見たカルロは、どう考えても『身の程知らず』な人間だった。
皇帝に挑みかかる人間として、明らかにカルロは器が足らない人間だ。今日遭遇した賊たちとは比べるべくもないが、ケラーの後塵を拝する時点で実力の底は知れている。……カルロだってまたケラーと同じ側、溝の向こう側に立つ人間を見つめることしかできない立場のはずなのだ。
なのに、カルロはあくまで手を伸ばそうとする。挑む立場で居ようとする。いつまで経っても身の程知らずで、好奇心が命ずるままに手を伸ばそうとする。それが徒に寿命を縮めることにしかならないことぐらい、誰にだって分かるはずなのに。
「……何故、貴方は」
嬉々としてリリスたちに挑戦状を叩きつけて見せたあの横顔を思い出して、胸の奥底が乱暴に搔き乱される。今まで生きてきて得てきたはずの考えを、カルロは容易に否定しようとする。その背中を押しているのは、間違いなく皇帝であるはずで。
「……貴方たちは、一体何を――」
才能と言う名の溝の向こう側に立つ存在を、ケラーは諦念とともに見つめている。決してたどり着くことは出来ないと、戦わずにいること以外道はないと、そんな結論を下しながら。……ならば、その向こう側に立つ者たちはどんな視線をこちらに向けているのだろうか。『最初から視界に入っていない』なんて、そんな身もふたもない答えが真実かもしれないけれど。
けれど、少なくとも皇帝の視線はカルロを捉えている。ならばその眼は、帝国の頂点に立ったその才能は彼に何を見出そうとしているのか――
「……ヴェルケン様、お休みの所失礼します!」
決して答えが出ることのない疑問がグルグルと脳内を渦巻き始めたその最中、乱暴なノックとともに部下の声が部屋の外から聞こえてくる。普段は穏やかな声色は焦りの色に染まっていて、それが緊急事態の予感を余計に強く感じさせた。
個人的な疑問を一時的に意識の外へ押しやり、ベッドから身を起こして扉を開ける。扉のすぐ前に立っていた国境警備隊の部下は、今までに見たことがないほどに大量の冷や汗を額に浮かべながらケラーの方を見つめていて。
「……すみません、帝都の側から伝令が来ていた物で! 夜間の訪問が無礼であることは理解しておりますが、これは今すぐにでも伝えなければならないと思い……‼」
早口で事情を説明したのち、部下は一枚の紙を押し付けるように手渡してくる。明らかに不吉な予感を感じながら、ケラーはまず一番上の行に目を通し――
「――は、あ?」
その一行、文字にしてみれば二十文字にも満たない報告書のタイトルが示すものを理解した瞬間、ケラーの口があんぐりと開く。誇張でも何でもなく、この書類には帝国で『緊急事態』が起きたことがはっきりと示されていて。
それぞれがそれぞれの形で羽を伸ばすその片隅で、事件は確かに動き出す。――やがて帝国全土を揺るがすことになる『帝都大戦』の予兆は、一枚の報告書となってケラーの手元へ届いていた。
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