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第六章『主なき聖剣』
第五百十九話『記憶の足音』
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――フェイ・グリンノートが目を覚ました時、隣のベッドはもぬけの殻になっていた。
窓の外からは眩しい日差しが射しこんできていて、外が晴れ渡っていることを教えてくれる。自分でも予想以上に疲れがたまっていたのか、随分と長く眠りこけてしまったようだ。
「……こういう時、若さは羨ましい物じゃのう」
隣のベッドにいた二人――リリスとツバキの事を思い、フェイは軽く苦笑を一つ。手ほどきをしている時から分かっていたことではあったが、あの二人の活力は尋常な物ではなかった。
そのルーツを追いかけるならば、おそらく護衛時代にまでさかのぼることになるのだろう。フェイが聞いただけでも二人が居た環境が劣悪だったことは察するに余りあったし、それから抜け出した先で掴んだ今の生活を大切にしたいという気持ちも痛いほどに理解できる。安心できる居場所が一つあるだけで救われる心がある事を、フェイは身を以て知っていた。
そんな二人が早起きをしている以上、もう何かしらの行動に打って出ていると見ていいだろう。帝位簒奪戦までの二日間は互いに大きな動きは出来ないが、それでも出来ることが全て潰えたわけではない。今思いつくだけでも、フェイには三つ以上の選択肢があった。
問題があるとすれば、その三つすべてに裏目がある事だろうか。結局今の共同戦線にできることには限界があって、その中でもどうにか戦いに必要そうなものを拾い上げてやっていくしかない。後悔のない選択をしようにも、何で後悔するか分からない状況なのが問題だった。
「……さて、どうしたものかの」
考えついた選択肢を一つ一つ精査し、メリットとデメリットを一つ一つ洗い出していく。そうすれば少しは絞り込めるかと思っていたのだが、見えてくるのは選択肢のどれもがどんぐりの背比べ程度の違いしかないことぐらいだ。……結局のところ、迷ったままで何とか動いていくしかないらしい。
未だ熟睡したままのアネットを起こさないように気を付けつつ、もぞもぞとベッドを抜け出す。その寝顔は普段よりも数段幼く見え、彼女がまだリリスやツバキと変わらない少女であることを実感させた。
まあ、リリスやツバキも少女とは思えないほどの揺るぎない芯を持っているのだが。それでも完全無欠と言うわけではないし、精神的な脆い部分が完全に克服されたわけじゃない。そのことだけは、彼女らの『師』となった者として覚えておかなければならないような気がした。
『――邪魔をしないで頂戴。……私は、一刻も早くマルクを助けなくちゃいけないの』
クライヴが去った後の戦場で交わしたリリスとのやり取りは、今もフェイの脳裏に焼き付いている。あの時のリリスの瞳は、どうしようもなく危うかった。いつ自分の命を投げ出してもおかしくないと、そう確信できるほどに。
リリスがマルクに贈ったネックレスの事を覚えていなければ、あの時のリリスを納得させて引き留めることは出来なかっただろう。それぐらいリリスの思いは強く、そして一途なものだ。……本人が思っているよりも、その感情は色濃くリリスの行動に影響を及ぼしている。
(――故に諦めるでないぞ、小僧)
囚われの身となっているマルクに、フェイは内心で厳命する。共同戦線として帝国に乗り込んできた者たちは、皆マルクの存在を必要だと考えてここまで来たのだ。それが打算的な物であれ感情的な物であれ、彼が求められていることだけは疑いようのない事実だった。
捕虜となったマルクは今、どんな環境で過ごしているのだろうか。クライヴの態度から見るに無碍な扱いを受けていることはないだろうが、それにしたってある程度の不自由は強いられているはずだ。……せめてあのネックレスと引き離されていなければいいと、そう思う。
精霊やエルフ、そして妖精が強い想いを込めた贈り物は、往々にして魔力を帯びることが多い。そして、あのネックレスにはリリスの一途な想いが一心に籠められている。ならばあれが簡易的な護符や魔道具の類として機能してもおかしくないというのがフェイの見立てで、リリスが単独での突入を思いとどまってくれた理由だった。
『たとえ遠く離れようとも、貴様の意志は間違いなく小僧を守っておる。……だから、今は焦らぬことじゃ』
「……頼む。妾を、嘘つきになどするなよ」
あの時リリスにかけた言葉を思い出しながら、部屋の扉にそっと手をかける。リリスの想いのためにも、壊れてしまった大切な存在を助けるためにも、今マルクに倒れられるわけにはいかないのだ。
扉を開け、廊下へと一歩を踏み出す。視界の中では何人もの私兵たちがあちこちを歩き回っていて、その手には書類や手紙の類がいくつも抱えられている。『帝位簒奪戦』が挑まれたというニュースは、既に帝国中を駆け巡っているらしい。
皇帝に恩を売るべく味方に付く者、今の帝位を終わらせるべく敵方に着く者、あるいは暴漢に徹するものまで、その向き合い方は勢力ごとに異なってくるだろう。そもそもが力で支配することを良しとするシステム上、『忠誠心』なんてものを持って皇帝の統治を手助けしている有力者などいないと見るのが自然な話だ。
それを無責任と責めるつもりはないし、そう感じてしまう良心を抱けばそこに付け込まれるのがこの国の在り方だ。カルロの家族にまつわる話を思えば、その在り方が何も変わっていないのははっきりと分かった。
アレは悲劇でも何でもなく、語り継がれることすらあり得ない帝国の日常風景だ。弱さを見せれば当然付け込まれ、見下されれば全てを奪われる。いくら傍観者の振る舞いをしてみたところで、理不尽がその姿を見逃してくれるはずもないのだ。……帝国に根付いて生きていく限り、争いから逃れて生きることなど絶対に出来ないのだから。
結局のところ、フェイも帝国竜に倣って動いていくしかないのだろう。少しでもいい明日を掴み取るための努力を積み重ね、それを迫りくる二日後に全てぶつける。あれやこれやと思索を巡らせて足を止める暇があるのなら、たとえ意味がなくても足を動かしている方がよっぽどマシだ――
「……おう、やっと出てきたな。結構な時間待ってたんだぜ?」
思考を切り裂く様な気さくな声が突然聞こえてきて、フェイは少し体を跳ねさせながら声がした方へと視線を向ける。……すると、少し離れた柵の付近でカルロが気さくに手を挙げているのが見えて。
「……何か用があるのなら、ノックの一つでもしてみたらよかったのではないか?」
「んな野暮なことは出来ねえだろ、皆めっちゃ疲れてるだろうし。……まあ、アイツらはそんな心配をするまでもなくすげえ元気だったんだけどよ」
少し困惑しながら発した問いに、カルロは豪快に笑って答える。皇帝への態度からして結構遠慮のないタイプだと思っていたのだが、そのあたりはしっかり配慮できるようだ。……実際、ノックの音で睡眠を妨げられたら少しばかり不機嫌になる自信はあった。
「それにまあ、あんまり急ぎの用ってわけでもないしな。時間が取れる時にゆっくり時間をかけて、丁寧に向き合って行けるのが理想って話だしよ。……そろそろあっちも面倒な書類仕事が一段落する頃だろうし、逆にちょうどいいタイミングかもしれねえぐらいだ」
「成程な。……つまり、貴様はただの伝言役と言うわけか」
「そういうこった。その裏にいるのが誰かは――まあ、精霊様なら言うまでもなく分かるだろ?」
一歩踏み込んだ問いにも、カルロは軽く片目を瞑って返すばかりだ。その言葉が示す通り、カルロを何時間も待機させることができる人間など一人しかフェイの頭には浮かんでこなかった。
「……時の皇帝がわざわざ妾の力を求めるとは、面倒な事案もあった物じゃな。取るに足らぬ話であったが最後、妾からの信用は地に落ちると思うがよい」
「大丈夫だ、皇帝サマもそのあたりはちゃんと分かってる。こんなこともあろうかと、頼みごとに関するヒントを貰ってんだ」
軽く威圧したことに気づいているのかいないのか、ひらひらと手を振りながらカルロはこちらへと一歩距離を詰めてくる。そして、今までにないほどに声を潜めて、囁くように続けた。
「――『聖剣』」
四文字。そう、たった四文字だ。大仰な真似をしながら、カルロはたった四文字しか口にしなかった。それを他の誰かが仮に聞いていたとしても、気に留める人間はきっとひとりだっていないだろう。
だが、フェイに限って言えば話は違う。皇帝は他の誰でもないフェイに助力を頼んでいるのだと、今の一瞬で確信できた。……背筋に鳥肌が立つ感覚とはこんなにも穏やかでないものだったかと、どこか他人事のような考えが一瞬だけ頭をよぎる。
「……佳い、それだけで要件は十分に分かった」
軽く後ずさりをしながら、平静を装ってそう告げる。『それ以上は言うな』と、言外の意思表示を目一杯に込めて。
――グリンノート家といた時よりもさらに前の記憶の足音が大きくなり始めるのを、フェイは確かに聞いていた。
窓の外からは眩しい日差しが射しこんできていて、外が晴れ渡っていることを教えてくれる。自分でも予想以上に疲れがたまっていたのか、随分と長く眠りこけてしまったようだ。
「……こういう時、若さは羨ましい物じゃのう」
隣のベッドにいた二人――リリスとツバキの事を思い、フェイは軽く苦笑を一つ。手ほどきをしている時から分かっていたことではあったが、あの二人の活力は尋常な物ではなかった。
そのルーツを追いかけるならば、おそらく護衛時代にまでさかのぼることになるのだろう。フェイが聞いただけでも二人が居た環境が劣悪だったことは察するに余りあったし、それから抜け出した先で掴んだ今の生活を大切にしたいという気持ちも痛いほどに理解できる。安心できる居場所が一つあるだけで救われる心がある事を、フェイは身を以て知っていた。
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問題があるとすれば、その三つすべてに裏目がある事だろうか。結局今の共同戦線にできることには限界があって、その中でもどうにか戦いに必要そうなものを拾い上げてやっていくしかない。後悔のない選択をしようにも、何で後悔するか分からない状況なのが問題だった。
「……さて、どうしたものかの」
考えついた選択肢を一つ一つ精査し、メリットとデメリットを一つ一つ洗い出していく。そうすれば少しは絞り込めるかと思っていたのだが、見えてくるのは選択肢のどれもがどんぐりの背比べ程度の違いしかないことぐらいだ。……結局のところ、迷ったままで何とか動いていくしかないらしい。
未だ熟睡したままのアネットを起こさないように気を付けつつ、もぞもぞとベッドを抜け出す。その寝顔は普段よりも数段幼く見え、彼女がまだリリスやツバキと変わらない少女であることを実感させた。
まあ、リリスやツバキも少女とは思えないほどの揺るぎない芯を持っているのだが。それでも完全無欠と言うわけではないし、精神的な脆い部分が完全に克服されたわけじゃない。そのことだけは、彼女らの『師』となった者として覚えておかなければならないような気がした。
『――邪魔をしないで頂戴。……私は、一刻も早くマルクを助けなくちゃいけないの』
クライヴが去った後の戦場で交わしたリリスとのやり取りは、今もフェイの脳裏に焼き付いている。あの時のリリスの瞳は、どうしようもなく危うかった。いつ自分の命を投げ出してもおかしくないと、そう確信できるほどに。
リリスがマルクに贈ったネックレスの事を覚えていなければ、あの時のリリスを納得させて引き留めることは出来なかっただろう。それぐらいリリスの思いは強く、そして一途なものだ。……本人が思っているよりも、その感情は色濃くリリスの行動に影響を及ぼしている。
(――故に諦めるでないぞ、小僧)
囚われの身となっているマルクに、フェイは内心で厳命する。共同戦線として帝国に乗り込んできた者たちは、皆マルクの存在を必要だと考えてここまで来たのだ。それが打算的な物であれ感情的な物であれ、彼が求められていることだけは疑いようのない事実だった。
捕虜となったマルクは今、どんな環境で過ごしているのだろうか。クライヴの態度から見るに無碍な扱いを受けていることはないだろうが、それにしたってある程度の不自由は強いられているはずだ。……せめてあのネックレスと引き離されていなければいいと、そう思う。
精霊やエルフ、そして妖精が強い想いを込めた贈り物は、往々にして魔力を帯びることが多い。そして、あのネックレスにはリリスの一途な想いが一心に籠められている。ならばあれが簡易的な護符や魔道具の類として機能してもおかしくないというのがフェイの見立てで、リリスが単独での突入を思いとどまってくれた理由だった。
『たとえ遠く離れようとも、貴様の意志は間違いなく小僧を守っておる。……だから、今は焦らぬことじゃ』
「……頼む。妾を、嘘つきになどするなよ」
あの時リリスにかけた言葉を思い出しながら、部屋の扉にそっと手をかける。リリスの想いのためにも、壊れてしまった大切な存在を助けるためにも、今マルクに倒れられるわけにはいかないのだ。
扉を開け、廊下へと一歩を踏み出す。視界の中では何人もの私兵たちがあちこちを歩き回っていて、その手には書類や手紙の類がいくつも抱えられている。『帝位簒奪戦』が挑まれたというニュースは、既に帝国中を駆け巡っているらしい。
皇帝に恩を売るべく味方に付く者、今の帝位を終わらせるべく敵方に着く者、あるいは暴漢に徹するものまで、その向き合い方は勢力ごとに異なってくるだろう。そもそもが力で支配することを良しとするシステム上、『忠誠心』なんてものを持って皇帝の統治を手助けしている有力者などいないと見るのが自然な話だ。
それを無責任と責めるつもりはないし、そう感じてしまう良心を抱けばそこに付け込まれるのがこの国の在り方だ。カルロの家族にまつわる話を思えば、その在り方が何も変わっていないのははっきりと分かった。
アレは悲劇でも何でもなく、語り継がれることすらあり得ない帝国の日常風景だ。弱さを見せれば当然付け込まれ、見下されれば全てを奪われる。いくら傍観者の振る舞いをしてみたところで、理不尽がその姿を見逃してくれるはずもないのだ。……帝国に根付いて生きていく限り、争いから逃れて生きることなど絶対に出来ないのだから。
結局のところ、フェイも帝国竜に倣って動いていくしかないのだろう。少しでもいい明日を掴み取るための努力を積み重ね、それを迫りくる二日後に全てぶつける。あれやこれやと思索を巡らせて足を止める暇があるのなら、たとえ意味がなくても足を動かしている方がよっぽどマシだ――
「……おう、やっと出てきたな。結構な時間待ってたんだぜ?」
思考を切り裂く様な気さくな声が突然聞こえてきて、フェイは少し体を跳ねさせながら声がした方へと視線を向ける。……すると、少し離れた柵の付近でカルロが気さくに手を挙げているのが見えて。
「……何か用があるのなら、ノックの一つでもしてみたらよかったのではないか?」
「んな野暮なことは出来ねえだろ、皆めっちゃ疲れてるだろうし。……まあ、アイツらはそんな心配をするまでもなくすげえ元気だったんだけどよ」
少し困惑しながら発した問いに、カルロは豪快に笑って答える。皇帝への態度からして結構遠慮のないタイプだと思っていたのだが、そのあたりはしっかり配慮できるようだ。……実際、ノックの音で睡眠を妨げられたら少しばかり不機嫌になる自信はあった。
「それにまあ、あんまり急ぎの用ってわけでもないしな。時間が取れる時にゆっくり時間をかけて、丁寧に向き合って行けるのが理想って話だしよ。……そろそろあっちも面倒な書類仕事が一段落する頃だろうし、逆にちょうどいいタイミングかもしれねえぐらいだ」
「成程な。……つまり、貴様はただの伝言役と言うわけか」
「そういうこった。その裏にいるのが誰かは――まあ、精霊様なら言うまでもなく分かるだろ?」
一歩踏み込んだ問いにも、カルロは軽く片目を瞑って返すばかりだ。その言葉が示す通り、カルロを何時間も待機させることができる人間など一人しかフェイの頭には浮かんでこなかった。
「……時の皇帝がわざわざ妾の力を求めるとは、面倒な事案もあった物じゃな。取るに足らぬ話であったが最後、妾からの信用は地に落ちると思うがよい」
「大丈夫だ、皇帝サマもそのあたりはちゃんと分かってる。こんなこともあろうかと、頼みごとに関するヒントを貰ってんだ」
軽く威圧したことに気づいているのかいないのか、ひらひらと手を振りながらカルロはこちらへと一歩距離を詰めてくる。そして、今までにないほどに声を潜めて、囁くように続けた。
「――『聖剣』」
四文字。そう、たった四文字だ。大仰な真似をしながら、カルロはたった四文字しか口にしなかった。それを他の誰かが仮に聞いていたとしても、気に留める人間はきっとひとりだっていないだろう。
だが、フェイに限って言えば話は違う。皇帝は他の誰でもないフェイに助力を頼んでいるのだと、今の一瞬で確信できた。……背筋に鳥肌が立つ感覚とはこんなにも穏やかでないものだったかと、どこか他人事のような考えが一瞬だけ頭をよぎる。
「……佳い、それだけで要件は十分に分かった」
軽く後ずさりをしながら、平静を装ってそう告げる。『それ以上は言うな』と、言外の意思表示を目一杯に込めて。
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