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第4話「声が描く地図」
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朝、カップの湯気を見つめながら、私は昨夜の三行を頭の中で並べ替える。
きこえる/しらせるな/みてて。
“知らせるな”は、世界に向けた拡散を止めろということ。けれど“みてて”は、私に視界で導けと告げている。相反するようで、不思議と筋が通っている。
時雨(しぐれ)が窓辺で丸くなり、しっぽだけ規則正しく揺らす。猫のその一定の拍に合わせて呼吸を整え、私はノートの見出しに線を引いた。
《声の地図——地名が描く輪郭を確かめる》
——ボイスメモが付ける保存名は、ただの行き先じゃない。道筋の提案だ。
そう思うと、これまでの地名がひとつの図形のように頭に浮かんだ。東栄橋、矢田第三クリニック、白妙公園。
地図アプリでざっくり結べば、川筋に沿ったゆるい弧になるはずだ。
私はスマホを机に伏せ、出勤の支度をする。実験は生活に収めて行う——それが、私の決まり。
*
午前のラッシュがおちつくと、影浦玲生(かげうら・れお)が、背もたれに肘をかける癖のまま、私に視線を寄越した。
「外縁からの報告。昨夜から今朝にかけて、近隣の自販機でコイン詰まり報告が三件。踏切の黄色延長が二箇所。区の掲示板のRSSが時刻ズレで一時停止」
私はうなずきながら、返却本の帯を整える。
「主観からは、今朝は静か。体調、普通よりちょっと上。心拍、安定気味」
玲生はメモの角で机をとん、と叩いた。
「図書情報室の大きい地図、休憩時間に少し貸して。針で穴を開けない範囲でね」
「地図?」
「**地名を重ねたい**。東栄橋、矢田第三、白妙公園——感覚で円弧だと言ったけど、**実測**したい」
知らせるなという警告が胸の裏で冷たく光る。
けれど、外縁ルールの範囲だ。ログと座標だけ、中身には触れない。
私は小さく頷いた。
*
昼前、児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと呼吸ぶん揺れた。
画面には何も出ない。けれど、下書きフォルダの青い点が増える。
【下書き保存】——まわって
まわって?
私は視線を上げた。窓の外、図書館の庭にある時計台の針が、ほんの少しだけ遅れているのに気づく。
回すな、じゃない。“回って”だ。迂回しろ、という意味にも読める。
迷う時間は短いほうがいい。
私はボイスメモを開き、録音を始める。
エアコンの低い帯域、遠い車の音、その上で小さな点音が一定間隔で跳ねる。ピッ、ピッ、ピッ。
昨日の東栄橋の時より、さらに遅い拍。弱い。
保存を押す。
【保存:潮見(しおみ)ポンプ場】
川沿いの設備。市のHPで見たことがある場所だ。
私は事務連絡をひとこと残す。「掲示用の画びょう、外に買いに行きます」
玲生は「外縁稼働」と短く笑ってうなずいた。
*
潮見ポンプ場は、川に突き出たコンクリートの箱みたいだった。柵の向こうで、大きなポンプが腹に響くような低音を吐いている。
人影はない。ふと、柵の足元の排水溝の格子が、片側だけ浮いているのが目に入る。
私は本能的にしゃがみかけて、そこで踏みとどまる。
さわるな。
装置や回路に触れない。それが夜に告げられた境界線。
代わりに、私は近くの土に落ちていた小枝を拾い、格子の浮いた角に斜めに目印のように差し入れてみせた。
離れた場所から見ても異物と分かる角度で。
そのままの姿勢で、周囲に目を走らせる。
川縁の小道の先から、黄色い作業ベストの人が二人、歩いてくるのが見えた。
「点検でーす。あれ、格子、浮いてる?」
私は柵越しに、小枝を指さし、立ち上がる。
「ここ、危ないかも」
作業員の一人が礼を言い、工具で固定し直す。その間ずっと、ポンプの低音は腹の底で波のようにうねっていた。
終わるのを見届けて、私はその場を離れる。
ポケットで、スマホが一度だけ震えた。
【下書き保存】——いい
【下書き保存】——いき
息。
胸の中で、小さく整う音がした。
*
図書館に戻ると、玲生が大きな地図の前で待っていた。
「地図、貸出カードみたいにログを付けよう。日付、時刻、地点。ピンは打たない、透明付箋で縁だけ囲う」
外縁流の工夫は、滑稽なほど慎重だ。でも、その慎重さに、私は救われる。
私は透明付箋に、細い線で弧を描いた。東栄橋から矢田第三、白妙公園、そしてさっきの潮見ポンプ場。
四つを結ぶ線は、やはりゆるやかな弧になって、川の流れに沿っていた。
「流域に沿った経路だね」
玲生が地図を見つめる。
「“声の地図”は、水の筋をなぞってるのかもしれない。電力のバックアップや通信の経路も、川沿いに設備が多い」
私は頷く。
装置に触れるな、という警告は、たぶん、そういう網のどこかに、25:61のからくりが潜んでいるからだ。
「今のところ、“知らせるな”の線は守れてる?」
玲生の問いに、私は少し間を置いて答える。
「うん。共有するのは位置と時刻だけ。目的や内容は、私の中で止める」
「それでいい。外縁は風景だけ読む」
そのとき、閲覧テーブルの上の吊り下げ照明が、一瞬だけ微かに明滅した。
空調の吹き出し口から、かすかな高音が混じる。
世界の息継ぎは、小さく、しかし確かに続いている。
*
閉館のアナウンスを流していると、カウンターに一人の少年が小走りに近づいてきた。
制服。胸の名札に見覚えがある。東栄橋で会った子だ。
「あの、この呼吸のやつ、ありがと、ございました」
ぎこちない敬語。頬はまだこわばっているけれど、目は昨日よりずっと澄んでいる。
「よかったね」
「保健室の先生に数え方教えてもらいました。四つ吸って、六つ吐くやつ」
私は笑って頷いた。
その瞬間、彼のポケットのスマホがぴと鳴り、通知パネルが一瞬だけ白む。時間は17:01。
微細なノイズ。
観測と導線は、思いがけない場所で交差する。
私の胸の内側で、拍がひとつ、柔らかく跳ねた。
*
夜。
帰り道に寄ったスーパーのレジで、店員が「値引きシールの印刷が遅延して」と謝っている。そのあいだ、店内BGMが半音だけ下がって聴こえた。
世界は今日も、少し背伸びしながら正時に戻ろうとしている。
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
「ただいま」
ミルクの匂い。ソファの背のへこみ。小さな生活の形が、私を人の世界に留めておく。
私はスマホをテーブルに置き、ノートを開く。
《主観ログ・第四夜》
・昼:潮見ポンプ場。格子の浮き→目印で可視化。既読「いい」「いき」
・地図:川に沿う弧。流域=設備網の筋
・共有:座標・時刻のみ(外縁ルール維持)
・気づき:迂回(まわって)=装置に触れずに結果へ導く
ケトルを沸かしながら、ふと、実験の誘惑が再び首をもたげた。
——機内モードで25:61は来るのか。
——Wi-Fiを切ったら? 電源を落としたら?
喉の奥で、さわるなが冷ややかに鳴る。
私はその誘惑を、湯気と一緒に流し込む。
命を賭けない種類の観測だけをやる。
それが、今の私の境界線。
テーブルの上で、時雨が耳をぴんと立てた。
来る。
私は息を整え、指先を膝の上で組む。
部屋の空気が、一拍だけ深くなる。
25:61。
画面の上で、青い泡がふたつ湧いて、間を置いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、連続で現れては薄く光る。
【下書き保存】——ちず
【下書き保存】——ひがし
【下書き保存】——のぼる
【下書き保存】——さがるな
地図。東。のぼる。下がるな。
私は机の端に広げた地図に目を落とし、川の上流(のぼり)に指を置く。
下がるな——川下に向かうな。上流へ。
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
ノイズの底に、今日いちばん弱い拍がある。
かすれるぐらい薄いのに、確かに助けを求めるテンポ。
保存名が自動で埋まる。
【保存:朝島(あさじま)取水堰(しゅすいぜき)】
堰。
水の筋の上流。
私は上着を羽織り、スニーカーをつっかける。鍵を取り、時雨に顔を寄せる。
「すぐ、戻る」
彼は目を細め、窓辺に跳び上がる。耳は立ったまま。
*
夜の堰は、闇の奥で水だけが白く動いていた。
ゴウ、と低い連続音。
堰の手すりの向こう、水面に流木がからみ、吸い込み口の網に引っかかっている。
私は掴まりそうになった手すりから、慌てて手を離す。
さがるな。さわるな。
私は足元の砂利を踏んで音を立てる。
堰の脇の詰所から、人影がひとつ、こちらに顔を出した。
「どうかしました?」
私は指だけで、光の下の詰まりを示す。
職員が懐中電灯を向け、眉を寄せる。
「——助かりました。直します」
長い柄の道具が取り出され、網にからんだ流木が浮かされ、引き寄せられ、外される。
水の音が、少しだけ澄んだ。
私は深く息を吸う。
その瞬間、スマホが短く震えた。
【下書き保存】——いきた
生きた。息が通った、の“息”とも読める。
私は胸の内側で、固かった石が砕けて土になる感覚を覚えた。
踵を返そうとしたとき、堰の上流側、暗がりに小さな人影が動いた。
自転車を押す、小柄な影。
ハンドルが震え、前照灯が水面に細い帯を描く。
「道、こわい……」と、小さな声。
私は距離を保ちながら、声だけで方向を指し示す。
「橋まで上に。坂を登って、左へ。街灯がある道」
「……はい」
影はゆっくりと上へ進む。
私は堰の下流へは目を向けない。下がるな。
彼女の前照灯が角を曲がるまで、私はじっと立っていた。
*
帰路、川べりの遊歩道の非常灯が一灯だけ消えているのに気づいた。足元が暗い。
私はスマホのライトを地面ではなく、対岸の樹冠に向けて一瞬照らす。
反射した薄い光が、私の足元を柔らかく縁取る。
装置を動かさず、視界を借りる。
帰宅して扉を閉めると、時雨がまっすぐ来て、喉の奥で小さく鳴いた。
私は靴を脱ぎ、台所の椅子に腰をおろす。
スマホをテーブルに置くと、画面に遅れて青い泡が現れ、沈んだ。
既読:蒼真
下書きが、一行増える。
【下書き保存】——ごめん
まただ。
私の胸の中で、応える言葉は見つからない。
誰に対しての「ごめん」なのか。
私か。世界か。彼自身か。
分からないまま、私はノートを開く。
《声の地図(更新)》
・地名は川に沿って上流へ展開。湧点=設備の詰まり/視界での迂回で解消
・“まわって”“のぼる”“ひがし”=方向指示の語彙
・知らせるなを遵守:共有は座標と時刻のみ
・結果:息が通る→「いき」「いきた」
・リスク:装置に直接触れないこと/下流(下がる)へ行かない
書き終えても、青い残像は消えない。
私はスマホを両手で包み、目を閉じ、呼吸を数える。
四つ吸って、六つ吐く。
観測者は祈る。
祈りは、世界に向けた命令ではない。私の内側の姿勢を正時に戻す手つづきだ。
どれくらいそうしていただろう。
時雨がソファの背で耳を立て、私の膝に飛び乗った。
その重みが合図みたいに、胸の拍が静かになる。
私は片手で猫の背を撫で、もう片方でスマホの画面を指先でなぞる。
冷たいガラスの向こう、どこかで誰かの今日が少しだけ整って、私の明日が一枚、薄く延びた。
それが、今夜のすべてだった。
——既読が、鳴る。
きこえる/しらせるな/みてて。
“知らせるな”は、世界に向けた拡散を止めろということ。けれど“みてて”は、私に視界で導けと告げている。相反するようで、不思議と筋が通っている。
時雨(しぐれ)が窓辺で丸くなり、しっぽだけ規則正しく揺らす。猫のその一定の拍に合わせて呼吸を整え、私はノートの見出しに線を引いた。
《声の地図——地名が描く輪郭を確かめる》
——ボイスメモが付ける保存名は、ただの行き先じゃない。道筋の提案だ。
そう思うと、これまでの地名がひとつの図形のように頭に浮かんだ。東栄橋、矢田第三クリニック、白妙公園。
地図アプリでざっくり結べば、川筋に沿ったゆるい弧になるはずだ。
私はスマホを机に伏せ、出勤の支度をする。実験は生活に収めて行う——それが、私の決まり。
*
午前のラッシュがおちつくと、影浦玲生(かげうら・れお)が、背もたれに肘をかける癖のまま、私に視線を寄越した。
「外縁からの報告。昨夜から今朝にかけて、近隣の自販機でコイン詰まり報告が三件。踏切の黄色延長が二箇所。区の掲示板のRSSが時刻ズレで一時停止」
私はうなずきながら、返却本の帯を整える。
「主観からは、今朝は静か。体調、普通よりちょっと上。心拍、安定気味」
玲生はメモの角で机をとん、と叩いた。
「図書情報室の大きい地図、休憩時間に少し貸して。針で穴を開けない範囲でね」
「地図?」
「**地名を重ねたい**。東栄橋、矢田第三、白妙公園——感覚で円弧だと言ったけど、**実測**したい」
知らせるなという警告が胸の裏で冷たく光る。
けれど、外縁ルールの範囲だ。ログと座標だけ、中身には触れない。
私は小さく頷いた。
*
昼前、児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと呼吸ぶん揺れた。
画面には何も出ない。けれど、下書きフォルダの青い点が増える。
【下書き保存】——まわって
まわって?
私は視線を上げた。窓の外、図書館の庭にある時計台の針が、ほんの少しだけ遅れているのに気づく。
回すな、じゃない。“回って”だ。迂回しろ、という意味にも読める。
迷う時間は短いほうがいい。
私はボイスメモを開き、録音を始める。
エアコンの低い帯域、遠い車の音、その上で小さな点音が一定間隔で跳ねる。ピッ、ピッ、ピッ。
昨日の東栄橋の時より、さらに遅い拍。弱い。
保存を押す。
【保存:潮見(しおみ)ポンプ場】
川沿いの設備。市のHPで見たことがある場所だ。
私は事務連絡をひとこと残す。「掲示用の画びょう、外に買いに行きます」
玲生は「外縁稼働」と短く笑ってうなずいた。
*
潮見ポンプ場は、川に突き出たコンクリートの箱みたいだった。柵の向こうで、大きなポンプが腹に響くような低音を吐いている。
人影はない。ふと、柵の足元の排水溝の格子が、片側だけ浮いているのが目に入る。
私は本能的にしゃがみかけて、そこで踏みとどまる。
さわるな。
装置や回路に触れない。それが夜に告げられた境界線。
代わりに、私は近くの土に落ちていた小枝を拾い、格子の浮いた角に斜めに目印のように差し入れてみせた。
離れた場所から見ても異物と分かる角度で。
そのままの姿勢で、周囲に目を走らせる。
川縁の小道の先から、黄色い作業ベストの人が二人、歩いてくるのが見えた。
「点検でーす。あれ、格子、浮いてる?」
私は柵越しに、小枝を指さし、立ち上がる。
「ここ、危ないかも」
作業員の一人が礼を言い、工具で固定し直す。その間ずっと、ポンプの低音は腹の底で波のようにうねっていた。
終わるのを見届けて、私はその場を離れる。
ポケットで、スマホが一度だけ震えた。
【下書き保存】——いい
【下書き保存】——いき
息。
胸の中で、小さく整う音がした。
*
図書館に戻ると、玲生が大きな地図の前で待っていた。
「地図、貸出カードみたいにログを付けよう。日付、時刻、地点。ピンは打たない、透明付箋で縁だけ囲う」
外縁流の工夫は、滑稽なほど慎重だ。でも、その慎重さに、私は救われる。
私は透明付箋に、細い線で弧を描いた。東栄橋から矢田第三、白妙公園、そしてさっきの潮見ポンプ場。
四つを結ぶ線は、やはりゆるやかな弧になって、川の流れに沿っていた。
「流域に沿った経路だね」
玲生が地図を見つめる。
「“声の地図”は、水の筋をなぞってるのかもしれない。電力のバックアップや通信の経路も、川沿いに設備が多い」
私は頷く。
装置に触れるな、という警告は、たぶん、そういう網のどこかに、25:61のからくりが潜んでいるからだ。
「今のところ、“知らせるな”の線は守れてる?」
玲生の問いに、私は少し間を置いて答える。
「うん。共有するのは位置と時刻だけ。目的や内容は、私の中で止める」
「それでいい。外縁は風景だけ読む」
そのとき、閲覧テーブルの上の吊り下げ照明が、一瞬だけ微かに明滅した。
空調の吹き出し口から、かすかな高音が混じる。
世界の息継ぎは、小さく、しかし確かに続いている。
*
閉館のアナウンスを流していると、カウンターに一人の少年が小走りに近づいてきた。
制服。胸の名札に見覚えがある。東栄橋で会った子だ。
「あの、この呼吸のやつ、ありがと、ございました」
ぎこちない敬語。頬はまだこわばっているけれど、目は昨日よりずっと澄んでいる。
「よかったね」
「保健室の先生に数え方教えてもらいました。四つ吸って、六つ吐くやつ」
私は笑って頷いた。
その瞬間、彼のポケットのスマホがぴと鳴り、通知パネルが一瞬だけ白む。時間は17:01。
微細なノイズ。
観測と導線は、思いがけない場所で交差する。
私の胸の内側で、拍がひとつ、柔らかく跳ねた。
*
夜。
帰り道に寄ったスーパーのレジで、店員が「値引きシールの印刷が遅延して」と謝っている。そのあいだ、店内BGMが半音だけ下がって聴こえた。
世界は今日も、少し背伸びしながら正時に戻ろうとしている。
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
「ただいま」
ミルクの匂い。ソファの背のへこみ。小さな生活の形が、私を人の世界に留めておく。
私はスマホをテーブルに置き、ノートを開く。
《主観ログ・第四夜》
・昼:潮見ポンプ場。格子の浮き→目印で可視化。既読「いい」「いき」
・地図:川に沿う弧。流域=設備網の筋
・共有:座標・時刻のみ(外縁ルール維持)
・気づき:迂回(まわって)=装置に触れずに結果へ導く
ケトルを沸かしながら、ふと、実験の誘惑が再び首をもたげた。
——機内モードで25:61は来るのか。
——Wi-Fiを切ったら? 電源を落としたら?
喉の奥で、さわるなが冷ややかに鳴る。
私はその誘惑を、湯気と一緒に流し込む。
命を賭けない種類の観測だけをやる。
それが、今の私の境界線。
テーブルの上で、時雨が耳をぴんと立てた。
来る。
私は息を整え、指先を膝の上で組む。
部屋の空気が、一拍だけ深くなる。
25:61。
画面の上で、青い泡がふたつ湧いて、間を置いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、連続で現れては薄く光る。
【下書き保存】——ちず
【下書き保存】——ひがし
【下書き保存】——のぼる
【下書き保存】——さがるな
地図。東。のぼる。下がるな。
私は机の端に広げた地図に目を落とし、川の上流(のぼり)に指を置く。
下がるな——川下に向かうな。上流へ。
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
ノイズの底に、今日いちばん弱い拍がある。
かすれるぐらい薄いのに、確かに助けを求めるテンポ。
保存名が自動で埋まる。
【保存:朝島(あさじま)取水堰(しゅすいぜき)】
堰。
水の筋の上流。
私は上着を羽織り、スニーカーをつっかける。鍵を取り、時雨に顔を寄せる。
「すぐ、戻る」
彼は目を細め、窓辺に跳び上がる。耳は立ったまま。
*
夜の堰は、闇の奥で水だけが白く動いていた。
ゴウ、と低い連続音。
堰の手すりの向こう、水面に流木がからみ、吸い込み口の網に引っかかっている。
私は掴まりそうになった手すりから、慌てて手を離す。
さがるな。さわるな。
私は足元の砂利を踏んで音を立てる。
堰の脇の詰所から、人影がひとつ、こちらに顔を出した。
「どうかしました?」
私は指だけで、光の下の詰まりを示す。
職員が懐中電灯を向け、眉を寄せる。
「——助かりました。直します」
長い柄の道具が取り出され、網にからんだ流木が浮かされ、引き寄せられ、外される。
水の音が、少しだけ澄んだ。
私は深く息を吸う。
その瞬間、スマホが短く震えた。
【下書き保存】——いきた
生きた。息が通った、の“息”とも読める。
私は胸の内側で、固かった石が砕けて土になる感覚を覚えた。
踵を返そうとしたとき、堰の上流側、暗がりに小さな人影が動いた。
自転車を押す、小柄な影。
ハンドルが震え、前照灯が水面に細い帯を描く。
「道、こわい……」と、小さな声。
私は距離を保ちながら、声だけで方向を指し示す。
「橋まで上に。坂を登って、左へ。街灯がある道」
「……はい」
影はゆっくりと上へ進む。
私は堰の下流へは目を向けない。下がるな。
彼女の前照灯が角を曲がるまで、私はじっと立っていた。
*
帰路、川べりの遊歩道の非常灯が一灯だけ消えているのに気づいた。足元が暗い。
私はスマホのライトを地面ではなく、対岸の樹冠に向けて一瞬照らす。
反射した薄い光が、私の足元を柔らかく縁取る。
装置を動かさず、視界を借りる。
帰宅して扉を閉めると、時雨がまっすぐ来て、喉の奥で小さく鳴いた。
私は靴を脱ぎ、台所の椅子に腰をおろす。
スマホをテーブルに置くと、画面に遅れて青い泡が現れ、沈んだ。
既読:蒼真
下書きが、一行増える。
【下書き保存】——ごめん
まただ。
私の胸の中で、応える言葉は見つからない。
誰に対しての「ごめん」なのか。
私か。世界か。彼自身か。
分からないまま、私はノートを開く。
《声の地図(更新)》
・地名は川に沿って上流へ展開。湧点=設備の詰まり/視界での迂回で解消
・“まわって”“のぼる”“ひがし”=方向指示の語彙
・知らせるなを遵守:共有は座標と時刻のみ
・結果:息が通る→「いき」「いきた」
・リスク:装置に直接触れないこと/下流(下がる)へ行かない
書き終えても、青い残像は消えない。
私はスマホを両手で包み、目を閉じ、呼吸を数える。
四つ吸って、六つ吐く。
観測者は祈る。
祈りは、世界に向けた命令ではない。私の内側の姿勢を正時に戻す手つづきだ。
どれくらいそうしていただろう。
時雨がソファの背で耳を立て、私の膝に飛び乗った。
その重みが合図みたいに、胸の拍が静かになる。
私は片手で猫の背を撫で、もう片方でスマホの画面を指先でなぞる。
冷たいガラスの向こう、どこかで誰かの今日が少しだけ整って、私の明日が一枚、薄く延びた。
それが、今夜のすべてだった。
——既読が、鳴る。
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