【完結】既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ

東野あさひ

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第5話「返すという方向」

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 朝の光が薄い紙を透かすみたいに部屋を満たし、私はカップに落ちる湯の音を数えながら、昨夜の一行を何度も読み返した。
 ごめん。
 誰に向けられた謝罪なのか、まだ分からない。けれど、その文字は私の胸の裏側に、消えない鉛筆の線みたいに残っている。

 時雨(しぐれ)が窓辺で前足を重ね、尾だけを小さなメトロノームのように振る。
 私はノートに見出しを引いた。

 《今日の課題:返すという可能性》

 ——“延びる”のは、私の一日。
 ——でも、その延長は、どこかで薄く剥がれた誰かの“一日”から来ているのかもしれない。
 もし、導線で救うことが“もらった分”の返済になるなら、その方向を見つけたい。

 ケトルが静まると同時に、スマホの下書きフォルダを開く。
 昨夜の「ごめん」はそこに鎮座している。他の新規はない。
 私は画面を伏せ、支度を始めた。生活の枠に観測を収める——それがいちばん、私を正気に保たせる。

 *

 午前の返却ラッシュが落ち着いたころ、影浦玲生(かげうら・れお)が背もたれに片肘をかけた姿勢のまま、私に視線を寄こした。

 「外縁ログ、朝の分。自販機の硬貨詰まり二件、踏切の黄色延長一件、区のRSS遅延は解消。あと、商店街の電気屋の店主が“電子レンジの時計だけ遅れる”って嘆いてた」

 「主観、体調は普通より少し上。息は浅くない」

 玲生はメモ帳の端をとん、と指で叩いた。
「地図、昨日の川の弧はやっぱり筋がよさそう。今後もし“返す”方向があるなら、**流れの節(ふし)**を探すのが近道かも」

 「節?」

 「水のネットワークの転換点。堰、ポンプ、取水口、分水路。そこは“多くの何かが通る場所”でもある。人の流れや、情報も」

 私は頷いた。
 「今日の午後、真壁先生の外来、前倒しで空きが出たって連絡があった。夕方に行ける」

 「ちょうどいい。客観の数値が一度ほしい。僕の“外縁ログ”だけだと、僕の存在自体が観測の揺らぎになるからね」

 玲生は冗談めかしながら、目の奥は真面目だ。
 私はその軽さに救われ、同時に彼に“全部”は話さないという昨夜のしらせるなを胸で確かめる。

 *

 昼前。児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットの奥でスマホがひと拍だけ震えた。
 画面に通知はない。けれど、下書きフォルダに青い点が増える。

 【下書き保存】——わすれもの

 忘れ物。
 私はボイスメモを開き、録音を始める。
 空調の低音、紙をめくる音。その底に規則的な高音がある。ピッ、ピッ。昨日より少し早い。
 保存名が自動で埋まる。
 【保存:葛西(かさい)分水路】

 地図が頭に開く。川の本流から水を分ける暗渠の入口が、公園の裏手にあったはず。
 私はバックヤードに顔を出す。「掲示用の画びょう、切らしてたから——」
 玲生が「外縁了解」と短く笑い、端末に時刻を書き込む。

 *

 分水路の入口は低いフェンスで囲われ、傍らに小さなポンプ小屋があった。扉は閉まっている。
 地表のグレーチングの上に、布の巾着がひとつ。
 拾い上げたい衝動が指に集まるが、私は手を引く。
 さわるな。
 装置や回路だけでなく、誰かの持ち物に直接触れることも、線を越える気がした。

 代わりに、私は巾着のすぐそばに落ちていた落ち葉をどけ、日差しの筋がまっすぐ当たる位置にずらしてやる。触れずに、足先で落ち葉を払うだけ。
 それから、フェンスの外側の掲示板の空欄に、近所の人が貼りやすいようマスキングテープを十字に軽く貼った。
 “ここに、何かを貼る場所がある”という視界の誘導。
 数分後、ランドセルを背負った低学年の女の子が、母親と手をつないで通りかかった。
 女の子の目が巾着をまっすぐ射抜き、声を上げる。
 「ママ、わたしの!」
 母親が安堵の声を漏らし、フェンスの外から手を伸ばさずに職員用通報ボタンに手をかける。巡回の人が来て、許可のもとで回収された。
 その瞬間、ポケットのスマホが一度だけ震えた。

 【下書き保存】——かえった

 戻った、返った。
 胸の奥で、細い糸が結び目を作る感覚がした。

 *

 図書館に戻ると、玲生が地図の前で腕を組んだ。
 「外縁ログ。昼の十二時台、区の“落とし物掲示”のシステム、一時的に画像のサムネイルが逆順になったあと復旧。分水路近くの電柱の街頭掲示、紙が一枚だけ裏表逆で貼られてたのが修正されたって。あと、近所の猫が——」

 「くしゃみは要らない」

 「了解」
 玲生は笑い、地図の川筋に透明付箋を一枚追加する。
 「“忘れ物”と“返った”。返済という概念、やっぱりあるのかもしれない」

 私は頷いた。
 「夕方、病院。数値、出たら共有する。外縁に必要な分だけ」

 「うん。知らせるなの線は、君が決める」

 その言葉が、私の背骨を一本、静かに立たせた。




 病院の受付は、午後の光で白かった。
 真壁雪弥(まかべ・ゆきや)先生はカルテをめくり、私の顔を見るなり、少し驚いたように目を細めた。

 「顔色、いいね。脈拍、以前より規則的。血中酸素も良好。この二週間、何か生活に変化が?」

 私は息を整える。何をどこまで言うか。
 昨夜、しらせるなが告げられたばかりだ。
 ——でも、数値は、私にとって客観の軸だ。
 私は慎重に言葉を選んだ。

 「夜、呼吸のリズムを整える習慣を始めました。四つ吸って、六つ吐く。あと、歩く距離を少し増やして、川沿いの道を選ぶようにしてます」

 真壁はうなずき、カルテに書き込む。
 「良い習慣だ。呼吸は循環の要だからね。川沿いっていうのは、いい比喩だ。流れに合わせるのは理にかなってる」
 彼は笑い、端末の画面を回してみせる。
 「心電図、二日前よりも不整の幅が小さい。ただし、波はまだある。これが偶然の揺らぎか、習慣の効果かは、もう少し長いスパンで見たい」

 「お願いします」

 帰り際、真壁がぽつりと付け加える。
 「君は誰かの呼吸に合わせているのかもしれないね。自分のでもあり、別の誰かのでもあるような」

 廊下に出ると、胸の奥で小さな波が寄せた。
 私はノートに短く記す。
 《真壁所見:数値の改善/波は残る/呼吸の習慣を継続》

 病院の自動ドアが開閉するたび、ローラーの低い反復音が廊下に滑り込んできた。あの夜の矢田第三の音。
 世界は呼吸し、息継ぎをしながら、正時に合わせに来る。

 *

 帰路。日が沈みきる前の川面は鉛色で、街灯の最初の光が揺れていた。
 途中のスーパーでは、「値引きシールの印刷遅延」の張り紙が昨日から少し明るい紙に変わっている。
 世界のズレは直りきらないけれど、誰かが毎日、小さく直しているのだ。

 部屋に戻ると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
 「ただいま」
 夕食の支度の前に、私はテーブルにスマホを置き、ノートを開く。

 《主観メモ:返すという方向の手応え——葛西分水路の“忘れ物”→“かえった”》
 《客観:真壁先生の数値改善(不整幅縮小)》
 《外縁:川の弧/節(堰・分水)での視界の導線が効く》

 ケトルが鳴る。
 そのとき、リビングの照明が一瞬だけ明滅した。
 時雨がソファの背で耳を立てる。
 来る。
 私は椅子に座り直し、膝の上で指を組んだ。

 25:61。
 青い泡が三度、間を置いて湧いては沈む。
 既読:蒼真
 下書きが、四行連なった。

 【下書き保存】——かえす
 【下書き保存】——ひと
 【下書き保存】——まえ
 【下書き保存】——さわるな

 返す/人/前/さわるな。
 私は息をのみ、地図の川上に目をやる。
 前——最初に“導線”が示された場所。
 東栄橋。
 私は“ボイスメモ”を開き、録音を始める。
 ノイズの底に、とても弱い拍。
 保存名がゆっくり埋まる。
 【保存:東栄橋(再々)】

 私は立ち上がり、上着を掴む。
 時雨に顔を寄せ、「すぐ戻る」とだけ告げる。
 彼は窓辺に跳び、耳を立てたまま私を見送った。

 *

 夜の東栄橋は、昼よりも短い。闇が余白を削って、川の黒い線だけが濃い。
 欄干のそばに、制服の少女が立っていた。初めての夜——**東栄橋の“ありがとう”**の子かどうか、逆光で顔の輪郭しか見えない。
 彼女の足元に、小さな紙袋。
 私は距離を取り、声だけを置く。

 「紙袋、中身を確かめて。名前、書いてある?」
 彼女ははっとして、袋をのぞく。
 「……学生証!」
 震える声。
 「塾の帰りに落としてた。見つからなくて、帰れないって思ってた」
 私は胸の上で指を組んだまま、前に出ない。
 「よかった。装置には触れてないね?」
 自分に向けた念押し。
 彼女は学生証を胸に抱え、深く頭を下げると、欄干から一歩、離れた。
 その瞬間、ポケットのスマホが短く震える。

 【下書き保存】——かえした

 返した。
 胸の内側に、静かな熱が広がる。
 私が“受け取って”延びた一日の、ごく一部。
 それを、誰かの今日にそっと戻せたのだろうか。

 少女が去ったあと、欄干によりかからずに川面を見た。
 水の音が僅かに澄んでいる気がした。
 私は深く息を吸い、吐く。四つ吸って、六つ吐く。
 背後で、橋の反対側から靴音が近づく。
 振り返ると、影浦玲生がいた。
 驚いて目を見開く私に、彼は両手を上げて見せる。

 「外縁だよ。座標だけ見た。中身は見ない。触れない。君が“返す”方向を取ってるとしたら、周囲の風景だけ拾っておきたい」

 胸の張り詰めた糸が一本、ほどけた。
 私は小さく頷く。
 「今、学生証が返った。私、袋にも、装置にも触れてない。視界だけ整えた」

 「了解。外縁ログ:東栄橋、街灯のちらつき一度、川沿いの監視カメラ、一瞬だけフリーズ。その後復帰。通行人の流れは普段よりゆっくり」

 玲生の声は、川面の音に負けないように低く、短い。
 私は彼の横顔の距離を測る。
 近すぎず、遠すぎない。
 観測者の距離。

 「……ありがとう」

 「礼はあとで。たとえば、いつかこの話を誰にも知らせられない形で——物語にするときに、外縁の脚注くらいは入れてね」

 私は笑って、首を振る。
 ——知らせない。
 でも、祈りは書ける。
 “観測者は祈る”。その脚注なら。

 *

 帰路、川沿いの遊歩道の非常灯は今夜も一灯だけ消えていた。
 私はスマホのライトを空に向け、対岸の樹冠で反射させる。
 足元がやわらかく縁取られる。装置をいじらず、視界を借りる方法。
 部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻きつけた。
 「ただいま」
 テーブルにスマホを置くと、画面に遅れて青い泡がひとつ、湧いて沈んだ。
 既読:蒼真
 下書きが、二行増える。

 【下書き保存】——みてた
 【下書き保存】——ありがとう

 胸が熱くなる。
 私はノートを開き、今日のページを埋める。

 《主観ログ・第五夜》
 ・昼:葛西分水路の“忘れ物”→視界誘導→「かえった」
 ・夕:真壁外来→数値改善(不整幅縮小)
 ・夜:東栄橋(再々)学生証→「かえした」
 ・メッセージ:「かえす/ひと/まえ/さわるな」→“最初の地点”で返す方向
 ・外縁観測:街灯ちらつき一度/監視カメラ瞬断/通行速度の鈍化
 ・仮説更新:返済は“視界による可視化”で成立/装置不介入/**川の節(ふし)**で効果が強い

 書き終えても、胸の拍はおだやかだ。
 時雨がソファの背で耳を立てたまま、長く伸びをする。
 私はスマホを両手で包み、そっと目を閉じる。
 返すという方向は、たぶん“奪ってしまった分”のすべてを埋め合わせるには足りない。
 それでも、今日だけは、誰かの今日が返った。
 その事実が、私の明日を薄く延ばす。

 窓の外で、遠い踏切が一度だけ鳴った。
 私は息を数え、静かな闇の手前で、短く祈る。
 世界が息をする音を、邪魔しないように。
 私の息が、誰かの息と混ざるように。

 ——既読が、鳴る。
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