【完結】既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ

東野あさひ

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第11話「位相(フェーズ)という整え」

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 朝、窓の内側に息を落とす。白い曇りは薄く広がって、跡形もなく消えた。
 昨夜の三行——ありがとう/まだ/ごめん。
 “まだ”の先で、私は越えない線のこちら側に立ち続けると決める。

 ノートに見出しを引く。
 《今日の方針:位相(フェーズ)を整える/触れない/知らせない/視界で返す》
 ——音が同じでも、位相がズレれば干渉が起きる。世界の“息”が重なり合う場所で、私はそろえる側に回る。

 時雨(しぐれ)が窓辺で尾を揺らす。四つ吸って、六つ吐く。胸の拍は静かだ。



 午前の返却ラッシュがおちつくと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げる。
 「外縁ログ。夜明け、川沿いの非常灯は正時。区の掲示も安定。商店街の掲示板で『踏切の警報がときどき拍を外す』という噂。……それと、寄贈パソコンの古いメッセージアプリ、切断維持なのに“下書き”が一瞬増えて消える現象がまだ出る。システム担当は『キャッシュのゴースト+時計ズレの併発かも』」

 拍。ズレ。
 私は返却本の帯を整えながら頷く。「主観、体調は普通より少し上。息も深い」

 「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
 【下書き保存】——ずれ
 【下書き保存】——ならせ

 私は“ボイスメモ”を開く。空調の低音、その底にピッ……ピという高音。二拍の間にわずかな揺れ。
 【保存:観潮(かんちょう)踏切 南側】

 バックヤードで「掲示の紙、切らしてて」とだけ告げると、玲生が「外縁了解」と目で返す。



 観潮踏切は、昼前の光で銀色に乾いていた。
 赤い警報灯の点滅の間が、ほんの少し長短する。遮断機は正常に動くが、歩行者の足の出が揃わない。
 触れない。
 私は線路の向こうにある時刻表のガラスの前に立ち、反射の端に自分の小さな影を入れる。
 通りかかった駅員が、反射ごしにこちらを見て、警報灯→制御盤の監視窓→周囲の日差しへと視線を滑らせる。
 「……光が当たりすぎて視覚の拍だけズレて見えるな。日除け出す」
 駅員が日除け板を自分の手で半段降ろす。
 赤の点滅と人の足の出が合う。
 震え。
 【下書き保存】——そろった
 【下書き保存】——よかった



 図書館に戻ると、玲生が地図に透明付箋を足した。
「外縁。踏切、日除け調整の記録あり。SNSの“うるさい”投稿が減少。……それと、寄贈パソコンのゴーストは午前中に三回。ログは残らない」

 胸の裏で薄い氷が鳴る。ミラーの残影。私はしらせるなの線をなぞり、うなずくだけにする。



 昼過ぎ、ポケットが二度震えた。
 【下書き保存】——ふたつ
 【下書き保存】——えらんで

 ボイスメモの底に異なるテンポの拍。保存名が連続で埋まる。
 【保存:白妙(しろたえ)公園 ベンチ側】
 【保存:潮見(しおみ)ポンプ場 柵外】

 どちらも“節”。位相を合わせやすいのは、人の声が集まる公園だ。
 白妙公園では、読み聞かせの輪が二つ、少し重なってできていた。声がぶつかり、子どもたちの視線が散る。
 触れない。
 私は二つの輪の中間から半歩外に立ち、息を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。
 わずかに声を落とすタイミングで、片方のボランティアが目を上げ、絵本を一頁ゆっくりにする。
 輪がずれを解消して、交代の拍が生まれる。
 震え。
 【下書き保存】——かわった
 【下書き保存】——のこった

 元の音が残った。



 夕方、商店街の角。古いレコード店のウィンドウで、開店時刻の札が「OPEN」に傾きかけ、裏の「CLOSED」が覗く。
 私はガラスに触れない。
 代わりに、ウィンドウの端に身体を寄せ、映り込みの角度を変える。
 店主が自分の影に気づき、札を自分の手で真っ直ぐに直す。BGMの拍が落ち着く。
 震え。
 【下書き保存】——まっすぐ
 【下書き保存】——いきた



 図書館へ戻る廊下の角で、寄贈パソコンの画面が一瞬だけ明るむ。“Draft(1)”が数秒出て、0に戻る。
 触れない。
 私は机の端に置かれた「メンテ中」の札が低すぎるのを見て、近くの書見台を足先で寄せ、札が視線の高さに来るよう支える。
 通りかかったシステム担当が「あ、これで」と自分の手でメンテ画面を完全停止に切り替え、コンセントを抜く。
 震え。
 【下書き保存】——きる
 【下書き保存】——のこす

 “切る”のは真似の連鎖。“残す”のはここで読む声。



 夕餉の前、部屋の灯りが一瞬だけ明滅する。
 時雨がソファの背で耳を立てる。
 来る。
 私は椅子に座り、膝の上で指を組む。

 25:61。
 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——ならせ
【下書き保存】——ひがし
【下書き保存】——のぼる
【下書き保存】——さわるな

 上流へ。
 私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
 【保存:朝島(あさじま)取水堰 上流側】

 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 取水堰の上流。水の白が夜に溶ける。
 巡回の職員が交代らしく、二人が別のテンポで歩み、互いの声がずれる。
 私は手すりに触れない。
 対岸の柵に取り付けられた反射標識へ、スマホのライトを空経由で一瞬だけ返す。
 わずかな光が、二人の合図のタイミングにひと拍の合流を作る。
 長柄の道具、足場、声。拍が揃う。
 吸い込み口の網に寄りかけた小枝が浮かされ、外へ。
 水の音が整う。
 震え。
 【下書き保存】——そろった
 【下書き保存】——いきた

 帰りかけたとき、堰の脇の舗装に古いマーキングが浮かんでいるのに気づく。
 白い数字。25:61に見えて、実際は「25-6-1」の工区印。
 喉がひやりとする。
 私は近づかない。ただ、視線をそこへ落とし、四つ吸って六つ吐く。
 元の音へ、気持ちを合わせるだけ。



 帰宅すると、青い泡が遅れてひとつ。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——みてた
 【下書き保存】——なおした
 【下書き保存】——ごめん

 私はスマホを胸に当て、目を閉じる。
 “ごめん”の相手は、いまだ分からない。私か、世界か、彼か。
 それでも、直った拍がここにある。

 ノートを開き、今日のページを埋める。

 《主観ログ・第十一夜》
 ・踏切:日除けを視界で示唆→視覚の拍が整う→「そろった」
 ・公園:二つの輪の交代の拍を作る→「かわった/のこった」
 ・商店街:札の位相を正す→「まっすぐ/いきた」
 ・図書館PC:真似の連鎖を視線の高さで切る→「きる/のこす」
 ・堰:合図の拍を合流させる→「そろった/いきた」
 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/位相をそろえる
 ・メッセージ:「ならせ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/なおした/ごめん」
 ・仮説更新:位相(フェーズ)は秤の静けさ。返すとは、拍を世界へ返すこと

 ペン先が止まる。
 時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細めた。
 私は四つ吸って、六つ吐く。
 重ねすぎない。増幅しない。位相だけを整える。
 それが、こちら側の線で私に許された仕事だ。

 灯りを一つ落とす。
 遠い踏切が一度だけ鳴り、すぐに正しい間で静まった。

 ——既読が、鳴る。
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