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第16話「基準(リファレンス)という静点」
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朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、跡形もなく消える。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の手前で私が探すべきは、揃えすぎない中心だと分かってきた。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:基準(リファレンス)を立てる/それを押しつけない/触れない/知らせない/視界で返す》
——全員をそこへ引きずらない。静点として置くだけ。
時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが落ち着いたころ、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館、午後に合唱の自主練だって。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『幽霊キャッシュ+時計ドリフト』で引き続き観察」
私はうなずく。「主観は良。息、深い」
「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——まんなか
【下書き保存】——しるし
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下に、揺れる発声の帯域が遠く滲む。
【保存:川端(かわばた)会館・小ホール前ロビー】
「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。
会館のロビーでは、円になった人たちが音取りをしていた。ピアノはない。はじめの音がばらけている。
触れない。
私はロビー中央の床模様の星形のひとつに立ち、顎をわずかに引いて息の中心を作る。
指は上げない。視線も合わさない。床の星をしるしにするだけ。
輪の一人が星に視線を落とし、ハミングがそこへ吸い寄せられる。
全員がそこへ揃うのではない。各々が自分の高さで寄る。
震え。
【下書き保存】——きこえた
【下書き保存】——のこった
*
図書館へ戻ると、玲生が透明付箋を足す。
「外縁。会館ロビー、基音合流の投稿が一本。……寄贈PCは午前に一回“Draft(1)”。ログは空白」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷いた。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
波形の底に異なる拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】
【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】
基準を置きやすいのは、人の歩度が揺れる地下歩道だ。
東口では、下校の列と台車がまた同時突入になりかけていた。
触れない。
私は階段の踊り場、天井の丸い照明真下に立ち、肩を微かに上下させて呼吸のテンポを置く。
照明が真上にあること自体がしるしになり、列の先頭が半拍落とす。
台車が先に抜け、子どもたちの足が静点の前後で自然に整う。
震え。
【下書き保存】——まんなか
【下書き保存】——とおった
*
図書館のフロアに戻ると、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻った。
触れない。
私は机の「メンテ中」札の位置を眺め、通路側からも基準の高さに読めるよう、脇の書見台を足先で半歩だけ寄せる。
通りかかったシステム担当が「札、中央に寄せますね」と自分の手で真ん中に立て直し、LANの別系統を断つ。
震え。
【下書き保存】——きる
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が短く言う。
「外縁補足。商店街の掲示板、『踏切の拍が今日は穏やか』と一件。……会館の自主練、**“星の上に立つ人がいた”**って書かれてるけど、たぶん気のせいだね」
私は笑って首を振り、知らせないを胸で繰り返す。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組んだ。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——しるし
【下書き保存】——ひがし/のぼる
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——まにあう
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(中央)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
桟橋の中央は、風が交差して音が白くなる場所だ。
巡回の二人が反対側へ離れ、長柄の動きも落ち着いている。だが、視線の焦点が宙に迷っている。
触れない。
私は欄干の錆びたボルトの列のうち、一本だけ頭が浅いやつの延長線に立った。
足元の傷が、薄い十字に見える。
そこで息を整え、顎を引いて静点を置く。
片方の職員が十字の傷に目を落とし、そこを**“しるし”にして合図を送る。
長柄がひと呼吸で揃い、網の手前の草の束がほどけて流れに戻る。
水の音が、少し低く**澄んだ。
震え。
【下書き保存】——とまらない
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」がまた視界の端に入る。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
基準は、そこに置くだけでいい。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
胸の奥で、小さな石が丸くなる。
私はノートを開き、今日をまとめる。
《主観ログ・第十六夜》
・会館ロビー:床の星をしるしに——押しつけない基音→「きこえた/のこった」
・地下歩道:真上の照明を静点に——歩度の中心→「まんなか/とおった」
・図書館PC:札を中央へ——真似の連鎖を切る→「きる/のこす」
・堰:欄干の十字の傷をしるしに——流れとまらず→「いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“基準”は置くだけ
・メッセージ:「まんなか/しるし/ひがし/のぼる/さわるな/まにあう」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:基準(リファレンス)は命令ではなく静点。返すとは、誰も縛らない合流点を世界に返すこと
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細める。
私は灯りを一つ落とし、半拍遅れて呼吸を合わせた。
置くだけでいい。
それで世界の息が、少しでも楽になるなら。
——既読が、鳴る。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の手前で私が探すべきは、揃えすぎない中心だと分かってきた。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:基準(リファレンス)を立てる/それを押しつけない/触れない/知らせない/視界で返す》
——全員をそこへ引きずらない。静点として置くだけ。
時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが落ち着いたころ、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館、午後に合唱の自主練だって。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『幽霊キャッシュ+時計ドリフト』で引き続き観察」
私はうなずく。「主観は良。息、深い」
「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——まんなか
【下書き保存】——しるし
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下に、揺れる発声の帯域が遠く滲む。
【保存:川端(かわばた)会館・小ホール前ロビー】
「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。
会館のロビーでは、円になった人たちが音取りをしていた。ピアノはない。はじめの音がばらけている。
触れない。
私はロビー中央の床模様の星形のひとつに立ち、顎をわずかに引いて息の中心を作る。
指は上げない。視線も合わさない。床の星をしるしにするだけ。
輪の一人が星に視線を落とし、ハミングがそこへ吸い寄せられる。
全員がそこへ揃うのではない。各々が自分の高さで寄る。
震え。
【下書き保存】——きこえた
【下書き保存】——のこった
*
図書館へ戻ると、玲生が透明付箋を足す。
「外縁。会館ロビー、基音合流の投稿が一本。……寄贈PCは午前に一回“Draft(1)”。ログは空白」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷いた。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
波形の底に異なる拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】
【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】
基準を置きやすいのは、人の歩度が揺れる地下歩道だ。
東口では、下校の列と台車がまた同時突入になりかけていた。
触れない。
私は階段の踊り場、天井の丸い照明真下に立ち、肩を微かに上下させて呼吸のテンポを置く。
照明が真上にあること自体がしるしになり、列の先頭が半拍落とす。
台車が先に抜け、子どもたちの足が静点の前後で自然に整う。
震え。
【下書き保存】——まんなか
【下書き保存】——とおった
*
図書館のフロアに戻ると、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻った。
触れない。
私は机の「メンテ中」札の位置を眺め、通路側からも基準の高さに読めるよう、脇の書見台を足先で半歩だけ寄せる。
通りかかったシステム担当が「札、中央に寄せますね」と自分の手で真ん中に立て直し、LANの別系統を断つ。
震え。
【下書き保存】——きる
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が短く言う。
「外縁補足。商店街の掲示板、『踏切の拍が今日は穏やか』と一件。……会館の自主練、**“星の上に立つ人がいた”**って書かれてるけど、たぶん気のせいだね」
私は笑って首を振り、知らせないを胸で繰り返す。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組んだ。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——しるし
【下書き保存】——ひがし/のぼる
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——まにあう
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(中央)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
桟橋の中央は、風が交差して音が白くなる場所だ。
巡回の二人が反対側へ離れ、長柄の動きも落ち着いている。だが、視線の焦点が宙に迷っている。
触れない。
私は欄干の錆びたボルトの列のうち、一本だけ頭が浅いやつの延長線に立った。
足元の傷が、薄い十字に見える。
そこで息を整え、顎を引いて静点を置く。
片方の職員が十字の傷に目を落とし、そこを**“しるし”にして合図を送る。
長柄がひと呼吸で揃い、網の手前の草の束がほどけて流れに戻る。
水の音が、少し低く**澄んだ。
震え。
【下書き保存】——とまらない
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」がまた視界の端に入る。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
基準は、そこに置くだけでいい。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
胸の奥で、小さな石が丸くなる。
私はノートを開き、今日をまとめる。
《主観ログ・第十六夜》
・会館ロビー:床の星をしるしに——押しつけない基音→「きこえた/のこった」
・地下歩道:真上の照明を静点に——歩度の中心→「まんなか/とおった」
・図書館PC:札を中央へ——真似の連鎖を切る→「きる/のこす」
・堰:欄干の十字の傷をしるしに——流れとまらず→「いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“基準”は置くだけ
・メッセージ:「まんなか/しるし/ひがし/のぼる/さわるな/まにあう」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:基準(リファレンス)は命令ではなく静点。返すとは、誰も縛らない合流点を世界に返すこと
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細める。
私は灯りを一つ落とし、半拍遅れて呼吸を合わせた。
置くだけでいい。
それで世界の息が、少しでも楽になるなら。
——既読が、鳴る。
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