【完結】既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ

東野あさひ

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第16話「基準(リファレンス)という静点」

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 朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、跡形もなく消える。
 昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
 “まだ”の手前で私が探すべきは、揃えすぎない中心だと分かってきた。

 ノートに見出しを書く。
 《今日の方針:基準(リファレンス)を立てる/それを押しつけない/触れない/知らせない/視界で返す》
 ——全員をそこへ引きずらない。静点として置くだけ。

 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュが落ち着いたころ、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館、午後に合唱の自主練だって。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『幽霊キャッシュ+時計ドリフト』で引き続き観察」

 私はうなずく。「主観は良。息、深い」

 「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
 【下書き保存】——まんなか
 【下書き保存】——しるし

 “ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下に、揺れる発声の帯域が遠く滲む。
 【保存:川端(かわばた)会館・小ホール前ロビー】

 「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。

 会館のロビーでは、円になった人たちが音取りをしていた。ピアノはない。はじめの音がばらけている。
 触れない。
 私はロビー中央の床模様の星形のひとつに立ち、顎をわずかに引いて息の中心を作る。
 指は上げない。視線も合わさない。床の星をしるしにするだけ。
 輪の一人が星に視線を落とし、ハミングがそこへ吸い寄せられる。
 全員がそこへ揃うのではない。各々が自分の高さで寄る。
 震え。
 【下書き保存】——きこえた
【下書き保存】——のこった



 図書館へ戻ると、玲生が透明付箋を足す。
 「外縁。会館ロビー、基音合流の投稿が一本。……寄贈PCは午前に一回“Draft(1)”。ログは空白」

 私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷いた。



 昼過ぎ、ポケットが二度震える。
 【下書き保存】——ふたつ
 【下書き保存】——えらんで

 波形の底に異なる拍。保存名が連続で埋まる。
 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】
 【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】

 基準を置きやすいのは、人の歩度が揺れる地下歩道だ。
 東口では、下校の列と台車がまた同時突入になりかけていた。
 触れない。
 私は階段の踊り場、天井の丸い照明真下に立ち、肩を微かに上下させて呼吸のテンポを置く。
 照明が真上にあること自体がしるしになり、列の先頭が半拍落とす。
 台車が先に抜け、子どもたちの足が静点の前後で自然に整う。
 震え。
 【下書き保存】——まんなか
 【下書き保存】——とおった



 図書館のフロアに戻ると、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻った。
 触れない。
 私は机の「メンテ中」札の位置を眺め、通路側からも基準の高さに読めるよう、脇の書見台を足先で半歩だけ寄せる。
 通りかかったシステム担当が「札、中央に寄せますね」と自分の手で真ん中に立て直し、LANの別系統を断つ。
 震え。
 【下書き保存】——きる
 【下書き保存】——のこす



 夕方、玲生が短く言う。
「外縁補足。商店街の掲示板、『踏切の拍が今日は穏やか』と一件。……会館の自主練、**“星の上に立つ人がいた”**って書かれてるけど、たぶん気のせいだね」
 私は笑って首を振り、知らせないを胸で繰り返す。



 ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
 来る。
 私は椅子に座り、膝の上で指を組んだ。

 25:61。
 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——しるし
 【下書き保存】——ひがし/のぼる
 【下書き保存】——さわるな
 【下書き保存】——まにあう

 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(中央)】

 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 桟橋の中央は、風が交差して音が白くなる場所だ。
 巡回の二人が反対側へ離れ、長柄の動きも落ち着いている。だが、視線の焦点が宙に迷っている。
 触れない。
 私は欄干の錆びたボルトの列のうち、一本だけ頭が浅いやつの延長線に立った。
 足元の傷が、薄い十字に見える。
 そこで息を整え、顎を引いて静点を置く。
 片方の職員が十字の傷に目を落とし、そこを**“しるし”にして合図を送る。
 長柄がひと呼吸で揃い、網の手前の草の束がほどけて流れに戻る。
 水の音が、少し低く**澄んだ。
 震え。
 【下書き保存】——とまらない
 【下書き保存】——いきた

 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」がまた視界の端に入る。
 私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
 基準は、そこに置くだけでいい。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——みてた
 【下書き保存】——ありがと
 【下書き保存】——まだ
 【下書き保存】——ごめん

 胸の奥で、小さな石が丸くなる。
 私はノートを開き、今日をまとめる。

 《主観ログ・第十六夜》
 ・会館ロビー:床の星をしるしに——押しつけない基音→「きこえた/のこった」
 ・地下歩道:真上の照明を静点に——歩度の中心→「まんなか/とおった」
 ・図書館PC:札を中央へ——真似の連鎖を切る→「きる/のこす」
 ・堰:欄干の十字の傷をしるしに——流れとまらず→「いきた」
 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“基準”は置くだけ
 ・メッセージ:「まんなか/しるし/ひがし/のぼる/さわるな/まにあう」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
 ・仮説更新:基準(リファレンス)は命令ではなく静点。返すとは、誰も縛らない合流点を世界に返すこと

 時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細める。
 私は灯りを一つ落とし、半拍遅れて呼吸を合わせた。
 置くだけでいい。
 それで世界の息が、少しでも楽になるなら。

 ——既読が、鳴る。
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