【完結】既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ

東野あさひ

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第17話「底(ノイズフロア)という聴き方」

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 朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、音もなく消えた。
 昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
 “まだ”の下に横たわる、聞こえない音を拾う日だと決める。

 ノートに見出しを書く。
 《今日の方針:**底(ノイズフロア)**を聴く/上げない/触れない/知らせない/視界で返す》
 ——大きくしない。静けさの底で方向を見つける。

 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館は避難はしご点検。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当は『幽霊キャッシュ+時計ドリフト+“低負荷時の残響”』って言い換えてきた」

 私は頷く。「主観は良。息、深い」

 「距離、保つ。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
 【下書き保存】——しずかに
 【下書き保存】——きけ

 “ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下の砂粒みたいな音。
 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・中間踊り場】

 「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。

 中間踊り場は、通学列と台車の間で靴音が跳ね、小さな反響が増幅しかけていた。
 触れない。
私は踊り場の角に立ち、息の抜きで**“間”を置く。
 手を振らない。ただ視線を床の擦り傷に落とす。
 先頭の子がその静けさを拾い、半拍だけ足を薄くする。
 反響の底が静まる**。
 震え。
 【下書き保存】——しずんだ
 【下書き保存】——よかった



 図書館に戻ると、玲生が付箋を一枚。
 「外縁。地下の混み、自然解消。……寄贈PC、“Draft(1)”は午前に一回。ログは空白」

 私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずく。



 昼過ぎ、ポケットが二度震える。
 【下書き保存】——ふたつ
 【下書き保存】——えらんで

 波形の底に違う拍。保存名が連続で埋まる。
 【保存:白妙(しろたえ)公園・東ベンチ】
 【保存:観潮(かんちょう)踏切・南側】

 底を下げやすいのは人の場——公園を選ぶ。

 東ベンチの周りで、紙芝居とブランコとリコーダーの小さな音が重なり、声の細部が埋もれていた。
 触れない。
 私はベンチから半歩離れ、顎を引いて息を浅くする。
 読み手の目がふと落ち、声の立ち上がりが一段低くなる。
 同時に、ブランコの子が靴先をほんの少しだけ引く。
 底が下がり、語尾が聴こえる。
 震え。
 【下書き保存】——きこえた
 【下書き保存】——のこった

 踏切へ回ると、配送の台車が最後の一押しで急いていた。
 私は信号にも遮断機にも触れない。
 時刻表ガラスの前で肩を落とし、息をさらに浅くする。
 台車の靴音が一段静かになり、赤の終わりと歩行の入りがぶつからない。
 震え。
 【下書き保存】——まにあう
 【下書き保存】——いきた



 戻る途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻った。
 触れない。
 机の「メンテ中」札が低すぎたので、脇の書見台を足先で寄せて、視線の底に入る高さへ支える。
 通りかかったシステム担当が「基準の高さにします」と自分の手で札を上げ、LANの別経路を確実に切る。
 震え。
 【下書き保存】——きる
 【下書き保存】——のこす



 夕方、玲生が短く言う。
 「外縁補足。会館の避難はしご点検、静かに終了。SNSで『紙芝居、語尾がきれいに聞こえた』の投稿ひとつ」

 私は頷き、胸の石が少し丸くなるのを感じた。



 ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
 来る。
 私は椅子に座り、膝の上で指を組む。

 25:61。
 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——そこ
 【下書き保存】——さげろ
 【下書き保存】——さわるな
 【下書き保存】——ひがし/のぼる

 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
 【保存:朝島(あさじま)取水堰・操作小屋の外(風下)】

 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 取水堰の小屋の外、風下に風が抜け、金属の微かな鳴きが重なっていた。
 巡回の二人は落ち着いているが、耳の焦点が高い帯域に吸われている。
 触れない。
 私は小屋の壁と柵のすきまが作る**“影の底”に立ち、息をさらに浅くする。
 片方の職員が影へ目を落とし、低い合図でタイミングを取る。
 長柄の入りが静かに沈み、網手前の細い草がほどけて流れる。
 水の音が低いところ**で揃う。
 震え。
 【下書き保存】——しずんだ
 【下書き保存】——いきた

 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」が擦れて薄音になっていた。
 私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
 底に耳を置く。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——みてた
 【下書き保存】——ありがと
 【下書き保存】——まだ
 【下書き保存】——ごめん

 私はスマホを胸に当て、深く吸って、ゆっくり吐く。
 ノートを開き、今日をまとめる。

 《主観ログ・第十七夜》
 ・地下踊り場:間を置き、底を下げる→「しずんだ/よかった」
 ・白妙公園:声の立ち上がりを低く→「きこえた/のこった」
 ・踏切:足音の底を薄く→「まにあう/いきた」
 ・図書館PC:札を視線の底へ→「きる/のこす」
 ・堰:風下の影の底で合図→「しずんだ/いきた」
 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/底を上げない
 ・メッセージ:「そこ/さげろ/さわるな/ひがし/のぼる」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
 ・仮説更新:ノイズフロアは“静けさの器”。返すとは、底を静かに敷き直し、細部を世界へ返すこと

 時雨がソファの背で耳を立て、小さく欠伸をした。
 私は灯りを一つ落とし、半拍遅れて呼吸を合わせる。
 大きくしない。底で聴く。
 それだけで、世界の息は少し楽になる。

 ——既読が、鳴る。
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