【完結】既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ

東野あさひ

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第20話「ヒステリシス(戻り代)という幅」

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 朝、窓に息を落とす。白は薄く広がり、音もなく消えた。
 昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
 “まだ”の手前に、私は戻るための幅を置くと決める。行きと帰りが同じ線だと、世界はチャタリングする。

 ノートに見出しを書く。
 《今日の方針:ヒステリシス(戻り代)を保つ/触れない/知らせない/視界で返す》
 ——入る閾(しきい)と、抜ける閾を同じにしない。そこに静けさは宿る。

 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュがおちつくと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館は自動ドア誤作動の苦情が一件。……寄贈パソコン、電源オフのまま“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『幽霊キャッシュ+時計ドリフト+短窓残響に、戻り値の誤判定の可能性も』」

 戻り値。私は頷く。「主観は良。息、深い」

 「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
 【下書き保存】——もどり
 【下書き保存】——ひろく

 “ボイスメモ”を開く。空調の底に、開いて閉じてを繰り返す薄い金属音。
 【保存:商店街会館・正面自動ドア前】

 「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生の目が外縁了解と返る。

 会館の自動ドアは、人影が離れてもすぐ再開し、出入りがぶつかっていた。
 触れない。
 私はガラスの反射が弱まる角に立ち、肩を半歩引く――戻りを示す姿勢。
 来館者の視線がガラスに落ち、一瞬の間が生まれる。
 内側の職員がその間に気づき、足元の黄色いテープの一歩後退ラインを自分の手でわずかに前へ張り替える。
 「ここで待って、開いたら入ってください」
 出と入の戻り代ができ、ドアは落ち着いた。
 震え。
 【下書き保存】——やすんだ
 【下書き保存】——よかった



 図書館に戻ると、玲生が透明付箋を重ねる。
 「外縁。会館、自動ドア**“落ち着いた”の投稿ひとつ。……寄贈PC、“Draft(1)”午前に一回**。ログは空白」

 私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずくだけにした。



 昼過ぎ、ポケットが二度震えた。
 【下書き保存】——ふたつ
 【下書き保存】——えらんで

 波形の底に異なる拍。保存名が連続で埋まる。
 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】
 【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】

 戻り代を示しやすいのは地下だ。東口を選ぶ。

 東口では、下校の列と搬入台車が交互に譲り合いすぎて進まない。行きと帰りの閾が同じで、揺れている。
 触れない。
 私は階段の三段下、視界が最も広い位置に立ち、片手で二つの間を描く。
 行きの窓は短く、戻りの窓は少し長く。
 先頭の生徒がその長短を拾い、台車側の係がうなずく。
 往路が二組通り、復路が一組戻る。非対称が静けさを連れてきた。
 震え。
 【下書き保存】——きれた
 【下書き保存】——とおった



 踏切へ回る。配送の台車が赤の終わりにぎりぎりで突っ込み、歩行の入りと競合しそうだ。
 私は時刻表ガラスの前で肩を半拍遅らせ、視線を足元へ落とす。
 押手が私の遅れを拾い、“次の拍”へ送る。
 戻りの閾が広がり、ぶつからない。
 震え。
 【下書き保存】——まにあう
 【下書き保存】——いきた



 戻る途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻った。
 触れない。
 机の「メンテ中」札は通路に斜めで、戻しの視線に入らない。
 脇の書見台を足先で半歩だけ寄せ、札の向きを行きと帰りの両方から読める角度に支える。
 通りかかったシステム担当が「あ、戻りの導線が要るんですね」と自分の手で札を二枚に増やし、電源配列の順序を落とし気味に再設定、LANの別経路を確実に切る。
 震え。
 【下書き保存】——きる
 【下書き保存】——のこす



 夕方、玲生が短く言う。
 「外縁補足。地下の混み、『揺れなくなった』の投稿。……会館ドアも『待つ線が分かった』と写真つき」
 私はうなずく。胸の石が少し丸くなる。



 ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
 来る。
 私は椅子に座り、膝の上で指を組む。

 25:61。
 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——もどれ
 【下書き保存】——ひがし/のぼる
 【下書き保存】——さわるな
 【下書き保存】——ひろく

 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(中央より下手)】

 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 桟橋は、風のやみ間が短く、長柄の入りと抜けが同じ閾で揺れていた。
 触れない。
 私は欄干の影の端、十字の傷の少し外に立ち、息で非対称を置く。
 四つ吸って、六つ吐く——吐きの後半を長く。
 片方の職員が抜けの合図を長めに取り、もう片方が入りを短く受ける。
 戻り代が生まれ、長柄がばたつかない。
 網の手前の草の束がほどけ、細い葉が遅れて流れに戻る。
 水の音が、戻りのぶんだけ低く澄む。
 震え。
 【下書き保存】——やすんだ
 【下書き保存】——いきた

 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」は今夜、角がさらに欠けていた。
 私は近寄らず、胸の中で戻るための幅をもうひとつ置き、そっと歩き出す。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
 既読:蒼真
 【下書き保存】——みてた
 【下書き保存】——ありがと
 【下書き保存】——まだ
 【下書き保存】——ごめん

 私はスマホを胸に当て、四つ吸って、六つ吐く。
 ノートを開き、今日をまとめる。

 《主観ログ・第二十夜》
 ・会館自動ドア:後退ラインで戻り代→「やすんだ/よかった」
 ・地下東口:往路短・復路長の非対称→「きれた/とおった」
 ・踏切北側:次の拍へ送る→「まにあう/いきた」
 ・図書館PC:掲示を行きと帰りの両面へ→「きる/のこす」
 ・堰:抜け長・入り短でばたつき防止→「やすんだ/いきた」
 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“戻るための幅”を置く
 ・メッセージ:「もどれ/ひがし/のぼる/さわるな/ひろく」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
 ・仮説更新:ヒステリシスは“ためらいの余白”。返すとは、行きと帰りに別のやさしさを用意して、世界の揺れを止めること

 時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細めた。
 私は灯りを一つ落とし、吐きをほんの少し長くする。
 戻るための幅を、ひとつ置いてから眠る。

 ——既読が、鳴る。
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