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第2話 パン屋夫婦と幸福値のリベイク
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「昨日のパン、美味しかったわ。……不思議と、焼いてる間だけは昔に戻れた気がして」
翌朝、マリアさんは焼きたてのパンを紙袋に入れて、ふらりと私のカフェを訪れた。あの日の丸パンとは違う、ほんのり焦げ目のついた食事パン。彼女自身が“店で”焼いてきたのだという。
「昨日あなたと焼いたレシピ、少し手直ししてみたの。昔のやり方と、あなたのアドバイスを組み合わせて」
「とても香りがいいですね。きっと、旦那さんも喜ばれると思います」
彼女の表情が一瞬だけ曇った。「旦那さん」。その言葉が引き金になったのだろう。
「……話すの、まだ怖くて」
私は何も言わず、紅茶を差し出した。マリアさんがカップに口をつけた瞬間、彼女の頭上の「幸福値」がまた、ひとつ上がった。21。
「昨日ね、あなたとパンを焼いてるときに思い出したの。あの人と初めて一緒に焼いた日、あの人が私のレーズンパンを褒めてくれた日のこと」
「素敵な記憶ですね」
「うん。……でもね、喧嘩してからずっと、そういう気持ちを忘れてた。パン作りが好きだったはずなのに、苦しくなって」
それはきっと、心に空いた穴が、何かのかたちで埋まらなくなってしまっていたのだ。私は手帳に彼女の幸福値の変化を書き留めながら、言葉を選んだ。
「……マリアさん」
「なに?」
「もう一度、あの人と“焼いてみませんか”? この店で」
「え……?」
「この場所なら、会話の糸口を失っても、パンという共通の手がかりがあります。口論にはなりにくいでしょうし、何より、あなたが一番自然体になれる空間ですから」
彼女は迷ったように目を伏せ、そして……ゆっくりと頷いた。
「……やってみる。私、もう一度、話したいの。『店をやめる』って言ったことも、本音じゃなかったって、伝えたい」
幸福値は25。この村で初めて、“再会”を前提にした依頼が生まれた瞬間だった。
*
数日後の昼下がり、私はカフェの扉を開けて、一人の男性を迎え入れた。
「……あんたが、マリアの知り合いか?」
がっしりとした体格に無精髭、黒っぽいエプロン。パン屋らしい雰囲気はあるが、どこか疲れているような目をしていた。——ダグラスさんだ。
彼の幸福値は18。マリアさんと別れた後、やはり彼もまた、幸福を見失っていたのだろう。
「ええ、少しだけ……マリアさんと、パンを焼く練習をしていました」
「あいつが、パンを……?」
彼は半信半疑のままカフェに入ってきたが、カウンターの上に置かれたパンを一目見て、ふっと目を細めた。
「……これは、あいつが最初に焼いたやつだな」
「はい。マリアさんが、あなたにもう一度食べてもらいたいって」
彼はパンに手を伸ばし、ちぎって口に運んだ。
——その瞬間、頭上の数字がぴくりと動いた。
18→21。
「懐かしい味だ。ちょっと焦げすぎてるが……あいつの癖だな。水を加えるタイミングが少し早い」
「それも、あなたが最初に教えたやり方だと聞きました」
「そうか……」
彼の指が止まり、視線がふと厨房の方へ向いた。その視線の先に、マリアさんが姿を現した。
「……ダグラス」
「マリア……」
二人の間に、言葉が生まれた。ぎこちなく、それでも確かな再会だった。
「久しぶり……その、会ってくれて、ありがとう」
「……あんたが、あのパンを焼いたって聞いて、懐かしくなっただけだ」
「うん、それでも嬉しい。……もう一度だけ、あの味を一緒に作れないかな」
「……」
彼はしばらく黙っていたが、やがて厨房の方へ歩き出した。
「道具は貸してくれるか?」
「もちろんです」
私は、二人にキッチンを明け渡した。
パンを焼く音、粉をこねる音、そして——笑い声。
幸福値は、二人とも30を超え、そして最終的に32で止まった。
*
その夜。
私はカフェの奥、物置の裏にある小さな扉の前に立っていた。
数日前までは、ただの板戸のように見えていたそれが、今はうっすらと光を帯びている。触れると、微かに脈動を感じる。
「やっぱり、間違いじゃなかった……この扉、“幸福”と連動してる」
この村には、幸福値という見えない数値と連動する“何か”が眠っている。私は確信した。
「なら……私は、もう一度聖女になる。人の心を整え、幸福を集めて、この扉の向こうへと進む」
次に幸福値が最低だったのは——5。
少年の家の窓辺に、ずっと誰も来ないまま座っていた、魔術少年の姿だった。
翌朝、マリアさんは焼きたてのパンを紙袋に入れて、ふらりと私のカフェを訪れた。あの日の丸パンとは違う、ほんのり焦げ目のついた食事パン。彼女自身が“店で”焼いてきたのだという。
「昨日あなたと焼いたレシピ、少し手直ししてみたの。昔のやり方と、あなたのアドバイスを組み合わせて」
「とても香りがいいですね。きっと、旦那さんも喜ばれると思います」
彼女の表情が一瞬だけ曇った。「旦那さん」。その言葉が引き金になったのだろう。
「……話すの、まだ怖くて」
私は何も言わず、紅茶を差し出した。マリアさんがカップに口をつけた瞬間、彼女の頭上の「幸福値」がまた、ひとつ上がった。21。
「昨日ね、あなたとパンを焼いてるときに思い出したの。あの人と初めて一緒に焼いた日、あの人が私のレーズンパンを褒めてくれた日のこと」
「素敵な記憶ですね」
「うん。……でもね、喧嘩してからずっと、そういう気持ちを忘れてた。パン作りが好きだったはずなのに、苦しくなって」
それはきっと、心に空いた穴が、何かのかたちで埋まらなくなってしまっていたのだ。私は手帳に彼女の幸福値の変化を書き留めながら、言葉を選んだ。
「……マリアさん」
「なに?」
「もう一度、あの人と“焼いてみませんか”? この店で」
「え……?」
「この場所なら、会話の糸口を失っても、パンという共通の手がかりがあります。口論にはなりにくいでしょうし、何より、あなたが一番自然体になれる空間ですから」
彼女は迷ったように目を伏せ、そして……ゆっくりと頷いた。
「……やってみる。私、もう一度、話したいの。『店をやめる』って言ったことも、本音じゃなかったって、伝えたい」
幸福値は25。この村で初めて、“再会”を前提にした依頼が生まれた瞬間だった。
*
数日後の昼下がり、私はカフェの扉を開けて、一人の男性を迎え入れた。
「……あんたが、マリアの知り合いか?」
がっしりとした体格に無精髭、黒っぽいエプロン。パン屋らしい雰囲気はあるが、どこか疲れているような目をしていた。——ダグラスさんだ。
彼の幸福値は18。マリアさんと別れた後、やはり彼もまた、幸福を見失っていたのだろう。
「ええ、少しだけ……マリアさんと、パンを焼く練習をしていました」
「あいつが、パンを……?」
彼は半信半疑のままカフェに入ってきたが、カウンターの上に置かれたパンを一目見て、ふっと目を細めた。
「……これは、あいつが最初に焼いたやつだな」
「はい。マリアさんが、あなたにもう一度食べてもらいたいって」
彼はパンに手を伸ばし、ちぎって口に運んだ。
——その瞬間、頭上の数字がぴくりと動いた。
18→21。
「懐かしい味だ。ちょっと焦げすぎてるが……あいつの癖だな。水を加えるタイミングが少し早い」
「それも、あなたが最初に教えたやり方だと聞きました」
「そうか……」
彼の指が止まり、視線がふと厨房の方へ向いた。その視線の先に、マリアさんが姿を現した。
「……ダグラス」
「マリア……」
二人の間に、言葉が生まれた。ぎこちなく、それでも確かな再会だった。
「久しぶり……その、会ってくれて、ありがとう」
「……あんたが、あのパンを焼いたって聞いて、懐かしくなっただけだ」
「うん、それでも嬉しい。……もう一度だけ、あの味を一緒に作れないかな」
「……」
彼はしばらく黙っていたが、やがて厨房の方へ歩き出した。
「道具は貸してくれるか?」
「もちろんです」
私は、二人にキッチンを明け渡した。
パンを焼く音、粉をこねる音、そして——笑い声。
幸福値は、二人とも30を超え、そして最終的に32で止まった。
*
その夜。
私はカフェの奥、物置の裏にある小さな扉の前に立っていた。
数日前までは、ただの板戸のように見えていたそれが、今はうっすらと光を帯びている。触れると、微かに脈動を感じる。
「やっぱり、間違いじゃなかった……この扉、“幸福”と連動してる」
この村には、幸福値という見えない数値と連動する“何か”が眠っている。私は確信した。
「なら……私は、もう一度聖女になる。人の心を整え、幸福を集めて、この扉の向こうへと進む」
次に幸福値が最低だったのは——5。
少年の家の窓辺に、ずっと誰も来ないまま座っていた、魔術少年の姿だった。
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