【完結】地味な村人が伝説ドラゴンをカード化したら、最強無双の人生が始まりました

東野あさひ

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100話「一市民としての幸せ」

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 朝、窓を叩く小鳥の音で目が覚めた。
 パンの香りが台所から流れてきて、湯気の向こうでミナがスープをかき混ぜている。湯呑みのふちには、昨夜の“日曜結界”で使った白い粉がまだ少し残っていた。

 「おはよう、リオ」
 「おはよう。今日は……畑、学校、広場、鍛冶場見学、だっけ?」
 「うん。それと、マリナ婆さんの新作“世界焼きそばパン・秋味”の試食会」
 二人は目を合わせて笑った。英雄の旗はもうない。かわりに壁にかかった木枠には、村の子が描いた“しあわせカード”が三枚、色褪せない色で並んでいる。

 家を出ると、空は高く澄み、露の残る畝(うね)が陽にきらめいた。
 「土、いい匂いだな」
 リオは鍬(くわ)を握って、畦(あぜ)に逸れた蔓を戻し、曲がった畝の線を指で撫でて直す。ミナは籠を抱え、フワリネコを足もとにまとわせながら熟れたトマトをいくつか摘んだ。
 「曲がった分だけ味が出る、ってルーガ爺さんが言ってた」
 「うちの畝は、きっとおいしい」

 鐘が一度、遠くで鳴った。警報でも招集でもない。朝の合図。
 道の角を曲がると、鍛冶屋ハーリンが店先で新作の留め具を磨いている。
 「おう、リオ。持ってけ、新型の“誰でも回せる”留め具だ。連盟の掲示板、子どもでも付け替えられるようにな」
 「ありがとう、助かる。今度、学校の掲示板にもつけるよ」
 ハーリンの眉間の皺がほどけた。「英雄より、そういう顔の方が似合うぞ」

 学校へ着くと、教室の窓辺には昨日配った“ありがとうカード”が糊付けされ、色とりどりの輪になっていた。
 「先生、今日のテーマは?」
 「『心が材料。想いがのり。君だけの一枚』――試合はしない。お見舞いに持っていけるカードを作ろう」
 カナメが手を挙げる。「ぼく、となり町のおばあちゃんに『あったかい毛布カード』描く」
 「いいね。使い方は、毛布をかける人が『あったかいね』って言ってあげること」
 子どもたちの筆が走り、拙い線が世界をやさしく縁取っていく。教室の隅では、ミナが「声に出す魔法」を実演して、緊張した空気をふわりとほぐした。

 授業を終えると、広場へ。
 屋台の列には秋の香り。マリナ婆さんが盛大に胸を張った。
 「世界焼きそばパン・秋味! 砂海のスパイスに森のキノコ、氷海のバターをほんの少し!」
 噛むと、熱い湯気の奥から塩気と甘みが交互に顔を出す。並びの子どもが半分を友だちのパンに交換して、二人で頬張って笑った。
 「交換は正義だな」
 「正義はおいしいね」
 ミナの一言に、周りがどっと笑う。

 昼過ぎ、連盟の小屋に立ち寄る。
 掲示板には各地からの便り。ユウトは地方予選ベスト8、次の対戦相手の分析を書き込んでいる。リリィは保育院で“やさしさカード”が一日百回光ったと報告。ユリエルはAI倫理基準第八稿の承認待ち、ティアナは“日曜結界”杭の新規格を次の丘陵地へ。カイとルークからは市民ヒーロー訓練の初陣成功、シュトラは“分け合う税”の試行、レイナは屋台研究に「ことばの甘味」を追加――そして、ガロウの短い一文。「同じ路地に、同じ少年は立っていなかった」。
 リオは留め具を取り替え、掲示板の端に小さく書き足す。『必要なら、鐘を三度。喜びも三度』
 ミナがその横に貼る。『夜は冷えるので、スープあります』 紙片一枚で、世界がすこし暮らし寄りになる。

 午後、鍛冶場の横で“生活カード講習”。
 「今日は料理当番カードと、休む許可カード」
 「休む許可?」
 「うん、自分や仲間に『今日は休んでいい』ってわざわざ出すカード。出すのが苦手な人が多いから、形にする」
 主婦たちは目を丸くし、青年たちは照れ笑いし、年配の男性がぽんと膝を打つ。「そいつは効く」

 夕方、畑の帰りにミナの母が庭先に顔を出した。
 「今夜はうちで温(ぬく)い鍋だよ。二人とも、顔出しな」
 「おかあさん、ありがとう。トマト持っていくね」
 家族のようなやりとりが、ごく当たり前に並ぶ。英雄の話題はない。かわりに、隣家の窓からは子守歌、通りの角からは笑い声。グラン=ヴァルドが高みからそっと風を降ろして、煮え立つ鍋の湯気を揺らした。

 『……よく食べ、よく笑え。強い結界は、腹から張る』
 「了解、師匠」
 ミナが吹き出し、母が不思議そうに首をかしげる。「誰と話してるんだい」
 「いつもの竜です」
 「はあ、そうかい。じゃあ竜の分も野菜増やしておくよ」
 「おかあさん、それは……多分いらない」

 食後、庭で涼む。
 物干し竿の影が長く伸び、星がひとつ、ふたつ。
 「ねえ、リオ」
 「ん?」
 「英雄を降りた日のこと、怖くなかった?」
 「少し。でも、降りた分だけ灯りが増えた。目印が増えたら、また必要なときに飛べる。……それに、降りてみないと見えない顔がある」
 ミナはうなずき、指をそっと絡める。
 「家族も、弟子も、近所も。こうして歩いて届く距離に、ほとんどの大切があるんだね」

 しばらく静かな風の音だけが続いた。
 そこへ、路地の影から小さな足音。
 「……あのっ!」

 振り向くと、額に汗を光らせた見知らぬ子が立っていた。十歳くらい、着古した上着、抱えた布袋は擦り切れている。
 「先生……いや、リオさん……で、合ってますか?」
 「合ってるよ。どうした?」
 子は布袋から、めくれたスケッチ帳を取り出した。中には粗い線で描かれた、村の地図と、見たことのない小道。
 「ぼく……ぼく、遠くの町から来ました。カード、上手く作れなくて。けど、歩いてると、道が光るんです。人の笑い声のある方が、ちゃんと“太い線”に見える。その、こういうの……カードにしたい」
 ページの端には、震える字。〈帰り道カード〉〈となりに座っていいですかカード〉〈知らない町でもおはようカード〉。

 リオとミナは顔を見合わせた。心臓がふっと、温かく跳ねる。
 「名前は?」
 「トオマ……です」
 「トオマ。お腹は空いてる?」
 「……はい」
 ミナが台所に走り、パンとスープを持って戻る。トオマは両手で受け取り、恐る恐る、そして一気に食べた。
 「遠くから、よく来たな」
 「うん……道が、こっちを“太い線”にしてたから。ぼく、弟子になれますか」
 問われた先で、夜風がやわらかく鳴った。遠くで鐘が三度、ほんの少し遅れて響く。これは、招く合図だ。

 「なれるよ」
 リオはゆっくりと答え、トオマのスケッチ帳を指先で閉じた。
 「ただし条件がある。まず、よく食べる。次に、よく寝る。最後に――“太い線”は自分一人じゃ描かない。誰かと食卓を囲んで、誰かと交換して、誰かと笑って、ページを太らせる」
 トオマの目が丸くなり、やがて笑った。「……やってみます」

 ミナがそっと、トオマの前に一枚の白紙を置く。
 「ここから、一枚目ね。タイトルは自分で」
 トオマは迷って、そして書いた。〈最初の“ただいま”カード〉。
 リオの胸の奥で、小さな鐘が鳴る。英雄のものではない。暮らしの、教室の、食卓の、やさしい音。

 家の屋根の上、グラン=ヴァルドが眠そうに大きなあくびをした。
 『新しい声だな。細いが、伸びる』
 「ああ。いい線だ」

 夜が少し深くなる。
 明日の予定が頭の中に並ぶ。畑に水をやり、学校で“休む許可カード”を配り、広場で秋味をもう一回食べて、鍛冶場で留め具の回し方講習、夕方は日曜結界の張り替え。きっとトオマの一枚も増える。

 ミナが灯りを落とし、庭に残った涼しさを肩にかける。
 「リオ」
 「ん?」
 「おやすみ。それと――おはよう、の分も」
 「おやすみ。おはよう」
 二人の短い言葉が、今日と明日の継ぎ目を縫い合わせた。

 カード精製は終わらない。
 そして、物語も終わらない。
 小さな村の、小さな家の、小さな食卓で、新しい弟子候補が眠り、明日の白紙が静かに待っている。
 誰かが一枚を差し出し、誰かが受け取り、誰かが「ありがとう」と言うたびに、世界は少し太い線で結ばれる。

 ――物語は続く。
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