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特別編-何もない1日-
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瀬名と怜が湯河原に移住して5ヶ月が経った。
庭の木々は紅葉し始め、怜が育てているシュウメイギクやリンドウ、ヒガンバナなどが咲き乱れている。
「暑いなぁ」
目が覚めた瀬名はカラカラになった喉で呟いてカーテンを開けた。
連日夏日を記録し、まだまだ9月下旬とは思えない日差しである。
瀬名はそのまま洗面所へ向かうと洗口液で口をすすぎ、顔を洗って目薬を点す。それからキッチンへ向かうと、怜が用意してくれていた緑茶を飲んだ。
瀬名は緑茶を一口飲むと「ふぅ」と一息吐く。
水分補給をして、ようやく生き返った心地になる。
パジャマは寝汗でしっとりとしており、目や口をはじめ全身がカラカラでミイラになった気分だ。
時計を見ると怜が温泉管理のボランティアから戻って来る時間である。
怜が戻って来たら近くの万葉公園へ散歩に行くことになっている。どうせそこでまた、汗だくになるのだが、寝汗で湿疹ができるのが気になって、瀬名は慌ててシャワーを浴びに行った。
本当に汗を流すだけにしてシャワーから出ると、ちょうど怜が帰って来たところだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
温泉管理のボランティアでは、湯ノ花や硫黄を取り除くので泥がつく。人手も必要なうえ重労働だ。そのうえ、大涌谷で噴煙が上がると温泉管理で入山することもできなくなるので、ロボット化しようと怜は研究しているが、噴煙の上がった山へロボットが入って作業するというのはなかなか実現できないらしい。
「泥だけ落としたら散歩に行くので用意しておいてくださいね」
「はい」
穏やかな笑顔を浮かべて風呂場へ向かう怜の背中を見送ると、瀬名は散歩へ行く準備をした。
バスタオルにノースリーブのシャツワンピース、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してバッグに入れた。
日焼け止めをしっかり塗ると、長い髪は簡単にお団子に纏めて帽子を被る。
瀬名の準備が終わったのを見計らったように怜が風呂場から出て来た。
「髪、僕が纏めましょうか」
怜は纏めきれていなかった一筋の髪を指に絡める。
「いいの。どうせ汗かくし」
瀬名は怜の指から髪を奪うように取ると、無理矢理帽子の中に押し込めた。
「早く行こう」
瀬名はサンダルを履いてドアに手を掛ける。
「はい。行きましょう」
怜は瀬名の手からバッグを受け取った。
南條邸に居た頃、瀬名は怜の言うことを素直に受け入れていた。瀬名が居候という身分だったので遠慮していたこともある。
だが、怜に「ここは瀬名の家」と繰り返し言われているうちに瀬名は自分に素直になり、怜に対して遠慮しなくなった。
そのことでたまに言い合いになることもある。
だからといって2人の関係が変わることはない。
瀬名はようやく自分がありのまま、無理や我慢をせずに息をすることができる場所を手に入れたのである。
そのせいか線維筋痛症は良くなってきている。
そんな瀬名を怜は以前と変わらず優しく見守ってくれていた。
万葉公園までは歩いて10分。
近くなのだから瀬名1人で来ればいいのだが、外出時に何度か目眩や吐き気に襲われた結果、1人で外出することに大きな不安を抱くようになった。
現在、瀬名が1人で外出するのは月に1回の通院だけである。それも、渋谷から虎ノ門までの短い距離の往復だけだ。
環境の変化や温泉治療で線維筋痛症は改善しつつあるが、シェーグレン症候群の症状までは緩和できない。
シェーグレン症候群の乾燥症状や目眩や頭痛などの不定愁訴は徐々に進行している。
万葉公園に着くと瀬名は足湯に入り、怜はベンチで荷物番をしながらメールチェックを行う。
万葉公園には大小さまざまな石を敷き詰めた足湯がある。
そこで足踏みをしながら浸かっていると、病気と薬の副作用でむくんだ瀬名の身体からむくみが取れるのである。それが判明してから、散歩のついでに万葉公園で足湯に浸かることが日課になった。
足踏みしながら足湯に入って20分もすると、全身にびっしょりと汗をかく。
そろそろ出ようとベンチの方に視線をむけた瀬名の目に、女性に話しかけられている怜が映った。
「また・・・・・・」
毎日のように怜はナンパされている。
瀬名は金属との相性が悪いので外出する時以外、結婚指輪をしない。
だが、怜は温泉管理のボランティアで作業をする時以外は、結婚指輪をしている。今もきちんと嵌めてあるのだが、ナンパする女性達には関係ないらしい。
瀬名がサンダルを履いて怜の方へ歩こうとすると、怜は瀬名に気がついて駆け寄って来た。置いてけぼりをくらった女性達は呆気に取られている。
「助かりました」
瀬名の帽子を取るとバスタオルを頭から被せる。
「もう、毎日毎日ナンパされてるんだから」
瀬名はムスっとしながら汗を拭き、家に向かって歩き出す。
「ナンパではありません。道を聞かれただけです。まぁ、ちょっとしつこかったですが」
怜は歩きながら瀬名にノースリーブのシャツワンピースを着せた。
「やっぱりナンパじゃない」
瀬名はバスタオルを肩にかけて、シャツワンピースのボタンを閉める。
汗で元々着ていた服の色がすっかり変わっている。
家までその格好で帰るのは恥ずかしい。だからといって毎回トイレで着替えるのも気が引ける。そこで考えたのがシャツワンピースを羽織る方法だった。
「水分補給もしてくださいね」
怜がまだ少し冷えているミネラルウォーターを差し出した。
瀬名は黙ってミネラルウォーターを受け取る。
冷たいものを飲むと体調を崩しやすい瀬名だが、足湯で身体の芯まで温まっている時は別である。それでも、常温よりも少し冷たい程度にしていた。以前、帰宅してすぐに冷蔵庫から出したばかりのリンゴを食べたら背中に痛みが走り寝込んでしまったからである。
まだムスっとしている瀬名に怜は真顔で言う。
「僕にとって女性は瀬名だけです。瀬名以外は皆ただのヒトです」
「・・・・・・そう」
サラッと爆弾発言をされた瀬名は頷くことしかできなかった。
家に着くと2人で自宅の温泉に浸かる。
新婚の2人が一緒に風呂に入れば当然、ただ浸かるだけで終わるはずもなく・・・・・・。
風呂から上がった瀬名はグッタリとソファーに倒れ込んだ。
対照的に怜はスッキリとした表情でキッチンに入ると、昼食を作り始めた。
「生乾きの髪は早く乾かさないと頭に湿疹ができますよ」
「はーい」
不機嫌な声で瀬名は答えながら怜を睨む。
「誰のせいで・・・・・・」と呟くが怜には届かない。
瀬名は重い身体を引きずるようにドライヤーで髪を乾かし始めた。
帰りがけに飲んでいたミネラルウォーターを飲みながらしっかりと頭皮を乾かして、痛みを伴う湿疹を手探りで見つけては薬をつける。
ちょうど髪を乾かし終わった頃、昼食の準備が出来た。
2人で昼食を食べ、片付けをする。
その後、瀬名は寝室へ向かい昼寝をするのが日課である。
風呂に入ること自体、身体が弱っている人にとってエネルギーを使う。それに加えて散歩をして足踏みをしながら足湯、帰宅してからの温泉でかなり消耗してしまい、昼食後は眠くなってしまうのである。
瀬名が昼寝をしている間、怜はエンジニアの仕事を片付けることにしていた。
湯河原に移って変わったのは瀬名だけではない。
怜にも変化をもたらしていた。
兄の高臣や悠仁、周子達と親しくしていたが、家政夫の仮面を外すことはなく一線を画していた。さらに、外では我儘で自分は他人とは違うという態度を取ることで、周囲との接触を避けて来たのである。
だが、本当の怜は困った人を放っておけない世話好きな質だった。
温泉管理のボランティアを買って出たのも、ニュースで大涌谷の噴煙が上がった時に入山禁止になり、旅館やホテルの人々が困っていたからである。自分の知識でなんとか手伝えないかと思ったのだが、現実は厳しい。
噴煙が上がると地面の温度が上がりロボットが上手く作動しないのである。
しかし、思わぬことで役に立つことになった。
働き方改革により、旅館やホテルでワーケーションを取り入れることになったのである。
怜がガーディアングループ創業家の人間だとは知らない。だが、温泉管理のボランティアを通じてエンジニアだと知った旅館やホテル組合や観光協会の関係者から、ワーケーションに必要なネット環境やセキュリティについて相談されるようになった。
以前の怜なら請け負わなかった。仮に、相談に応じたとしてもガーディアンの利益に繋げようとは思わなかっただろう。
怜は相談のあった旅館やホテルへ赴き、ネット環境やセキュリティのチェックをした。すぐに改善できる点はその場で改善し、機材の購入が必要な場合は高臣に連絡を入れ、信頼できるコンサルタントを派遣してもらっている。
さらに、ネット環境やセキュリティを改善した後、瀬名と1泊してネットやセキュリティの脆弱性をチェックすることにしている。
その間に瀬名は、女性がワーケーションする時に宿泊施設にあると嬉しいアメニティやサービスを洗い出して提案していた。
この丁寧な対応が功を奏して箱根や湯河原近郊の老舗旅館やホテルからも、ワーケーション対策の相談が入るようになった。
高臣は怜の好意を無駄にしたくないと、老舗旅館やホテルにわざわざ足を運んでいるらしい。
兄弟の距離が縮んでいることを、言葉にはしなくても怜と高臣は肌で感じていた。2人共良い大人なのでベタベタした仲になる必要はない。お互いに心地よい距離感をこのまま築き上げられればいいと思っている。
「兄さん、後はよろしくお願いいたします」
怜がスマホを置くと、瀬名がちょうど起きて来た。
「何か飲みますか」
怜の問いに瀬名は無言で頷く。
「また、ワーケーションのコンサル?」
瀬名はソファーに座りながら怜に視線を送る。
「いいえ。今回はサービスアパートメントです」
怜はハーブティーを淹れながら答えた。
「アパート?」
瀬名が首を傾げる。
「月単位でホテルや旅館に滞在するプランを展開するそうです。ワーケーションよりも長い宿泊プランですね」
「それって都心なら出張とか研修とかでニーズがありそうだけど、ここでニーズがあるのかな」
「そうですね。大手企業には出社は月1回で出張扱いにするところも出て来ましたから、こちらに別荘を持つ感じで滞在する人も出て来るかも知れませんよ」
怜はハーブティーをテーブルに置くと瀬名の隣に腰を降ろした。
「そうか。出社しなくて良くなると、いろいろな場所で働けるのね」
瀬名は考えたこともなかったな、と呟きながらハーブティーを飲んだ。
「僕達が知らないだけで、月単位で滞在できるようになったら、新しい客層が生まれるかも知れませんよ」
「そうだといいね」
瀬名は相談に来た旅館やホテルに怜と一緒に行ったことで、女将や支配人、仲居さん達に親近感を抱くようになっていた。
「そうそう。兄さんが瀬名の案を取り入れて宿泊業向けの洗濯機と洗剤の商品化が決まったと言っていましたよ」
「本当に?嬉しい」
「やはり瀬名を連れて行って正解でしたね。僕では気がつきませんでした」
瀬名が褒められたのだが、怜は自分のことのように喜んでいる。
「でも、たいしたことは指摘してないと思う。スタッフの方に聞いてみたら、みんな同じ意見だったし」
「僕なら旅館やホテルでクリーニングしてくれるなら全部お願いしてしまいます」
「・・・・・・。男の人と女の人では違うから」
瀬名は育ちの違い、とは言わず無難に答えた。
ワーケーション用に用意された旅館やホテルの部屋には洗濯機と洗剤がなかったので、ミニ洗濯機と洗剤を用意しておくといいと指摘したのである。
南條家に住んでいた時、瀬名は自分の部屋にミニ洗濯機を置いていた。当時、洗濯は怜が担当していたが、それでもお願いしにくいものがあった。そこで、ディスカウントストアで購入したミニ洗濯機を部屋に置いて使っていたのである。
ミニ洗濯機といってもブラウス1枚まで洗えるので、かなり重宝していた。そのことを旅館やホテルで話すと女性スタッフから同意見を多数得られた。
さらに、怜が高臣にその話をしたところ、取引先企業へ提案してくれてホテル仕様のミニ洗濯機と洗剤が開発される流れになったらしい。
「でも、役に立てたなら嬉しい」
瀬名が笑顔を見せた。
仕事を辞めて湯河原に来てから社会との繋がりが希薄になっている。元来、人の役に立つことが喜びの瀬名は、穏やかな生活に居心地の良さを感じつつも、充実感を失っていた。
「瀬名は自分が思っている以上に、いろんな人の役に立っていますよ」
怜は瀬名を抱き締める。
「そうかな」
疑う瀬名に怜は深いキスをする。
怜はそっと瀬名を押し倒そうとすると、瀬名が力一杯怜の胸を押した。
「お腹すいちゃった」
瀬名は屈託のない笑顔を見せる。
「・・・・・・。早めに夕食にしましょう」
怜は口元を綻ばせて立ち上がった。
「じゃあ、ちょっとだけ手伝う」
怜の後に続いてキッチンに入った瀬名が言うと、悪戯っぽく怜が笑う。
「ちょっとだけですか?」
「じゃあ、何もしない」
瀬名が頬を膨らませてキッチンを出て行こうとすると、怜が引き留めた。
「わかりました。2人で作りましょう」
「じゃあ、何をすればいいの?」
2人で仲良く夕食を作り始めた。
何もない普通の1日。
だが、今の2人にはとても愛しい1日。
これから先、瀬名の病気がどうなるのかわからないし、他の問題が起きるかも知れない。
だからこそ、何もない普通の1日を大切にしていこう。
庭の木々は紅葉し始め、怜が育てているシュウメイギクやリンドウ、ヒガンバナなどが咲き乱れている。
「暑いなぁ」
目が覚めた瀬名はカラカラになった喉で呟いてカーテンを開けた。
連日夏日を記録し、まだまだ9月下旬とは思えない日差しである。
瀬名はそのまま洗面所へ向かうと洗口液で口をすすぎ、顔を洗って目薬を点す。それからキッチンへ向かうと、怜が用意してくれていた緑茶を飲んだ。
瀬名は緑茶を一口飲むと「ふぅ」と一息吐く。
水分補給をして、ようやく生き返った心地になる。
パジャマは寝汗でしっとりとしており、目や口をはじめ全身がカラカラでミイラになった気分だ。
時計を見ると怜が温泉管理のボランティアから戻って来る時間である。
怜が戻って来たら近くの万葉公園へ散歩に行くことになっている。どうせそこでまた、汗だくになるのだが、寝汗で湿疹ができるのが気になって、瀬名は慌ててシャワーを浴びに行った。
本当に汗を流すだけにしてシャワーから出ると、ちょうど怜が帰って来たところだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
温泉管理のボランティアでは、湯ノ花や硫黄を取り除くので泥がつく。人手も必要なうえ重労働だ。そのうえ、大涌谷で噴煙が上がると温泉管理で入山することもできなくなるので、ロボット化しようと怜は研究しているが、噴煙の上がった山へロボットが入って作業するというのはなかなか実現できないらしい。
「泥だけ落としたら散歩に行くので用意しておいてくださいね」
「はい」
穏やかな笑顔を浮かべて風呂場へ向かう怜の背中を見送ると、瀬名は散歩へ行く準備をした。
バスタオルにノースリーブのシャツワンピース、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してバッグに入れた。
日焼け止めをしっかり塗ると、長い髪は簡単にお団子に纏めて帽子を被る。
瀬名の準備が終わったのを見計らったように怜が風呂場から出て来た。
「髪、僕が纏めましょうか」
怜は纏めきれていなかった一筋の髪を指に絡める。
「いいの。どうせ汗かくし」
瀬名は怜の指から髪を奪うように取ると、無理矢理帽子の中に押し込めた。
「早く行こう」
瀬名はサンダルを履いてドアに手を掛ける。
「はい。行きましょう」
怜は瀬名の手からバッグを受け取った。
南條邸に居た頃、瀬名は怜の言うことを素直に受け入れていた。瀬名が居候という身分だったので遠慮していたこともある。
だが、怜に「ここは瀬名の家」と繰り返し言われているうちに瀬名は自分に素直になり、怜に対して遠慮しなくなった。
そのことでたまに言い合いになることもある。
だからといって2人の関係が変わることはない。
瀬名はようやく自分がありのまま、無理や我慢をせずに息をすることができる場所を手に入れたのである。
そのせいか線維筋痛症は良くなってきている。
そんな瀬名を怜は以前と変わらず優しく見守ってくれていた。
万葉公園までは歩いて10分。
近くなのだから瀬名1人で来ればいいのだが、外出時に何度か目眩や吐き気に襲われた結果、1人で外出することに大きな不安を抱くようになった。
現在、瀬名が1人で外出するのは月に1回の通院だけである。それも、渋谷から虎ノ門までの短い距離の往復だけだ。
環境の変化や温泉治療で線維筋痛症は改善しつつあるが、シェーグレン症候群の症状までは緩和できない。
シェーグレン症候群の乾燥症状や目眩や頭痛などの不定愁訴は徐々に進行している。
万葉公園に着くと瀬名は足湯に入り、怜はベンチで荷物番をしながらメールチェックを行う。
万葉公園には大小さまざまな石を敷き詰めた足湯がある。
そこで足踏みをしながら浸かっていると、病気と薬の副作用でむくんだ瀬名の身体からむくみが取れるのである。それが判明してから、散歩のついでに万葉公園で足湯に浸かることが日課になった。
足踏みしながら足湯に入って20分もすると、全身にびっしょりと汗をかく。
そろそろ出ようとベンチの方に視線をむけた瀬名の目に、女性に話しかけられている怜が映った。
「また・・・・・・」
毎日のように怜はナンパされている。
瀬名は金属との相性が悪いので外出する時以外、結婚指輪をしない。
だが、怜は温泉管理のボランティアで作業をする時以外は、結婚指輪をしている。今もきちんと嵌めてあるのだが、ナンパする女性達には関係ないらしい。
瀬名がサンダルを履いて怜の方へ歩こうとすると、怜は瀬名に気がついて駆け寄って来た。置いてけぼりをくらった女性達は呆気に取られている。
「助かりました」
瀬名の帽子を取るとバスタオルを頭から被せる。
「もう、毎日毎日ナンパされてるんだから」
瀬名はムスっとしながら汗を拭き、家に向かって歩き出す。
「ナンパではありません。道を聞かれただけです。まぁ、ちょっとしつこかったですが」
怜は歩きながら瀬名にノースリーブのシャツワンピースを着せた。
「やっぱりナンパじゃない」
瀬名はバスタオルを肩にかけて、シャツワンピースのボタンを閉める。
汗で元々着ていた服の色がすっかり変わっている。
家までその格好で帰るのは恥ずかしい。だからといって毎回トイレで着替えるのも気が引ける。そこで考えたのがシャツワンピースを羽織る方法だった。
「水分補給もしてくださいね」
怜がまだ少し冷えているミネラルウォーターを差し出した。
瀬名は黙ってミネラルウォーターを受け取る。
冷たいものを飲むと体調を崩しやすい瀬名だが、足湯で身体の芯まで温まっている時は別である。それでも、常温よりも少し冷たい程度にしていた。以前、帰宅してすぐに冷蔵庫から出したばかりのリンゴを食べたら背中に痛みが走り寝込んでしまったからである。
まだムスっとしている瀬名に怜は真顔で言う。
「僕にとって女性は瀬名だけです。瀬名以外は皆ただのヒトです」
「・・・・・・そう」
サラッと爆弾発言をされた瀬名は頷くことしかできなかった。
家に着くと2人で自宅の温泉に浸かる。
新婚の2人が一緒に風呂に入れば当然、ただ浸かるだけで終わるはずもなく・・・・・・。
風呂から上がった瀬名はグッタリとソファーに倒れ込んだ。
対照的に怜はスッキリとした表情でキッチンに入ると、昼食を作り始めた。
「生乾きの髪は早く乾かさないと頭に湿疹ができますよ」
「はーい」
不機嫌な声で瀬名は答えながら怜を睨む。
「誰のせいで・・・・・・」と呟くが怜には届かない。
瀬名は重い身体を引きずるようにドライヤーで髪を乾かし始めた。
帰りがけに飲んでいたミネラルウォーターを飲みながらしっかりと頭皮を乾かして、痛みを伴う湿疹を手探りで見つけては薬をつける。
ちょうど髪を乾かし終わった頃、昼食の準備が出来た。
2人で昼食を食べ、片付けをする。
その後、瀬名は寝室へ向かい昼寝をするのが日課である。
風呂に入ること自体、身体が弱っている人にとってエネルギーを使う。それに加えて散歩をして足踏みをしながら足湯、帰宅してからの温泉でかなり消耗してしまい、昼食後は眠くなってしまうのである。
瀬名が昼寝をしている間、怜はエンジニアの仕事を片付けることにしていた。
湯河原に移って変わったのは瀬名だけではない。
怜にも変化をもたらしていた。
兄の高臣や悠仁、周子達と親しくしていたが、家政夫の仮面を外すことはなく一線を画していた。さらに、外では我儘で自分は他人とは違うという態度を取ることで、周囲との接触を避けて来たのである。
だが、本当の怜は困った人を放っておけない世話好きな質だった。
温泉管理のボランティアを買って出たのも、ニュースで大涌谷の噴煙が上がった時に入山禁止になり、旅館やホテルの人々が困っていたからである。自分の知識でなんとか手伝えないかと思ったのだが、現実は厳しい。
噴煙が上がると地面の温度が上がりロボットが上手く作動しないのである。
しかし、思わぬことで役に立つことになった。
働き方改革により、旅館やホテルでワーケーションを取り入れることになったのである。
怜がガーディアングループ創業家の人間だとは知らない。だが、温泉管理のボランティアを通じてエンジニアだと知った旅館やホテル組合や観光協会の関係者から、ワーケーションに必要なネット環境やセキュリティについて相談されるようになった。
以前の怜なら請け負わなかった。仮に、相談に応じたとしてもガーディアンの利益に繋げようとは思わなかっただろう。
怜は相談のあった旅館やホテルへ赴き、ネット環境やセキュリティのチェックをした。すぐに改善できる点はその場で改善し、機材の購入が必要な場合は高臣に連絡を入れ、信頼できるコンサルタントを派遣してもらっている。
さらに、ネット環境やセキュリティを改善した後、瀬名と1泊してネットやセキュリティの脆弱性をチェックすることにしている。
その間に瀬名は、女性がワーケーションする時に宿泊施設にあると嬉しいアメニティやサービスを洗い出して提案していた。
この丁寧な対応が功を奏して箱根や湯河原近郊の老舗旅館やホテルからも、ワーケーション対策の相談が入るようになった。
高臣は怜の好意を無駄にしたくないと、老舗旅館やホテルにわざわざ足を運んでいるらしい。
兄弟の距離が縮んでいることを、言葉にはしなくても怜と高臣は肌で感じていた。2人共良い大人なのでベタベタした仲になる必要はない。お互いに心地よい距離感をこのまま築き上げられればいいと思っている。
「兄さん、後はよろしくお願いいたします」
怜がスマホを置くと、瀬名がちょうど起きて来た。
「何か飲みますか」
怜の問いに瀬名は無言で頷く。
「また、ワーケーションのコンサル?」
瀬名はソファーに座りながら怜に視線を送る。
「いいえ。今回はサービスアパートメントです」
怜はハーブティーを淹れながら答えた。
「アパート?」
瀬名が首を傾げる。
「月単位でホテルや旅館に滞在するプランを展開するそうです。ワーケーションよりも長い宿泊プランですね」
「それって都心なら出張とか研修とかでニーズがありそうだけど、ここでニーズがあるのかな」
「そうですね。大手企業には出社は月1回で出張扱いにするところも出て来ましたから、こちらに別荘を持つ感じで滞在する人も出て来るかも知れませんよ」
怜はハーブティーをテーブルに置くと瀬名の隣に腰を降ろした。
「そうか。出社しなくて良くなると、いろいろな場所で働けるのね」
瀬名は考えたこともなかったな、と呟きながらハーブティーを飲んだ。
「僕達が知らないだけで、月単位で滞在できるようになったら、新しい客層が生まれるかも知れませんよ」
「そうだといいね」
瀬名は相談に来た旅館やホテルに怜と一緒に行ったことで、女将や支配人、仲居さん達に親近感を抱くようになっていた。
「そうそう。兄さんが瀬名の案を取り入れて宿泊業向けの洗濯機と洗剤の商品化が決まったと言っていましたよ」
「本当に?嬉しい」
「やはり瀬名を連れて行って正解でしたね。僕では気がつきませんでした」
瀬名が褒められたのだが、怜は自分のことのように喜んでいる。
「でも、たいしたことは指摘してないと思う。スタッフの方に聞いてみたら、みんな同じ意見だったし」
「僕なら旅館やホテルでクリーニングしてくれるなら全部お願いしてしまいます」
「・・・・・・。男の人と女の人では違うから」
瀬名は育ちの違い、とは言わず無難に答えた。
ワーケーション用に用意された旅館やホテルの部屋には洗濯機と洗剤がなかったので、ミニ洗濯機と洗剤を用意しておくといいと指摘したのである。
南條家に住んでいた時、瀬名は自分の部屋にミニ洗濯機を置いていた。当時、洗濯は怜が担当していたが、それでもお願いしにくいものがあった。そこで、ディスカウントストアで購入したミニ洗濯機を部屋に置いて使っていたのである。
ミニ洗濯機といってもブラウス1枚まで洗えるので、かなり重宝していた。そのことを旅館やホテルで話すと女性スタッフから同意見を多数得られた。
さらに、怜が高臣にその話をしたところ、取引先企業へ提案してくれてホテル仕様のミニ洗濯機と洗剤が開発される流れになったらしい。
「でも、役に立てたなら嬉しい」
瀬名が笑顔を見せた。
仕事を辞めて湯河原に来てから社会との繋がりが希薄になっている。元来、人の役に立つことが喜びの瀬名は、穏やかな生活に居心地の良さを感じつつも、充実感を失っていた。
「瀬名は自分が思っている以上に、いろんな人の役に立っていますよ」
怜は瀬名を抱き締める。
「そうかな」
疑う瀬名に怜は深いキスをする。
怜はそっと瀬名を押し倒そうとすると、瀬名が力一杯怜の胸を押した。
「お腹すいちゃった」
瀬名は屈託のない笑顔を見せる。
「・・・・・・。早めに夕食にしましょう」
怜は口元を綻ばせて立ち上がった。
「じゃあ、ちょっとだけ手伝う」
怜の後に続いてキッチンに入った瀬名が言うと、悪戯っぽく怜が笑う。
「ちょっとだけですか?」
「じゃあ、何もしない」
瀬名が頬を膨らませてキッチンを出て行こうとすると、怜が引き留めた。
「わかりました。2人で作りましょう」
「じゃあ、何をすればいいの?」
2人で仲良く夕食を作り始めた。
何もない普通の1日。
だが、今の2人にはとても愛しい1日。
これから先、瀬名の病気がどうなるのかわからないし、他の問題が起きるかも知れない。
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「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
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お読みいただきありがとうございます。
今後も良い作品を書くので応援してください。