恋人以上、恋愛未満

右左山桃

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3章 恋の証明

18 母からの提案

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「美亜。ちょっとこっちに来なさい」


家に帰ると、母が先に帰ってきていて、自分の部屋に行こうとする私を呼び止めた。
そんなことは、私がこの家に戻ってから一度も無かったから、緊張が体中を走った。
声の抑揚から察するに、怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなさそうだ。


「どうしたの?」


母の後に続いて居間に向かう。
廊下を進む途中で台所に目を向けると、夕飯の準備はできているようだった。
もしかして一緒に食べるのかな……と思ったりもしたけれど「座りなさい」と促され、母が腰を下ろすのを見て淡い期待は儚く消えた。
母と斜め向かい合うように椅子に座り、テーブルの上に何となく目を配って、私は小さく「あ」と声を上げた。
ロースクールの進学案内のパンフレットがそこにはあって、無防備にも自分の机の上に出しっぱなしだったことを思い出す。


「進学したいの?」


相変わらず私を見ず、パンフレットの文字だけを捉えながら母は言った。


「え……。いや、別に。もう、諦めたっていうか……」

「行きたかったの?」

「……えっと……」

「行きたくなかったら、進学説明会なんて行かないでしょ!?」


テーブルの上をバシン! と叩かれ、少しずつ語尾が強くなっていく母に体が強張る。
ヒステリックな母に萎縮して、何も言えなくなるのがいつものお決まりのパターンだった。
恐怖で体がすくんでいくけど、頭だけは母のペースに巻き込まれないよう必死にクールダウンさせる。
あんなパンフレット、女々しく取っておかないで、さっさと捨てれば良かった。

出来もしない進学を夢見たことが、母には気に食わなかったんだろう……。
ひょっとしたらあてつけだと思われたのかもしれない。
どうしてパンフレットが見つかって、母が気に病むことまで頭が回らなかったんだろう。
後悔してもしきれない、ぐるぐる色々考えては俯いていく私に、母の声が少し和らいだ。


「どうして相談しないの?」

「ごめんなさい、本当に興味本位で……」

「私は、そんなに頼りないの? 母親失格なの?」

「……進学しても、その先が見えていないことに気づいたから……」


食い違う会話をしていることに気がついて、私は顔を上げた。
母は俯き、悔しそうな顔で唇を噛んでいる。


「お金が無いから?」

「お金は……かかると思うけど……。違うよ。本当に進学したい子はね、自分で借金をして学校を出るんだよ」


パンフレットから奨学金のページを捲って見せる。
だから、それはおかあさんの気にすべき所ではないんだよ……?
そう言おうとして、口を噤んだ。
『母親としての義務は果たす』
なんとなく、その言葉が頭をよぎった。
母はきっと、私が飛び込もうとした世界がどんな所か知らない。

衣食住、そして、学ぶことにだけは不自由をさせないようにする。
この人が私を育てる信念は、多分それだけだった。
ずっと私は、子供のままで……。
今もきっと、この人にとっては子供のままで。
きっと、わからないのだ。
どうやってその関係に終止符を打ったら良いのか。
もう私も良い年なのに、私が望むなら進学させて然るべき、それが親の務めなのだから……とでも思っているのかもしれない。
生真面目な母にどう説明しようかと考えていると、突拍子も無いことを言い出した。


「和馬さんに……お願いしてみたら……?」


空耳かと思った。
母の口から父の名前を聞いたことなんて、記憶している限り殆ど無い。
私自身も父の話はしないようにしていたし、まさかこんな場面で話題を出してくるなんて思いもしない。


「あの人なら、力になってくれるかもしれないでしょ?」

「え……で、でも……」

「美亜のことは……美亜のことだけは……。ずっと気にかけて、可愛がっていたから……」


私に父の記憶は殆ど無いから、ずっと気にかけて可愛がっていたと言われても正直実感がわかない。
私にとっての父のイメージは曖昧で、想像しようとしても顔は私に似ていること位しかわからない。

浮気して母を苦しませて壊した人。
私と母を捨てた人。

……どうしたって良いイメージが持てない。
なんて言ったらいいのかわからず俯いていると、母は通帳を持ってきて私に見せた。


「これが別れてからずっと振り込まれていた美亜の養育費。一度も途切れたことが無かった。これが、私と和馬さんを繋ぐ唯一の絆だから……」


途切れずにずっと続いている数字の羅列を見る。
年季の入った通帳を大切そうに持っている母は、昔の自分そのもので思わず言葉を失った。
そして引き出しの奥からファイルを出すと、電話の脇のメモ帳を切って何かを転記し始めた。


「これが、あの人の連絡先。私は一度もかけたことがないけど」


そう言って渡されたのは携帯の番号だった。
父の話をする時の母はいつも悲しそうだったのに、今日は少しだけ興奮して……どこか嬉しそうにさえ思える。

奇妙な感覚。
もしかしたら私を通じて、父との関係が続いていくことを母は望んでいるのだろうか。
そうだとしたら……なんて……不毛で……。

どこまでも愚かで悲しい母に下唇を噛む。


「会ってきなさい、父親に」


渡された紙切れを握り締める。
10年以上会っていなかった父親に「進学したいから、お金をちょうだい」と言うのか?
大学まで出してもらって、とっくに成人した娘が?

正直、言える訳が無い。
だけど……。

驚くほど冷静な頭で思い直し、握り締めた紙を広げる。
会ってみても、いいのかもしれない。
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