Rainy Cat

mito

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Past#5 名前-name- side.az

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既に、この世に居ない?
なんとか目を開ける。薄青に沈む世界に男を探すが、男の表情は捉えられない。
ただ、冷たい眼光だけを、感じている。


「……どういう意味だ」


「どういう意味? 簡単な話でしょう。貴方は既に死んでいる、そういうことです」


死んでる?
俺は確かにここにいるのに、この男は何を言い出すのか。


「じゃぁなに、本当に死神になったって?」

「そんな非現実的なものが実在するわけないでしょう。馬鹿ですか、貴方」


答えに行き詰まり混乱のまま、冗談混じりに落とした呟きは、辛辣に、容赦なくばっさり切り捨てられた。


「ここまで懇切丁寧に説明しなければわかりませんか? ――貴方の死亡届は表に出されています。裏社会の認識では、『死神』と呼ばれ、武藤の義息子とされた『貴方』は殺された。今、私の目の前にいるのは、コタの所有物(ねこ)以外に何の肩書きもない、戸籍を持たない男という話です」


低く、早口でそう言い切ったシズと呼ばれる男の眼は、一切の遊びを含まない。

予測を超越した事態に、思わず唇が開く。だが、それを男が遮る。



「腹立たしいついでに言っておきますが。コタが求めているのは何も持たない『貴方』です。今までの貴方の所有者のように『死神』の名前を求めたわけではない」


俺自身を求めた。
それは余りに俺には遠く、実感の湧かない言葉だった。 





この男が言った通り。
俺を欲しがった連中が欲しかったのは『俺自身』じゃない。

明は、自分の息子の影武者に後々『俺自身』も欲しがったが、きっかけは違う。

奴らが欲しかったのは、俺に付けられ、前の武藤組長が存命中に、意図的に悪名高くさせられた『死神』の名前。


実態ない『死神』は、一度組の名簿に連ねることができれば、あとは組の使いたい放題できるシステムだった。


『死神』は、必ずしも俺である必要はない。

むしろ『死神』は、実態はない方が都合がいい。



それは名称でもって闇の秩序を脅かす、言わば犯行予告みたいなもの。



一見悲劇的なこの処遇が、でも俺には好都合だった。


だからこそ、中途半端に腐ってただけの俺が、あの闇の中に居れた。
だからこそ、言えた。


俺からの契約は『殺すこと』だと。




「アンタ、誰だ?」





そんな風に、ヤクザの世界は常軌した世界だった。
普通に暮らす奴らからすれば想像もできないだろう。

当たり前だ。
それで良いんだ。



そうであらねばならない、のに。

常識に囚われて暮らす筈のこの男が口にする言葉は、あの闇だけの世界を彷彿させる。




「自己紹介は以前済んでいると思いますが」

「そういう問答は時間の無駄だ」



冷え冷えとした視線を真っ向から返す。



俺が疑問視するのは、この男が死亡届を役所に提出できたことに関してじゃない。



死亡届を提出し認可される戸籍上の死は、ツテを持ちそして細工の手立て知ってさえすれば、誰でも得ることは可能だ。

もちろん、それを実行できる時点で、その人物は一般人には当てはまらないが、それはさておき、裏の世界では、だからこそそんな紙切れ誰一人信じちゃいない。
やつらはその紙面上の死を、足抜け、つまり逃亡と判断する。


ヤクザが死亡を鵜呑みにするのは、自分もしくは己の信頼を勝ち得た者が、その死体を目の前にしたときだけ。



この男は、今、俺の死亡届は出され、俺は死は裏社会の認めるものとなったと言った。
それが意味するのは、俺の『死亡届』と共に、俺の死体がヤクザに提出されたということ。


だが、俺はここにいる。
俺が生きている以上、彼は、俺の身代わりとなる死体を調達したということを暗示する。 



考えるまでもない。
行為の意味でも、個々が抱えるモラルの意味でもこれは一般人にできる所業ではない。


あまりに西区が裏の腐った匂いを漂わせた町だとしても、その決断を下すことができる非情さや、俺の死を錯覚させる策の施行を可能にしたネットワークは、表の世界で得られるはずがない。


この男がやけに裏に詳しいのも、そのネットワークが要因か。
……それとも、この男がネットワークの中枢か。


「では、貴方は何が知りたいんです?」


僅かに広角を上げて、わざとらしく問うこの男。
ただの一般人でもなければ、ただのヤクザ者でもない。

......俺は、分かっていたはずだ。
初めて会った時から、この男は只者じゃないと。
何故なら、この男はアイツを名前で呼ぶ。


組の中でも、彼を名前で呼んだのは幹部のみ。
だというのに、何故この男は。



「アンタ、明の何なんだ?」



明の名を、親しむ者を呼ぶように、その唇で紡ぐ?





「……今更、警戒ですか? 全ての肩書きと貴方自身の名を失った。裏の世界など関係なくなった今になって」


うっすらと、嘲笑うように、女のような顔が唇を歪め弧を描いた。
歪んだ半月は、さらに広がり嘲笑を含んで言葉を吐く。


「言いませんでしたか? 私は富岡静流(しずる)です。ここで道場の師範をしています……と」

「茶番だな」

「茶番? 現に私は指南をしていますし、何ならカードでも見せましょうか? それで名前も明らかになる」


おどけた声は遊んでいる。名前も職も、嘘ではないだろう。
だが断片的な真実は、時に偽りを導く要因になる。


それがヤクザの表向きな企業商法としての十八番だと、この男は知った上で平然と使ってみせる。
自分は裏の世界と関わりがないのだと暗に主張する。


「……あくまでしらを切るか」

「酷い言いぐさですねぇ。まるで私が悪人のようだ。私は飼い猫たる今の貴方に似合うだけの情報をわざわざ選択し、話しているだけなのに」

くすくす、と音が繰り返される。

「飼い猫に外の世界の情報は不必要、でしょう?」





薄暗いその部屋で、歪んだ朱色の下弦だけが、煌々として見えた。

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