処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが

ポポリーナ

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出発準備はリスク管理から

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 前世でも転職の引き継ぎは地獄だったが、異世界の辺境行きの準備はそれ以上だった。何しろ「何が必要かわからない」のだ。コンビニもネット通販もない世界で、寒冷地の辺境に赴任する。持っていくものを間違えたら詰む。

 朝一番に図書室に向かった。古い羊皮紙の乾いた匂いが出迎える。書架の間を縫う冷たい空気が、集中力を研ぎ澄ませてくれる。窓から差し込む朝の光が、埃の粒子を金色に染めていた。静謐な空間だった。前世の会社にもこんな場所があれば、もう少し正気を保てたかもしれない。

 辺境ヘルムガルドに関する古い地誌を片端から読み込む。地形、気候、産物、交通路。情報は断片的で古いが、ないよりはずっとマシだ。羊皮紙をめくるたびに、指先が乾いた感触を拾う。インクの色が薄れかけた文字を、目を凝らして追った。

 北東辺境。山岳地帯。冬は五ヶ月。積雪量は王都の十倍。主要道路は山道一本。馬車で片道十日。

 ……前世のスタートアップより条件が悪い気がするのは気のせいだろうか。気のせいだ。きっと。

 ページをめくる手が止まった。「冬季は物資輸送が困難を極め、孤立状態が数週間に及ぶこともある」——前世で言えば、サーバーがダウンしたまま復旧の目処が立たない状態だ。ただし今度はサーバーではなく、自分の命がかかっている。

 地誌に小さく記されていた一文に目が留まった。「ヘルムガルドの鉱脈は未調査の区画が多い」。鉱山に関する情報がまだ眠っている可能性。これは使える。

 次に資産の棚卸し。

 嫁入り道具として準備されていた宝飾品と衣装を、私室に並べた。宝石の首飾り、真珠のイヤリング、金糸の刺繍が入った舞踏会用ドレス五着、普段着のドレス十着、冬用のコート類。

 全て、換金リストに載せた。辺境に舞踏会用ドレスを持っていく理由はない。金に変える。

 真珠のイヤリングを手に取った時、ふと指先に冷たい光沢が触れた。セラフィーナの記憶が蘇る。これは母——先代公爵夫人の形見だ。一瞬だけ迷い、それから換金リストに載せた。感傷で領民は救えない。

 ただし一着だけ残す。最も質素で実用的な灰色のドレス。領主として最低限の体面を保つために。

 宝飾品の時価を概算すると金貨百五十枚前後。衣装の売却で更に三十枚。合計百八十枚。

 少ない。王都で一年暮らすには十分だが、領地経営の初期投資としては心許ない。だが、ゼロからのスタートではない。それだけで十分だ。

 三日目。王都の古書店を回った。

 農業技術の入門書、鉱業の概論、薬学の基礎書、簡易な測量術の指南書。この世界の書物は一冊一冊が高価で、全部で金貨八枚が飛んだ。痛い出費だが、知識は最大の投資だ。前世でもそう信じていた。結局、投資した知識で過労死したのだけれど。今度は違う結果にする。

 古書店の帰り道、王立学園の前を通りかかった。卒業式の日の記憶が鮮明に蘇る。数百人の前で婚約破棄を宣言した、あの瞬間。もう三日前のことだ。正門の向こうでは在校生たちが笑い合っている。午後の陽射しが石造りの校舎を柔らかく照らし、噴水の水音が微かに聞こえた。あの中に、来年からリリアーヌが通うのだろう。

 胸の奥で、何かが微かに疼いた。悔しさではない。レオンハルトへの未練でもない。ただ——青春というものの眩しさが、少しだけ目に沁みた。前世の私には青春なんてなかった。この世界のセラフィーナにも、なかった。婚約者の隣で微笑むことが青春の全てだった少女は、もういない。

 もう関係のない場所だ。視線を前に戻す。

 四日目は持ち物の最終リスト化。必需品、あれば便利なもの、贅沢品。三つに分類し、贅沢品は全て削った。前世の引っ越しでも同じことをした。結局、人間が生きていくのに必要なものは驚くほど少ない。


  ◇


 五日目の夕方。

 準備に追われる私の元に、予想外の来客があった。

「お姉様」

 私室の扉を恐る恐る開けたのは、異母妹のナターリアだった。

 十六歳。社交界デビューを控えた少女。蜂蜜色の髪とアルベルトに似た碧い目。ただし父の冷厳さはなく、代わりに不安と怯えが滲んでいた。廊下の燭台の光が、少女の白い頬を琥珀色に染めている。

 ——ゲームでは「善良な脇役」の一言で片付けられていたキャラクター。しかし目の前のナターリアは、唇を噛みしめて涙を堪えている、ただの少女だった。

「お姉様、本当に行ってしまうの?」

 花の香水が微かに漂う。ナターリアの手が冷たく震えている。それを握ると、彼女の目から涙が零れた。

 セラフィーナの記憶を探る。この妹との関係は——希薄だった。異母姉妹という距離。母が違う。父は表向き平等に扱っていたが、長女への期待と次女への無関心は明白だった。ナターリアにとってセラフィーナは「遠くて眩しい存在」で、セラフィーナにとってナターリアは「守るべきでも敵でもない他人」だった。

 でも今、この子は泣いている。私のために泣いてくれている。

 ——前世で退職した時、泣いてくれた人は一人もいなかった。

「ナターリア」

 名前を呼んだ。初めて、ちゃんと向き合って。

「あなたはあなたの道を歩きなさい。父上の言いなりになる必要はないわ」

 王太子妃候補の話が出ていることは知っている。この子にその重圧を背負わせたのは、間接的に私のせいだ。それでも——。

「でも、お姉様がいなくなったら——」

「いなくなるわけではないですわ。辺境に行くだけ。手紙は書けます」

 嘘ではない。多分。郵便事情がまともなら。

 ナターリアは泣き笑いのような顔で頷いた。「お姉様」と呼ぶ声が、少しだけ強くなった。

 この子のことは——気にかけよう。守れるかどうかはわからないが、少なくとも忘れない。

 ナターリアが去った後、私室に花の香水の残り香が漂っていた。窓の外では、夕暮れの鐘が遠く鳴っている。出発まであと二日。やるべきことはまだ山のようにある。だが今この瞬間だけは、妹の温もりを噛みしめていた。


  ◇


 出発の朝が来た。

 早朝の冷たい空気が頬を刺す。正面玄関には馬車が一台。私の荷物——換金しなかった最小限の衣類と書物、それに金貨百八十枚の入った箱——が積み込まれている。

 使用人たちが見送りに並んでいた。見送り、というよりは「見届け」だ。冷ややかな目。同情と好奇と、いくばくかの嘲笑。追放される公爵令嬢の末路を、最後まで見届けてやろうという目。朝露に濡れた庭園の薔薇が、最後の香りを放っていた。この香りも、今日で最後だ。

 前世の最終出社日もこんな感じだった。ロッカーを片付けて、段ボール一つを抱えて、誰にも声をかけられずにオフィスを出た。あの時の空虚さが、デジャヴのように胸を過ぎる。

 ——いや。あの時とは違う。

 砂利道を踏む靴の音がした。使用人の列の外から、一人の青年が歩いてきた。

 栗色の髪。そばかす。二十歳前後。着ているのは仕立ての良くない平民の服。しかし背筋は真っ直ぐで、目はこちらを真っ直ぐ見ていた。

「セラフィーナ様」

 声が上擦っていた。緊張している。

「私——ヨハン・ブリューゲルと申します。この度、お供をさせていただきたく——」

 声が上擦っている割に、背筋だけは真っ直ぐだった。朝の光が栗色の髪に差し、そばかすの散った頬が緊張で赤い。膝が微かに震えているのが見えた。それでもこちらから目を逸らさない。

 使用人たちがざわめいた。公爵邸の下級侍従。辺境出身の下級貴族の息子。セラフィーナとの接点はほぼなかったはずだ。なぜ。

「ブリューゲル? 辺境の……」

「はい。ヘルムガルド領の隣村の出です。お嬢様が赴任されると聞き、従者としてお仕えしたいと——」

「理由を聞いてもよろしいですか?」

 ヨハンは一瞬口ごもり、それから——正直すぎる顔で答えた。

「……正直に申しますと、ほかに行くあてがないんです」

 使用人の誰かが吹き出した。ヨハンの耳が赤くなる。

 しかし私は——笑わなかった。

 ほかに行くあてがない。その正直さに、前世の自分を重ねた。ブラック企業に残ったのも、結局は「ほかに行くあてがなかった」からだ。

 違うのは、この青年は「行くあてのない場所」へ自分の足で向かおうとしていること。

「……よろしいですわ、ヨハン」

 手を差し出した。ヨハンが目を見開く。使用人たちも。公爵令嬢が下級侍従に手を差し出すのは、この世界の常識では考えられないことらしい。

 知ったことか。私はもう公爵令嬢じゃない。辺境の領主代行だ。従業員第一号の採用面接は、握手から始めるべきだ。

 ヨハンの手が、恐る恐る私の手を握った。大きくて、少し荒れた手。温かかった。

「行きましょうか。ヘルムガルドまで馬車で十日。道中、辺境のことを全部教えてくださいな」

「は、はい! セラフィーナ様!」

 馬車に乗り込む。扉が閉まる。砂利道を車輪が転がり始めた。

 窓の外に、公爵邸の正面が遠ざかっていく。使用人たちの冷ややかな視線。その向こうに——二階の窓から見下ろすナターリアの姿が、一瞬だけ見えた。手を振っている。

 振り返らない。

 前を見る。

 前世では——一人で退職した。誰も見送ってくれなかった。

 今は、隣にヨハンがいる。遠くの窓にナターリアがいる。

 それだけで、前世とは全く違う出発だった。
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