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第2章 迷当の反乱

第7話 友

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 諸葛亮の居ない、初めての北伐が始まる。

 月明りを頼りに兵法書を読み、一つ一つ、戦略を見直していく。毎日続けている日課の様なものであった。
 蒋琬と共に成都を出でて、漢中へ向かうのは明日であった。蜀という国全体の空気が、静かに張りつめているのを感じる。
 そんな中、ふと門戸が叩かれた。姜維は蜀軍の中でも重職を担う立場であるが、その建物はあまりにみすぼらしい。普通の農民の家とさほど変わりは無い程である。
 寝て、起きるだけならこれで十分だと、姜維は使用人の一人すらも雇わなかった。

「私だ、伯約」

 太くはないがよく通る声をしていた。そして、どこか安心できる、そんな声だ。
 仕事以外で自分を訪ってくれる人間なんて一人しかいない。姜維は腰を上げて、古びた門を開く。

「夜分遅くによく来てくれた、陳祇(ちんし)」
「明日、漢中へ行く友にどうしても会いたくなってな、宴を抜けて来た。土産に、酒と干し肉を僅かばかりだが持って来た」
「心遣いはありがたいが、戦の前は酒を断っている」
「じゃあ無理にとは言わないさ。君に会いに来たのだ、酒を飲みに来たのではないからな」

 どこまでも気持ちのいい男であった。
 背が高く、顔立ちも優れ、何よりもその透き通った声が心地良い。また、知識も豊富で、その性格に嫌みなところが全く無い。名を、陳祇。費褘の右腕として才を振るう文官である。

 基本的に人に惚れ込みやすい費褘だが、この陳祇に対しては、常に自分の傍に置き、何事も相談する程の重用ぶりであった。年齢もさほど変わらないが、いくつか陳祇の方が上である。
 蜀に来てからというのも、同郷の者も極めて少なく、また、魏からの降将ということで交友関係が極めて少なかった姜維であるが、唯一の友とも呼べる存在だったのが、この陳祇だった。
 また、陳祇も、この孤高の天才に惚れ込んでいた。理想を貫くその生き様があまりにも眩しく、それでいて、どこか羨ましくも思っていたのだ。

「北伐軍の、前軍を率いる将軍であるというのに、宮殿で陛下が開かれた宴にも出ず、一人で黙々と兵書を読むとは。君の副将となる廖化(りょうか)将軍が慌てていたぞ。主役の一人がどうして来ないのだと」

 廖化は、幼き頃から先帝に付き従い、戦に明け暮れた、叩き上げの将軍である。そんな軍人気質でお堅い性格の廖化将軍が慌てているところを想像すると、どこか可笑しくもあった。

「兵は宴にも参加せず、酒も飲まず、家族と離れて野営をしている。そんな中、将である私ばかりが良い思いなど出来ようか。将たるもの、ひたすらに勝つ事だけを考えていれば良い」
「君は、清々しいまでに、世渡りが下手だな」
「ほっとけ。私の全ては『北伐』の為にある。これが丞相と交わした、最後の約束なのだ」
「どうしてだろうか。男として生まれた以上、僕もそんな風に生きてみたいと、焦がれる程に思う事がある」
 まぁ、生き辛そうな君を見てると、その思いも諦める事が出来る。そう言って陳祇は笑う。
 何処か物憂げなその笑みに、微かな優しさを感じる。心に染み入る様な、そんな優しさであった。

 そして、しばらく無言の時間が続いた。姜維は湯を沸かし、茶を出す。一人でいる間は飲まない、高価な茶葉を使ったものであった。夜風で少し肌寒い体に、じわりと温かさが広がる。

「いつか我らで、天下を望める日が来ると良い。君が外に出て、僕が内から支える、そういう戦をしてみたい。それが今の、僕の夢だ」
「ならば早く、費褘殿よりも功績を挙げてみせよ」
「それは、参ったな」
 今度は姜維も共に笑った。

 外では虫の音が聞こえるばかり。そこから二人は、夜が白け始めるまで、互いの視点で此度の北伐に置いての戦略について語り合った。
 ほんの数年前より、一つも二つも先を見通せるようになっている姜維。そんな友に、陳祇は付いて行くだけでやっとであった。
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