秘書のわたし 番外編

ふとん

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秘書のわたしになるまで

秘書の私

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 日本酒女は、今日のパーティに同行していた秘書だった。
 彼女は沖島との別れ話がこじれていて、その矢先、沖島と社長の仕事先に同行していた私を見かけたらしい。どうして仕事中だと思わなかったのかはまったくもって謎だが、とにかく彼女は私が沖島が別れを切り出した原因の女だとあたりをつけていた。彼女が沖島に引っ掛かった合コンに例のごとく連れていかれてたしね。
 そんなとき、私をこのパーティで見つけて発作的に火傷の一つも負わせてやろうなどという、これまた短絡的かつよく分からない理由でパーティ会場から日本酒をくすね、誰かしらからライターを借りて待合室に乗り込んできたようだ。
 彼女の失敗はもはやどこからどう突っ込んでいいのか分からないほどだが、パーティ会場にウォッカやスピリタスなどというものが無くて幸いだったということか。
 
「まぁ、フツーは危ないものなんか置かないよな。政財界のお偉いさんが来るパーティだし」

 パーティには刃物や火器類を置かないのが原則だ。
 滋田は物騒なことを言いながら私にバスタオルを寄越してくれる。
 警備員が飛び込んで一層騒然となったが、主催への報告などを一手に引き受けたのは意外にも滋田だった。彼は持ち前の人たらし術で主催から個室を借り受け、私にシャワールームを提供させたのである。 
 日本酒女はとりあえず喧嘩両成敗ということで警察には突き出されずに済んだ。ただ会社での処遇はどうなるか分からない。

「お前、警備員が来るのを見計らって平手かましただろう」

 滋田の呆れ顔に私は答えなかった。あまりにも馬鹿馬鹿しいことで警察のお世話になりたくなかっただけだ。これ以上の面倒事はたくさんだ。

「妙なところでお人好しだよな」

 呆れながらも滋田はとても楽しそうだ。私はちっとも楽しくない。

「ま、さっさとシャワー浴びろよ。石川に連絡しといたから」

「はぁ!?」

 どうしてアンタが石川の連絡先知ってるんだよ!
 というか、なんであの鬼に連絡した!

「滋田さん、何で石川主任に連絡なんて…!」

「さっさと入らないと一緒に入るぞ」

 滋田は意地悪く笑って、私をシャワールームに放り込んだ。私は思わずシャワールームに鍵をかける。その音を聞いたらしく、ドアの外では滋田が大笑いした。本当に性格の悪い伊達男だ。
 とりあえず石川が来るなら急がなければならない。
 私は酒の匂いを落とすために洗い場へ駆け込んだ。

 私がものの十分ほどで慌ててシャワールームから飛び出すと、滋田は驚いた顔で私についてきた。
 だが構っていられない。早くここを出なければ。社長たちのお守りの前に石川に弁解だ。
 
「ちょっと待てって。まだ髪が濡れてるぞ」

 まるで風呂あがりの子供を追いかけるようにして滋田はタオルを私の頭に被せて拭こうとするが、私はそのままドアへと向かう。

「すぐ乾きます」

「風邪をひく…ってあーあ」

 滋田の呆れ声と共にノックが鳴るや否や、すぐにドアが開かれた。石川だ。珍しくひどく驚いた様子で、切れ長の目を見張っている。
 何か弁解しようと口を開きかけたが、石川の方が早かった。

「井沢! お前はどうしてそう面倒事ばっかりに引っ掛かるんだ!」

 頭の上から怒鳴り声が響いたかと思えば、大きな手にタオルごと髪をわしゃわしゃとかき混ぜられる。いくら怒っているからって、妙齢の女性に犬を拭くような乱暴さはいけないと思うんだけど!
 私がいくらか抵抗すると、大きな手は勢いを緩めたものの私の髪を拭くのを止めようとはしなかった。柔らかな手つきで頭を撫でられるかわりに、大きな溜息をつかれる。

「……沖島の悪癖に乗るな。あいつはお前が甘やかすからつけ上がってるんだ」

 甘やかすも何も、沖島の合コン好きはすでに病気だ。私は振り回されているに過ぎない。
 タオルの下で口を尖らせていると、石川が低く指摘してくる。

「食べ物に釣られる性格をどうにかしろ。いつか痛い目を見るぞ」

 我が上司はどうしてこうも痛いところをつくのがお上手なのだろうか。

「社長への同行も最近目に余る。業務扱いでないものは極力断れ」

 それができればこんな風に日本酒かぶっていないのです。
  
「分・かっ・た・か?」

 言い聞かせるように言われて、私は渋々「はい」と答えた。
 石川の指摘はもっともだが、トラブルはいつも向こうからやってくるのだ。
 ぐちぐちと心の中に不満を貯め込んでいる私の頭を大きな手は柔らかく丁寧に拭いた。意外にも慣れた手つきだ。

「……まったく。お前のせいで過労になりそうだ」

 石川の溜息が近い。鬼の主任から爽やかなシトラスの香りがして何だか複雑な気分になる。鬼のくせにこんな甘酸っぱい香りがしてていいと思ってるのか。

「石川。これどうするんだ?」

 私の後ろから滋田が石川に声をかける。その気安い言葉に石川も平然と答えた。

「タクシーにでも乗せます」

「連れて帰らないのか?」

「社長の同行を引き継ぎますので。これの仕事ですし」

 これ、とはどうやら私のことらしい。口を挟めばまたお小言を食らうだけなので私は大人しく髪を拭かれておく。

「お前が送らないなら、俺が送っていこうか」

「遠慮しておきます」

 石川の実に嫌そうな声に滋田はハハハとひと笑いする。

「鉄面皮のお前のそんな顔、初めて見た」

「余計なお世話です。――帰るぞ、井沢」

 するりと大きな手が離れたかと思えば、すでに石川は踵を返している。
 急いで追いつかねばならないが、不本意ながら滋田には今夜多大に世話になった。

「滋田さん、ありがとうございました」

「おお、珍しい。井沢のお礼は貴重だな」

 そんな憎まれ口を叩いたが、滋田も珍しくはにかむように笑って私を追い払った。
 悪い伊達男ではないのだが、性格がひねくれているのだ。滋田という人は。

 
 石川について玄関ポーチまで出るとすでにタクシーが待ち構えていた。
 鬼上司は私をタクシーに押し込めると、止める間もなく運転手に先払いしてしまった。

「これに乗って帰れ。酒臭い秘書は役に立たん」

 確かにそうだがこの人の口の悪さは本当にどうにかならないものなのか。
    
「週明けは休むなよ。視察と会食とスピーチがある」

 月曜日が来ないで欲しいと願いたくなるスケジュールである。
 溜息をこらえていると、不意に肩にかけたままだったタオルを頭から被せられた。
 だがそれきり石川は何も言わない。
 沈黙に耐えられなくなったのは私の方だった。

「……あの、滋田さんとお知り合いなんですか?」

「ああ。腐れ縁だ」

 何となく分かるような気がする。石川と滋田が気が合うとは思えなかった。
 妙に納得した私の頭に、タオル越しに大きな手が乗せられた。

「あとのことは俺に任せろ。――風邪をひくなよ」

 呟くような早口は幻か。
 大きな手が離れていくと、石川はタクシーのドアを閉めた。
 何か確認しようにも、石川が「出してください」と言ったタクシーは私のことを待たずに走り出してしまう。
 思わず窓から石川を見つけると、鬼上司はすでに背中を向けていた。
 何なんだ、あの人。
 あんなに良い香りがするくせに、モテないなんて詐欺だろう。

(変な上司)

 俺に任せろなんて、どの口が言うんだ。

――うっかり安心してしまったじゃないか。

 私は自分で思っていたより恐々としていたらしい。
 誰より怖いと思っていた鬼上司に叱られたというのに、その鬼上司の言葉で肩の力が抜けてしまったのだ。

 私は結局タクシーが駅前に着くまで、すっかり眠りこけてしまった。



 

 翌月曜日、沖島が珍しく私に謝ってきた。
 先日の事件を誰かから聞き及んだらしい。

「――あの女とはさっぱり別れたから。迷惑かけて悪かった」

 そのひどくバツの悪そうな顔が物珍しくて私は思わず口走ってしまった。

「何か悪いものでも食べたんですか?」

 ふっと沖島の向こうで笑ったのは水田女王さまだろうか。
 沖島は苦虫を潰すような顔をして「お前ってホントは口悪いだろ」と唸った。

 その日も私は相変わらず水田に怒られ、沖島にからかわれ、

「井沢! さっさと茶を出せ!」

 石川に怒鳴られた。
 石川はどうしてああも残念なイケメンなんだろうか。せめて怒鳴らなければさぞモテるだろうに。 
 そんなことを面と向かって言えるほど、私の心臓は強くない。
 だから「はい」と大きく返事をして、忙しい毎日を送るのだ。

 けれどこの業務だけは好きになれない。

「井沢、ホテルのインペリアルスイートを押さえてくれ。あと佳苗に贈る花束も」

 恋人との愛に溺れる社長の要望は日に日に面倒臭さを増していく。  

――ラブストーリーなんてうんざりだ。よそでやってくれ。

 本音を言えたらどんなにいいだろう。
 しかし私は悲しき社会人で、秘書であった。



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