ブストサル 第四巻

かつたけい

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第二章 いえるはずもないけれど

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 わたしの名前はたか
 会社員であり、主婦であり、二児の母である。

 東京都北区豊島、京浜東北線おう駅から徒歩七分のところに十八階建てのビルがある。

 女のくせに王子というあだ名の、変人の知り合いがいるので、王子駅を利用するたびにやつの顔を思い出してしまって嫌なのだけど、とにかくここにわたしの職場がある。

 株式会社ミタヤ食品という食品メーカーの東京支社である。ちなみに本社は千葉県なり市にある。成田空港で有名な成田だ。
 「焼肉うんまいタレ」とか「インド各地の本格カリーシリーズ」とか「コシのありすぎるラーメン」などは全国区で扱って頂いている商品なので、誰もが少なくとも一度は目にしたことがあるのではないだろうか。

 コシのありすぎるラーメンは、実際にはコシというより太くて固いだけなのだが、その太麺の中にスープ粉末が練り込まれていて、なかなか美味しい。
 わたしも残業の際には、よく食べている。
 社員は一日一袋までなら無料で貰えるからだ。
 用紙に評価を書かないといけないのが面倒だけど。毎日違う感想なんか出ないよ。

 と、そんな商品を出している我が社であるが、わたしはその中の成分研究二課に所属している。

 成分分析やレポート提出だけでなく、月に二回、母親を対象とした栄養学のセミナー講師を任されているなど、子供の食育にも関われるため、わたしにとって非常に満足度の高い仕事だ。

 どうしようもなく頭が悪かったわたしは、もともと大学など行くつもりはなかった。夢を模索する中で、ふと子供のためになるような職につきたいと思うようになり、ある日を境に猛勉強を開始して成績を上げ、大学に入った。
 子育てによる休学の後、復学、卒業、そしてここに入社し、現在にいたる。

 そこまでに紆余曲折もなくはなかったけど、でも当初の夢はかなえたわけで、満足しないわけがない。

 とはいえ、かなえてしまえば当然出るのは次の欲。
 自分がどうなりたい、というよりは、世の中をどう変えていきたいかということだ。

 現在特に気になっているのは、スナック菓子が子供に与える発育上の悪影響についてだ。

 栄養バランスの偏りに関しては自宅で母親がしっかり管理するしかないが、せめて身体に有害とされる成分を徹底排除したお菓子を作りたい。

 契約農家を探すか農園を作るか、製法はどうするか、流通はどうするか、広い視野で考えていかないとコスト面と品質の折り合いがただただ最悪な誰も買わないお菓子になってしまうけど、まだわたしにはそこまでの知識も経験もないから、どうすれば良いのかなどは分からない。
 ただ個人的に大きな挑戦と思う、そんな夢、野心があるばかりだ。

 ジャンク菓子ってバラエティに富んでいて心の栄養になったりもするから、現在あるものの存在を完全否定はしないけど、でもより良い製品を模索していくことは出来るわけで、だから早く自分が偉くなって発言権を得て、色々と勉強もして技術知識や営業販売上の知識を得て、子供に良いものを安価に市場に送り出したい。

 などといつかの未来のことに心をわくわくと躍らせながら、わたしはパソコンカチャカチャ仕事に励んでいた。

 ここ一週間ほど、休憩時間返上で働いている。
 友人であるらくもとおりの死からなんだかぼけーっとしてしまって、仕事にもフットサルにもろくに身が入らなかったのだけど、一ヶ月が経ってようやくショックも癒えたので、元を取り戻したいのだ。

 頑張り過ぎるあまり、昨日も一昨日も終電逃して職場にお泊まりしてしまった。子供らには申し訳ないけど、そこは土日にサービスするつもりだ。

 さて、ちょっとだけ休憩しよう。仕事に使っているパソコンで、WEB私用閲覧だ。
 お気に入りに登録してあるフットサルの協会公式ページへ。
 確か今日は、女子代表が決まる日だからな。

「よし、呼ばれたっ!」

 選出者一覧の中に、ゆうの名前を発見したのだ。
 先日、楽本織絵のお葬式に来ていた高校時代の後輩だ。

 召集されたのはこれで何回目だろうか。
 すっかり定着したな。

 佐治ケ江の代表での活躍は、自分のことのように嬉しい。高校二年生の途中で転校していなくなってしまったけど、でも、わらみなみ高校女子フットサル部の出身者として一番の代表格だし。

 フットサル女子代表なんてテレビで試合中継やらないから、こうしたサイトからの情報で試合結果を知るくらいしか出来ないのが残念だけど。

 佐治ケ江以外に知ってる人はいるかな。
 ……ともえかず、なんか、聞いたことあるな。
 あ、そうだ、高校の時に対戦したことあるよな。佐治ケ江が、ボコボコにやっつけちゃった子だ。

「おお、はる先輩もいる。さすがあ」

 はる、中学時代にわたしとフットサルとを引き合わせてくれた人だ。

 同い年なんだけど、周囲に後輩ばかりいてみんな彼女のことを先輩先輩呼んでいたから、わたしも春江先輩と呼ぶようになった。
 その後もいつまでも、敬意を込めて先輩と呼び続けている。
 フットサルに限らずなんらかの岐路について迷いが生じるたびに、まず相談する相手だ。

 しかし凄いよなあ、わたしの周囲って。
 知り合いが二人もフットサル代表に呼ばれ、そして大親友であるはまむしひさはサッカーをやっていて、代表召集こそまだないものの女子サッカーのトップリーグであるなでしこリーグの選手なのだから。

 あとは特に知っているのはいないな。
 前回の召集では、大学時代に対戦したことのあるまえざきぎんという面白い姉ちゃんがいたけど。

 わたしが卒業した習明院大学ってかなりの強豪校で、本当に凄いって思えるような選手ばっかりだったんだけど、全然召集されないな。
 まあ、現在もフットサルをやっているかどうか分からないからな。仮に代表に選ばれたとしても、習明院フットサル部ってなんだか常識のない異常者の集団だったから、間違いなく一回こっきりで次から呼ばれないだろうけど。わたしも他人のことをとやかくいえない性格だが。

 でも、国を代表して外国人と戦うなんて、気持ちよさそうだなあ。
 ああもう、わたしも、もっと幼い頃からサッカーかフットサルをやっていたらよかったなあ。
 そしたら、もしかして今頃この一覧に毎度のように名前のある存在になっていて、佐治ケ江と一緒に大活躍していたかも……

 いかんいかん。
 また考えてしまった。
 過去を後悔するのはやめろと、いつもいっているだろ梨乃。

 現在幸せか?
 応である。
 それはお前のその過去あったればこそだぞ。
 ならば過去を敬え。
 過去の自分の選択を、運命を信じろ。

「とはいえ、やっぱり憧れはあるけどねえ。まだいうかお前は、っていわれっかも知れないけどさあ、だってさあ、日本の旗を背負って世界と戦うなんてかっこいいじゃあん」
「お前、ほんと独り言多いよな」

 たけ課長が入って来たのと同時に、わたしはぴんと背筋を伸ばし、閲覧していたフットサルのオフィシャルページを閉じて栄養素の名前をぶつぶついいながら出鱈目にキーボードを叩き始めた。

「ほんとあぶねーよなこいつ。独り言いう奴の気持ちって、おれ理解出来ねえししたくもねえ」

 ハゲデブ眼鏡の竹部課長は、怪訝そうにじろじろじろじろわたしの顔をねめつけながら、窓際にある自席についた。

 わたし確かにすぐ無意識に独り言をいってしまう癖があるけど、だからってそこまでの態度を取らなくてもいいだろ、このハゲ。そんなだから離婚されちゃうんだよ。

 まあとにかく、休憩時間終了。仕事だ。
 平々凡々一般人であるわたしには、仕事やクラブ活動、子育てを頑張るという一般的な人生の選択肢しかないのだから。

 佐治ケ江と春江先輩には、わたしの夢の分まで頑張ってもらうとしよう。
 あと久樹は、なでしこリーグ頑張れ。なでしこリーグから、なでしこジャパンへ、そして世界へと羽ばたくのだ。
 おお、そうだ、すっかり忘れてた、みんなっ、そんな遥か彼方の遠い存在になってしまう前に、サインくれ!

「なんでおれがお前にサインやらにゃいかんのだ、バーカ」
「あいた!」

 課長が投げた砂消しゴムが、わたしの顔にびちりと当たった。

     2
 足の甲でちょこんとボールを蹴り上げ、同時に反転。
 なかしようはなぞえのぶの間を、リフティング練習でもしているかのようにボールが跳ねて、わたしもそれを追うようにすっすっと抜けていた。

 奇跡、やった! と、にやけそうになるところをぐっと押さえ済ました表情で、ゴレイロとの一対一に挑み、相手のタイミングをずらす左足のシュート。
 ゴレイロうきすみれの指先を弾いて、ぱさっとゴールネットが揺れた。

「ああ、悔しい、くそ、ムカツク、なんだよもう、あんなヘナチョコなのにやられるなんて、あったまくるなあ!」

 浮田すみれは、汚い言葉を連発しながらガンガンと床を踏み付けて悔しさ爆発させている。ハンカチがあったらぎぃーーっと噛みちぎっていたかも知れない。

 気持ちは良く分かる。奴にシュートを止められた時の、わたしの態度がまさにこんなだからだ。

 母親同士というところからどちらかともなく張り合い始めて、いまや完全なる宿敵という間柄だからな。ま、普段は仲良しだけど。子供同士を遊ばせたこともあるし。

 ここは、以前にも説明したけど会社の敷地内にある人工芝のフットサルコートだ。
 夜は一般に有料で貸し出すけど、現在は午後三時半、ミタヤ食品女子フットサル部が練習しているところだ。

 自慢ではないが、最近わたしの状態はすこぶる調子が良い。先ほどのプレーもただまぐれというだけではなく、調子の良さに突き動かされてガンガンとアタックをした結果だ。

 わたしは強豪校に在籍していた大学時代に関東リーグ優勝や全国大会の準優勝を経験したのだが、その後に出産と子育てによってフットサルどころか軽い運動すら出来ないくらいの時期を過ごし、勘も体力も落ちるところまで落ちた。

 このまま消えてなるものかと、復学してからは地獄の鍛練を自らにかし、就職後のクラブ活動でもその努力は継続。完全復活どころかそれ以上になっているのではないだろうか。

 この部は、他の会社や大学新卒などをスカウトして実業団選手として連れて来ているのだが、わたしだけが一般社員からの入部である。そんなわたしが主将に推薦され、しっかりとやれていること自体、もしかしたらおって知るべしといったしょぼいレベルのリーグなのかも知れないけど、比較する対象がないからなんともいえない。

 でもまあ、おそらくは社会人女子フットサルのレベルが低いのではなく、わたし自身がそこそこには高いのだろう。

 根拠はない。
 そう思った方が毎日が気持ち良い。それだけだ。

 まあ、フットサルを始めるのが遅かったが故の成長の限界も感じていて、まさに二律背反といった心理状況ではあるのだけど。

 残業をせずに練習だけに集中出来れば、まだまだ成長出来るんだろうけどね。
 もしくは、残業の際によく食べている一日一色無料でもらえる我が社の「コシのありすぎるラーメン」、あれをせめて汁くらい残せばもっと動ける気がする。かなり脂っぽいからな、あのスープ。

 それはさておいて、

「本日も絶好調なり!」

 わたしは、あまりに軽いこの身体をどうしてくれようかと、花添信子が出したパスの軌道に叫びながらさっと入り込んで、インターセプトをした。
 と思ったら、身体が軽過ぎたか半歩行き過ぎてしまい、足の間をボールが抜けてしまった。

 中江祥子が守備に戻り遅れていたためにそのまま拾われ、持ち込まれ、失点、ゴレイロノーチャンス。

 戦犯であるわたしに、みんなの白い目が集中する。
 わたしは鼻の頭をかいた。

「えっとね、いまのはね、価値ある素敵な失点なんだよ。あたしがインターセプトした瞬間にみんなが前へ走り出していたからこそ。戦術が浸透してきていればこそ。今日はそんなことを確認出来た素晴らしい日だ」

 わたしはそういって、ごまかし笑いを浮かべた。そのインターセプト自体が、ああも思い切り意表をついた大失敗に終ったことが今回の問題なわけだが。

「あたしたちにとっても素晴らしい日になりそうですよ。先輩、この間の約束忘れてないですよねえ」

 中江祥子が、にやりと笑みを浮かべた。

「やっぱりそれ、覚えてたのね」
「当然。女子ですから」

 先日、わたしがみんなのミスの多さをだらだら説教したことがあって、つい売り言葉買い言葉的に「もしこの一ヶ月の間に、あたしがみんなの度肝を抜くようなすっげえミスしたら、いいよ、みんなにパフェでもケーキでもおごってやるよ」などと約束してしまったのだ。

 なんたる不覚だ。
 あと三日で一ヶ月だったのに。
 部員数二十一人……いくらかかるんだろう。

「あたし、なに食べようかなあ」

 などと喜んでいる部員たち。
 くそう。
 もう、ため息も出ない。

     3
「はあ、そりゃ災難だったな」

 たかミット、わたしの旦那だ。

 名前を漢字で書くとみつ。「え、さんにん?」と他人からいわれることが鬱陶しくて本人は幼い頃よりことあるごとにカタカナ表記を使用。だからわたしも公式な届けを書く時以外は、書面どころか脳内ですらすべてカタカナだ。

 これまでずっとぼっさぼさの髪の毛だったのであるが、最近何故か七三に。急にオヤジっぽくなった。

「我が家の損失なのに、なにを他人の事のように。ほんとあいつら食うわ食うわ。一番高いメニューを平気で注文するしさあ」

 最初に候補に上がっていた高い店を、「そればかりはなんとか……」とお慈悲を貰って格下の店になったのであるが、そうでなかったら消費者金融にでも手を出すしかないところだった。または体を売るとか。

「でも、小遣いからだろ」
「いや、それはそうだけど。……でも、それがなければしんすけふたにおもちゃ色々と買ってあげられたかも知れないじゃんかあ」

 わたしは不満げに唇を尖らせた。

「ならばそういう約束をしなければよかった」

 腕組んでえらそうなミット。
 うるさいわ、七三のくせに。

「だってさあ、あたし主将なんだよ。アメにムチにローソクにバイブに三角木馬に、色々と使い分けないといけないんだよ。部をまとめてもっと強くするために、大変なんだよ」
「お前、店で平気でそういうこというなよ」
「ん? ああ、ごめん」

 王子という変態な友達がいるから、つい」

「まあそうやって充実した日々を送れてよかったじゃないか。多少のリスクは負え。フットサルは好きでやってんだ」
「まったくもって正論だけど、なんかいちいちチクチク刺してくるよなあ。かえってへこんだわ。話すんじゃなかった。……ったく、すぐ会社に泊まって楽するくせに」
「それ関係ないだろ!」
「関係ないこと口に出すのが人間ですう」

 わたしは野菜の肉巻きをフォークぶっすり突き刺して、口に運んだ。
 荒っぽく炭酸水で流し込んだ。

 わたしたち夫婦、別に喧嘩しているというわけではない。
 いつも、こんなだ。

 本日は水曜、今は夜。
 水曜日はどちらの会社もノー残業デーなのだが、結局そうはいかず、いつもだいたいどちらかは終電ぎりぎりだったり泊まりだったり。でも今日は珍しく二人とも早くに上がることが出来たので、前々から行こう行こうと話していたにつにある小さなレストランを訪れているのだ。

 日暮里などという中途半端な場所にわざわざ来たがっていたのは、二人共通の知り合いが若くしてオーナーをやっているお店だからという理由だ。

「んでさ、お義父さんとは仲直り出来た?」

 七三め、また他人事のようにいいやがって。なにが「んでさ」なのかさっぱり意味が分からないし。

「歩み寄る気配なし。というか、あっち気付いてないもん」

 わたしにとって、現在父は冷戦中の相手。父が第二次世界大戦後のアメリカならわたしはソビエト。

 国交断絶にいたった理由そのものは、実に下らない。
 わたしの結婚や父の再婚によって現在お互いに小さな子供がいる状態なのであるが、その子育てや将来像への見解の相違。そこからくるもろもろのこと。不安、義務感、焦燥感。そうした積み重ねによるわたしの怒りが、ぬかづけのつけ具合がとか焼き魚の尻尾の焦げがとか些細な些細なほんとに些細な針の一刺しを受けて爆発、戦争勃発。

 ブチ切れるわたしに、なんだか分からないけど売られた喧嘩は買うぜと応戦する父。

 その翌日、もう前日の殴り合い蹴飛ばし合いをすっかり脳味噌から忘れ去っているようなのほほんとした父の態度に、わたしは再爆発。涙目になって、ぐすぐす鼻をすすりながら子供を連れて実家を飛び出した。
 かくして冷戦が始まったのである。

 すぐ近所だからという理由でよく戻っていた実家へは、まったく行かなくなった。

 でも継母のきぬさんには相談をしたり愚痴を聞いたりして貰いたいし、子供たちも父の子でありわたしの弟であるじゆんと遊ぶことを楽しみにしているから、そのうち少しだけ態度を軟化させて土日の昼だけは我慢して行くようになったけど、父が接近する気配を体内の探知器で感じ取るとわたしはゴキブリのごとくかさこそっと隠れてしまう。

 時折ばったり出くわしてしまうことがある。
 あたふた慌てるわたしに、平然としている父、という構図が余計にわたしの心の火に油を注ぐ。我が社の主力製品である「コシのありすぎるラーメン」なみの、それはもうこってりこってりとした油だ。

「だからもうさあ、あたしのこと大事じゃないんだよ、あの人。そりゃあ、もう家を出たわけだしい、当然かも知れないけど。それでも伸介と双葉がいるんだから、孫かわいいセットで娘もかわいいって本来なら思うところかも知れないけど、でもあっちにも子供しかも跡取りが生まれているわけでさあ。分かる? いってること分かる? 別にあたし酔ってないよ。まだお酒飲んでないし。こんな話を振られたからにゃあ、多少なりとも飲んじゃうかも知れないけどさあ」
「いやあ、自分とこに小さな子供がいようと、孫はかわいいし、娘だってかわいいだろ。血が繋がってんだからさあ」

 わたしの愚痴に、ミットはすっかり弱ったような表情だ。

「だからこそだよ。他人なら別に子育て感の違いが、とか、どうでもいいんだよ、虐待さえしてなきゃあ放っておけばいい。血が繋がっていて、これから嫌でもずっと付き合う関係だからこそ頭に来るんだよ。いいんだっ、あっちがこっちを大事にしないなら、こっちだって大事にしない。将来だって、介護なんかしない! 誰があんな豆腐屋の親父のオムツなんか替えてやるもんか」
「おれとの会話でお義父さんへの怒りをエスカレートさせんなよ。おれが仲を引き裂くみたいじゃんか」
「なあに? あんたどっちの味方あ? つうか裂かれてんのは、その髪の分け目だろうが。この七三があ」

 アルコールも入っていないというのに、わたしは胸倉掴まんばかりの勢いで旦那を睨みつけ、食いつくのだった。

     4
 はる、フットサル代表召集を都合により辞退。追加召集については現在のところ予定なし。



 わたしがそのことを知ったのは、会社の昼休みにこっそりWEBチェックをしている時だった。

 なにがあったのだろう。
 怪我というわけではなさそうだし。

 もちろん驚いたことに違いはないけど、でもその時はその程度の思いでしかなかった。
 今度機会があればそれとなく聞いてみよう、というくらいの。

 次に驚いたのは、昼からのフットサル練習の最中だった。
 義姉から、携帯にメールが入っていた。

 「フットサルのなんとか協会の吉田さんとかいう声の甲高い男の人から連絡があったよ。会社の連絡先も分かるので、そっちにかけてみるだって。だから、連絡が行くと思うよ」

 そのメールの到着に気がついて読んでいたところ、事務局からたか指名の呼び出しを受け、わたしは電話に出た。

 義姉からのメールの通り、吉田さんという声の甲高いフットサル協会の人からだった。

 話の内容は簡潔であった。
 野木春江がフットサル女子代表の召集を辞退したため、わたしを追加召集したいということであった。
 WEBでは追加召集の予定はないとのことであったが、急遽予定が変わって、やはり最初に決めていた人数を揃えることになったということだ。

 わたしは、即答しなかった。
 連絡先だけ聞いて、電話を切った。

 なんだかもやもやとした気分であり、それが即答を避けた理由であった。

 そうした気分になる理由は自分でも分からない。ただ、はっきり分かっている自分の気持ちとしては、不満であるということであった。
 なにが不満なのか分からないけど、とにかく不満、とにかく不快な気持ちだった。

 日本の代表として召集されるなど、アスリートの端くれとしてこんな名誉なことはないはずなのに。
 ちょっと前まで、代表に呼ばれることに憧れ、活躍する自分を想像してニヤけていたわたしだというのに。

 何故だろう。
 最高の気分になっていいはずなのにこんなに最低な気分なの、こんなに嬉しくない気持ちなの、なんでだろう。

 その答えに気づくのに、さして時間はかからなかった。
 それは……

     5
「おっす」

 ガードレールに半分お尻を乗っけて待っていたわたしの目の前に、歩道の人混みの中からふっと姿をあらわした彼女は、まるで昨日も会ったかのようなそんな気さくな挨拶の言葉を投げてきた。

「久し振り、先輩」

 わたしはガードレールにちょこんと座っている状態から、とんと歩道に降り立った。
 本当に、懐かしい。声は電話でよく聞いていたけれど、こうして面と向かって会うのは何年振りだろうか。

 わたしが大学に入って間もない頃に、東京の色んなところを連れて行ってもらったことがあるのだけど、それっきりかな。だとすると、八年振りということか。

 彼女は、現在のわたしを作った存在だ。
 だらだら中学の陸上部を続けているだけだったわたしと、フットサルとを引き合わせてくれた。

 気さくで飄々とした性格で、話していると心が安らぐ。
 あれこれたくさんの言葉を並べたり難しい言葉を使わずとも話す一語一語になんともいえない重みがあって、だからよく相談に乗ってもらったものである。人生の岐路に立つような悩み事を、いや、そこまで重いものでなくとも、とにかくなにかと気軽に。

 性格、立ち振る舞い、すべてがわたしに多大なる影響を与えているといって過言でない。

 彼女の名前は、はる
 同学年であるが、わたしは尊敬の念を込めて春江先輩と呼んでいる。

 その先輩と久し振りに対面したわけであるが、別に旧交を温めることが目的ではない。
 わたしがフットサル代表に追加召集されたことの相談に来たわけでもない。

 本来ならばそんな大事なこと絶対に春江先輩に相談しているところであるが、いまのわたしの気持ちとしては、自分が代表に選ばれたことなどどうでもよかった。
 ただし、わざわざ彼女に会いに来た理由としてはその、わたしが代表に選ばれたことと関係している。

 どうしても気になること、釈然としないことがあり、それが我慢出来ず、直接会えないかと頼んだのだ。

 忙しいから無理。
 一度はそう断られたが、しつこく頼み込んで、少しだけ会う時間を作ってもらえた。

 ここは文京区西にしかた
 東京ドームのすぐ近くだ。
 春江先輩はこの近辺で派遣社員として働いているのだが、仕事が何時まで続くか分からなくて夜に会うことも難しく、だから時間の計算が出来る三時休憩を使ってちょっとだけ抜け出してきてくれたのだ。

 この時間、わたしも普段ならばフットサルの練習をしているところなのだが、今日は体調不良と嘘をついて仕事が終ると同時に会社を出ている。

 春江先輩は、もともとお洒落さのかけらもないような、ワイルドというより単にファッションに無頓着なところがあったのだが、相変わらずどころか無頓着ぶりがが進行してしまっているようであった。

 とにかく着ている服がよれよれなのだ。
 古くてボロボロになっているだけではなく、洗濯してろくに乾かぬまま平気で取り込んで床の真ん中にほっぽり投げて、後日その積まれた山の中から適当に選んで身に着けている、そうかどうかは分からないけど、そういった印象を受けて当然だろうといいたくなるような外見であった。

 それよりなにより驚いたのが、髪の毛をばっさりと短くしていることだった。
 わたしの知っている春江先輩は、肩を完全におおう長髪で、普段はそれを無造作に束ねており、フットサルをやる時には丁寧にお団子状に結い上げていた。そのお団子こそが、春江先輩のトレードマークだったのに。

 これじゃあ絶対に縛ることは不可能だ、というくらい春江先輩の髪は短くなっていた。スポーツ刈りほど短くはないけど、そこら辺を歩いている若い男性の方が、よほど長くてぎゅっと縛れそうだ。
 短くなったというだけでなく、自分でハサミ片手に二分くらいで適当に切ってしまったような感じ。

「その、髪は?」

 そういう話を聞きにきたわけではなく、正直わたしのいまの心境としてはどうでもいいはずのことであるが、すっと本題に入ることが出来ずついつい質問してしまっていた。

「ん、ああ、金も時間もないからさ、月に一回自分でお風呂でやっちゃってんだ。短くなりゃそれでいいから、鏡見ないで二分くらいでさ」

 やっぱり。
 でも、金も時間もないって……
 電話ではまめに話していたけど、そんなそぶりまるで見せることなかったのに。

 春江先輩から指定されていた、大丈夫と分かっている時間にしか電話かけたことなかったから、だからこんな、一分一秒すらもったいないというような生活をしているなんてまさか夢にも思っていなかった。

「で、なに?」

 春江先輩は、久し振りの再会だというのにニコリともせず、かといってブスッとした表情でもなく。愛嬌ある無表情といった、受け手側に印象を任せるようなずるい表情で、用件を尋ねた。

「代表召集、辞退したよね」

 時間を作ってもらっている身なので、わたしも意を決し単刀直入に切り出すことにした。

「した」

 間を置くことなく、答えが返ってきた。

「どうして?」

 わたしもそれにかぶせるかのように、ほとんど間を置かず尋ねた。

「どうしてもなにも、それで追加召集されたんだろ。じゃ、いいじゃんか」

 春江先輩は、薄い笑みを浮かべた。

「よくない!」

 わたしは怒鳴っていた。
 歩道を歩いている若者たちが驚いて振り返るが、そんなの知ったことじゃない。

 スポーツに本格的に打ち込む者として、代表とはまさに目指すべき夢の舞台だ。誰だって、行きたいに決まっている。呼ばれて嬉しいに決まっている。

 でも、こんな不快な気分のまま受けるつもりなどはなかった。というよりも、どのみちもう受ける気などはなかった。

 野木春江がなにを考えているのか分からないというもやもやを抱えたままというのも嫌だったから、でも電話だとはぐらかされてしまうような気がして、だからしっかり目を見て話そうとわたしはここへ来たのだ。
 その結果がどうであっても、召集を受けないというわたしの気持ちがどう変化するわけでもないけれど。

「たぶんそのことだろうなとは思っていたけど、でもその件なら、こっちからいうことはなにもないよ」
「なにもないってことないだろ。こっちはそれで召集受けてんだよ」

 わたしは興奮すると、昔の癖が出て言葉使いが乱暴になる。

「だから、良かったじゃんかっていってんだよ」
「そんな、お情けで恵んでもらった代表なんかいるかよ! なんだそりゃ。あんまり舐めんな!」
「勝手にすればいいだろ。あたしは辞退したんだから、もう関係ないんだよ」

 怒っている時に相手が冷静な態度を取るとなおさら怒りが激しくなるものであるが、まさにいまがそうであった。
 わたしの頭の中は、怒りと動揺がないまぜとなり、すっかり混乱してしまっていた。
 指が、腕が、ぷるぷると震えていた。

 伝えたい感情、叩き付けたい感情は溢れるほどにあるというのに、それらを表現する言葉がなに一つ出てこなかった。
 仮に言葉を思い付いたとしても、喉や唇、舌が、乾いてべったりくっついたようになっており、まともに喋ることなど出来なかっただろう。

 ぶつけどころのないこの感情に耐えられず、ぎりぎりと歯ぎしりをすると、だんと足を踏みつけていた。

「もういい!」

 わたしは乾いた口でなんとかそれだけいうと(いえたか分からないけど)、さっと踵を返して人混みの中に飛び込み、この場を逃げ出してしまった。

     6
 しつこく頼み込んで強引に呼び出しておきながら、思うような反応を得られないことに癇癪を起こして逃げ出してしまい、そうかと思うとなにも連絡すらせずいきなり相手の住居へと訪ねてしまう。

 こんな鬱陶しくて面倒くさい女、そうそうはいないのではないだろうか。

 わたしは普段、自分のことをそこそこ常識のバランスのある人間だと思っているのだけど、いざという時に自分をおさえられるかは別の問題ということだな。
 つまりは、情緒が子供なのだろう。
 こんなんで二児の母なんだからな。笑い飛ばしたいけど、全然笑えやしない。

 いまは夜である。
 日曜日、九時三十分。
 世間一般には明日の朝から仕事が始まるわけで、深夜でないとはいえいきなり訪問するにはあまりに非常識過ぎる時間だ。

 分かっていて、来た。
 はる先輩が住んでいるはずの、アパートへ。

 よく通話をしていた時間帯なので、おそらく部屋にいるだろう。携帯ならともかく、固定電話にかけていたのだから。

 部屋のあかりは点灯しているけど、昔聞いたことのある住所へ初めて訪れたわけで、住んでいるのが春江先輩かどうかの確証はない。
 でも引っ越しをしたという話を聞いたことなどないし、固定電話の番号も最初に聞かされたまま十年間も変わっていないし、だからまず間違いなくここが彼女の住んでいるところだろう。

 こんな時間の訪問が迷惑かどうかなどは、まったく考えていなかった。
 だって、考えるまでもなく迷惑に決まっているのだから。愚問というものだ。

 わたしは建物の脇にあるところどころ錆び付いた金属製の階段を上って、通路一番手前にある203号室の扉の前に立ち、チャイムのボタンを躊躇うことなく押した。正直、ちょっとだけ躊躇いがなくもなかったが、あえて考えないふりをして。

 ブーーーーーッ
 と、古い団地のエレベーターのブザーのような、そんな呼び鈴の音がドアの向こう側で鳴り響いた。

「はい」

 すぐさま返事があった。
 間違いなく、春江先輩の声だ。
 足音、チェーンを外す音。

 来訪者をいぶかしがる気持ちがないのか、それとも誰が来るか分かっていたのか、覗き窓から確認するような気配もなく扉が開いた。

 野木春江が、姿を見せた。
 先輩は特に驚いた様子もなく、ただわたしの顔をじろりと睨みつけた。
 軽蔑の眼差しだろうか。
 分からない。
 確かに軽蔑されること、こっちはやっている。でもそれがどうした。元はといえば、大事なことを黙っているそっちの方がどう考えても悪いだろ。
 と、わたしは虚勢を張って、春江先輩の眼光に耐えて必死に睨み返した。

 このバトル、分が悪いのは明らかにわたしである。
 重々承知している。
 こんな時間にいきなり訪問しているということだけをとってもそうだし、そもそも春江先輩が代表辞退した理由をわたしに教えなければならない義務などないのだから。わたしが怒っていることは、彼女かすれば筋違いもいいところだろう。
 だけど春江先輩は、諦めたようにため息をつくと、

「ごめん」

 と、頭を下げたのだった。
 もしかしたら理屈の通じないバカの暴挙に激しく脱力して、それでうなだれてしまっているだけかも知れないけど。

 でもとにかく、この瞬間に唯一意味を持つものは、春江先輩の方からごめんと謝ったという事実だけだった。

 途端にわたしは、自分のことが恥ずかしくなっていた。死んでしまいたいくらいに。

 わたしはいつの間にか表情をやわらげていた。なにをいえばいいのか発する言葉が思い付かずにあたふたしていると、春江先輩が言葉を続けた。

「確かに、梨乃の側からすりゃあ、ああいう心境になるの当然だよな。ふざけんな、って思うの当然だよな。あたしが悪かった。悪気があったわけじゃないんだけど、でもあまりにも想像力がなさすぎた。余裕がなくてさ。ほんとに、ごめん」

 春江先輩は、また深々と頭を下げた。
 やはり、このバカの暴挙にうなだれていたのではなく、本当に謝って頭を下げてくれていたのだ。
 そんな態度を取られて、申し訳ないのはこっちの方。わたしも、深々と頭を下げていた。

「こっちこそごめん! あの、その……こっちこそ意地になっていた。本当にごめんなさい! ちょっと理由を知りたかっただけなんだ」
「分かった。中に入る? 本当は誰にも見られたくなかったんだけど……ま、あたしと梨乃との仲だもんな。会っていきなよ」
「え……」

 なに、会っていくって?
 部屋の奥に、誰か人がいるの?

 確か、東京の高校へ進学すると同時にここに住むことになって、それきりずっと一人暮らしのはずだよな。

 彼氏が出来て遊びに来ている? それとも、極秘結婚していて旦那さんだとか。でもそれなら、こんなボロいところで暮らしてはいないか。先輩には悪いけど、ここ相当に安そうなとこだからな。よく床が抜けないなとびっくりするくらい。

 でも、もしもそうしたことが原因で代表を辞退したというのなら、わたしとしてはあまり良い気分じゃあないな。

 わたしもフットサルに全情熱を傾けるなどとのたまっておきながら、妊娠出産で何年もろくろく動けずに能力が落ちていくだけの時期があった。
 でもその時わたしは、しがない大学生であり、こうして代表に縁の出来るような、そんなことつゆにも思っていない頃であり、実際にそういう身分だった。
 でも春江先輩は、既に代表に選ばれたことがある、ある意味で責任ある身分なのだ。ならば仮に引退するとしても順番を守り、筋を通したものであるべきだろう。

 などと勝手な想像で不満を感じているわたしに、この後ガツンと頭を拳大の石でブン殴られるような衝撃が襲うことになるなどとは。
 わたしの人生というか価値観を根底からくつがえしかねない、そんな出来事が待っていようとは。

 扉を開けたところがもう部屋であり、わたしは促されるまま玄関に靴を脱いで、上がった。
 ふすまが半分開いており、その向こうの部屋は明かりがついておらず、真っ暗だ。

「お母さん、友達連れて来たよ」

 春江先輩はその隣の部屋に入ると、壁のスイッチを押して明かりをつけた。

 中央のベッドに横たわっている女性が、閉じていた目をカッと見開いた。
 起きている。彼女は見開いた目で、瞬き一つせずに静かに天井を見上げている。

 いま、お母さんといっていた。
 そうだ、確かに見た覚えがある。
 中学生の頃に、何回か会ったことがある。
 春江先輩の、実のお母さんだ。

 でも、本当にそうだろうか。
 だって、あまりにも違い過ぎる。
 あの時はまだ二十代でも通用するくらいに若かったのに、いま目の前に横たわっている女性は、すっかり干からびてミイラのようであり、老人にしか思えない。
 たかだか十年と少しで、人間の外観がここまで変わるものだろうか。

 分からない。
 春江先輩は間違いなく、お母さんと呼んでいたけれど。

 でもそれはいい。外観の変化なんて、それぞれだ。
 それよりなにより分からないのが、こんなにしっかりと目を見開いて起きているというのに、なんで電気が消えていたんだ。
 電気をつけたことに反応して目を開いていたけど、眠っていたのではなく最初から起きているかのように思えた。
 それだけではない。
 友達が来た、と実の娘が声をかけたというのに、天井を見上げたままこちらを見ようともしないのは何故だ。
 まさか……

「驚いた?」

 春江先輩はなんとも寂しそうな表情で、横たわる女性を見下ろしていた。

「脳の、障害なんだ」

 なにかいおうとするものの、なにもいえないでいるわたしに、春江先輩はそう続けた。

「脳の……」

 おうむ返し的に、わたしはようやくそれだけ口に出すことが出来た。

「交通事故でね。大怪我を負ったものの生命だけは助かったんだけど……でも、助かったといえるのかどうか。頭を強く打っちゃってね。治らないだろうっていわれている。おそらく一生このままだって。呼吸は普通にしていて、眠れば目を閉じるし起きると目を開けるけど、でも、なにも見えてはいない、なにも聞こえていない。つつけばびくりと反応するし完全な植物人間じゃあないんだけど、でも同じようなもんだ」

 春江先輩は、淡々と続ける。

 食事は、なにかを口に入れてあげれば咀嚼しようとするものの、飲み込むことが難しかったり、つっかえた時にむせて吐き出すといった反射行動が出来ないため、ろうといって栄養のある液体を直接胃に送っている。
 手術で、お腹に穴を開けて管を通してあって、その管へと流し込むのだ。

 介護は雇わずに、すべて一人で行っている。
 昼の食事は、会社に事情を話して一時間多めに休憩をもらっており、一度ここへ帰ってくる。
 胃瘻は特別な資格を持った者、もしくは家族しか行うことが出来ないため、給料が一時間分少なくなろうと、その方が遥かにお金がかからないのだ。

 夜に帰ってくると、まずすることは下の世話。一日ほったらかしなので、凄い状態になっているらしい。

 お金さえあればもっと楽に生活出来るのだろうけど、春江先輩には父親も頼れる親族もなく、身内は母親だけであるため、もうどうにもしようがなかった。

 髪の毛を自分で適当に切り落としているのも、以前自分でいっていた通りお金も時間もないからだ。

 母親の世話が一通り済むと、自身の食事。その後は、ただずっと母親の横についていてやる。
 色々と話しかけてやりたいが、いっさいの反応を見せない者を相手に延々と喋り続けるのも精神的に相当きついらしく、よく友達に電話をかける。喋っているところを、隣で横たわる母親に聞かせるのだ。

 だから最近、春江先輩の方からよく電話がかかってきていたんだな。
 これまで通りの一人暮らしだと思っていたから、笑いながらバカな話をしてしまっていたけど、隣には先輩のお母さんがいたんだ。
 先輩、お母さんに治ってもらいたくて必死だったんだ。

「お母さんには昼一人ぼっちで辛い思いさせちゃってるけど、でも、おかげでかなりお金も貯まってきてるんだ。あと一年も頑張れば、仕事をやめて、ずっとここで一緒にいるつもり。安アパートだからさ、あたしが食費を切り詰めれば五年以上は暮らせると思う。たぶんお母さんが死ぬまで、ずっとそばにいてあげられると思う」

 そんな話を聞かされて、いえるはずがなかった。
 介護なんかしなくていいから代表に行け、などと。
 恵んでもらった代表などいるか、などと。
 いえるはず、なかった。
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