ブストサル 第四巻

かつたけい

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第五章 生まれ変わるきっかけ

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 すっと身体を密着させた瞬間に足を深く突き入れるようにして、そして奪い取った。
 これで何度目だろうか。もう覚えていられないくらいだ。

 おーっ、と飽きもせずに周囲からまた称賛の声が上がった。ゆうからボールを奪ったということが、彼女らにはそれほど凄いことらしい。

 わたしはくるりと振り向き、ボールを右足で軽く踏み付け、佐治ケ江と向かい合った。
 こんと軽くボールを押すと、すっと佐治ケ江へと迫った。

 それほど意表を突いた動きをした覚えはないのだが、とにかく佐治ケ江が一瞬の躊躇を見せた。その間にわたしは反転して、佐治ケ江の身体へ背を当てていた。

 佐治ケ江の荒い息遣いを耳に、ボールを踵で後ろへと蹴った。佐治ケ江の股下を通すと同時に、わたしは再度反転、彼女の脇を抜けて転がしたボールを難なく回収した。
 また、周囲からのどよめきがあがった。

 今日の佐治ケ江、調子が悪いのだろうか。
 わたしも成長しているとはいえ、いくらなんでもやられ過ぎだ。代表の主力になりつつある存在だというのに。

 心配しつつも、でも攻めの手は緩めない。
 わたしは調子の悪い佐治ケ江を、ペースを落とすことなくどんどん攻め続ける。

 ただでさえ佐治ケ江は体力がないのに、なおかつわたしに翻弄されて、完全に息が上がってしまっていた。

 わたしは容赦せず、何度も何度も佐治ケ江からボールを奪い取り、たまに奪われてもすぐさま奪い返した。

「やめやめ、終了!」

 佐治ケ江が床に膝をついてしまい、さすがにもう勝負にならないと思ったか、監督がストップをかけた。

 わたしは佐治ケ江の腕を掴んで引っ張り起こすと、ピッチの外へ出てタオルで汗を拭いた。

 今日は、合宿の二日目だ。
 いまなにをしていたかというと、他の選手たちにぐるり取り囲まれた輪の内で、わたしと佐治ケ江の二人でボールの奪い合いをしていたのである。
 それまではみんなで普通に練習していたのだけど、突然監督から名指しで呼ばれたのだ。

 どうしてわたしと佐治ケ江なんだろう、と思わなくもなかったけど、それはともかく久し振りの対決なので結構熱くなってしまった。

「だいたい分かったけど、ま、一応確認しておくか」

 監督は腕組みしながらそんな謎めいたことをいうと、

「そんじゃあ今度はゆうと、ほたる、やってみろ」

 無茶でしょ!
 わたしは心の中で叫んだ。

 初召集じゃあないんだから佐治ケ江がどれだけ体力がないか知ってるだろ。というか初召集時にしたって、そうしたところを理解した上でFWリーグから呼んでるはずだろ。

 いま終えたばかりのわたしとの対戦だって、すっかり息が上がってわたしから奪われまくりだったじゃないかよ。

 と、わたしは心の中で思っただけであるが、仮に監督にそう提言したところでなにも変わらなかっただろう。

「始めっぞ。ピーーーーーッ!」

 監督が、笛を手にしているくせに笛を真似た声を上げた。

 こうしてタイマンバトル第二段、佐治ケ江優とながれやまほたるとの対決が始まった。

 まあ佐治ケ江は、体力こそ絶望的に酷いが疲れていても異常な技術レベルを発揮するから、そこそこよい勝負にはなるのかも知れない。
 そう思っていたわたしの予想は、甘いの一言だった。

 佐治ケ江優、まさかここまで凄いとは。

 はあはあと息を切らせていまにも倒れそうなくせに、一瞬の隙をついて流山ほたるからボールを奪うと、それから約一分間、監督からストップがかかるまで完全にボールを守り切ってしまったのである。

 やっぱり、わたしのよく知る佐治ケ江だ。
 異常だ、あの能力は。

 わたしは昔から見てきて特徴を理解しているから、だからなんとか勝つことが出来たというだけだな。

 いや……
 果たしてそうだろうか。
 高校や大学くらいまでなら、確かにその理屈も通る。
 でも、確か流山ほたるもFWリーグの選手だよな。

 FWリーグは日本の女子フットサルリーグ最高峰。どのクラブにだってスカウティングに優れたスタッフがいて、佐治ケ江クラスの要注意人物は徹底的に研究されているはずだ。

 独学で攻略法を見つけ出したわたしよりも遥かに正確で、そしてそれを実践する選手の能力も遥かに高いはず。

 ということは、わたしが佐治ケ江に毎度勝ててしまっているのはそれ以外の問題? 相性?
 いや、そんな単純なものではないだろう。

 じゃあ、なんだ。
 なんでわたしは大学時代に佐治ケ江に勝てた? さっきだって、なんでわたしは佐治ケ江に勝てた?

 などと考えていると、佐治ケ江対流山ほたるの一対一が再び始まった。
 いや、一対一ではない。
 さらにさいとうまで投入されて、二人掛かりで佐治ケ江へと当たっていた。
 いくら佐治ケ江でも、それはさすがに無理だろう。

 と思っていたわたしの口があんぐり開いて、顎が床に突き刺さりそうになった。
 なんと佐治ケ江は、今度は相手が二人掛かりだというのにまたもや一分間を守り切ってしまったのだ。
 これにはもう、ただ驚くしかなかった。

「ほんとにあいつ、足元の技術だけは凄いよなあ。触れただけで吹っ飛ぶくせにさあ」

 主将のはたなかこう、悔しさに余計な一言が出たようだが、でも素直にその技術を認めてもいるようだ。

 確かに凄い。
 高校の頃から代表級の逸材だと信じて疑っていなかったけど、こうして日本代表の主将が褒めているのを目の当たりにするとわたしも嬉しくなってくる。

 でも、なんだか腑に落ちない。
 脳裏に先ほどの疑問が再び浮かび上がる。

 日本代表を二人同時に相手にしても簡単にはボールを奪われない佐治ケ江に、何故わたしは勝ててしまったのかと。
 もちろん選手の能力は保持や奪取だけで決まるものではないが、でもどちらの能力も本来佐治ケ江の方が圧倒的に上のはずだ。

 大学の時の対戦では、指揮官としても個人としてもわたしは佐治ケ江を抑え切った。それだけしっかりと佐治ケ江を侮らずに対策をしたからだ、と、これまではそう思っていた。でも、それだけじゃないような気がしてきた。

 ひょっとして、実はわたしが凄い?
 というのは冗談だ。自分に能力がないとはいわないけれど、先ほども述べた通り保持や奪取の能力は圧倒的に佐治ケ江が上だ。足元の技術全般や、相手の行動を予測する能力も。
 どういうことなのだろうか……

「おい、タカ。……タカ! 聞いてんのか、そこのブス! 返事しろや、ブス! ブス! ブス!」

 監督の怒鳴り声に、わたしは気付いて慌てて返事をした。

「はい!」

 先ほどからタカタカって耳に入ってはいたけど、わたしのことだったのか。
 そう呼ばれたことなんて一度もないから、聞き流してた。

「今度はお前が、ほたるとやってみろ」
「え?」

 いままで佐治ケ江と戦っていた流山ほたると?

「えじゃねえよ、とっとと立てやブス!」
「はい!」

 わたしは再び輪の中に入った。
 なんなんだ、この監督、一体なにを考えてるんだろう。

 まるで、わたしと佐治ケ江を試している感じだ。
 絶対に将来のエースになるであろう佐治ケ江に特別な試練を与えるというのなら分かるけど、わたしにそんなことしたってなんの意味もないのに。

「さて、ゆうに勝った天才おばさんの、実力を拝見しようかあ」

 お局ファイブの一人である桐生きりゆうたまに冷やかされながら、わたしと流山ほたるの対戦が始まった。

 そして一分が経過。
 詳しい内容は意味がないので省くが、結果はわたしのボロ負けであった。

 今回の合宿ではわたしと同じ非主力組である流山ほたるであるが、彼女の見せる技術の前にわたしはまるで歯が立たなかった。

「酷いなこりゃ」

 主将が思わず苦笑いをしている。
 確かに、酷過ぎた。

 先ほどからのもやもやについて、ここで一つ判明したことがある。わたしは、佐治ケ江に強いだけなのだ。

 昨日はおかにいいようにやられて落ち込んだ。
 あのわたしこそが、本当のわたしだったのだ。

 先ほど佐治ケ江を負かしたことで、わたしも昔に比べると格段に成長しているのではないか、そんな思いがちらりと頭をよぎらなくもなかったが、それは勝手な幻想に過ぎなかったのだ。

 一日目で現実を突き付けられたにもかかわらず、二日目の途中で気づく。鈍いというか、思い込みの強いタイプだよな、わたしは。

 力など相対的なものではあるが、ここでのわたしは、やはりお情けで追加召集を受けたという事実の通りなのだ。その程度の力なのだ。

 わたしは、社会人リーグとはいえ選手兼任で監督もやっていて、いわば指導者でもあるわけで、だから日本のフットサル界においてそこそこの実力はあるのではと思い込んでいた。
 代表に呼ばれてみたら昨日のあのていたらくであったが、まだ初日だから慣れてないだという思いも少なからずあった。

 そうした思いは、いま、完全に崩れた。
 結局、わたしは呼ばれちゃいけない代表だったのだろうか。
 情で推薦されただけの、そんな存在でしかないのだろうか。

 子供を産んで一時期相当に体力は衰えたけれど、すっかり回復したどころか練習に練習を重ねてむしろより成長している。そう思っていたというのに、いざ蓋を開いてみたらこんな程度の実力でしかなかったのだからな。

 でも、監督も監督だよな。戦力になるか確かめたいのは分かるけど、他の選手が見ている中であからさまにおとしめるようなことしないで欲しいよ。
 恥かいただけじゃないか。
 余計に落ち込んだだけだじゃないか。

 ほら、はやしばらかなえが不満そうな顔をしてこっちを見ているよ。
 当たり前だよな。
 ご自慢のゆう師匠の価値が、汚されてしまったんだもんな。
 わたしに確固とした力があって、それで佐治ケ江を打ち破っていたのならともかく。

 でも、あれだよな。
 せっかく呼ばれた代表合宿なんだし、ここは開き直らなきゃあ勿体ないよな。

 わたしはわたしなりに成長して、なにかを掴んで持って帰る。
 とりあえず、それだけでもいいじゃないか。

 もしも実はわたし自身も気づいていないような能力があって、それを監督が気付いてくれればまた呼んでもらえるかも知れないし。

 よし、残り三日と半分、もう落ち込んだりせず前向きに行くぞ!
 自分にやれること、やるぞ!
 全魂全走っ、だああああああっ!

「ダーーじゃねえよ、ブス! 猪木か。聞こえねえのか? 終わったんだからとっとと出ろよブス。耳悪いんか脳が間抜けかどっちだ?」
「あいた!」

 わたしの顔に、監督の投げた笛が当たった。

「すみません」

 まあ開き直ったからには別にどんな扱いでもいいんだけど、そのブスってのだけやめて。

     2
「あー、つっかれたあ。筋肉痛で死ぬう」

 シャワーの湯煙の中でしゃかしゃか髪の毛を掻き回しながら、わたしはそんなぼやき声をあげ続けていた。

 練習後、と一緒にシャワーを浴びているところだ。
 といっても二人は薄い仕切りで区切られているけど。

「でもほんま、梨乃先輩とこうして一緒になるなんて思いもしませんでした」

 仕切りの向こうから、佐治ケ江の声。

「そりゃあたしもだよ」

 わたしは仕切り板に手をかけて、隣のスペースにいる佐治ケ江へとぐいと身を乗り出した。
 一緒に脱衣所で素っ裸になってシャワールームに入ったというのに、急に覗かれたためか佐治ケ江は反射的にびくりと身体を震わせ両腕でおっぱいを隠した。といっても隠すほどもないけれど。

「ああ、ごめん」

 わたしは乗り出していた身体を引っ込めた。
 なにげなく覗いてしまっただけだけど、あんな反応をされてわたしの方がドキドキしてきてしまった。

「でもさ、いきなりサジと一対一をやれっていわれた時はびっくりしたよ」

 なにがでもさなのか自分でも分からないけど。

「あたしもです。監督、うちがいた大学のフットサル部でコーチをやっていたことがあるけえ。一昨年に臨時で半年間だけ、じゃけえ面識はなかったんじゃけど」
「ああ、それであたしらが対戦した記録を見て興味を持ったってことなのかな」
「きっとほうじゃと思います」

 わたしのいたしゆうめいいん大学と佐治ケ江のいたがわ女子大学は、地域リーグ覇者の集まる大会で戦ったことがある。
 それぞれのフットサル部には詳細な記録が残っているだろうし、一度興味を持ったのであればフットサル関係者なら試合動画の入手くらい容易だろうし。

「なるほどね。あれ、そういえばサジさあ、高校の頃は標準語喋ってたよね」

 いまさらではあるが、ふと突然に気になったのだ。
 そういややたら広島の言葉で喋ってないか?って。
 以前も、ポロリ出てしまうことはあったけど。

「ああ、やっぱり梨乃先輩も気になりますか? 地元に誇りを持ちたくて、というよりも忘れたくなくて、意識してそうしとるんです」
「そうなんだ。いいね、そういう考え。でも変わってるよな。関西人は経験上どこでも意地でも絶対に関西弁って感じだけど、それ以外の地方の人ってよそに行くと自分の地元の言葉を話さなくなる気がするけど」
「はい。ほじゃけえ最初は恥ずかしかったけど、慣れるとちょっと気持ちええですよ」

 ……なんか、意外。
 佐治ケ江がそんなこというなんて。

「サジ、変わったね」
「ほうですか?」
「さすが王子に会うたび一発ギャグ無理矢理いわされて鍛えられているだけあるな」

 よくメールが来るんだよな。「先輩、今日はサジにコマネチ仕込んだよ~」とか。動画送ってっていってるのに、全然送ってくれないんだけど。

「一度もいったことないですよ! 確かに王子はいわせようとしてきますけど。ほうじゃからって王子のいうこと真に受けないで下さい!」

 え、そうなの?

「王子が既定事実にしてしまおうとしてただけか。いや、なんか、ちょっとだけおかしいとは思ってたんだよな」
「本当にちょっとだけと思ってたんなら、梨乃先輩の方がおかしいと思います」

 うお、佐治ケ江にズバッとぶった切られた。

「いや、ごめん。サジもいうようになったね。話変わるけどさあ、今日の先輩方、なんか裏の顔が凄かったねえ」
「大きな声で話すと聞こえますって!」

 佐治ケ江はびっくりしたのか、こそこそとした小さな声で注意をしてきた。

 裏の顔とは、要するにお局ファイブのわたしへのいじめのことだ。
 去年の代表新人であるのうまいもやはり初合宿では相当にいじめられたらしいが、彼女曰く、わたしが受けているいじめはその非ではないくらい酷いものらしい。

 想像してみるに、わたしは既婚者で子供が二人いるということと、はるの辞退による追加召集であったこと、なおかつわたしの性格上の問題で先輩たちとのファーストインプレッションがちょっと目立つものになってしまったこと、などが原因であろうか。

「まあ、あたしはあんまり気にしてなかったけど。だから結構のびのびした気分でやっちゃったけど、それが余計にイラつかせちゃったのかな。でも大学の時なんか、あれより遥かに理不尽な目にあってたからね」

 同じミスしたってだけで、男子もいる中で全裸に剥かれて引きずられたこともあったからな。
 人間カーリングとかいって、つるつる廊下を端から端までぶん投げられるように滑らされたり。

 そんなことされたのはわたしだけで、つまり結局は先輩に平気でたてつくわたしの性格に問題ありということなのだろうけど。

「そういう気持ちの強さ、羨ましいです。あたしなんかてんでダメで……ほやから、あたしは梨乃先輩にいつまでも勝てないんじゃろなって思うんです」

 いや、気持ちが強いんじゃなくて、銀河規模の理不尽を経験してしまったからちょっとやそっとじゃ動じなくなっただけなんだけど。まあ、そうしたことを辛いと思わないほどに、わたしの感覚も相当に鈍いんだろうけど。

「ただ鈍感なだけだよ。というか、いつまでも勝てないってなんだよ? 今日の一対一のことなら、別にあたし勝ったなんて思ってないけど」
「いえ、あたしの負けです。……悔しいですけど」
「よく分からないけど……。でもやっぱりサジ、変わった。悔しいだなんて、面と向かっていうような性格じゃなかったよ。それどころか、悔しいという感情自体がなかったというか」
「一人でボール蹴っとりたいだけじゃのに。ってずっと思ってましたからね」

 そうそう。協調性がなく集団に入りたがらないどころか、競争心もまったくなかった。
 単純に成長したといっていいのかは分からないけど、本当に佐治ケ江は変わったよな。
 フットサルのことに関していえばわたしなんかより遥かに遠くまで行ってしまっているのを感じているけど、人間としても遥か遠くに行ってしまった気がする。

 でも、フットサルに関して、本当に佐治ケ江はわたしより遥か遠くに行ってしまった?
 おそらく、それは間違いのないこと。実績を考えても、それは当然。

 じゃあ、わたしはなにに引っ掛かっている?
 過去に行なわれた佐治ケ江とわたしの二人の勝負、それにことごとくわたしが勝ってきてしまっている、その点だろうか、やっぱり。

 そんなことを考えているうちに、予期せぬことが起きていた。
 頭の中で抱えていた色々なもやもやが、すっきりと晴れていくような、そんな気持ちが生じてきていたのである。

 それは不思議な感覚だった。
 わたし自身に暗雲がまとわりついて身動きが取れなくなっていくほどに、進む道の視界が晴れていくのだから。

 言葉にするのは難しいのだけど、どういうことなのか、なんとなく理解出来ていた。
 それはわたしにとって、嬉しくもあり、寂しくもあるものだった。

「まあ正直いうとあたしは今日もね、絶対に負けてたまるかと思ったし、負けないでよかったという気持ちもあった。勝ったなんて本当に思ってはいないけど、とりあえず負けなくてよかった安心感というかなんというか。でもね、それももう終わりな気がするんだよね。あたしは敗北感という悔しさがすなわち達成感という奇妙な精神状態で、この合宿を去ることになるような気がする。で、それがサジの率いる日本代表を強くするんだ」

 なんとなく思いついたままの言葉を、わたしは口に出していた。

「なにをいっているのか、よく分からないんですが」

 わたしの言葉に寂しさ部分だけを受け取ったのか、佐治ケ江のもともと高くないトーンがさらに落ちていた。

「あたしも分かってないよ。ただ今日ね、サジと勝負をさせられたことを考えているうちに、なんとなく漠然とそんな思いが浮かんだんだ。ま、なにが起きてもいいように、とにかく残りの日も頑張って充実したものにしよう。それじゃお先に」

 わたしは、ふんふん鼻歌を歌いながらシャワー室を後にした。

     3
選手、サインくださいっ!」

 建物を出たところで、出待ちをしていたと思われる小学校中学年くらいの女の子が三人、元気よく声を揃えてきた。

 無理じゃけえ、とか恥ずかしがって断るかなと思ったら、佐治ケ江は「いいですよ」と色紙とマジックペンを受け取り、ギュギュギュっとペン先を押し付けてサインを書いた。FWリーグ所属の選手は、こうしたことに誰もが慣れているってことか。
 でも、下手くそな字だな。力が入り過ぎて、ぶるぶる震えちゃってるよ。

 佐治ケ江って、字がとても上手なはずなんだけどな。きっと緊張のあまり、サインはいつもこのようになってしまうのだろう。

 高校時代から佐治ケ江の成長をひっそり喜んできたわたしだけど、まるで成長していない部分があるってのもいいな。最近佐治ケ江が逞しく見え過ぎだったけど、久々に可愛らしく思えたよ。

 しかしあれだね、スポーツ選手って本当にこういった練習場なんかでサインを求められたりするものなんだな。
 プロ野球選手やJリーガーなんかは、子供たちにサインを書いてあげてるシーンをテレビで見たことあるから実感出来るけど、他の競技もおんなじなんだな。

「有名人だねえ、サジちゃん」

 サインを書き終え渡した佐治ケ江に、わたしはからかうように肩をぶつけた。

「あたしの師匠ですもん」

 林原かなえが何故か得意そうに、反対側から佐治ケ江にぶつかった。
 こいつは実力は凄いけど性格が悪いから、空気察して誰もサインなどねだらなさそうだな。
 まあ、もともとの知名度が違うか。

 かなえも代表に選ばれるくらいの実力だからFWリーグでは大活躍してるんだろうけど、FWリーグ自体テレビでほとんどやらないもんな。

 佐治ケ江なんかは、初のプロ契約選手ということでやたら記事にされていた時期があったし、だから知名度がまるで違うということだ。
 サインってミーハーなものだから、実力があろうとも知らない選手のものなんか別に欲しくもないだろうし。

「そこの君たちい、あたしもサイン書いてあげようか? 今日はちょっと余裕あるし」

 はたなか主将が恩着せがましくでしゃばってきたよ。
 でもまあ、フットサル好きの子なら喜ぶかな。長年主将をやっていて、そこそこ有名なはずだもんな、この人。
 と思ったら、

「いえ、いいです」
「もう落ちていくだけの選手のはいらないよねー」
「ねー」

 いまどきの子供は実にシュールだった。

「おいこらあああ、年齢だけでいってんだろそれ! あたしのピークは四十なんだよ!」

 主将はファンにブチ切れた。

「もうすぐそこじゃないですか」
「まだ五年も六年もあるっつの」
「とにかくサインはいいや。じゃ、佐治ケ江選手、ありがとうございました。応援してます! いこ、みんな」

 こうして台風一号二号三号は、フットサル女子日本代表主将の心に壊滅的なダメージを与えつつ去っていったのだった。

 ぽかんと口を開けてその様子を見ていたわたしだったが、なんだかじわじわとこみあげてくるものがあり、やがてプッと吹き出していた。
 大爆笑していた。

 おかしい。
 楽し過ぎるぞ主将。
 これが笑わずにいられようか。
 お腹痛い。
 死ぬ。
 こらえられん。

 わたしはひざまづいて、腕をついて、四つん這いになってなお笑い続けていた。

「てめえ死ね!」

 主将の絶叫。わたしは四つん這いの後ろから股間をぐがっと蹴り上げられていた。下半身持ち上がってくるんと回って背中叩きつけられるんじゃないかってくらいの、容赦ない一撃だった。

「ぐおおおおおっ、やばいとこに爪先めり込んだあっ!」

 口で絶対にいえないようなところに、突き破られるような激痛。わたしは悶絶して、ごろごろと転がった。

「いってえええええ。うがああああああ、くそおおお。主将お、三人目が作れなくなったらどうしてくれるんですかあ。予定ないけど。いてええええ、裂けるうう、つうか裂けたああああ」
「もともと裂けてんだろ。あたしの心の方がもっと痛いんだよ!」
「こっちの痛みだって、行かず後家には分かんないですよ!」
「なんだこらあ! 殺すぞお!」

 などとお局軍団の頭領と不毛な争いをしていると、いつの間にかまた違う子たちがやってきていて、なんとなんと、林原かなえにサインをおねだりしているではないか。
 代表スタッフの一人を掴まえてカメラマンお願いして写真撮影なんかしてるし。

 やつのサインを欲しがるだなんて。
 君たち、林原かなえという生き物がどんな性格なのか知らないだろ絶対。FWリーグで活躍しているということくらいしか。

 まあ仮にそうであろうとも、この子たちにとっては宝になるんだろうな。
 サインも、写真も。

 あこがれの選手の存在が自分の励みになって、今度は自分がそこをめざして頑張って。
 夢は受け継がれていく。

 大袈裟かも知れないけど、でもそう考えると日本代表ってのはやっぱり凄いよな。
 その競技における国内最高峰実力者なんだもんな。

 サッカー男子代表ほどの知名度なんかなくとも、そのスポーツを好きな人にはやっぱりヒーローヒロインなんだ。畑中主将のように、サインの押し売りを拒否されるような人物も稀にはいるだろうけど。

 わたしは補欠の補欠のような存在ではあるけれど、でも日本代表候補なんだよな。そう思うと、なんだか改めて粛々とした思いにかられるのだった。

     4
「いいお風呂だったあ! きゃぽきゃぽー」

 はやしばらかなえが奇声を発しながら横から跳ね飛んできて、どかあっと勢いよくソファの限界まで身体を沈み込ませた。

「シャワーしっかり浴びてたくせに、また入ったんだ」

 ともえかず。そういやわたしと入れ違いに、二人でシャワールームに入っていったな。

「いいじゃん、湯舟が好きなんだから」

 練習施設内でシャワーを浴びて、それから空調完備のバスに乗ってここへ戻ってきたのであるが、かなえは到着するなり早々にこのホテルのお風呂に入ったようである。

 ここは、わたしたちが宿泊しているホテルのロビー。ぐるりと円を描くように並べられたソファがあり、わたしと和希はここで話をしてくつろいでいたのだが、邪魔なのがやって来たものである。
 などと思っていたら、

「ん? おお、土産物屋だっ」

 突き当たりのスペースにそのようなコーナーがあるのに気が付いた林原かなえは、ぐいっとソファから腰を上げ跳ね起きると、その勢いで駆け出していた。
 ほんと落ち着きのないやつだな。

「かなえちゃん、知らなかったの? ここ半分貸し切りにしててほとんど他のお客さんを見ないけど、でも単なる観光客用のホテルなんだから、お土産コーナーくらいあるよ」

 和希は立ち上がった。

「あ、そういえばあたしも会社の人にお土産頼まれてたんだよな。なんかないかな」

 わたしも立ち上がると、土産物コーナーへと歩き出した。

「あたし先に部屋で休んでますね。おやすみなさい」

 と和希はくるり反対方向、階段の方へ。
 なんだ一緒に土産物を見るんじゃないのか。

 かなえと二人ってのも嫌だけど、しょうがないか。
 わたしは土産物屋ののれんを潜り中に入ると、ゆっくり歩きながら棚に並べられている物を眺めていった。

 ゆべし。
 まきがき
 なんだかよく分からないチョコ菓子。女子高生に人気、とか、もう止まらない、キターーー、とかやたら過剰に言葉で修飾されて商品の写真が半分隠れているくらいなんだけど、本当にこれ岡山土産?
 気を取り直し、ようかん
 おおまんぢゅう。
 お、どうでもいいが、まりもっこりのキーホルダーを発見だ。まだあるんだな、これ。なんか分からないけどブームになったんだよな、わたしが高校生の頃。その前のゴーヤーマンブームとかさ、懐かしいな。

「ねえ、かなえちゃあん」
「ん?」

 わたしは手に取ったまりもっこりのキーホルダーを、林原かなえの目の前にぶら下げた。

「これなあんだ。大きな声で答えたら、買ってあげようかあ? 特に最後の四文字をおっきく」

 彼氏いたことないなどといっていたから、きっと純情なんだろうなと思い、ついからかってしまったのであるが、次の瞬間、かなえはキーホルダーをもぎとるとバシリとわたしの顔に投げ付けてきた。

「いって、目に入ったっ! お前、売り物になんてこと」

 床に落ちて欠けでもしたら買い取らなきゃならないとこだったじゃないか。
 まあ、わたしの自業自得なんだけどさ。

 かなえはむすっとした顔のまま、棚の反対側に回ってしまった。
 と、わたしの背後から、野太い声。

「てめえはセクハラおやじか」

 自分こそセクハラおやじじゃないかというような声の主、主将のはたなかこうであった。みずいねばりも一緒だ。

「ああ、お土産ですか? お局ファイブのみなさん」
「それいっちゃうかなあ? お局とかさあ。知ってるよ、そう陰で呼ばれているの知ってるよ。でもそれを、当たり前のように本人の前でいうかなあ」

 主将は、なんともあきれたといった表情を浮かべている。

「あ、そうか。そうですね。じゃあ聞かなかったことにしてください」
「お前の存在そのものを、知らなかったことにしたいよ」
「主将たちも、お土産ですか?」
「バカ? FWリーガーは常に全国を飛び回ってんだよ。いちいち地方に来たくらいで、ゆべしとか萩の月とかもみじ饅頭とか白い恋人とかイブリガッコとか買うと思う? 酒でも売ってないかと思ってさあ、来てみただけだよ」

 と、お局様たち三人はお土産の中を物色し始めたのだった。
 いかつい顔が三人、なんだか暴力団の取り立てや差し押さえの撮影シーンみたいだな。

「お酒はホテルで売ってるとしても、ここと違うところじゃないですか? 上の階の、エロビデオ用のカード販売機が置いてあるとこのすぐ近くにある薄暗い自販機コーナーとか。確かカップ麺の隣に、置いてあったような気がします」

 わたしは親切に教えてやった。もし記憶違いだったらぶっ飛ばされるのに、優しいなわたし。

「ああそう? じゃ、あとで見てみよ」
「あたしらが買っとくから、こうはなんかここでつまみになるものでも探しといてよ」

 そういうと水田稲子と毛針奈津子は去って行った。

 わたしの頭に生じた疑問。
 この三人、この合宿になにしに来てるんだろ。ということであった。

 実力が凄いのは間違いないので、わたしにはなにもいえないが。

「くそ、なさそうだな」

 主将は酒の肴探しを諦めて仕方なくお土産用の巻柿を買うと、土産物コーナーを出て、先ほどまでわたしたちがいたソファにどっかりと腰を下ろした。

「なんだよロビーでくつろぐつもりかよ。さっさと上に行っちゃえばいいのに」

 わたしは、こそりささやくようにいった。

「なんかいったか?」
「あ、いえ、なにも!」

 地獄耳だな、この主将。

「タカ、ちょっとこっち来て」

 主将はわたしのことを手招きした。
 あまり細かくパタパタ手を振るもんだから、わたしゃ犬かいとちょっと腹立ったけどしょうがない。

「なんでしょう」

 主将の傍らに立った。

 なお、周囲の者によるわたしの呼び名であるが、と呼ぶ少数派以外からは監督が呼び始めたタカで定着してしまっていた。
 たかだからという程度でタカじゃキリがないだろうとも思ったが、現在のところたかとかたかとか、そういうのはいないようなので実質問題はない。

はまむし、とかいう変な名前のやつ知ってる? はまむしひさ
「ああ、はい。知ってるもなにも、高校の時の同級生です」

 その瞬間、主将の目の色が変わった。
 くわっとまなじり開いて、食ったるみたいな勢いで立ち上がった。

「やっぱりそうかあ! くっそおおお、浜虫いいい、殺すうう! おおおおおっ!」

 床をだんと踏み鳴らし、男みたいな野太い声で叫んだ。

「主将こそよく知ってますねえ。久樹が、どうかしたんですか?」

 合わせてわたわたせず、むしろのんびり口調で尋ねるわたし。主将が一人空回りしているように見えて楽しいから、とただそれだけだ。

「あいつさあ、なでしこリーガーだろ」
「はい。熱海あたみのチーム。入った時は下部の下部のリーグだったけど、なでしこリーグに昇格させて、そこでまだやってますね。それがなにか?」
「去年の暮れにあたしが静岡ローカルのテレビに出た時に、なでしこリーガーとフットサル選手とで戦おうってコーナーがあってさあ」
「あ、それに久樹が出たんですか? なんだ、主将も教えてくれればよかったのにい。水臭いというか、ケチ臭いなあ」
「あたしとお前は昨日知り合ったばかりだ、バカ! バカタカ! バカリーノ!」
「あ、そうかそうか。久樹が教えてくれてればよかったんですよね。主将にいうのはお門違いでした。でもあたし関東だから、静岡ローカルじゃあ見られなかったな」
「ローカルでよかったよ。まだね」
「なにかあったんですか?」
「なきゃこんな話しないって。思いっきりね、コケにされたんだよ。あいつ、こまごまこまごまと動きやがって。かなえのチビと同じような体型背丈のくせに、まあかなえのクソチビよりもこまごまこまごま動きやがってよお。忍者どこじゃねえよ。ワープすんだぜワープ。こまごまこまごまくそっ!」

 こまごまこまごまばっかりうるさいな、この人。

「うるさくもなるよ!」
「あ、すみません、わたしなんかいっちゃいました?」
「お前なにか脳に障害でもあるの? まあいいよ、そんなこと。それより浜虫だけど、なんであいつワープ航法が可能なの? 波動エンジンでも搭載してんの? あいつ宇宙戦艦なの?」
「戦艦かどうかは分かんないですけど、でも確かにワープしますよね。身体が小さいのを、徹底的に生かすプレーするんですよ。主将みたく無駄に身体がでかいと、あの素早さと小ささには翻弄されますよ。ボール扱う技術自体も高いですし。高校三年にサッカーに転向するまでは、ずっとフットサルやっていたし。幼少の何年間だかブラジルに住んでいて、地元の子供たちといつもボール蹴って遊んでたっていってましたよ。だから上手で当然」
「関係ないんだよ! テレビ見てるやつには、フットサル日本代表の主将が一介のなでしこリーガーに負けたとしか取らないんだよ! だいたいな、世間的なイメージとしてはボール捌き自体はフットサルの方が上って感じがあるだろ? なのにあたし、あいつにまるで競り勝てずにボロボロにされ続けたんだよ。あいつ真剣にやってないのか、ずうっとニコニコ楽しそうにしてやがって、くそ」
「真剣勝負を楽しんでいたんですよ」
「やかましい。連帯責任! お前、肩を揉め」
「えー、なんでですか! 連帯責任になる意味が分かんない!」
「分かんなかったら辞書を引け」
「そうじゃなくて」
「いいから揉め」
「……分かりましたよ」

 横暴だなあ、もう。
 わたしは渋々と、主将の肩を揉み始めた。

「お、なかなかいいじゃん」
「腕力には自信ありますからね」

 中学生の頃から鉄アレイで鍛えたりしていたからな。豆腐屋の、配達の手伝いとか。

「うわあ、かっわいそー。でもインガオウホーかあ」

 土産物コーナーから出てきた林原かなえがこちらの様子に気が付いたようで、にやにや笑いながら聞こえるような声でからかってきた。
 くそ、腹立たしい。

 そもそもお前、バカのくせに因果応報の意味知ってんのかよ。
 って、わたしのせいで昨日ずっと肩揉みさせられたと思っているのならば、使い方は間違ってないのか。
 でもそうなったのは九十九パーセントあいつ自身の性格が招いたものだと思うけどね。

 畑中主将は、そんなかなえの姿に顔を向けると、先ほどわたしを呼んだ時のようにまたパタパタと手招きを始めた。
 きょとんとした顔でやってくるかなえに主将が一言、

「お前も一緒に揉め」
「ナイス、主将!」

 わたしは思わず叫んでいた。

「えーーーーっ、あたし昨日散々にやったのにいいいいいい!」

 はあ、とかなえは重そうなため息をついた。

「あたしの肩を揉むのなんか、もうまっぴらごめんってか?」
「あ、いえいえ、決してそういうわけでは」

 かなえは主将の腕をさすり始めた。
 というわけで主将の理不尽横暴に仲良く振り回されるわたしたち二人なのであった。いや、仲悪くかな?

「ああ、そうだ主将、さっきの続きなんですが。主将がどうして浜虫久樹と出会って、みみっちい怨恨を抱くことになったのか、ってところまでは分かったんですけど、でも、どうして久樹とあたしが知り合いって分かったんですか?」
「とりあえず吐き出したし、もうその話はいいやって思ってたのに蒸し返して嫌なこと思い出させやがって。肩揉み一時間延長先生」
「えーー、意味が分からない。そもそも自分から久樹の話を振ってきたんじゃないですかあ!」

 なにが延長先生だよ、くっだらね。
 わたしは主将の肩をぎゅぎゅーっと、肉ひきちぎれろとばかりに摘まんでやった。
 だけど全然痛がる様子がない。どんだけ凝ってるんだよ、アスリートのくせに。夜な夜な封筒貼りとかボタン付けの内職でもしてんじゃないだろうな。
 ほんとついてねえ。和希と一緒に自分の部屋に戻っておけばよかったよ。

「いやそおーな顔しちゃってえ。そういう顔したいのはこっちの方だよ」

 かなえが主将の腕を揉みながら、わたしに不満げな視線をぶつけてきた。

「なんだ、お前マッサージすんの不満かあ?」

 主将がかなえをじろり睨みつけた。

「あ、いえ、そういうわけじゃなく。主将の逞しい腕を揉むの大好きい」

 かなえは両手で主将の腕を包み込むように、ぎゅううううっと強く力を込めた……かのように見えたが、

「力がないな、お前は」

 かなえの顔が力んでいるだけで、主将にはまるで届いていないようだ。

「別にフットサルに握力いらないでしょ」

 などといったかのように、かなえはかすかに口を動かした。

「なんかいった?」
「いえっ、なんにもお!」

 かなえはなにがしたいのか、主将の腕を両の人差し指でつんつく突っつき始めた。くそ生意気だけど、局たちには滅法弱いなこいつ。

「ああそうだ、タカ坊」
「はい」
「浜虫って奴な、お前がいつか絶対に日本代表に上がってくるはずって信じていたぞ」
「え……」

 そりゃもう久樹はそのこと知っているけど、主将が話しているのは去年の暮れのことだ。
 そうか。じゃあ久樹は、はる先輩の代わりなんかでなく実力でわたしが代表に呼ばれるって、信じていたんだ。

「なかなか上がってこないってことが、なんだかもどかしいみたいで、しきりに尋ねられたよ。高木梨乃っての知らないかって、代表候補にリストアップされてないかって。あたしが代表の主将なもんだから、それでなんか知ってると思ったのかね」
「そうなんだ……」
「あたしは選出された中から主将に選ばれてるだけだからそんなん知るかよっていってやったら、ああそうかって。アホだなあいつは。しかし、やっぱりあいつがあの時に聞いてきてたのってお前のことだったか。なんか名前に聞き覚えがあって、ひょっとしてって思って、それで尋ねてみたんだけど」
「そうだったんですか……」

 そう、だったんだ。
 久樹、そんなにわたしのことを買ってくれていたんだ。

 なんだよ、あいつはさあ。面と向かってそんなこと、一回たりともいったことないくせに。
 恥ずかしいな。
 買い被り過ぎだよ。
 選ばれたには選ばれたけど、結局のところ追加召集だぞ。

「なに笑ってんだ、お前」

 主将が、背後に立つわたしの息遣いを感じ取ったようだ。
 そう、確かにわたしは笑っていた。

「いえ、この間あいつにね、コップの水を頭からかけられたんですよ。代表召集を受けるのを渋っていたら」
「受けるの渋った? はあ? ふてぶてしいやつだなお前は。ブン殴りたくなるわ。あいつも、さぞかしもどかしかったんだろうな。コップの水くらいで済んでよかったな」
「あたしもそう思ってるんですよ。バケツの水を浴びせられたっておかしくなかったなって」
「足元にバケツがなかっただけだろうな。ああ、もういいや、楽んなったわ。あんがとな、タカ坊。年取ると肩が凝りやすくてさ」

 主将は立ち上がった。野太い声に乱暴な言葉遣いに、その容姿に、ほんとどこからどう見ても男にしか思えない。

「さて、部屋に戻って酒でも飲むか。監督たちに絶対にいうなよ。それと、お前ら未熟者どもは早く寝ろよな。明日も練習きついぞ。じゃあな」

 こうして理不尽の塊みたいな男前主将は去り、ロビーにはわたしとかなえだけになったのであるが、

「つまんない!」

 かなえは突然立ち上がって、釈然としないといった顔で声を荒らげた。

「なにが?」
「そっちばっかり会話してて、あたしこそ理不尽にも二日連続のマッサージをさせられていたっていうのに、なんか存在感ゼロで、なんかここにいないみたいだった」
「めんどくさっ。なにそれ。最後にお前らって複数形でいってたんだから、別に忘れられてなんかないよ。あたしはすっかりお前のこと忘れてたけど。いくら腕力が無いに等しくたって、色々と気に入っているところがあるから、だから主将だって二日も連続で頼んだんだろ。愛情の裏返しかもよ」
「そうかなあ」
「明日も頼まれるといいねえ。構ってもらえて羨ましいなあ」
「いやあ、そんな……って別にあたし主将なんかに構ってもらいたくないし、主将のマッサージなんか金輪際やりたくないんですけど! 何度生まれ変わっても嫌なんですけどおお!」
「しんと静かだから、こっちにまで聞こえてんだよ! 裸踊りさせっぞ!」

 ホテル全体に轟かんばかりの大音量でもって、二階だか三階だかから主将の怒鳴り声が響いてきた。

「嘘です! いまの全部嘘ですうう! この人にいえって脅されてえ!」

 はああああああああ?

「いってねえよ!」

 まったくこいつは。

     5
「お、ようやくあたしのプロフィールが載ったか。ちゃんと所属も出てるな、ミタヤ食品って。やったね」

 宿泊所の部屋で、わたしは持ち込んだノートパソコンを開いてフットサル協会のホームページを閲覧していた。

「そんな程度で嬉しいんだあ。ま、初だもんねえ」

 相部屋の相方である林原かなえは、勝ち誇ったようにふふんと笑った。ようやくわたしをペットのハムスターのような感覚で見ることが出来て、ちょっと嬉しそうだ。

「いや、さして興味はないんだけれど、所属の書かれたプロフィールが掲載されないと会社の上司がうるさいんだ。宣伝にならないだろって。この給料泥棒がってドつかれるんだよね。全裸にひん剥いて屋上から突き落とすぞとか、逆さに突っ込んだままボブスレー走らせるぞとか」
「ふーん。大変なんだあ、一般人って」
「そうだね。ほんと大変だよ」

 お前だってプロ契約じゃないんだからパート社員だかスポーツクラブのインストラクターだか、そんなとこだろ。と思ったが、黙っていてやった。
 すぐに拗ねたり興奮して態度を荒らげるからな、こいつは。

 暇さえあればいくらでも相手してやるけど、ちょこっとだけ仕事の状況チェックをして、とっとと寝たいのだ。怪鳥のような叫び声など、聞きたくないのだ。

 でもかなえって現在はアマチュアだけど、イタリアだかスペインだか、とにかく海外のクラブからオファーが来てるとか、和希がいってたな。
 そしたらプロ契約になるのかな。

 二部とかいっていたし、海外の事情はまったく分からないけど。
 でもどんな契約であろうとも、海外から声がかかるなんて凄いことだよな。

 そこは素直に認める。
 いや、そこ以外の色々なとこもだ。

 あまりにも性格が子供っぽいし、ゆう師匠優師匠と慕うあまりわたしに異常な敵対心を向けてきたり、確かにどうしようもないところは多いけど、もうさほど気にならなくなっていた。慣れればなかなかに扱いやすいし。
 どうすればどう反応するのか、恐ろしく単純で分かりやすいからな。

 鼻っ柱をちょっとでも折ることないように、普段はこっちが下手に出てやって、こっちがムシャクシャして喧嘩したいような気分の時はちょこっとからかってやればいいのだ。

 というわけで、いまの林原かなえはおとなしかった。
 わたしは仕事をしたかったのでもともと下手に出てあげていたし、先ほどのプロフィールの件でより優越感に浸っているようであったから。

 さて、くそ面倒なやつがおとなしくしてくれている間に、仕事をしなければ。
 と、会社のページに切り替えるべく協会のページを閉じようとした時である、

「へー、スペイン代表が来日だって。なんだろう」

 協会トップページの新着情報欄が、こんな夜遅くだというのについさっき更新されたらしく、そんな見出しが目に留まったのだ。

「ひょっとして、知らないの? うちらと練習試合やるんでしょ」

 うつぶせでアイドル雑誌を読んでいたかなえが、ちょっとだけ顔を上げてこちらを見た。

「ああ、そうなんだ。知らなかった。へええ、凄いなあ。スペイン代表かあ。どんなんだろうなあ。スペインがどんな相手なのかっていうより、国の代表どうこうってのが、そもそもまったく想像つかないや」

 バレーやサッカーは国際試合が多いし放映もされるし、オリンピックなんかを見ればもっと色々な競技で色々な国と戦うわけだけれど、フットサルなんかテレビでほとんど見たことないしな。わたしがこれまで体験してきた高校大学社会人の部活以外まったく頭にイメージが浮かばない。

「自分だって代表のくせに」

 自覚の無さを責めるかのように、林原かなえは不機嫌そうにぼそりと呟いた。

     6
 そうなんだよな。
 かなえのいう通り、わたしも日本代表の一人。

 分かってはいる。
 あくまで理屈の上では。

 実感は、まったくないといってよかった。
 みんなの凄さを目の当たりにして、負けられないと奮起したりはするものの、自分自身も代表なんだという自覚はほとんどなかった。

 中高生がプロの練習に加わったようなもの。そんな感覚だろうか。
 意地を見せてやると闘志は燃やすものの、中途半端感は否めない。

 わたしだけ追加召集という身分だからだろうか。
 わたしだけ会社の部活という立場だからだろうか。
 初日に、他の選手たちの個人技の凄さに衝撃を受けたからだろうか。

 いまわたしの隣のベッドで、子供のような無邪気な寝顔を見せている林原かなえ、彼女にしたっていざボールを持てばわたしなぞ到底足元にも及ばないような次元の違うフットサルを見せてくる。

 明日、海外のチームと試合をする。
 そう聞いて、そしてかなえに甘さを指摘され、わたしは複雑な心境だった。

 確かに日本代表として召集を受けたということは、世界で、外国と戦うために呼ばれたということだ。
 国の威信をかけて戦うということだ。

 こんな、自覚の無い者が戦えるのか。

 そもそも出られるかなど分からないけどね。いくら練習試合とはいえ。
 でも、出られたとしても、その国の威信とやらを汚す結果になりはしないだろうか。

 怖いけれど、でも使われないのも悔しいと思うそんな身勝手な自分もいる。働きたくないけど給料だけくれ的な、身勝手な自分が。
 そう考えているうちに、少しずつ実感が湧いてきたのか、身体が震えてきた。

 でもその実感というのは、国のためみんなのために頑張るぞということよりも、恥ずかしい思いをしたらどうしようというそんな恐怖でしかないかも知れないけど。
 自分で自分のことが、よく分からなかった。

 もやもやとした嫌な感覚から逃れるように、頭から毛布をかぶった。
 もしも王子が代表に呼ばれていたならば、こんな気持ちになんかならず、むしろ逆境を楽しんでしまうんだろうな。足を怪我してさえいなかったら、本当に王子こそ呼ばれていたかも知れないな。あの底なしの体力は、ほんと凄いし。

 いくやまさとだったら、どうしていただろうな。
 ひさだったら。
 も、初めて召集された時はどんなだったんだろう。 

 などという思いを、またわたしは無意識に言葉にして出してしまっていたようで、

「うるさいですよ、師匠の先輩! せっかくデスマスのくんとデートしてる夢を見てたのにい、あとちょっとのとこで起こされたあ!」
「あ、ごめん」

 あとちょっとって、どこまでの夢を見てたんだよ。つうかやっぱり男子に興味あるんじゃないかよ、この強情っぱりめ。

「王子ってえ? あのやまゆうのこと?」

 かなえは目を閉じながら、不機嫌そうに尋ねた。

「そう」

 もうえんどう裕子だけどね。かなえにとってはいつまでも山野裕子なのだろう。

「うわ、嫌だ嫌だ、あんな猿みたいなの。夢に出たらどうしてくれ……」

 すー、と寝息。
 王子の夢でも見てしまえ。

 しかし、佐治ケ江のことは尊敬しているくせに裕子のことは嫌なんだよな。
 わたしも嫌われているし、佐治ケ江と縁がある者にとにかく敵対心を向けてくるよな、こいつは。
 じゃあきっと両親に関しては複雑な思いだろうな。いなきゃ佐治ケ江は生まれなかったけど、でもお、って。

 そうしたバカバカしい態度はすべては子供っぽさからなんだろうけど、でも海外でチャレンジするというのなら、むしろそういう性格の方が大成功しそうな気もするな。上手く波に乗れさえすれば。

 っと、わたしなにを考えていたんだっけ。
 そう、代表の自覚の無さのことだ。

 かなえに邪魔されたことをこれ幸いに、話題を変えてうやむやにしてしまっていた。

 でもまあ、結局のところ、やるしかないんだよな。
 自覚なんて、おいおいとついてくるものだろう。
 それには、呼ばれ続けないと意味がない。

 じゃあ、ただひたすら食らいついて、自分をアピールする。
 それしかないだろ。

 ようやく自分で答えを見つけて、ちょっとだけすっきりして、じゃあちょこっと仕事をして寝ようかと思ったわたしであったが、

「おう、ブス、起きてるか?」

 という声とともに、外から扉がノックされた。

「ブス。起きてっか、ブス!」

 それは間違いなく、監督の声であった。
 以前監督にブスブスいわれ腹が立った時に、全裸で誘惑にいったるぞなどと冗談で思ったことがあったが、あれが現実になったかのような気がしてちょっとびっくりした。

 とにかく、わたしはこうして夜も遅くに監督に呼び出されたのである。

 その話し合いが、日本代表が新しく生まれ変わるきっかけとなるものであったこと、当然ながらこの時点では知る由もなかった。
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