新ブストサル

かつたけい

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最終章 みんな、走れ!

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「みんな、本当に凄いよ。ここまで勝ち上がっちゃうなんて。チームワークも最高だし」

 と、興奮気味な声を出しているのは、むらである。
 佐原南女子フットサル部を数ヶ月前に引退したばかりの、先代部長だ。

 二階客席の最前列まで下りて来て、柵の下にいる頼もしい後輩たちと話をしているのだ。

「梨乃先輩たちが育てたチームですよ」

 現部長のやまゆうは、恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。

「王子、ここまで来たからにゃ、千葉県どうこうなんて、ちんけなこといってないで関サル制覇しちまいなよ」

 と梨乃の隣で力強い声を出すのは、先代副部長のはまむしひさである。

「あったりまえでしょ。狙うは宇宙制覇ですよ」

 裕子は、ブイサインを突き出した。

「じゃ、あたしたち、西館に先いってるから。最後の一戦、相手がどこになろうと自分たちを信じるだけだよ」

 梨乃は脇に抱えるかのような小さなガッツポーズを両腕で作ると、階段を上り、二階観客席から去っていった。

「なんかさあ、ポーズのひとつひとつが妙に可愛らしくなったよな、先輩。絶対あれ、春奈の影響受けてるよ」
「影響受けてるもなにも、まえ一緒に原宿いったとき、尋ねられたもん。どうすれば女の子っぽい仕草になるか」

 春奈の言葉に、裕子は口に含んだスポーツドリンクをぶーーっと吹き出した。

「おい……」

 直撃を食らったたけあきら。顔面ビショ濡れ。

「あ、ごめんね。いたんだ、そんなとこに。……それじゃあ、あたしらも荷物まとめて、西館に移動しよっか。晶、ちゃんと足元拭いとけよ」
「わけ分かんないし」

 ぶつぶついいながらも、諦めたような顔で武田晶は床を拭き始める。

 八街やちまただいの主将、えのが近づいて来た。

 身支度が終わったようで、赤いジャージ姿でスポーツバッグを背負っている。

「決勝進出おめでとう」

 彼女は、裕子の前に立つと、晴れやかな顔でそういった。

「ありがとう」

 裕子は応えた。
 背後に、ぶつぶつ小言いいながら床を拭いている晶がいるので、部のみっともないとこ見せたくない、と、少し身体を動かして、視界を塞いだ。

「次の試合、絶対に勝ってよね。せめて、無様な負け方はしないでよね。あたしらの立場なくなる」
「大丈夫。勝つ!」

 裕子は力強く拳を前に突き出した。

「佐原南、噂に聞いていた以上に素晴らしいチームだった。……また、戦いたいな」
「こっちこそ、驚くことばっかりで。勉強させられた。戦ってて、ほんと面白かった。……また、どこかで対戦しよう」

 二人は、どちらからともなく手を伸ばし、握手をかわした。

 先の死闘もいまは友。
 友に別れを告げた裕子たちは、次の対戦のため、西館への移動を始めた。

 オジイこと顧問きたおか先生の、てれてれ歩きにみんな我慢出来ず、先にいってしまい、またが一人残って付き添うことになった。


 さて、西館へと到着して、こちらでの試合結果を知ったわけだが、勝ち上がったのは、やはりというべきかひがし。二試合とも、無失点で圧勝したらしい。

 裕子としては、試合時間が重ならないならこの西館で我孫子東の試合も観ておきたかったのだが、残念ながら二試合とも同時刻キックオフになってしまい、かなわなかった。

 まだ、うっすら汗の匂いの残るピッチ。ここで先ほどまで、いったいどんな試合が行なわれていたのだろう。

 我孫子東は、二試合とも無失点ということだが、いったい、どのような守備で、押さえ切ったのだろう。

 特に二戦目の相手など、初戦で大量得点を飾った超攻撃型のチームだというのに。

 そりゃ強ければ失点もしないだろうし、強ければたくさん点も取れるだろう。我孫子東の方が強かった、と、ただそれだけのなだろうけど。

 裕子はそう思うものの、やはりなんともいえない気味の悪さを感じずにはいられなかった。

 我孫子東の選手たちは、現在この西館で、既に次の試合に向けてストレッチを行っている。

 次の試合、つまり対佐原南戦である。

 裕子は彼女らへと向かって、小走りで近づいていった。

 主将のなかしましようが気付き、ストレッチをやめて、立ち上がった。

 二人は、向かい合った。

 中島祥子はデータによると身長百六十九センチ、すらりとした体躯だが、よく見るとしっかりと全身にバランスよく筋肉がついているのが分かる。
 普段の生活では眼鏡をかけており、フットサルの時だけコンタクトレンズを装着するらしい。
 秀才肌で学校の成績は常にトップクラス。常に赤点ギリギリの裕子と対極の存在である。

「うちみたいな、強豪でもなんでもないのがいうのもおこがましいけどさ、悔いのないよう全力で戦おう」

 裕子は微笑み、手を差し出した。

「分かった。……お互いにとって、いい試合になるように」

 中島祥子も手を差し出す。
 二人は、手を固く握り合った。

「そんじゃあね!」

 裕子は踵を返して走り出し、振り返りながら手を振った。

     2
「決勝に残っているんだから、そっちだってもう強豪でしょうに」

 なかしましようは苦笑しながら、そう呟いた。

「一番当たりたくないとこと当たることになっちゃったねえ、祥子」

 副部長のてらさきは、床の上で股関節ストレッチをしながら中島祥子の顔を見上げた。

「そうなんだよなあ。ゆうみたいな天才を抱えているし、ゴレイロも反応が物凄いし足元上手いし。それにあそこ、なにをやってくるか分かんないんだよね。ほんと不気味なチームだよ」

 中島祥子は髪の毛をかき上げると、頭を人差し指でこりこりとかいた。

 我孫子東は、佐原南と公式戦を行なったことは一度もない。
 だが、他校との対戦によるデータはしっかり収集しているし、練習試合でならば何度か対戦もしている。

 備えは万全、なはずであるが、しかし備えれば備えるほど不気味に思えて仕方ないのが佐原南なのである。

 一番読めないのが、いま挨拶に来た、あのやまゆうだ。
 体力だけの選手にも思えるが、しかし彼女には底知れない怖さを感じる。
 それは、単に自分の苦い記憶から来る錯覚かも知れないが。

 去年行なった佐原南との練習試合で、こちらが大量得点で圧勝したのであるが、一点だけ奪われてしまった。
 その、佐原南唯一の得点者が山野裕子だったのだ。

 中島祥子をフェイントで抜いてのゴールだ。

 荒っぽいだけの選手、と相手を舐めた結果、奇麗にぶち抜かれ、無様に失点したのだ。

 山野裕子には、そんな記憶はまったくないかも知れない。
 だが、中島祥子にとっては、忘れられない記憶だ。

 侮った相手にやられてしまった悔しさ、恥ずかしさ、それがあったから猛烈に練習に打ち込み、レギュラーの座を不動のものにし、そして部長にもなったのだから。

 その苦い記憶自体は、やはり苦いままで、とても感謝など出来るものではなかったが。

 さて、いよいよ二軍三軍ではないガチのメンバーで初めて佐原南と戦うわけだが、どのような試合になるのか。どのような結果になるのか。

 中島祥子は、山野裕子の背中を見ながらぎゅっと拳を握った。

     3
 ひがしの主将にそこまで意識されているとは、つゆも知らずのやまゆう

「よっしゃ、我孫子東に負けちゃいられない、うちらもストレッチ始めるよ!」

 けたたましい大声で気合を入れた。

「バカ王子。ストレッチで戦ってもしょうがないだろ」
「ストレッチを制する者は世界を制するのじゃい」

 裕子は、小言をいう晶に個性的なようなそうでもないような創作格言を返すと、素早くジャージを脱いでユニフォーム姿になった。

 周囲ぐるりを見回すと、だんだんと、二階観客席の見物人が増えて来て、かなりの賑わいになっていた。

 東館から移って来た人たちや、前の試合に負けてしまった部員たちの分だけ増加しているのだ。
 それ以外に、千葉代表を決める最後の試合だけを観たいという新規の観客などもいるだろうか。

 佐原南の選手全員は、裕子と晶を先頭に二列縦隊を作ると、ストレッチを開始した。
 ゆっくりと前進しながら、足を高く上げ、腕を振り、肩を回し、腰を捻る。

「よくほぐしとけよ~。足りないと、いきなり走り出して腿の裏ブッチンってなっちゃったりするぞー」
「ストレッチ大事なの分かるけど、もう二試合やってんだから、そんなのになるわけないじゃん」

 武田晶は、ぼそりと突っ込んだ。

「もおおおお、晶ちゃあ~ん」裕子はにこにこ微笑みながら、晶の肩を掴んだ。「いちいちうるせえ!」

 容赦ない頭突きに、ゴッと鈍い音が響いた。

「悪いこといってんじゃねえんだから、黙ってろや!」
「頭突きすることないじゃんか! 石頭!」

 と、お腹に肘鉄で仕返しする晶。

「ぐおおお、いってえ! 空手有段者が人を攻撃しちゃいけないんだぞ。逮捕されるぞ! 顔が卑猥とかで」
「そっちが先にくだらないことで攻撃してきたんじゃないか」
「くだらないなら黙っててくださあい」
「そしたら頭突きのやられ損でしょが!」

 晶は足元のボールを引き寄せると、裕子の顔面にぶつけた。

「いてくそ、ジャガイモ!」

 裕子も負けず、投げ返した。
 さすがゴレイロ、至近距離からのボールをがっしとキャッチしたのは見事であったが、連続で放たれていた次のボールが今度は顔面ど真ん中をブチ抜いていた。

「あいたっ! ズルいぞ!」
「ズルいのはそっちの顔だ!」
「意味が分かんない!」

 怒鳴りながら、お互いの顔面を目掛けてボールを投げ合いぶつけ合う裕子と晶。

「あのお、先輩たち、我孫子東の人たちが口あんぐりさせてこっち見てるんですけど」

 はなの言葉に、二人は初めてなんともいえない気配に包まれていることに気が付いたようで、びくり肩をすくませると、そおっと、その気配の方へと顔を向けた。

 はたして我孫子東の部員たちと顧問、計四十六の瞳が、すべて裕子と晶とに集中していたのである。

「……作戦作戦。油断させるためだってば」

 裕子は、まるでおばさんの仕草のように手のひらをぱたぱたと上下に振った。

「作戦じゃない! そんなんで頭突きしてくんなよ!」
「まだいってるよ。しつこっ。男っぽくねえな」
「男じゃないし。……もういいや、こんなバカほっとこ」

 なんともグダグダの先頭二人、部長と副部長であった。

 二人以外はしっかり真面目にストレッチを行なって、きちんと身体を仕上げると、いくやまさとの号令でボールを使った軽いパス練習を開始する。
 その後、里子の号令でもう一度軽くストレッチだ。

「なんで里子が仕切ってんだよ……」

 すっかり自分が無視されて、裕子は面白くなさそうな顔だ。

「じゃあちゃんとチームを率いて下さいよ。顔にボールぶつけ合ってないで」
「もう全然そんなことしてないだろ! 全然つうか五分くらいはさあ。指揮権奪取! みんな、裕子部長の元へ集まれ!」

 ぴしっ、と手を上げる裕子。
 威厳は完全に失われている裕子であるが、お情けで、みんながぞろぞろ集まった。

「よし、作戦会議、始めっぞ! おーーっ!」

 裕子は一人、気合を入れて叫んだ。

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「まずは、梨乃先輩から仕入れた選手情報を伝える。背番号1。ゴレイロのなかひめ。反射神経なら晶の方が上だと思うけど、フットサル経験が長く、素早い読みでとにかく堅実にゴールを守ってくる。ブロックして体に当てたボールは、まず取りこぼさない」

 我孫子東とは何度も練習試合を行なっているが、いつも二軍ばかりとであり、だからこうして、先輩から教えて貰った主力の要注意人物について、情報を伝えているというわけだ。

 チームとしてどう当たるかだけを決めて、選手個々の情報はむしろ与えない方がよいのかな、とも考えなくもなかったが。

 何故なら我孫子東の選手たちは、誰もが基本能力において、この年代の平均値を遥かに上回っており、誰がどうでと気にすると、かえって混乱するだけかも知れない、と思ったからだ。

 でも、伝えると決めたのだから、しっかり伝え、しっかり覚えて貰うしかない。

「次に、背番号4、はやしばらかなえ。今朝、駅でにやにや笑ってたおチビちゃんだ。一年生だけど、とにかくすばしっこくて、足元の技術も高くて、馬力もあるから、小さいからと舐めないように」

 少し間を置き、みんなの顔を見回すと、裕子は続けた。

「次、背番号5、主将のなかしましよう。俊敏さは林原かなえには少し劣るけど、とにかく万能で、全ての能力が異常に高い。ボールキープされたら、一人ではまず奪えないから、すぐにパスさせるように二人で追い込もう。

 次、背番号8、かなもとよう。俊足をいかして、かく乱してくるから惑わされないように。ピヴォなんだけど、行動範囲がメチャクチャ広いから。

 金本陽子と、9番のしげと、どっちのピヴォが出るかで、チーム戦術まるで変わってくるから。

 そう、その羽場繁子も要注意。一年生のくせに百六十八の長身で、さっきの八街富士見台ほどの上背ではないものの、やっぱり高さを生かした戦術を織り交ぜてくるから」

 また、裕子は言葉を切ると、しばらくして、ゆっくりと続ける。

「……とりあえず、こんなとこかな。で、うちの先発だけど、ピヴォが里子、右アラがサジ、左があたし、茂美ベッキ、あと晶で。単純に考えて、これが最強メンバーかなと思うからね。でも体力がもつわけないし、様子を見ながら回していく。本当は経験ある二年生中心に回したいところだけど、春奈しか控えがいないし、だから一年生もどんどん使っていくからね」
「ごめんね、みんな」

 しのが、悔しそうな表情で小さく頭を下げた。
 彼女は二試合連続で警告を受けたため、累積により出られないのだ。

「しょうがないって。その分、応援で盛り上げてよ」

 裕子の言葉に、亜由美は頷いた。

 佐原南の選手は、全員で肩を組み円陣を組んだ。

「よっしゃ。気合入れっぞ! 佐原南、絶対に勝つぞ!」
「おう!」

 裕子の大声に、全員が声を揃え気持ちをひとつにして、叫んだ。

ぜんこんぜんそう!」
「おう!」

 円陣を解くと、先発メンバーは一人づつピッチへと入っていく。

 いくやまさと
 ゆう
 やまゆう
 真砂まさごしげ
 たけあきら

 続いて我孫子東の選手たちも円陣を解き、ピッチへと入った。

 なかひめみずしまあかねなかしましようてらさきかなもとよう。この五人である。

 ピッチ上の十人は、それぞれの思いを胸に抱き、それぞれのポジションへとついた。

 どくん。

 裕子は、左胸にそっと手を当てた。

 どくん。

 普段と変わらない、心臓の鼓動。
 なのにどうして、こんなにはっきりと感じるのだろう。
 緊張、しているのだろうか。

 反対側サイドにいる佐治ケ江を見る。彼女はまっすぐ立ったまま、前方を見つめている。
 佐治ケ江は、裕子が見ていることに気付いたようで、こちらを見た。
 目があった。
 その途端、何故か裕子は慌てて視線をそらした。
 裕子は鼻の頭をかきながら、口元に小さな笑みを浮かべた。

 どくん。
 どくん。

 胸の鼓動は相変わらずだけど、でもちょっとだけ、それが心地よいものに思えるようになった。

 審判が笛を口にくわえた。
 試合は佐原南ボールのキックオフで開始される。ピヴォの生山里子は、右足底でボールをそっと押さえ、笛が鳴るのを待っている。

 そして、笛の音が鳴り響いた。

 キックオフ。

 里子はボールを蹴った。

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 寄せが早い!

 ゆうは右サイドでさとからのパスを受けると、すぐにドリブルに入ろうとしたが、その瞬間にはすでにかなもとようなかしましようの二人に詰め寄られていた。

 距離を充分に取って、動きながら受けたはずなのに……まるで魔術を見ているかのようだ。

 裕子は前を向くことが出来ず、自陣へとドリブルする。
 そしてベッキの真砂まさごしげへとパスを出した。不本意ではあるが、ボールをキープしないことには話にならない。

 茂美からのパスは、左サイドのへ。

 そして、逆サイドの裕子へ。

 裕子はワンタッチで、前方のいくやまさとへとパスを出した。

 だが、里子へは届かなかった。
 素早く駆け上がって来た、ベッキのみずしまあかねにカットされていたのだ。

 里子は水島茜の背中を全力で追いかけ、そして追い抜いたが、しかし、水島茜の足元に、すでにボールはなかった。

 まさか、という表情で、里子は後ろを振り返る。
 ボールを持っているのは、中島祥子だった。先ほど二人が擦れ違った時に、パス交換をして保持者が入れ替わっていたのだ。

 里子は舌打ちすると、再び駆け戻った。

 我孫子東の主将中島祥子は、里子の突進をぎりぎりまで引き付けて、そしてボールを蹴った。里子の頭上を越えるループパスが、奇麗な放物線を描いて水島茜へと渡った。

     6
 あたし、バカにされている……

 さとは、自分の顔がカッと熱くなるのを感じていた。

 感じてはいたけど、どうしようもなかった。
 心を冷静に抑えようとすることも、相手に冷静な対応をすることも。

 みずしまあかねは、ドリブルで前へ上がる。

 正面に立ち塞がり、ボールを奪おうとする裕子であったが、水島茜の素早いステップに翻弄されて、見るも簡単に抜かれてしまった。

 我孫子東の快足ピヴォかなもとようは、ベッキの真砂まさごしげから少し離れた位置に下がってマークをずらしたと思いきや、その瞬間、持ち前の瞬発力でサイドを駆け上がり、水島茜からのパスを受け取っていた。
 受け取った瞬間には、もう、さらに前方へ。
 佐原南コーナー付近から、ゴール前へと速いパス。
 グラウンダーであるが、まるで宙を飛んでいるかのような勢いで、すっと転がった。

 ゴール正面の、ゴレイロが飛び出せないようなぎりぎりの距離をボールが通過しようとするその瞬間、我孫子東主将の中島祥子が飛び込んで、右足を勢いよく振り抜いてボールに叩きつけていた。

 一連の見事な連係は、まるで鎌首をもたげた毒蛇が獲物を仕留めるがごとくに見えた。

 放たれた弾丸シュートは、佐原南ゴールの右上隅を完全に捉えていた。

 シュートが決まった。

 誰もがそう思ったかも知れない。
 少なくとも、里子には、そう見えていた。

 やられた、と。

 だが、それは我孫子東を警戒するがあまり、翻弄されているがあまりの、幻覚であったか。

 シュートは、決まってはいなかった。
 ゴレイロのたけあきらが神がかり的な反応を見せて、パンチングで弾いていたのだ。

 ボールはゴールラインを割った。
 我孫子東のCKコーナーキツクだ。

 安堵の息を吐く里子であるが、しかしまだピンチは去っていない。このCKだけではない。おそらくこの試合中、ずっといまのようなピンチが続くのだ。

 こいつら、強すぎる……
 里子は、根性で埋めようのない、絶対的な実力の差を感じていた。

 少し前まで、自分はゆうにも匹敵する実力を持っている、と自信の塊であったというのに。
 どれだけ井の中の蛙であったことか。

 などと考えてしまうほど、里子の心から余裕や自信が失われていた。それほどのものを、短時間で見せつけられたのだ。

 なんだか、向こうのFPフイールドプレイヤー、七人も八人もいるように感じるよ。
 うちと同じで公立だろう? なんで公立高校の運動部に、こんな化け物みたいなのがうようよいるんだよ。
 とりあえずは、晶先輩のおかげで助かったけど、いつまで防ぎ切れるか……
 いや……あたしがもっと、頑張ればいいんだ。
 なめられてたまるか。こんなやつらに。

 里子は拳を握り、気を引き締めた。

「いや、いまの決められたと思ったよ。晶、ありがと!」

 やまゆうが自陣ゴールへ近寄りながら、晶に礼をいった。

「まだCKあるから」

 晶は、表情ひとつ変えず、ただグローブをはめ直した。

「そうだな。みんな、ここしっかり守るぞ! ……あと、里子、あんまり熱くなるな。イライラしてんの、一目で分かる」
「はい」

 里子は指摘を受けて、我に返った。

 自分でもそうかなと思っていたけど、それ以上、相当に冷静さを失っていたんだ。気をつけないと。

 頭は冷たく、心は熱く。里子は、前部長のむらがよくいっていた言葉を思い出していた。

 中島祥子の蹴ったCKは、晶が飛び出してキャッチした。
 一見、難なく相手のCKを防いだようにも思えるシーンであったが、我孫子東の選手たちは位置取りや動き方が非常に巧みであり、失点していてもおかしくなかった。

 晶はすぐさまボールを蹴った。フットサルには四秒ルールというものがあり、もたもたいつまでも保持していられないのだ。

 茂美はボールを受けると、佐治ケ江へと繋いだ。

 佐治ケ江は簡単に里子へはたいて裕子へ、再び里子へ。

 里子は簡単なフェイクをかけて、するりと水島茜の脇を抜けた。

 冷静を心掛けたつもりであったが、ドリブルしようとしたところで初めて自分の足元にボールがないことに気が付くあたり、冷静ではなかったのだろう。
 慌てて振り返ると、ちょうど水島茜が金本陽子へと浮き球のロングパスを蹴るところだった。

 前線へと抜け出し、中央で、胸トラップでボールを受けた金本陽子は、そのまま身体をターンさせるとボールが床に落ちると同時にドリブルで前へと走り出していた。

 この無駄のまるでない動きに、茂美は完全に対応に入るのが遅れてしまっていた。

 このような技術レベルを持った選手との対戦は初めてであり、これを基準としてしまうとこれまでの相手はツーテンポスリーテンポ判断反応が遅い。と考えると、仕方のないところではあるのだろうが。

 金本陽子はゴールラインまで進むとドリブルの速度を落とし、ゴール前へボールを送ろうとした。

 佐原南のゴレイロ、武田晶が大きく飛び出して、ボールを奪おうとスライディングを見せた。

 ピンチの芽を詰む素晴らしい判断力であり、瞬発力であるはずだったが、金本陽子の表情は余裕だった。

 先日行なった練習試合、佐原南の主力と我孫子東の二軍、という構図であったが、しかし一軍もしっかりとその試合を見ていた。武田晶の能力が優れていることや、それだけに飛び出しも多いこと、そうした点はしっかりと研究している、ということなのだろう。

 つまりは、金本陽子は余裕の表情でボールを浮かせて、自身も軽く跳躍し、晶のスライディングをいとも簡単にかわしていたのである。
 滞空したままボールをちょんと蹴り、あらためてゴール前へ。

 無人の佐原南ゴール前へと、ボールが放物線を描く。

 中島祥子が、クロスボールを押し込もうと走り込んだ。

 そのすぐ後ろを、茂美が追っている。駆け引きなのか、俊敏性か、後手を踏んでしまったようだ。

 中島祥子は、眼前にボールを捉えた。
 触れさえすれば、間違いなくゴールだ。

 しかし、そのボールは、中島祥子の視界から不意に消失した。

 武田晶が、全力で駆け戻りながら、高く大きく跳躍し、回し蹴りで弾き飛ばしたのだ。

 ボールは爆音を上げ、遠く我孫子東の陣地まで飛んで、そこでタッチラインを割った。

 ピピ、と笛が鳴った。

 審判は晶に声をかけた。
 いまのプレーは危険だ、と。
 接触していないから、ファールではないけれども、もし相手に少しでも足が当たっていたらレッドカードを出していた、と。
 そういわれた晶は、素直に謝った。

「……このくらいやらなきゃ、勝てるわけないでしょ。あっちの方が圧倒的に強いんだからさあ」

 などと小声で呟くあたり、本心はまた別のようであるが。

     7
 やまゆうは、タイムアウトを申請した。

 一般的なフットサルルールでは、前後半それぞれ一回づつタイムアウトを申請することが可能なのである。

「1―3でいく」

 ピッチの外で裕子は、自分を中心に集まっている選手たちに、そう短く告げた。

さとが前。あとは、左からサジ、しげ、あたし。あと、もうそろそろ疲労対策で交代してくから、みんな心の準備しといて」

 タイムアウトが終わり、試合が再開した。

 佐原南は、裕子が指示した通りのフォーメーションを作った。
 後ろの選手数が多いという、守備的な陣形だ。

 守備的にいけば守り切れるというものでもないが、守備的にいかなかったら絶対に守り切れない。
 裕子は、そう判断したのだ。

 必ずしも守備力が高まるわけではない上に、間違いなく点が取りにくくなる。
 それ以外にも大きなリスクが伴う。
 必然的に相手がボールを支配することになり、ゴールに近い位置からどんどんシュートを打たれることになるからだ。

 守る側としてはより集中力、体力を使うことになる。
 だから裕子は、その集中力、体力を保つためにも、選手交代を有効に活用しようと考えたのである。

「じゃあ早速いくよ、里子に代わって……」

 前半六分、裕子は大声で交代を指示した。

 いくやまさと アウト づき イン

 ゆう アウト きぬがさはる イン

 個々技術の総合値としては下がることになったが、チームとして、なんとか持ちこたえ続けた。

 だが……
 我孫子東の登録選手数は、ルール上最大の十二人。常にキープレイヤーをピッチ上に残しつつも、二年生を中心にフレッシュな選手を次々と投入してくる。
 その攻めは、だんだんと激しさを増していく。

 佐原南は、怒涛の攻撃を食い止めるのに精一杯で、どんどんと体力を削られていった。

 我孫子東は、ただ荒々しく攻めてくるだけではない。
 ときに壁を砕くがごときの激しさで、ときに包み込むような柔らかさで、見事なまでに巧みな緩急のつけかたで、佐原南の選手たちを心身ともに翻弄していく。

 佐原南は、いままで積み上げてきた守備力の土台に加えて、個人の気力、そして運に助けられ、まだなんとか無失点を維持していた。

 我孫子東はごく普通の公立高校だが、実績が人気を呼び、毎年女子フットサル部への入部希望者が多い。わざわざフットサルのために入学する者もいるくらいだ。
 三年生が引退したというのに、まだ三十人強の部員がいる。
 現在ピッチに立っている彼女らは、そのような中から選ばれているのだ。
 強いのは当然であろう。
 そのような相手に勝つには、どうすればいいか。

 普通に戦わなければいいのだ。
 ガチンコで勝てるはずないことなど、とっくに分かっているのだから。

 と、裕子は、さらに選手交代の支持を出した。

 やまゆう アウト かじはな イン

 真砂まさごしげ アウト なしもとさき イン

 たけあきらは、ピッチの外にいる里子からFPのユニフォームを手渡されると、素早く着込んだ。
 駆け上がり、先ほどまで茂美が守っていた、最後列中央の位置についた。

 晶に替わって、ゴール前を守るのは梨本咲だ。

「頼むよみんな。ここでどこまで持ちこたえられるか、すべてはそこにかかってくるんだから」

 交代でピッチの外に出た裕子は、誰にともなく呟いた。

     8
「王子、ほんとごめんね」

 現在ピッチにいる面子を、後半戦に備えての主力温存策と見たしのは、警告累積でこの試合に出られないことをあらためてゆうに謝った。

「だから、謝る必要なんてないんだって。頑張っちゃったからカードを貰っちゃっただけ。しつこいと殴るぞ、ほんと」
「……ありがと。じゃ、精一杯応援しますか。この試合に勝てば、まだ次があるんだしね」

 勝てば次は東京で、都県代表同士、関東一を決定する試合が待っているのだ。

 あと一勝するだけで、その大会に出ることが出来るのである。
 亜由美は、そのためにやれることをやるだけだ、と大声を張り上げて、ピッチ上で頑張る仲間たちを応援し始めた。

 裕子も負けじと叫ぶ。 
 いくら声援を送ろうとも、圧倒的な我孫子東ペースは変わることはなかったが。

 でも、目的は防戦なんだ。
 みんな、よくやってる。
 相当に奮戦している。
 悪くないぞ。

 裕子は手に汗を握りながらも、少なからずの手ごたえを感じ始めていた。

 我孫子東は、ピヴォをかなもとようからしげへと交代させた。
 佐原南が引き気味の布陣を敷いたため、俊足を生かしてかきまわすスペースがなくなったからだろう。背の高く、足元の技術がしっかりとした選手を投入してきたのだ。

 選手交代の成果がさっそく表れ、羽場繁子のポストプレーからてらさきが飛び出して、躊躇なく右足を振り抜いた。

 シュートは、ブロックするゴレイロなしもとさきの肩に当たって、床に落ちた。

 羽場繁子は、重戦車のごとき突撃で、こぼれを押し込もうと身を突っ込ませた。

 ボールを拾うべきか、蹴り飛ばすべきか、ゴレイロとしては瞬間的に判断、いや、脊髄反射的に処理しなければいけないような場面であったが、咲は相手の突進による迫力に瞬きするほどとはいえ躊躇を見せてしまい、その一瞬の隙に、ボールは奪われていた。

 奪いながら、真横へのステップで咲をかわした羽場繁子。
 あとは無人になったゴールへ流し込むだけであり、落ち着いてボールを蹴った。

 しかし、我孫子東のゴールはならなかった。

 羽場繁子がボールを蹴るのと同時に、佐原南の選手、FPユニフォームを着た武田晶もまた、いつの間に戻ったのか真横からボールを蹴っていたのだ。

 二人の力に揉まれたボールは、シュートにもクリアにもならず、小さく跳ね上がり、ぽとり落ちた。

 転がるボールへ、羽場繁子が巨体に似合わぬ俊敏な反応を見せて、跳ねるようにボールに近寄った。

 間一髪、ゴレイロの梨本咲が、床を這うようにしてボールに食らいつき、覆いかぶさった。

 咲は、胸の中にあるボールの感触をしっかりと確かめると、ゆっくりと立ち上がった。
 我孫子東の猛攻撃をひとまず耐え切ったことに、ふう、と安堵のため息をついた。

 かろうじてゴールを死守した佐原南であったが、だが試練はこの程度では終わらなかった。

 ピー、と審判の笛が吹かれた。

「四秒」

 審判は、親指だけ折り曲げた四本指の手を作って、高く上げた。

 はっ、としたように、咲の目が見開かれていた。彼女は青ざめた顔で、自分の両手の中にあるボールに視線を落とした。

 フットサルは、スピーディでダイナミックな試合展開にするため、守備的プレー抑止のためのルールがいくつか設けられており、四秒ルールもその一つ。自陣で四秒以上、ボールをキープしてはならないのだ。
 従ってゴレイロがボールを抑えたあとも、四秒以内にそのボールを手放さなければならない。

 咲は、そのルールに違反してしまったのである。

 佐原南は、ゴールに非常に近い場所で、我孫子東に間接FKを与えることになった。

 キッカーは、主将の中島祥子だ。
 彼女は特に緊張した様子もなく、ゆっくりとボールをセットした。

 佐原南のゴール近くで、相手ゴレイロを抜いた九人の選手がひしめき合う。

 づきはるなど、痩せぎすな体型ばかりの佐原南に比べ、我孫子東はみながっちりした肉体をしており、このように並ぶとその迫力の違いは一目瞭然だった。

 笛が鳴った。

 中島祥子は、ボールに向かって助走。強く蹴る、と見せかけて、インサイドキックで床の上を転がした。

 武田晶を押しのけるように飛び出してボールを受けた水島茜が、ヒールで角度を変えて、後ろにいる羽場繁子へと繋ぐ。
 練習で身体に染み付いている連係なのだろう。羽場繁子は、ノートラップでシュートを放っていた。

 ばちいん、と鈍い音を立てて、ボールはゴレイロ梨本咲の顔面を直撃していた。

 ぽろりと落ちるボールを、咲は顔を苦痛に歪めたまま大きく蹴飛ばした。

「咲、サンキュ」

 晶は、クリアされたボールを追って走り出した。

 咲は、とりあえずの危機を脱すると、「いってえ……」と、顔を押さえてしゃがみ込んだ。
 そして、少しだけ満足げな笑みを浮かべた。
 自分で招いてしまったピンチを自分で防いだことによる、安堵と満足感であろう。

 晶と、てらさきとが、ボールを追い掛けて競争になった。
 動き出しが早かった分、晶の方がわずかながら先に辿り着いた。
 タッチラインぎりぎりのところに、ボールがぽとり落ちる。それを拾った晶は、そのまま駆け抜けるようにドリブルに入っていた。
 前方には我孫子東のゴレイロがいるだけ。
 佐原南の、またとないカウンターチャンスであった。

 晶はボールをこんと大きく蹴り転がすと、全力で追いかけた。

 中島祥子と水島茜が、晶の背中を追って走る。

 九頭葉月も、晶から少し離れたところを並走している。

 晶にとって、大きく二つの選択肢が取れる状態であった。

 守備を固められてしまうかも知れないが、それを承知で中央に切り込んで、葉月と二人で攻撃するべきか。

 もう一つは、このままゴール前にボールを放り込んで、葉月に託すべきか。

 選んだのは、後者であった。
 葉月とゴールとの間を目掛けて、浅い角度から浮き玉を送った。

 ヘディングでクリアしようと思ったのか、我孫子東ゴレイロである田中姫子が飛び出した。

 ターゲットである葉月も、足の回転を急加速させて、落下地点へ。

 ボールに触れたのは、葉月であった。
 全力疾走に急ブレーキをかけつつ振り返り、飛び出したゴレイロの田中姫子を背負いながら、胸でボールを受けたのだ。

 胸からこぼれるボールを、腿で少し横へと蹴り上げると、ボールを追うように素早く反転して、そのまま右足一閃。
 まったく無駄の無い動きの、ボレーシュートだ。
 無人のゴールネットへ突き刺さるかに見えたが、あとほんのわずか運が足りず、ポストに当たって跳ね返った。

 佐原南の初シュートは、惜しくもゴールはならなかったが、その素晴らしいプレーに観客席がどっと沸いた。
 ドンドンドンドン、と太鼓の音が響いた。
 観客席にいる、葉月の父が叩いているのである。

 跳ね返ったボールであるが、ゴレイロの田中姫子がしっかりと両手を伸ばしキャッチした。

「葉月、よかったよ! この調子!」

 裕子が叫んだ。
 葉月は褒められても表情ひとつ変えず、田中姫子が投げたボールを追って、走り出した。

「運に助けられただけ。いま失点してたよ! 真面目にやれ!」

 主将の中島祥子が、怒声をあげた。
 その言葉の効果かは分からない。単に時間経過とともにエンジンがかかってきただけかも知れない。とにかく、我孫子東のパスが、これまで以上に繋がるようになった。

 ボールとともにFP四人が走り、連動して、どんどん佐原南ゴールへと突き進んでくる。

 春奈、晶、葉月、花香、咲は必死に弾き、防ぎ、かき出すのだが、しかし我孫子東の攻撃は執拗で、弾いても弾いても次の瞬間にはもう佐原南のゴール前へとボールがあり、シュートを打たれている。

 怒涛を越えた攻撃はとどまるところを知らず、何故これまで無失点に防げているのか、おそらく佐原南の選手たち自身にも不思議なくらいであっただろう。

 咲が、必死の飛び出しで、かろうじてボールをクリアした。

 ぽーんと上がったボールの、落下点を目指して、武田晶が全力で駆け上がる。
 なんとかボールを足元に収めたはいいが、我孫子東の激しい寄せに、パスの出しどころを考える一瞬の隙すら与えてもらえなかった。
 保持が精一杯。いや、それすら出来なかった。寺崎詩緒里の突進を、晶はなんとかかわしたかに見えたが、直後、はっと目を見開いた。いつの間にか、ボールを奪われていたのである。

 寺崎詩緒里は奪ったボールをちょんと蹴ると、勢いよくドリブルで攻め上がった。

 花香がなんとか食い止めようと頑張るが、中島祥子を使ったワンツーに翻弄される。抜かれかけ、ファール覚悟で寺崎詩緒里の前に体を入れる花香であったが、歴然とした体格差の前に、軽く弾き飛ばされてしまった。
 もともとが花香のファールであろうということか、笛も吹かれない。

 こうして我孫子東は、ほとんど寺崎詩緒里一人の個人技で、佐原南守備陣を突破したのである。

 佐原南の守備は、もうゴレイロの咲しかいない状態。
 対して我孫子東は、寺崎詩緒里に、並走する中島祥子の二人が、ゴール目前である。

 咲は、寺崎詩緒里へと向かって飛び出したが、しかし次の瞬間、ボールは横パスで中島祥子へと渡っていた。

 おそらく咲は、そのパスを読んでいた。
 読んでいたというよりも、自らの行動により、パスを出すように誘導したのだ。
 何故ならば咲は、飛び出したと見えたその瞬間には方向を変えて、中島祥子へとスライディングで飛び込んでいたのである。

 しかし、咲には一手二手先を読んでのバクチだったのかも知れないが、中島祥子にとっては、咲の行動は常に予測している選択肢の一つでしかなかった、ということか。
 冷静に、ジャンプしながらボールを浮かせた中島祥子は、空中で小さく足を当てて、再び寺崎詩緒里へとを戻していたのである。

 床を滑る梨本咲の真上を、中島祥子が飛び越えていく。

 咲は倒れたまま、滑りながら、上体を起こして顔をゴールの方へと向けた。

 守護者不在となったゴールの前で、寺崎詩緒里は、浮き球パスを右足で軽く押し込んだ。

 ゴールネットが揺れた。

 次の瞬間、長い笛の音が鳴った。
 前半戦終了を告げる、笛であった。

     9
「ごめんなさい。防げなかった」

 ハーフタイムである。
 前半戦終了間際の失点に、みなうなだれる中、なしもとさきは、申し訳なさそうな表情で謝ると、唇をきゅっと結んだ。

「あたしがまずい場所で奪われたからだよ。そこが起点。咲のせいじゃあない」

 武田晶が、咲の肩を軽く叩いた。

 そのやりとりを黙って見ていたやまゆうは、突然、かじはなの口元を手で塞いだ。
 花香はびっくり全身を震わせると、なにやらもごもごいいながらもがいて、裕子の手を振り解いた。

「なにすんですか、王子先輩!」

 げほごほ咳き込みながら、裕子を睨み付けた。

「いやあ、この流れからしてハナも、あたしが弾き飛ばされたのが悪いんです~、なんていい出すのかなと思って」
「それは……」
「反省会というか、そういう慰め合うようなことはさあ、試合が終わってから存分にやれって。失点なんて、ソーテーの範囲内なんだよ。途中からはメンバーほとんど一年生だったのに、あれだけやれりゃあ上出来だよ」

 少し間を置くと、裕子は続ける。

「そうだろ? だって、向こうさんが、これまでの試合で何点取ってきたか考えてみな。なのにうちらは、前半終わったばかりとはいえ、まだ一失点しかしてないんだよ。試合がはじまったとき時はさ、やっぱりこいつら強すぎ、何点取られるんだよ、なんて不安に思っちまったけど、ところがどっこいこの結果。本当に、たいしたもんだよ。咲、よく頑張ってる。ハナも、葉月も。……みんな、自信もっていいんだから」

 みんなの表情が、ほんのわずかではあるが明るくなったのを確認すると、裕子は続けた。

「それじゃ、後半戦だけど、すぐメンバー入れ代えるから。さと、サジ、あたし、しげ、晶で。フォーメーションはいつものダイヤモンド……でも、もしかしたら、途中からイプシロンにするかも」
「そんなの、練習でやったことない」

 ゆうが、不安そうな表情を浮かべた。

「面白そう」

 対象的に、楽しげに笑みを浮かべているのはいくやまさとである。

「あと、里子とサジは、そのまま最後まで出て貰うから。里子は体力あるから平気だろ」
「あたしはいいですけど、サジ先輩が死んじゃう」

 佐治ケ江の体力がないのは、誰もが知るところなのである。

「死んだら、他にも選手いるから」

 裕子は冷めた顔で淡々と、そういった。

「王子がやれというなら、やるよ」

 佐治ケ江は、小さく、しかし力強く、頷いた。
 裕子は不意に表情を変化させ、にんまりとした笑みを浮かべた。

「これまでの二つの試合、サジをどんどん使えば、もっと楽に戦えたかも知れない。そうしなかったのは、他のみんなを信じていたのもあるけど、本当は、こうなることを考えていたから。もしも勝ち上がったならば、相手はひがしになるだろう、と。サジを最大限に活用しないと、絶対に勝てない。だから、あまり疲労しないように温存した。……それと、強くなりたいというサジの気持ちを聞いたから、なおのこと、サジには我孫子東と思う存分に戦って欲しいと思った。死ぬ気で、戦って欲しいと思った。そういう個人的な感情で試合をどうこうするの、他のみんなには申し訳ない気持ちもあるけど」
「ありがとう、王子」

 佐治ケ江の感謝の言葉、真摯な表情、視線を受けて、裕子は何故か胸がどくんと飛び出しそうになった。
 顔を赤らめながら、ごまかすように、

「まま、まあ、そ、それが決勝大会突破のための最善の策とも思ってたしさ。……それじゃ、後半は一人一人がもうちょっと素早い判断で、ボールを回してこう。それには、チームメートを思いやること。あたしの大好きな言葉に、こんなのがある、『ひとりはひとりのために!』 えっと、あとなんだっけ?」
「あともなにも、出だしから間違ってんだけど。知らない言葉使うなよ、バカのくせに」

 晶が、容赦ない突っ込みを入れる。

 部長がこんな調子でグダグダなトークをしている間に、ハーフタイムも終了。
 佐原南はこの決勝大会、勝ち負け問わず最後となる円陣を組んだ。

 我孫子東のキックオフで、後半戦がスタートした。

     10
 わらみなみは次々と選手交代を行ない、ハーフタイムでの指示通りに、
 ピヴォいくやまさと
 左アラやまゆう
 右アラゆう
 ベッキ真砂まさごしげ
 ゴレイロたけあきら、というメンバー構成になった。

 ひがしは前半の勢い衰えず、どんどんパスを繋いで、右から左から攻め続けている。
 しかし、佐原南が陣形や戦術を変更したことと、個人能力の高い選手が入ったことにより、前半ほど防戦一方の展開ではなくなっていた。

 とはいうものの我孫子東も個人技は非常に高く、チームワークも一枚上手であり、なかなかボールを奪うことが出来ないし、たまに奪えたところで攻め入る隙がなく、すぐ取り返されてしまうのだが。

 そんな中、相手のパス回しを上手く読んだ茂美が、素早く駆け上がりボールカットを見せた。
 しかしかなもとようの素早い寄せに、一瞬もたついてしまい、二人はぶつかりあった。茂美はバランスを崩して、床に転がった。

 笛が鳴った。
 我孫子東、金本陽子のファールが取られた。

 佐原南にFKが与えられた。
 選手たちが、我孫子東のゴール前へと移動する中、茂美は裕子へとゆっくりと近寄って、なにやら耳打ちした。

「ん? なんだって?」

 聞き返す裕子。
 これ以上はないほど耳元であったのに、ぼぼぼぼと風のような音が鼓膜をくすぐるのみで、全然聞こえなかったのだ。
 もう一度耳元でささやかれても、やっぱり裕子にぼぼぼぼぼ。さっぱり聞き取れない。裕子はベンチの方、サイドライン際まで茂美の手を引いていくと、

、通訳して」
「よしきた」

 今度は亜由美の耳に、茂美は口を近付けた。

「うんうん。えと、いま転ばされたので、足を痛めたって」
「ええ、なんでいまのぼぼぼぼぼで分かるんだよ。つうかそれ一大事だろ! さっさといえよ、もう。……ベッキ、りんと交代。亜由美、茂美にテーピング頼む」

 というわけで、負傷した茂美に代わってともはらりんがピッチに入ることになった。
 交代ゾーンより、二人は入れ代わった。

「鈴、ベッキだけど大丈夫か?」
「はい、頑張ります」

 前の試合で、裕子は緊張している鈴とベッキを変わってあげたが、この試合は、なるべくならば裕子は前目のポジションにいたい。

 鈴がどうしようもないくらいに緊張してたら、また代えるしかないけど、でも、前の試合では色々と吹っ切れて、自信も掴んだようだから、大丈夫だろう。どうであれ、信じるしかない。

 佐原南が獲得したFKであるが、キッカーは佐治ケ江だ。

 短く助走し、蹴った。
 力みすぎでゴール前高くを通り越すかに見えたボールであるが、突然カクッと折れ曲がり、すっと落ちた。

 裕子が飛び込み、頭を合わせようとするが、ボールとの間に入り込んだ主将のなかしましようにクリアされてしまった。

「ごめんサジ、いいの上げてくれたのに」

 裕子は笑顔で叫ぶと、ボールを追った。

 試合は、膠着状態になった。
 一進一退ではない。
 誰が見ても、我孫子東が佐原南を圧倒している。

 我孫子東、県立高校ながらフットサル人気が高く、毎年たくさんの経験者が入部する。
 試合に出ているのは、その中から選ばれた、いわば精鋭揃い。
 誰もが非常に優れた個人技を持っており、経験も長く、それを部に還元しているものだからチームとしても非常に洗練され、誰が出ても乱れることのないくらいに戦術が充分に浸透している。
 攻撃には緩急があるし、守備は完璧で、まるで穴がない。

 ただ、対する佐原南も、守備に関しては少しずづ対応出来るようになってきた。
 どちらもそう簡単には、点が動くようには見えない。

 と、そういう意味での、膠着状態である。

 裕子としては、このまま粘って、打つ手を探るつもりであったが、ただし問題点が一つ。
 充分に想定していたことではあったが、佐治ケ江の呼吸が、少し荒くなってきていたのである。

 どんなに彼女がへたばろうとも、交代するつもりは毛頭ないが。

 その分、自分たちが走り回り、カバーすればいいのだ。

 頑張れよ、サジ。
 一緒にさ、気持ちのいい場所まで突き抜けようぜ。

 裕子は、息を切らせながら走っている佐治ケ江へ、心の中でエールを送った。
 しかし神様は、そう簡単には幸せを与えてはくれないようである。

 我孫子東の交代ゾーンに、はやしばらかなえが立ったのだ。

 この会場の最寄駅前で会った際に、尊大不敵な笑みを浮かべていた一年生だ。

 性格と連係に難ありで使われることが少ないが、我孫子東の中で一番の技術を持つ選手である。小柄だが馬力もあり、敏捷性も高い。

 いよいよ、入って来るか……

 裕子は覚悟を決めた。
 これから襲い来るであろう暴風雨に、立ち向かう覚悟を。

 林原かなえは、主将の中島祥子と入れ代えに、ピッチへと入った。
 よく見るまでもなく、佐原南の選手たちに対して、にやにやと挑発的な笑みを浮かべていた。

     11
 いくやまさとは、走りながらボールを受けた。

 投入されたばかりのはやしばらかなえに、ちらり警戒心のこもった視線を向けた。
 その瞬間であった。
 林原かなえが、里子の方へと走り出した。

 あまりの瞬発力に、里子は身体を反転させてボールを守るので精一杯だった。
 裕子の位置を確認した里子は、パスを出そうとボールを蹴った。

 いや、その足は空を切っただけだった。
 里子の目が、驚きに見開かれた。
 足元にあったはずのボールが、いつの間にかなくなっていたのである。

 はっとしたように後ろを振り返った里子が見たもの、それは、悠々とボールを踏み付けている林原かなえの姿であった。

 いつの間に奪ったのか。
 離れたところにいる裕子にすら、まったく分からなかったのだ。背後に密着された状態の里子に、分かるはずもなかっただろう。

 奪われたなら、奪い返せばいい、と、里子は気持ちを切り替えたか、さっと足を伸ばす。

 林原かなえは、ころりボールを転がして、所有権を渡さない。

 里子はなおも奪うべく足を槍のように突き出していくが、林原かなえは、向き合ったまま、足裏によるボールコントロールだけで、楽々とかわし続ける。

 里子は傍目からでも全力を出しているのが解かるというのに、林原かなえはなにごともない涼しい顔だ。

 段々と、里子の顔が赤くなっていく。

 当然だろう。
 身体を上手く使ってキープするなり、味方へパスを出すなり、林原かなえとしては、他にいくらでも安全な方法があるのだから。
 要するに、里子は彼女に舐められているのである。

 地区予選前の里子ならば、林原かなえを突き飛ばして退場していたかも知れない。
 むしろ舐めてくれた方が助かる。と、そこまで冷静になるのは、その顔の色からして難しいようではあるが、しかし、辛抱強く耐えているのもまた間違いのない事実であった。

 こんな時だというのに、裕子は、里子の成長がなんとも嬉しかった。

 さて、里子と林原かなえの勝負の行方であるが……

 林原かなえが、飽きた。

「野蛮なだけで、つまんない」

 言葉通りつまらなさそうな表情になると、素早いステップで、一瞬にして(わざわざ)里子の脇を抜け、振り切ると、前線にいる金本陽子へとロングパスを送った。

 蹴った瞬間、

「ミスった」

 林原かなえは、ぼそり呟いた。
 隙を突いてフリーになった金本陽子を狙った、精度の高いパスであったが、全力で駆け戻った真砂茂美がかろうじて間に合いボールとの間に入り、大きくクリアしたのだ。
 そうなることを蹴った瞬間に見抜いての、林原かなえの言葉だったのだろう。

 ともあれ、茂美のクリアはそのまま佐治ケ江へのパスになった。

 佐治ケ江は左腿を上げて、ボールを受けた。丁寧なトラップだ。

 寺崎詩緒里が、すかさず詰める。

 ちらり視線を動かして確認すると、佐治ケ江はすぐさま前線の里子へとパスを出した。

 里子は、右足の裏で踏みつけるようにボールを受けた。

 すっ、と里子の死角から音もなく迫っていく林原かなえに気付いた佐治ケ江は、「里子、後ろ!」と叫びながら、フォローのために走り出した。

 遅かった。

 里子は、一瞬のうちにボールを奪われてしまっていた。

 林原かなえと、佐治ケ江が向かい合った。

 勝負は一瞬で決まった。
 林原かなえは、佐治ケ江の動きを読み、足の間にボールを通すと、背後へと回り込み、そしてそのボールを回収した。

「たいしたことないね」

 鼻で笑うと、ドリブルで駆け上がりはじめた。
 と、いきなり佐原南の山野裕子にがつんと身体をぶつけられて、よろけた。
 舌打ちしつつ、バランスを取り戻して再度走り出そうとしたところ、審判の笛がなった。いまの山野裕子のファールを取ったのだ。

 我孫子東に、FKが与えられた。

 キッカーは林原かなえだ。
 笛が鳴ると、前方のスペースへと丁寧にボールを転がした。

 佐原南のマークを素早く外した寺崎詩緒里が飛び出して、振り返り様ボールに力一杯、足を叩きつけた。

 シュートはゴレイロ武田晶の正面。
 晶は両手でキャッチしたが、ボールの勢いに負けて、こぼしてしまった。

 床に落ちたボールに、すかさず寺崎詩緒里が押し込もうと猛然たる勢いで迫るが、晶が飛びつく方が早かった。今度は、胸にがっちりと抱え込んだ。

 寺崎詩緒里は全力で駆け出した勢いを急には殺せず、倒れているゴレイロの身体にぶつかった。転倒し、ゴレイロの背の上に膝を落としてしまった。

 武田晶の、絶叫に近い悲鳴が、会場に響いた。

 笛の音。
 寺崎詩緒里に、イエローカードが出された。

「悪気ないのは見てれば分かるけど、ルールだから」

 審判は、寺崎詩緒里の顔を見るなりそうなだめた。
 イエローは酷いのではないか、そう抗議しそうな表情を彼女が浮かべていたからだろう。

 フットサルは接触プレーに厳しい競技のため、故意かどうかにかかわりなく、このようなプレーは審判によっては躊躇なくイエローカードが出されるものなのだ。

「晶、サンキュー! 助かったよ。背中、大丈夫か?」

 裕子は心配そうに尋ねた。

「ちょっと乗られただけ。こんなもん気にしてたら、ゴレイロなんて出来ないって」

 晶はズキズキと痛んでいるであろう背中をさすりながら、ゆっくり立ち上がった。

 FKは晶が蹴った。大きく、前線へ。

 しかし、一瞬にしてボールの所有権は我孫子東へ渡ってしまう。
 晶からのロングボールを追った里子が、みずしまあかねに簡単に競り負けてしまい、奪われたのだ。

 なおも我孫子東の攻勢は続く。
 打開、というよりも打開に繋げるため、裕子は交代カードを切った。

 山野裕子 アウト きぬがさはる イン

 自分が抜けたのである。
 裕子自身、体力的にはまだまだやれる。しかし、単に猪突猛進するだけでは、林原かなえにいいようにやられてしまう。
 だから、個人技では劣るが目と心の視野が広くて全体把握の出来る春奈を出すことにしたのだ。

 春奈は期待に応え、一対一において粘り強い守備を見せ、戦術的には相手のパスコースを確実に塞いでいった。
 個人技の足りていない部分を補って余りある巧みなポジショニングで、我孫子東の攻撃の芽を摘み取っていく。

 しかしながら、我孫子東の方が、個人技だけでなく、組織力としても格段に上回っていた。
 ピッチの外から主将の中島祥子が修正をかけると、あっという間に春奈の存在は無効化され、また、我孫子東がパスを回し、攻め込むようになった。

 負傷した真砂茂美に代わりベッキを任された友原鈴は、気力と運と体力とで我孫子東の攻撃を、最後のところで食い止め続ける。
 だが、幸運もいつまでもは続かない。

 必死の抵抗を見せる鈴を嘲笑するかのように、林原かなえは仕掛け、華麗なステップで抜いていた。

 鈴は咄嗟に反応し足を伸ばしたものの、足にぴたりと吸い付くようなボール捌きに、かすめることすら出来なかった。

 こうして林原かなえは、守備陣を完全に突破し、ゴレイロの武田晶と一対一になったのである。

 ゴール前で、腰を落として構えていた武田晶であったが、林原かなえのボールタッチが少し大きくなったのを見逃さず、一気に飛び出した。

 次の瞬間、晶の目が驚きに見開かれていた。

 ボールが、林原かなえの足元にあったのだ。
 タッチが大きくなったふりをして、ボールにバックスピンをかけていたのだろう。

 晶の飛び出しを誘うために。
 より確実に得点の出来る、完全無人のゴールを作り出すために。

 晶は前へと突進する自身の身体に必死にブレーキをかけるが、不意にその顔が激痛を受けたかのように歪んだ。
 無茶な動きをしたことで、先ほど寺崎詩緒里に乗られた背中が痛んだのだろう。

 気力で激痛を弾き飛ばした晶であったが、それによりわずかな隙が生じた。本当にわずかな、ほんの一瞬ではあったが、しかしそれは致命的な一瞬だった。

 晶の脇を、林原かなえが笑みを浮かべ、抜けていく。

 やられた。

 観念した、晶の表情。
 ベンチから見ていた裕子も、同じ表情であった。

 相手のチームワークによる攻撃を、なんとか食い止め続けていたというのに、個の力にやられてしまった。

 と、突然、林原かなえの身体がぐらりよろけた。

 すぐ背後に、友原鈴の姿。
 林原かなえをとめようと背後から迫ったものの、その動きに付いていくことが出来ず、結果として背中を突き飛ばしてしまったのだ。

 林原かなえは倒れ、それに足をとられて鈴も倒れ、折り重なった。

 甲高い、鋭い悲鳴が上がった。
 林原かなえの声であった。

 身体を丸め、足首をおさえ、ばたんばたんと、林原かなえはのたうち回っている。

 審判の笛が吹かれた。

 著しく危険な行為。そう判定され、鈴にレッドカードが出された。

 ペナルティエリア内でのファールであったため、我孫子東にPKが与えられた。

 それを知った林原かなえは、バタバタ転がるのをやめると、けろりとした顔で、なにごともなかったかのように起き上がった。

     12
 ともはらりんは、呆然とした表情で突っ立っている。

 なにが起きたのか、自分がなにをしたのか、分かってはいても、受け入れられないのだろう。

 だが、目の前で着々とPKの準備が進んでいく様に、完全に現実に戻ったようで、うなだれたままピッチを後にした。

 PKのキッカーは、倒されたはやしばらかなえ本人がつとめるようで、彼女はペナルティーマークにそっとボールをセットした。

「どうも、すみません」

 鈴はしょんぼりした表情でやまゆうの元へ近付くと、深く頭を下げた。

「絶対失点ってとこだったんだから気にしない」

 裕子は笑みを浮かべ、鈴の肩を叩いた。

「でも、PKになっちゃって」
「晶を信じよう。あいつ、顔も頭も悪いけど、ここ一番で凄い力を発揮する奴だから」
「はい……」
「大丈夫、大丈夫」

 と、鈴には笑顔の裕子であるが、内心、相当な焦りを感じていた。

 やっべえな。
 どうしよう。
 ったく、よりによって、林原かなえが出てる時にPKかよ……

 と、不安になるのも当然。
 情報によれば、林原かなえはよくPKのキッカーを任されている選手なのだ。
 得意どころの話ではなく、中学時代から含め、公式戦では一度も外したことがないらしい。

「でも……」

 どうしようじゃないよな。
 晶を、信じるしかないじゃんか。
 鈴にばかりえらそうにいってないで、あたしも、仲間を信じないでどうすんだ。
 仮に、もしもの時は、もしもの時だ。そしたらすぐに人数補填が出来るんだし、ここまで頑張ってきた鈴が出られないのは残念だけど、その分あたしらが頑張って走り回って点を取ればいい。ただ、それだけじゃないか。

「絶対に防げよ! でないと煮っ転がすぞ、ジャガイモ顔!」

 裕子は怒鳴った。
 本当に煮るつもりなどない。これが自分なりの、戦友へのエールなのだ。

 武田晶は、裕子をちらりと見ると、表情ひとつ変えず視線を正面へと戻した。
 正面に立つ、林原かなえへと。

 ピッチ、ベンチ、観客席、全ての人間の注目を浴びながら、武田晶はゴール前中央で、ただ直立不動であった。
 特に両腕を広げたり、威嚇するような表情を作ったりなど、相手の心理を揺さぶるようなことはなにもしていない。
 顔は、あくまでも無表情。

 対して林原かなえは正反対、薄笑いを浮かべ、明らかに楽しそうである。
 あまりにも晶が無反応なためか、ちょっと面白くなさそうな顔を作ったが、それも一瞬だけで、すぐ笑みに戻った。

 審判が吹く、短い笛の音が響いた。

 ひと呼吸おくと、林原かなえは、ゆっくりと助走を開始した。
 相手を嘲笑するような表情で、からかうように、ゆっくりと、ゆっくりと。
 ボールへと近付くと、ゆっくりと足を振り上げた。
 さして力むことなく、その足を振り下ろしていく。
 ゴレイロの身体がぴくりと反応したことを確認するや、突如、振り下ろす足の動きを加速させ、蹴った。

 弾丸、とまではいかないが、初期モーションから想像も出来ないようなスピードのあるシュートであった。
 速いだけでなく、完全に枠を捉えている。
 そしてその弾道は、完全にゴレイロの逆をつくものだった。

 決まった。

 と、林原かなえは満足げに、唇の端を吊り上げた。
 しかし、その笑みは一瞬しか続かなかった。
 彼女の目は驚愕に見開かれ、続いて、ぽっかりと口が開かれていた。

 さもあろう。
 佐原南ゴレイロ武田晶が、シュートの軌道上にしっかりと立って、両手にボールをキャッチしていたのだから。

 しかも晶のその顔には、余裕の表情すら浮かんでいた。

 佐原南を窮地から救った好セーブに、観客席がどっと沸いた。

「どうして……」

 林原かなえは、公式戦で初めてPKを失敗したショックのためか、呆然とした表情で、がくりと両膝をついた。

 晶の回答は、シンプルだった。

「技術に自信ある奴って、どいつもこいつも逆をつきたがるからね。逆と分かってりゃあ、止めるのは簡単」

 その一言に、林原かなえの中の、なにかが音を立てて崩れていた。か、どうかは分からないが、とにかく裕子は、ガラガラと崩れる音を胸に聞いた。
 それほどに、林原かなえの表情は放心しきっていたのである。

 おそらく彼女は、ゴレイロの動きを読みきって蹴ったつもりだった。
 しかし実際には、ゴレイロに蹴らされていたのだ。

 駅前で見せたような、人をバカにした態度、実力に自信があればこそ、そのような態度がとれるのだ。つまりは、自尊心の塊であったのだ。
 そんな彼女が、これまで全て決めてきたPKを初めて外した。しかも、完全にゴレイロに誘導され、蹴らされて。

 裕子にはよく分からないが、きっと精神が壊れるくらいショッキングなことなのだろう。
 実際、あんなになってしまっているのだから。
 床に座り込んで、死んだ魚のような目になって。

 林原かなえだけではなく、我孫子東の選手たち全員が、沈んだような表情になっていた。

 部の選手の、記録が阻止されたということもあるだろうが、この試合の行方に暗雲立ちこめるものを感じたのかも知れない。

 反対に、このPK阻止に大爆発、大盛り上がりなのが佐原南である。
 一点リードされている状態だというのに。
 PKを与えてちょっと前まで悲壮感満面だった友原鈴が、笑顔で裕子に抱きついた。
 裕子も抱きつき返し、二人は手に手を取って喜んだ。

「まったく、無駄にかっこつけやがってさ」

 裕子は、ゴール前に立つ頼もしい守護神へと視線をやった。

「無駄じゃあないよ」

 守護神、武田晶は、ちょっとだけ照れたように、唇を歪め、鼻の頭を掻くと、ボールを大きく前方へと蹴飛ばした。

 んなこと、分かってるって。

 裕子は、心の中で呟いた。

 このPK阻止は、一点防いだ以上の意味があるよ。

 晶の演技めいたPKセーブ、確かにその効果は絶大だった。
 なおもピッチに立つ林原かなえの動きに、誰の目にも分かる明らかな変化が生じていたのである。

 先ほどの件でまだ動揺しているのか、すっかりと動きにキレがなくなっていた。
 その自覚があるのか、佐原南にプレッシャーをかけられると、強引に抜こうとはせず、すぐにパスを選択するようになった。

 もしも一対一で負けたなら、さらに自尊心が傷つく。
 だから無意識のうちに勝負を避けてしまっているんだ。

 裕子は、彼女の心理をそう分析していた。
 パスに逃げる林原かなえであるが、必ずパスに逃げるとなれば、次第にそのパスすらもカットされることが目立ってきた。

 おどおどしたようにボールを持つ林原かなえの、正面に里子が立った。

「あたしみたいな技術のない野蛮人から奪われたら恥ずかしいよね。早くパスしたら? ほら、早く」

 里子は楽しそうに挑発する。

 まったく、意地の悪い……。

 裕子は苦笑した。

 林原かなえは、里子の挑発には乗らず、寺崎詩緒里へとパス……いや、しかしそこには佐原南の衣笠春奈がしっかりマークについている。
 思考時間を稼ごうと思ったか、反転する林原かなえであったが、次の瞬間、いつの間に背後にいたのか佐治ケ江優にボールを奪われていた。

 佐治ケ江はドリブルで駆け上がると、遠目、角度のないところからシュートを放った。

 ゴレイロの田中姫子は、素早く反応しブロックの体勢に入るが、しかしシュートは枠外。ポストに当たり、跳ね返った。

 だがボールはまだ生きている。
 その跳ね返りに反応して、反対側から駆け込んでいた里子がシュートを打ったのである。

 反対側に飛び出しかけていたゴレイロ田中姫子は、完全にバランスを崩してしまっていた。
 しかし、強靭な肉体能力で足を後ろに突き出して、ボールになんとか触れて枠外へと蹴り出した。

 里子のシュートはゴレイロの好プレーにより防がれたが、しかし佐原南はCKを得た。

 キッカーは佐治ケ江優である。
 笛の音と同時に、ボールを蹴った。

 笛の音と同時に動き出していた衣笠春奈が受け、すぐに里子へと繋ぐ。

 里子は、引き付けると、また春奈へパス。

「時間稼ぎに付き合うな! そもそも相手は一人少ないんだよ。なに回されてんだ!」

 我孫子東の主将、中島祥子が叫んだ。

 そう、その言葉の通り、これは退場者を出した佐原南の、人数補填までの時間稼ぎであった。

 叱責を受けた我孫子東の、佐原南へのプレッシャーが激しくなった。
 相手の人数が少ないということから、どこか他人任せになってしまっていた甘えを、中島祥子は吹き飛ばしたのだろう。

 里子は囲まれ厳しい中、なんとかボールを守り、佐治ケ江へとパスを出した。

 だがボールは、我孫子東の水島茜がさっと伸ばした足に当たり、小さく跳ね上がって、落ち、転がった。

 我孫子東の寺崎詩緒が、さっとボールへ詰め寄り、奪うが、次の瞬間には後ろから佐治ケ江優に足を入れられて、奪い返されていた。

 寺崎詩織緒里が振り向くや否、さらに奪い返そうと足を伸ばすが、佐治ケ江は細かなボールタッチでかわす。

 横から、加勢しようと我孫子東の金本陽子が迫る。ファール覚悟か、佐治ケ江の足ごと払おうかという横殴りの一閃。

 しかし佐治ケ江は、間一髪ボールと自身とを浮かせ、かわしていた。
 滞空中に、膝でボールを蹴り上げて、自身の頭上を通して背後へと回した。

 二対一だというのに、佐治ケ江のボール捌きは実に冷静に見え、素早く的確で、まったく失う様子がない。

 奪おうと次々突き出される無数の足の間を、小刻みにボールが踊っている様は、さながら魔法を見ているかのようであった。

 佐治ケ江本人としては、余裕など微塵もなく、ただ必死なだけであったことだろうが。

 これがいつまでも続けられるはずもない。
 と思ったか佐治ケ江は、林原かなえが向かってくるのに気付くと、寺崎詩緒里と金本陽子の間を一瞬で潜り抜ける。そして、自ら林原かなえへと飛び込んでいった。

 足元の技術の高い林原かなえに、こちらから一対一の勝負を仕掛ければ、むしろ他の誰も手を出してこないだろうと判断したのだろう。

 先ほどから消極的なプレーの目立つ林原かなえであったが、さすがに強気になり、挑まれた勝負を買った。

 だが、この勝負で彼女の自信が回復することはなかった。

 目の前に立つ、触れれば折れそうな体躯の相手から、まったくボールを奪うことが出来なかったのだ。

 傍から見ている裕子からも、林原かなえの混乱がはっきりと伝わってきた。
 佐治ケ江優の足やボールの動きがあまりに変幻自在で、まったく予想出来ないのだろう。
 たまたま蹴り足の予想が的中しても、何故かボールはまったく予期せぬ方向へと逃げる。

 これで混乱せぬ方が不思議というものである。

 世界が違う。

 自分が赤子同然の扱いを受けていることに、林原かなえは愕然とした表情になっていた。

「サジ、あとちょっとで二分だ!」

 裕子は叫んだ。
 
 友原鈴の退場から、あと少しで二分。
 減った人数の、補填が出来るようになる。

 佐治ケ江はちょんと前にボールを蹴ると、一気に林原かなえを抜き去った。
 ドリブルで、さらに水島茜を軽くかわし、遠目からシュートを打った。
 しかしボールは先ほど同様にポストを直撃し、跳ね返った。

 ゴレイロの田中姫子が体勢を崩している間に、詰め寄っていた里子がシュートを打つが、打ち上げてしまった。

 裕子は、林原かなえの顔面が蒼白になるのを、見逃さなかった。

 ぶつりぶつり、と、全身に鳥肌が立っているかのような、それは、恐怖の表情であった。

「さっきから、わざとポストに当ててるんだ。ヒメ先輩の反応力が高いのを逆手に取って……。でも、あんな……あんな遠くから、プレッシャーの中で確実にポストに当てるなんて。しかも、反射角度まで完璧に……」

 無意識なのか、思いがぼそりぼそりと口から出ていた。消え入りそうな、小さな声で。

 それが、佐治ケ江優なんだよ。

 裕子は、頼もしい仲間に笑みを向けた。
 普段はどうしようもないほど頼りない、知らない人と話すのが恐くて買い物すらまともに出来ない、鉛筆すらも持ち上げてひいはあ根を上げているような、佐治ケ江優へと。

 佐治ケ江が前線でキープしている間に、友原鈴の退場から二分が経過した。

 選手補填で、真砂茂美を入れた。
 先ほど相手のファールにより右足を痛めているので、裕子としては、出来ることなら出したくはなかったが、駒不足であり出さざるを得なかった。
 本日最後の試合だし、頑張ってもらうしかない。

 右足にテーピングがぐるぐるとまかれている茂美であるが、やはりその守備能力は高く、入ったばかりというのに早速よいプレーを見せた。
 相手と激しく競り合って、ボールを奪い取ったのである。
 すぐさま、里子を目掛けて大きく蹴った。

 里子と、林原かなえが競る。

 これは絶対的な身長差で里子が有利、跳躍しながら頭で受けた。

 着地と同時に腿で蹴り上げ、頭、胸、腿、とまるでリフティング練習のように高いところでボールを蹴り続け、林原かなえには渡さない。

 しばらくすると、前方で待つ佐治ケ江にパスを出した。まるで飽きたといわんばかりに。
 つい先ほどまで、里子はさんざんと同じようなことをされており、やり返したのだろう。

 林原かなえは佐治ケ江へと向き、ボールを追おうとする。が、しかし、ボールは既に里子へと戻っていた。

 佐治ケ江優と生山里子、二人のパス交換に、林原かなえはすっかり翻弄されていた。

 林原かなえ。
 性格に難ありで出場機会が限定されるとはいえ、実力は我孫子東の中でも群を抜いている。
 それは周囲の評価というだけでなく、きっと本人も、そう思っていたのではないか。

 それが個人技においてもやりこめられ、精神が限界に達したか、会場内に響き渡るような、金切り声で絶叫していた。

 思考が完全に吹き飛んでいる。
 そんな、顔であった。
 そんな、絶叫であった。

 はっ、と我に返った彼女が見たもの。
 それは、床に倒れている生山里子の姿であった。

 生山里子は激痛に顔を歪めて、足首を押さえてバタバタともがいている。

 我を失った林原かなえが、ドリブルする里子の背中を追い、絶叫しながら足元へのスライディングを仕掛け、倒してしまったのである。

 笛の音が響いた。
 審判は、林原かなえに向け、レッドカードを高く掲げた。

 顔面蒼白、茫然自失、といったていで無言のまま立ち尽くす彼女であったが、しばらくすると頼りのない足取りでピッチの外へと歩き出した。

 仲間たちがタオルをかけ、肩を叩き、慰めている。

 泣いていた。
 林原かなえは、涙をぽろぽろとこぼし、口を歪め、泣いていた。

 裕子は、そんな彼女を複雑そうな表情で見つめていたが、やがて、首を横にぶんぶん振った。

 なんか可哀想ではあるけれど、でも同情している余裕は、こっちにはないんだ。
 畳み掛けられるチャンス。
 ここで動かなかったら、試合が終わってあっちが喜ぶことになるだけだ。

「春奈、交代! あたし入る!」

 裕子は叫んだ。
 佐原南、選手交代。

 衣笠春奈 アウト 山野裕子 イン

 裕子は春奈とハイタッチすると、雄叫びを上げてピッチへと躍り込んだ。

「どんどん攻めるぞお!」

 気合満面の裕子であるが、千載一遇の好機にはやっているのは彼女だけではなかった。

 ベンチにいる部員たち、そして、ピッチ上の選手たちがそれぞれに闘志をみなぎらせ、かくして優勝候補である我孫子東に対して怒涛の攻めを開始したのである。

     13
 ひがしの選手退場に加えて、わらみなみの勢い。

 それが我孫子東の集中力の乱れを誘ったか、佐原南のパスがどんどん繋がる。

 必死の形相で攻撃を跳ね返し続ける我孫子東の選手たち。

 先ほどまでとは、完全に形勢が逆転していた。

「おろおろしてんな! 練習通りに!」

 主将のなかしましようが、選手たちを落ち着かせようと手を打ち、叫ぶ。
 だが、焼け石に水、という有様であった。

 山野裕子には、何故なのかなんとなく想像が出来ていた。

 つまりは、我孫子東はエリートの集まり、ということだ。
 このような状況に、慣れていないのだ。

 もちろん、退場者が出た時にどうするか、戦術はしっかりと考えているだろうし、練習だってしているだろう。
 だが、実戦経験はほとんどないはずだ。
 何故なら、警告を受けることがほとんどなく、退場者などまず出さないからだ。

 裕子が調べた限り、公式戦で退場者を出したのは、今回を抜かせば3年前の一回きりだ。つまりは、それを経験している者が一人もいない。

 もちろん、我孫子東の劣勢の原因はそれだけではない。

 うちら、佐原南の勢いが、単純に増しているのだ。

 それは当たり前だろう。圧倒的不利な状況下を耐えに耐え、やっとめぐってきたチャンスなのだから。

 だが、どんなに狼狽していようとも、さすがは我孫子東である。
 とにかく守備が堅い。
 佐原南は、相手が退場で攻撃に人数を割けないのを利用して、ゴレイロの武田晶も積極的に攻撃参加をするものの、あと一歩というところで弾き返されてしまい、せっかくの波状攻撃を得点に結びつけることが出来ずにいた。

 堅い守備陣とはいえ、何度か突破し、あとは決めるだけという状況も、何度も作った。しかしその都度、我孫子東ゴレイロのなかひめが身体を張って、鬼神のごとき活躍で佐原南の得点を阻んだのである。

 佐原南ゴレイロの武田晶も、なかなか得点を奪えない状況にさすがに焦れたか、攻め上がる時間が増えていく。

 我孫子東のたかが、自陣で、ボールをなんとかクリアした。

 盲めっぽう大きく蹴っただけに見えたクリアボールは、奇麗な弧を描いて、選手たちの頭上を、そしてハーフウェーラインを越え、飛んでいく。

「と、やば!」

 ハーフウェーライン付近にまで上がっていた武田晶は、踵を返し、自陣ゴールに戻るように全力で走り出した。
 このまま佐原南ゴールに吸い込まれてもおかしくない、ボールの軌道だ。
 間に合わないかもしれないが、でも走るしかなかった。

 走る晶。
 その背後から、てらさきが迫る。

 結局、晶は間に合わなかったが、しかし運は佐原南に味方した。
 ボールが落ち切らず、クロスバーを直撃したのだ。

 だが、まだ終わっていない。
 跳ね返りが、戻ろうと走る晶の頭上を飛び越えた。

 晶の後ろで、寺崎詩緒里は跳躍すると、ボールに頭を叩き付けていた。

 いまから振り返って対応しようにも間に合わない。

 晶は、そう判断したのであろう。
 瞬時に五感を研ぎ澄ませて音や空気の流れを読んだか、それとも経験で弾道を予測したか、とにかくゴールを目掛けて自分の脇を抜けていくはずのボールを、振り返りざまの後ろ回し蹴りで弾き飛ばしていたのである。

 ボールはタッチラインを割って、二階観客席にまで飛んでいった。

 神が降り立ったかのようなこのプレーに、客席からどよめきがあがった。

 一番信じられないのは、晶自身だったのかも知れない。だがすぐに、ぽかんと空いた口を引き締めた。

 相手を驚かせる、観客を沸かせる、そんな素晴らしいプレーを披露しようとも、このまま得点が出来なければ佐原南には敗北しかない。

 時間は刻々と過ぎていく。

 結局、我孫子東の人数が少ない間に得点を上げることは出来なかった。
 林原かなえの退場から、二分が経過したのだ。

     14
 ふう。
 我孫子東の主将、中島祥子は、心の中でため息をついた。

 ぎゅっ、と拳を握った。

「よく我慢した! 今度はこっちの番だ」

 叫ぶような声でピッチ上の選手たちを激励すると、自身がピッチに入った。

 これで、我孫子東のFPは四人に戻った。

「ガンガン攻めるよ!」

 中島祥子は周囲と自分とに気合を入れた。

 これでまた、こっちのペースだ。

 しかし、彼女の予想は完全に外れることとなった。
 佐原南の攻勢が、一向に衰えないのだ。
 勢いというだけではない。
 確固としたチームワークでボールを回し、攻め、能動的な守備をし続けていた。

「四対四なのに……」

 なのに、なんで……うちが、負けている?

 中島祥子は、対戦相手のあまりの不気味さに、全身にぶつりぶつり鳥肌が立つのを感じていた。

 驚くには、まだ早かった。
 佐原南の攻勢はまだ終わらず、それどころか攻撃において次の局面を展開したのである。

 それにより、我孫子東はさらなる混乱に陥ることになるのだが、それをもたらしたのは、

「いくよ、イプシロン!」

 佐原南を率いるやまゆうの、この言葉であった。

 指示とともに、佐原南の基本陣形が変化した。

 前にいくやまさとゆう
 中央に山野裕子。
 後ろに真砂まさごしげ

 Y字型、もしくはスター型と呼ばれるフォーメーションだ。
 これ自体は、別に珍しいものではない。
 真ん中の選手が後ろに下がるため、特に攻撃的なフォーメーションというわけでもない。

 なのに、何故このタイミングで、佐原南はこのようなことを……
 しかも山野裕子の表情。
 機は熟した、とでもいうような、自信に溢れた顔で。
 ハッタリか?
 我々を混乱させるため。
 そして、新しい布陣にこちらが慣れる前に、点を取ってしまおうと。
 でも残念。イプシロンを使うチームとの対戦なんか、何試合もこなしている。
 しかも、関東の強豪校相手にだ。
 付け焼き刃の戦術で勝てるなら、世話はない。

 と、ここで中島祥子は、ぶるっと身震いしていた。
 山野裕子を単なる強がりといっておいて、自分こそ強がっていたことに気付いたからである。
 心の中で饒舌にぺらぺらと。

 でも、リードしているのはこちらなんだ。

 と、中島祥子は相手の出方を窺おうと決めた。
 じっくり様子を見よう、そう指示をかけようと思った瞬間であった。

 相手がなにをやろうと関係ない、と思ったか、みずしまあかねはボールを持つなり、ドリブルで駆け上がり、佐原南の守備陣を突破しようとした。

 確かに佐原南の陣形には大きな隙間があり、水島茜はそこへ飛び込んだのだ。

 しかし次の瞬間、ボールの所有者が変わっていた。

 水島茜は、山野裕子と真砂茂美とに囲まれて、ボールを奪われていたのだ。
 ほんの一瞬前までは、佐原南の守備陣は穴だらけだったというのに。
 そこを、突いたはずだというのに。

 きつねにつままれたかのように呆然としていた中島祥子であったが、山野裕子が佐治ケ江優へとパスを送るのを見ると、ぷるぷると首を振り迷いを追い払い、走り出した。

 佐治ケ江優へと少し間を詰めると、腰を落とし、待ち構える。

 パスを出させて絡め取るつもりであるが、自分を抜きにかかるのなら、それも構わない。抜かれるつもりは、毛頭ないからだ。

 という、それがいかに相手を、佐原南を舐めた考えであったか、彼女はこの直後、気付かされることになるのであるが。 

 佐治ケ江優のふらふらと頼りなく見えるドリブルに油断した、というわけではないが、中島祥子は、突然の急加速を見せる彼女に身体が反応出来ず、一瞬にして抜き去られていたのである。

 はっと目を見開いた中島祥子は、すぐさま踵を返し、走り出すと、佐治ケ江優の後ろから手をかけ、転ばせてしまった。

 ボールを奪う中島祥子であるが、当然ファールである。審判の笛が鳴った。
 佐原南に、直接FKが与えられた。

 キッカーは佐治ケ江優だ。
 ボールをセットすると、笛の音と同時に蹴った。
 壁を飛び越え、直接ゴールへ。

 無回転のボールは、短い距離であるというのに、ぶれながらすとんと落ちた。

 決まっても不思議のないシュートであったが、我孫子東の堅守を支える一人であるゴレイロのなかひめは、鋭い読みと反射神経とで、しっかりキャッチし、胸に抱え込んだ。

 田中姫子は助走しながら右肩を大きく振るい、ボールは水島茜へ。

 水島茜から、横にいる寺崎詩緒里へとパス。

 上手い。

 と、中島祥子は味方のパスを褒めた。
 佐原南の、守備のほころびを突くパスだからだ。

 だが、これはどうしたことか。
 パスを受けた寺崎詩緒里は、佐原南の生山里子と山野裕子の二人にさっと取り囲まれて、驚いた一瞬の隙にボールを奪われていたのである。

 何故……

 守備の穴だと思ったのに。
 どうして、奪われる。

 ああ……

 そういうことか。

 イプシロンの……アレンジだ……

 佐原南の戦術を、中島祥子はそう理解した。
 中央の山野裕子が移動をすることで、彼女ともう一人とでボールを奪ったりパスコースを消す戦術だ。

 ぽっかり空いた中央の穴も、他のポジションの選手が少し動くことで、しっかりとリスクマネージメントをしている。

「でも……」

 そんなやりかたじゃあ、他の選手は走り回らなくて済むけど、中央の選手の体力消耗は半端じゃない。

 代わる選手がいればいいけど、あんな動きが出来る選手が山野裕子以外にいるか?

 山野裕子がやり続けるしかない。

 でも、どんなスタミナがあろうと、普通なら一分でバテバテだ。
 これは、現実的なやり方じゃ……正気の沙汰じゃない。

 この試合だけならともかく、これまでの試合の疲れだってあるだろうに。
 山野裕子……どれだけ、底なしの体力を持ってるんだ。

 中島祥子は、ぎり、と歯ぎしりした。

 佐原南の戦術は、山野裕子の体力がどこまで保つかはおいて、上手い具合にはまり、我孫子東を押し込んだ。

 我孫子東の人数が一人少なかった時以上に、佐原南の選手たちが躍動を見せていた。

 佐治ケ江優のシュート、生山里子のシュートが、我孫子東ゴールを次々と脅かしていく。

 時折ボールを奪って反撃に出る我孫子東であるが、反撃というよりただボールを回すだけの、なんとも迫力のないものになっていた。

 我孫子東の攻め具合に対応して、佐原南はYの字を回転させて、長所を打ち消しているのだ。

 動きについて細々と指示を出しているのは、山野裕子ではなく、ピッチの外に立つ衣笠春奈だ。

 中島祥子が知るはずもないことであるが、この変則イプシロンは、以前に山野裕子と衣笠春奈が冗談で話していたものなのだ。それを山野裕子が、唐突に採用したのである。

 舌打ちする中島祥子。

 相手がなにをやっているのか、分かっているというのに、それを止めることが出来ないなんて。
 だから、戦いたくなかったんだ。佐原南とは。
 でも……残り時間あと五分。リードしているのはこっちだ。
 守りきればいいんだ。
 頼むよ、茜、ヒメ。

     15
 やまゆうは、飛ぶような勢いでてらさきを追い込んで、真砂まさごしげとともにボールを奪い取った。

 佐治ケ江へとパスを出す。

 ボールを受けたは、くるり前を向くなりみずしまあかねをフェイントで抜き去り、瞬時にしてトップスピードへ。

 走るのは遅いが、瞬発力があるのが佐治ケ江の特徴なのである。

 水島茜は、慌てたように振り向いて、佐治ケ江の背中を追いかけるが、勢い余ってぶつかって倒してしまった。

 審判が笛を吹き試合を止めると、水島茜へとイエローカードを高く掲げた。

 佐原南に、FKが与えられた。

 ゆっくりと、佐治ケ江は立ち上がった。
 しかし、やたらふらふらとした足取りで、数歩進むと急に力抜けたように崩れ、膝をついた。
 両手もついて四つんばいの姿勢になり、苦しそうに息を切らせている。

 病気、まだ治っていないのかな。

 裕子は不安になり、早足で近寄った。

「サジ、大丈夫? 交代しようか?」
「大丈夫、だから。このまま、いさせて。……いま、とっても……気持ちいいんだ。だから……」

 佐治ケ江は、切れ切れに言葉を吐いた。

「そう?」

 裕子は「ふーん」と同じくらい味気ない表情で、ぽそりという。
 淡々とした態度と、胸中はまったくの裏腹であったが。

 なにやら大量の、なんとも名状しがたい、興奮したような感情が、裕子の心の中に沸き上がってきていたのである。
 その自分の思いがなんであったのか、すぐに分かった。

 きっとあたし、うれしいけれども、さびしいんだな。
 サジがどんどん強くなっていること、その成長に自分も協力出来ていることがうれしい。
 でも、なんだか遠くに行ってしまったようで……実際、遠く故郷の広島に帰ってしまうわけで、それがなんともさびしい。
 でも……
 だからこそ、この試合は絶対に勝たなきゃな。

 裕子はちらりと、電光掲示板の残り時間表示を見た。

「時間がない。どんどん攻めてくぞ!」

 佐原南、選手交代だ。

 真砂茂美 アウト なしもとさき イン

 この大会で既に何度か試している、ゴレイロの武田晶をFPにする作戦だ。
 晶は急いでFPのユニフォームを被った。

「咲も機会を見てどんどん上がってきていいんだからな。別にそれで失点したって、文句はいわないから」

 裕子は、ピッチに入った咲に、そう声をかけた。

「冗談じゃない。絶対にゴールは守りますから、そっちも絶対に点をとってくださいよね」

 咲は、グローブをはめながら、小走りでゴール前についた。

 先ほども、武田晶の攻め上がりから、あわやガラ空きのゴールにで決められるところだったのだ。
 咲のいうことも、もっともだろう。

 FPユニフォームに着替えた晶であるが、守備的ポジションであるベッキだというのに、折あらば守備をゴレイロに任せてどんどん上がっていく。
 晶がFPになるのは、とにかく得点が必要な状況の時だから、ということもあるが、もとからして守るより攻撃が好きな性格なのだろう。

 守備の不安は必然的に高まるが、布陣が全体的にコンパクトになり、よりボールが回るようになった。

 佐原南は、我孫子東のお株を奪うような見事なパス回しで、我孫子東陣地へと侵入していく。

 不意に出す晶のスルーパスにさとが反応、飛び出し、受けた。
 一対一。ゴールは目と鼻の先。佐原南のかつてない決定機に、里子はためらいなく右足を振り抜いた。

 しかし、経験か、凄まじいまでの反射神経がみせる技か、ゴレイロのなかひめは反応し、足で弾き返していた。

 ころり転がるボールを、クリアしようと水島茜が駆け寄ろうとする。

 その彼女を、全力で追い越して、シュートを打つ者がいた。
 佐原南ゴレイロの、梨本咲であった。

 残念ながらジャストミートせず、ポスト横に外れてしまった。

「上がってきてんじゃん 」

 素早く自陣へ戻る咲を見ながら、裕子は苦笑した。

 我孫子東の、ゴールクリアランスだ。
 田中姫子が素早いリスタートで、投げた。

 主将の中島祥子が足元で受け、すかさず前線へと蹴った。

 佐原南は前掛かりになって自陣に広大なスペースが空いていることと、咲がまだ戻り切れていないことに、選手たちは慌てて戻りはじめる。

 我孫子東のかなもとようは、得意の俊足を生かしてボールを追った。
 ゴレイロまで攻め上がったことで、誰もいない佐原南側の陣地、あのボールを受けることさえ出来れば、我孫子東の追加点と勝利はおそらく間違いないだろう。

 陸上部から声が掛かったこともあるらしい抜群のスプリント能力を発揮し、びゅんびゅんと風を切って進む金本陽子。

 と、彼女の目が、驚愕に見開かれた。
 山野裕子が、隣を並走していたのである。

 なんとか食らいついていたわけではない。
 裕子は、金本陽子をなんと追い抜いて、先にボールに追いつくと、タッチライン外に蹴り出したのである。

「あたしより、速いなんて……」

 金本陽子は息を切らせながら、なんとも悔しそうな表情で呟いた。

 裕子は自分の頭をとんとんとつつき、笑みを浮かべた。

「脳味噌ない分だけ軽いんでね」

 そういうとボールを拾って、金本陽子へと放り渡した。

 我孫子東のキックイン。
 金本陽子が蹴った。

 受け手である寺崎詩緒里の前に、武田晶が裏から巧みに回りこんで身体を入れて、ボールを奪い取った。

 晶は、すぐさま佐治ケ江へとパスを送った。

 最要注意人物である佐治ケ江優に、すかさず二人のマークがついた。
 中島祥子と、水島茜だ。
 二人は挟み撃ちでボールを奪おうとするが、しかし佐治ケ江の足や身体は、実に不思議な動き、信じられない動きを見せ、かすることも出来なかった。
 緩のようで急、柔のようで剛、捉えどころのないボール捌きに二人は翻弄された。
 ボールは前後左右に床を這って逃げるばかりでなく、細かな上下動も激しく、二人は懸命に追えば追うほど、まるで手品を見せられているような錯覚に陥っていたことだろう。

 不意に、佐治ケ江が二人の間を抜け出した。
 すぐに抜こうとしなかったのは、この抜け出しをより効果的にするためであったか。

 とん、と着地する佐治ケ江。
 足元には、ボールがぴったりと吸い付いている。
 まるで、ボールの方が彼女から離れるのを嫌がっているかのようであった。

 ゴールへと向かい、我孫子東ゴレイロの田中姫子と一対一になった。

 佐治ケ江はタイミングを軽くずらし、シュートを打った。

 至近距離から放たれた、ゴールネットの上を突き刺すようなボールであったが、ゴレイロ田中姫子は鋭い反応を見せて、両手で真上へ跳ね上げていた。

 ボールは、宙高く舞っている。

 生山里子が詰める。

 田中姫子はキャッチしようと素早く膝を曲げるが、生山里子の方が一足先に高く飛び上がっていた。

 里子は落下してくるボールを、頭頂で叩きさらに浮かせた。

 ボールはループを描き、遅れて跳躍した田中姫子の手の上を越え、ゴールネットの方へ。

 落ちてくるボールを押し込もうと、佐治ケ江が詰め寄り、見上げる。

 ゴレイロの田中姫子、長年の経験からの、勘であっただろうか。背後が見えるはずもないのに、後ろ手を伸ばしてボールを大きく弾き上げていた。

 再び跳ね上がったボールを、佐治ケ江が追う。
 守備に戻ってきたベッキの水島茜と肩を並べ、競り合った。

 紙一重の差で佐治ケ江が早かった。

 走りながら前方へ大きく跳躍。
 伸ばした右足の爪先でちょんと小さくボールを浮かせた佐治ケ江は、そのまま空宙で身体を捻りゴールへと向くと、その瞬間に左足でシュートを放っていた。

     15
 なにそれ、物理的に出来るはずない!

 ゴール前のなかひめは、自分の常識を覆す出来事に驚くあまり、一瞬、反応が遅れた。
 そしてその一瞬の間に、ボールはゴールネットへ突き刺さっていた。

     17
 は受身に失敗して、尻から床に落ちた。

 残り時間あと四分というところで、ついにわらみなみは追いついたのである。

 今大会初失点に、がっくりと膝を落とすなかひめ

 やまゆうは両腕を大きく広げ、雄叫びをあげながら、まだ床に倒れている佐治ケ江へと走り寄った。

「あたしのサジ!」

 そう叫びながら、佐治ケ江の上に倒れこみ、その身体を抱きしめ、ほお擦りをした。

「やってくれると思ってた! ほんとサジ、すっげえ! 愛してる!」
「あ、ありがと」
「あれほんとに決めちゃうとは、凄すぎるうう」

 信じられない体勢からのシュート。
 裕子は去年、茂原藤ケ谷との対戦でも同じようなシュートを見た。
 その時は大きく打ち上げて外してしまったが、今回は完璧に決めてくれた。

「サジ先輩、ナイシュー!」

 いくやまさとが、二人の上に覆いかぶさった。

「あたしもやんなきゃダメみたいじゃんか」

 最後に武田晶が乗っかった。

「ちょ、ちょっと重い……苦しいよ」

 佐治ケ江は、逃れようと必死でもがいた。

「切り替え切り替え! リードされてるわけじゃないんだから!」

 我孫子東、主将のなかしましようが激しく手を叩き、意気消沈する味方を鼓舞している。

 我孫子東のキックオフで、試合が再開された。

 連戦の最終試合、しかももう終盤とあって、両校とも相当に疲労しており、佐原南の一方的なペースではなくなってきた。

 我孫子東がペースを取り戻したというわけでもなく、試合は完全な膠着状態に入っていた。

 ただ、試合展開としては膠着していても、試合を楽しむことにおいて、完全に佐原南は勝利し、我孫子東は負けていた。

 我孫子東の選手たちは、身体に染み付いた優れた個人技や連係によって、堅実なプレーを見せてこそいたが、佐原南への畏怖心か、楽しめていないこと表情から明白であった。

 我孫子東がどうであれ、佐原南のプレーに変化はなかっただろう。

 イプシロンフォーメーション継続で、山野裕子が仲間とボールを奪う。
 生山里子、佐治ケ江優の二人が、疲れの色を隠す時間も勿体無いとばかりに、次々と攻撃を仕掛けていく。

 プレーの途切れる都度、佐治ケ江は、ぜいはあと大きく肩で呼吸している。

 現在このピッチの中で、一番疲労の色が濃いのが佐治ケ江だろう。顔を苦悶に歪め、いまにも倒れそうだ。
 しかし、そんな状態であるにもかかわらず、技の冴えはまったく衰えることがなく、むしろ増してきてさえいた。
 個人技においては、完全に我孫子東のどの選手をも圧倒していた。

 サジ、とても楽しそうだな。

 裕子には、顔を歪めてふらふらしながら必死に走り回る佐治ケ江の姿が、そう見えていた。

 きっといま、自分がどこまでやれるのか、チャレンジしているんだろうな。
 そのたびに自信を得て、どんどん自分の殻を突き破っているんだろうな。
 フットサルのことだけじゃない。
 この戦いを通して、サジは人間として強く、成長していっている。

 その成長に付き合えたこと、裕子は嬉しく思っていた。

 ピッチ内での攻防であるが、チーム同士としては膠着しているものの、個人技においては佐治ケ江優の独壇場になっていた。

 疲労困憊し、体力的に限界を迎えているはずの佐治ケ江を、交代で入ったばかりでフレッシュな我孫子東の選手が、一対一で止めることが出来ないのだから。

 我孫子東主将の中島祥子は、佐治ケ江優の背後に忍び寄り、ようやくにしてボールを奪うことに成功した。

 佐治ケ江は気が抜けたか、ふらり前へ倒れそうになり、膝をつき、手をつき四つん這いになった。

 ボールを奪取した中島祥子であるが、彼女も疲労で思考力が鈍っていたか、奪ってすぐさま出したパスを生山里子にインターセプトされていた。

 四つん這いで、喘ぐように大きく呼吸をしている佐治ケ江を横目に、里子はドリブルで駆け上がる。
 前に寺崎詩緒里が立ち塞がった。
 里子は、裕子へパスを出す振りをして、ドリブル続行。
 上手く抜きはしたものの、里子も疲労が出たか、ボールタッチが大きくなってしまい、横から水島茜に奪われた。

 水島茜は、前線にいる味方、羽場繁子へと浮き球のロングボールを送った。

 ボールが、見上げる山野裕子の頭上を越え、羽場繁子が頭で落とし、中島祥子が拾った。

 中島祥子は素早くシュート体勢に入るが、真横から迫る武田晶に気付くと、無理せず後ろへ戻した。

 バックパスを受けたのは、敵陣深くまで上がっていたベッキの水島茜であった。

 生山里子が飛び込んでボール奪取を試みるが、水島茜は間一髪でかわし、また中島祥子へとパスを出した。

 ようやく初失点のショックが癒えたのか、また我孫子東のパスが繋がるようになってきた。
 FP全員が攻め上がり、佐原南陣地でパスを回すようになった。

 様子を見るような横パスばかりになったかと思うと、不意に寺崎詩緒里が縦へと強く転がした。

 スルーパスだ。

 反応した羽場繁子がベッキである武田晶のマークを外すと、完璧ともいえるタイミングで飛び出し、ボールを受けていた。
 目の前には佐原南のゴレイロのみ。
 しかし彼女は、シュートを打たなかった。

 ゴレイロ梨本咲が、全力で飛び出してきたのである。

 咲の足がいままさにボールに触れようかという瞬間、羽場繁子はヒールで後ろへと転がした。

 後ろでパスを受けた寺崎詩緒里は、爪先ですくい上げるようにボールを蹴った。
 ループシュートを狙ったのである。

 素晴らしいコントロールであった。
 ボールは奇麗な軌跡を描いて、梨本咲の頭上を通り越え、まるで吸い込まれるかのようにゴールネットへと向かい落ちていった。

     18
 やっと、勝った。

 そう思ったのは、なかしましようだけではなかっただろう。てらさきのループシュートの、この完璧な弾道を見れば。

 佐原南の思いもよらぬ勢いに押されて慌ててしまったが、最後はしっかりと練習の形を出せた。

 ゴレイロを引きつけて、シオリが得意のループを決める。

 押されてしまったことは反省する必要があるけれど、まあ最後を綺麗に締められたのは、よかったかな。

 一瞬の間に、この試合での数々の出来事を走馬燈のように思い出していた我孫子東主将の中島祥子。

 しかし、その顔に笑みが浮かぶことはなかった。
 それどころか、驚きにいまにも叫び出しそうな表情になっていた。

 ループシュートがゴールに吸い込まれる直前、走り込んだゆうが足を伸ばして、ボールをすくい上げていたのである。

 跳ね上がり、床に落ちたボールを、佐治ケ江優は踏みつけると、くるり前を向いた。
 先ほどから疲労困憊といった佐治ケ江優は、ぜいぜいと苦しそうに肩で息をしている。

 いまにも倒れそうな彼女であるが、その眼光に、中島祥子は逃げ出したい衝動にかられていた。

 まだ試合の終わらぬことに、げんなりした気分になっていた。

 もういい加減にしてくれ、と、誰かに怒鳴りたい気持ちになっていた。

 次の瞬間、そんな自分を恥じて、首をぶんぶんと横に振った。

 そんな考え、死にものぐるいでぶつかってきている相手に失礼だろう、と。

 中島祥子は言葉にならないような声で叫ぶと、残る気力体力を振り絞り、獣のような勢いで佐治ケ江優へと飛び掛った。

 絶対に、そのボールを奪ってやる!
 勝つのは、我孫子東だ!

 それは凄まじい、勝利への気迫であった。

 しかし、これはどうしたことか。
 中島祥子の視界から、不意にボールが消えていたのである。

 佐治ケ江優の足元にたったいままで存在していたはずのボールが、空気に溶けたかのようになくなっていたのである。

 驚き、きょろきょろ視線を動かしていると、いきなり佐治ケ江優が音もなく走り出し、すっ、と脇を抜けた。

 中島祥子は、振り返った。
 我が目を疑った。

 佐治ケ江優の背中に、白い翼が見えたのである。

 やわらかな光が、ふわりふわりと空から舞い降りて、佐治ケ江優の身体を包み込んだのである。

 ヒールリフトで抜かれたのだ。
 その技のあまりの美しさに、幻覚を見たのだ。

 びりびりと全身が麻痺したようになっていた中島祥子であったが、気持ちを奮い立たせると、叫び、見る見る小さくなっていく佐治ケ江優の背中を追い、走り出した。

     19
 ゆうは、ドリブルで駆け上がっていく。

 ひがしは、ゴレイロ以外の全員が相手ゴール付近にまで攻め上がっていたため、わらみなみにとっては絶好のカウンターチャンスであった。

 す、としげをかわし、なおも走る佐治ケ江。

 やまゆうも、佐治ケ江の後を追うように、走り始めた。

 そして、力の限り、叫んだ。


 みんな、走れ!
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