じょいふる

かつたけい

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コーヒーブレイク ―― 秋高鉄二の一日 ――

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   コーヒーブレイク ―― 秋高鉄二の一日 ――

     1
 朝から蝉がうるせえな。
 どうせお前らにゃ、学校も仕事もないんだろう。ちったあ寝坊でもしたらどうだ。
 でもまあ、一週間の生命じゃあそうもいっていられないのか。
 ちょっとだけ同情してやる。どうでもいいけど。
 それにしても眠い。
 まだ、この前の試合で負傷したスネがじんじん痛んでいるというのに、そんなことつゆも忘れてすぐ夢の世界に入ってしまいそうなほどだ。実際、半分夢の中でアブラゼミの声を聞いている。

「起きる時間よ!」

 女性の声が、四畳半の向こうから聞こえてくる。

「うむ。一週間の蝉は寝坊とはいえ出来るんだから問題なし」

 寝返りを打つ。

「わけわかんないこといってないで、とっとと起きる!」

 壁をぶち破るかのような激しい怒鳴り声に、あきたかてつは、飛び上がるように上体を起こした。
 近くの木にアブラゼミが何匹かとまっているようで、じぃじぃと不協和音を奏でている。
 枕元には妻のことがいた。痩せ形だが、お腹だけぽっこりと飛び出している。現在九ヶ月と少々、もうじき出産予定である。

「……おはよう」
「おはよう」

 二人は軽いキスをかわした。

「ご飯、出来ているから」

 鉄二が布団から出ると、琴美は大きなお腹で布団を片付けはじめる。

「いつも思うけど、よく目覚ましもかけずに起きられるなあ」
「かけてるよ。テツ君がまったく気付かないだけじゃない」
「ああ、そうなの?」

 そういえば、蝉の声だけでなく、目覚ましが鳴る夢も見たような気がする。夢の中で、その音に我慢出来なくて、何故かヘディングでサッカーボールをぶつけて目覚まし時計を砕き壊すと、再び眠ってしまったのだった。
 片付けられた布団の敷いてあった場所に、鉄二は座卓を用意する。琴美が次々と小皿を運んで来ては、座卓の上に置いていく。
 ここは蓮見製菓の社員寮。あちこちガタの来ている、築三十年ほどの木造二階建てだ。間取りはすべて共通で、2Kしかない。もともと独身寮だったのでしかたがない。
 鉄二が顔を洗ってすっきりしたところで、食事開始である。

「では、キックオフ」
「キックオフじゃない!」
「……いただきます」
「はい、いただきます」

 二人は両手を合わせた。
 食べ始める。

「なんかさあ、いまだにテツ君がサッカー選手って実感がないんだよね」
「やぶからぼうに、なんだよ」

 確かに、普段の言動から分かるが、琴美は自分の亭主が社の看板を背負って立つサッカー選手なのだという自覚に薄い。
 工場内の事務所で働いている印象のほうが圧倒的に強いようだ。
 職場が同じだったし、彼女はろくにサッカー部の試合を観たことがないので、当然といえば当然のことであったが。
 しかし事実は事実。自分はサッカー選手の妻なのだ。という認識は持ってくれているようで、朝食もお弁当も夕食も、毎週日曜日に試合のあることを計算した、週の献立を考えてくれている。試合が近場なのか遠征なのかによっても、微妙にメニューを変化させている。
 琴美の先輩に、しげはらななえという女性がいる。蓮見製菓サッカー部時代の、ある選手の妻であり、琴美は彼女から夫を管理するための様々な心得を教えて貰ったとのことだ。
 遠征かどうかでメニューを変えるというのは、茂原先輩の提案だ。
 蓮見製菓サッカー部の頃は、東北地方内の移動でよかったが、JFLは移動範囲が全国規模だ。「疲れない食事」か「爆発力を出す食事」かで、試合内容も変わって来るのではないか。また、夫を危険から守れるのではないか。サッカーはちょっとした油断が大怪我に繋がってしまうから。うちの夫はもう引退したが、琴美の旦那は今年から全国を移動するのだからより食事管理が大事になってくるよ。
 というのが茂原先輩の主張らしい。
 琴美は、そこまで食事で大袈裟な差は出ないと思っているが、夫への愛情という自己満足のつもりでやっているとのことだ。また、暗示的効果を狙って、積極的かつオーバーに食事の効能を語るようにしているとのことだ。
 それをばらしてしまってはなんの意味もないのになあ。と思う鉄二であるが。
 テレビでは、朝の情報番組がやっている。
 美人だが少し滑舌の悪いお姉さんキャスターの天気予報が終わると、鉄二は立ち上がり、玄関で靴を履いて外へと出る。
 ゆっくりとしたジョギングを、十五分ほど行うと、汗だくで寮へと戻って来る。
 軽く汗を拭うと、今度は十分ほどかけてストレッチを行う。
 少し残しておいたご飯を食べきると、シャワーを浴び、髭を剃り、歯を磨き、髪を整え、スーツに着替える。
 内勤だがそれなりに接客も多く、スーツはかかせない。
 汗だらだらでお客さんと向き合うことのほうがよっぽど失礼なんじゃないか、と常々思っているのだが、ルールなのでどうしようもない。
 クールビズがやたらテレビで取り上げられていた頃は、なんだくだらねえ、と馬鹿にしていたが、今ではそういった有り難い風潮は早く日本の企業全体に普及して欲しいものだと思っている。
 改めて外へ出ると、本日も照りつけるような強烈な日差しだ。
 さっきジョギングした時には、あまり感じなかったけど、スーツを着るとよく分かる。
 しょわしょわ、蝉がうるさい。
 太陽よりも、こっちの方がよっぽど暑いかも知れない。
 シャワーを浴びたばかりだというのに、またどっと全身から汗が吹き出した。
 蝉め。

     2
 秋高鉄二は、北海道は札幌生まれの札幌育ちだ。
 小学生の頃、いつも体重は平均以下のくせに身長はクラスで一番高かった。
 ひょろひょろとした、例えるならまさにもやしのような感じで、栄養を取りすぎて上にばっかり伸びてしまったのか、取らなさすぎて横幅が増えないのか、つまりは健康なのか不健康なのかがさっぱり分からない外見の少年だった。
 いずれにせよ、バランスの悪い外見であることに違いはなかった。
 両親は心配してスポーツをすることをよく勧めてきたたが、面倒の二文字で、いつも断った。
 外で遊ぶのは嫌いじゃない。むしろ、本を読むよりはよほど好きだ。よく公園でみんなと遊んだり、山に虫取りに行ったりしていた。決まったスポーツをしなかったのは単に毎日毎週の何時何分、と時間規則に縛られるのが嫌だっただけだ。

 サッカーとの出会いは中学一年の時。
 公園にボールの扱いがもの凄く上手な小学生がいたのだ。
 リフティングをしていて、まずボールが地面に落ちない。
 そんな光景をよく見るうちに、ちょっと興味を持って中学校の体育倉庫にあるサッカーボールでリフティングとやらを試してみた。
 二秒ともたず、落としてしまった。
 なかなかに難しいのだ。
 見るのとやるのでは、こうも違うものなのか。
 何度チャレンジしてみても、もって三秒。二秒と三秒の違いは、単なる運でしかない。
 だんだんいらいらしてきて、しまいにはボールを他の用具に叩き付けて帰ってしまった。

「こんなん出来なくたって、サッカーつうのは要はゴールにボールぶちこみゃええんだろ!」

 翌日、まだどの部にも所属していなかった鉄二はサッカー部に入部した。
 入部したはいいが、下級生はろくにボールを使った練習などさせて貰えない。先輩にしごかれて、筋力トレーニングをさせられるだけだ。
 許可なく勝手にボールを蹴っ飛ばして、かわりに先輩に頭を蹴っ飛ばされたこともある。
 いい加減頭に来て退部しようかとも思ったが、顧問教師も担任もどうしても退部を許可してくれなかった。
 後で知ったのだが、どうやら両親が出しゃばって頼んでいたらしい。
 鉄二には健康になって欲しいし、飽きっぽくて短気なところを直してもらいたい、どうかいきなり退部届けを持ってきても破り捨ててくれ、と。
 そう、鉄二は普段はのんびり屋のひょうきん者のくせに、感情に走ったり、一瞬にして激昂してしまう癖のある、厄介な性格だった。

 退部させてもらえないし、サボっても後でよけい酷い罰を受けるだけなので、仕方がなく続けていたサッカー部であったが、それがだんだんと苦痛でなくなってきた。体力がついてきたこともあるが、部活での手の抜き方を覚えて来たのだ。

 夏になると、三年生が受験勉強に入るために引退した。
 嫌な上級生が一挙に半分もいなくなったわけで、さらに気分が楽になった。

 自宅では時折思い出したようにリフティングに挑戦してみるが、一向に上達の兆しはなかった。

 夏休みも終わり、二学期になるとボールを使った練習をさせてもらえるようになった。試合形式の練習もさせてもらえるようになった。
 だいたいはDFをやらされた。GKの時もあった。
 鉄二は自分が得点したいものだから、バランスもへったくれもなくどんどん前に行ってしまう。
 GKの時も、みんなの怒鳴り声に気付いてみれば、ドリブルで駆け上がってしまっていたこともある。
 そんなこんなで先輩の反感を買ったためか、得点に一番近いポジションであるFWをやらせてもらえることは決してなかった。
 しかし、セットプレーだけでなく、流れの中でも守備陣が上がるべきタイミングというものがあり、不本意ながら守備をやらされ続けたおかげで、そういった感覚を養うことが出来た。
 なにしろ、そのタイミングを見て駆け上がれば誰からも責められないのだから。
 とはいえ、流れからの上がりでゴールを決めたことなど一度もなく、中学時代は終わってしまうのであるが。

 鉄二が十何通目かの退部届けを書こうか書くまいか迷っていたある日のこと、また練習でGKをやらされていたのだが、やけくそ気味に乱暴に蹴ったボールがそのまま遠く向こうのゴールへと吸い込まれてしまった。
 部内での練習試合とはいえ、これが鉄二のサッカー人生で初のゴールであった。
 このゴールがなかったら、この後の人生はまったく異なるものになっていただろう。
 ともかく、その件もあって、部活を継続する気になるのだった。

 ある日、先輩たちに頭の形が変わるくらいぼこぼこにぶん殴られたことがある。
 先輩の一人が、誰かに物陰からサッカーボールを頭にぶつけられたというのだ。どうせ鉄二が犯人だろうということで、制裁を受けたのだ。
 鉄二が疑われた理由というのが二点ある。「ボールをぶつけられた先輩は、普段鉄二ばっかり厳しくしごいていたことと」、「こういうことをするのは、あいつくらいしかいない」という、法治国家としてはなんとも乱暴なものだった。
 しかし誰ぞ知らず、本当に犯人は鉄二だったので、本人は殴られて文句もいえなかった。

 時も過ぎ、二年生になった。
 リフティングの技術は相変わらずであった。去年よりもほんのわずか増えた程度だ。

 さて、後輩が出来たわけだが、誰もが意外に思うほど鉄二は後輩に優しく接した。別に人気取りをしたいわけではなかったのだが、優しい先輩と思われて悪い気はしなかったから。
 お調子者魂が頭をもたげ、いつしか主将になりたいと考えるようになっていた。
 自分が主将になって、「一年は六月までボール触っちゃ駄目」だのなんだのといったくだらない風習を廃止してやる。もっと良いサッカー部にしていこう。そんな理想に燃えていた。

 さらに時が過ぎて、また夏がやってきた。三年生が引退だ。
 ついに完全に先輩がいなくなる。
 いよいよ自分の天下だ。
 おれは主将だ。
 キャプテンTETSU!
 などと勝手に考えていたら、新主将にはなんとごんもりたかしが任命された。

「権守は主将なんて嫌がっていたし、自分、なりたいっていってたじゃないすか」

 鉄二は人事を決めた元主将に抗議した。

「それぞれおさまるべきとこがあんだよ。あいつは向いてる。お前は目立ちたいだけで、しかもサッカーの技術も全然駄目だろうが。任侠みたいな人気があっても、チームを統括すんのとは別なんだよ」

 サッカーの技術全然駄目、
 サッカーの技術全然駄目、
 サッカーの技術全然駄目……

 その一言がなかったら、まったく違う人生を歩んでいたかも知れない。
 素人よりはマシという程度のくせに、自分に自惚れて、いつかサッカーへの興味もなくして、高校生になったら違う部活を選んでいたかも知れない。
 権守は非常に真面目で良い奴だけど、鉄二は彼のことが嫌いだった。
 鉄二は先輩に浴びせられた痛烈な一言がきっかけでがむしゃらに頑張って練習をしたので、一応レギュラーという地位は確保していたが、やはりFWをやらせてもらえることはなかった。でもこの頃には、点を取ることだけがサッカーの面白さではないことが分かってきていたので、特には気にならなかったが。

 中盤だろうと、最終ラインだろうと、魅せるプレーは出来る。サッカーの楽しさを味わうことは出来る。そう考えるようになったのは、自分に実力がついてきたからではない。おかただなりという同学年のDFがおり、彼の放つ輝きに魅了されたのだ。
 体の張り方、入れ方、ポジショニング、とにかくマンマークに強く、FWの個人技による突破などまず許さない。
 まさに鉄壁と呼んで過言でない存在だった。
 守備だけではない、全体の状況判断が的確で、チャンスとみるや流れからでもどんどん攻め上がっていく。「秋高、カバー頼む!」と、駆け上がられ、それどころかゴールまで決められてしまうと、鉄二はなんだか踏み台にされたような悔しさと同時に、守備の醍醐味というものをしみじみと感じるのだった。
 鉄二は常々、「おれとあいつからサッカーを取ったら、おれはただのイイオトコだが、あいつにゃなにも残らん。顔を取ったら、あいつにゃサッカーが残るがおれにはなにも残らん」などと吹聴していたものである。

 まだ、サッカーとずっと付き合っていく人生になるなど思ってもいなかったし、近いからというだけの理由で、深く考えずに自宅と同区の公立高校に進学した。
 ちなみに神童である岡田忠成は、埼玉県にある私立のサッカー名門高に行ったらしい。

 それから一年ほどたった頃、岡田は交通事故に遭いサッカーの出来ない身体になり、また札幌に戻ってきたという噂が流れてきたが、その後誰も彼の姿を見た者はいない。
 大怪我というのはもしかしたらデマかも知れないが、少なくともJリーガーにはならなかったようだ。

 鉄二は高校でもサッカー部に入った。
 ある程度の実力は身についていたし、部員の数も多くなかったので、控えの身分ではあったがすぐに試合の登録メンバーに入れてもらうことができた。
 高校生になっても細身の体格は相変わらずだったが、全身にしっかりとした筋肉がついてきており、見た目以上に体重は増えていた。

 中学の頃は周囲にサッカー上手が多く、あまり目立つことは出来なかったが、ここはそれほどレベルが高くないようだ。頑張った分だけ、どんどん他人を追い抜くことが出来そうだ。手応えを掴んだ鉄二は、一年生のうちにスタメンになってやると闘志を燃やした。
 この頃から、あけてもくれてもサッカー三昧の生活になっていった。

 残念ながら一年生のうちにスタメンの座を手に入れることはかなわなかったが、しかし努力の甲斐もあり実力はかなり向上した。
 二年生になってからは、かかすことの出来ない存在になっていた。この頃のポジションは、主に右ウィングバックであった。

 比較的顔立ちが良いので、女の子から告白されること度々であったが、時間の無駄だとばかりに冷たく断り続けた。
 手編みのマフラーや手袋を渡そうとしてくる娘もいたが、鉄二は断固として受け取りを拒否した。しかし食いしん坊なので、チョコやクッキーなど食べ物はいつも大歓迎だった。

 サッカー三昧の生活を送っているとはいうものの、名門校ではないのでスタメンである自分の実力というものがいまひとつ分からない。練習試合も県大会もほとんど勝ったことがないのだが、自分が弱いのか、チーム全員が弱いのか、それとも相手が強いのか、どうにも分からなかった。
 自分を試したい。努力してきた結果を確認したい。そんな理由で、道内ではサッカーの名門とされる大学に進学した。

 結果、大学でも自分の実力はそれなりに通用した。
 スタメンから外れることはあっても、ベンチからも外されることはなかった。
 名門校でも自分の実力は通用するのだ、ということに、勉強そっちのけで、ますますサッカーに没頭した。

 そして数年の歳月が流れる。
 卒業を控え、卒論や就職活動に忙しいなか、友人からJリーグの入団テストのことを聞いた。興味を覚え、受けてみることにした。

 結果は散々であった。

 技術はあるがセンスがない、もう十代ではないから伸びしろがない。と面と向かって現在と未来とに対して駄目出しをくらった。「永遠にJ2にいろや、カスチームが!」と叫んで試験場を飛び出すものの、その道のプロの判断なのだ、悔しいがその通りなのだろう。

 とりあえず、人間生きていくには食わねばならない。食っていくためには金が要る。金を得るためには働かねばならない。と、就職活動を継続したものの、まだまだ不況の真っ只中でなかなか内定が決まらない。
 一生を左右するかも知れない問題だ、希望する会社のレベルを落とすかどうか悩みどころであった。

 そんなある日、サッカー部の飲み会に久しぶりに参加した。気分がくさくさしていたので、単なる気晴らし憂さ晴らしだ。
 OBが何名か来ており、その中の一人である、東北の製菓会社で働いている先輩に就職活動のままならなさを打ち明けているうちに、「なら、うちで働かないか」と声をかけられた。かれこれ三年ほど前の話である。

     3
「おはよう」

 鉄二はいつも朝の八時二十分に職場につく。
 仕事は九時からなのでちょっと早い。
 特に昨日の仕事を整理するわけでもなく、ただいたずらに時間を潰すだけだ。

「おはよう」

 元気な若い女性の声。
 いつもは同期入社のさくらちかが一人いるだけなのだが、今朝は彼はまだ来ておらず、かわりというわけではないがよしの姿があった。
 鉄二より一歳年下。鉄二の妻である琴美とは、同期の仲だ。

「吉野、今日は早いな」
「なんかめちゃくちゃ早く起きちゃってさあ。ゆっくりと会社に歩いてこようと思ったんだけど、あたしってゆっくり歩くこと出来ないのよね。予想してた通り、えらく早く着いちゃった」

 ははは、と彼女は明るく笑った。

「おれも、ゆっくりよく噛んで、ってのができねえなあ。琴美に、もっとちゃんと噛めっていつもいわれるんだけど、噛んでるとあっという間に口の中から食べ物が消えちゃう」
「あ、それなんか分かるなあ。分かるけど、そっちはスポーツ選手なんだから、そういうのちゃんとしないと駄目でしょ! 琴美だってそりゃ心配するわよ」
「はあい。気をつけまーす」
「で、琴美はどうなの?」

 吉野は、お腹をなでた。

「順調。もうね、こんなだよ」

 鉄二は、吉野のお腹のすぐ前で、大きく手のひらを動かした。

「自分のお腹でやりなさいよ、そういう仕草は。九ヶ月だっけ?」
「そう」
「じゃ、あとちょっとじゃない。はああ、テツ君も、いよいよパパかあ。あのテツ君がねえ」
「本人を前に、あのとかいうなよ。でも、実感は全然わかないけどね」
「女はね、自分のお腹の中で命が生まれて育っていくんだもん、そりゃ出産前から実感ってもんがあるんだろうけど、男は育てていくうちに、だんだんと実感がわいてくるもんなんだよ。多分、生まれたばかりの時なんか、猿みてえこれがおれの子供かよって思うよきっと」
「ひょっとして経験者かお前?」
「そういうもんなの! 知らないけど」

 そのままの流れで、今度は子供に付ける名前の話題で盛り上がり、そうしているうちに、一人、また一人と出社。八時五十分には、全員が揃った。
 七名だけの、小さな部署だ。
 鉄二たちは、主に庶務課のような仕事をしている。他、広報活動や応援の手配、人数が足りない時には自ら応援に行くこともある。イベントの企画を任されることなどもある。
 それなりに忙しく、その日に終わる仕事ばかりではない。
 鉄二はサッカーの試合があるため、どうしても自分の担当になった仕事を手放さなければいけない時もある。
 自分が変にこねくり回した中途半端な状態の仕事を引き継いでくれる同僚には、本当に感謝している。

 さ、今日も仕事を頑張るぞ。
 仕事と、サッカーを。

     4
 今日は三時に仕事が終わった。
 木曜や金曜など、試合が近付いてくると、早く上がらせてくれることも多くなるのだが、今日は火曜日なので珍しい。
 ここは、蓮見製菓野々部工場第二グラウンド
 あきたかてつ、一番乗りだ。
 ボールを二つ、両脇に抱えて持って来ると、ドリブル練習を開始した。
 相手をイメージし、それに合わせて自分の動きも変える。
 大きな相手。小さな相手。スピードのある相手。いやらしく、ねちっこい動きをする相手。
 もたもたして取り囲まれてしまう前に、強引に抜く。
 独走だ。
 GKが飛び出し、体を横に倒しながらボールを奪おうとする。GKはなんと、元ドイツ代表です。あのゴリラ顔の選手です。
 秋高選手、奪われる一瞬前に、つま先でボールをちょんと浮かします。
 見事なループシュート。
 ボールはGKの体の上を越え、ゴールの中に転がり入りました。
 ゴールです。ゴールインです。
 ハズミSC先制点!
 そして試合終了のホイッスル、優勝です!
 ってそんなわけないか。
 一人きりでいるのも、思ったより退屈だ。
 久々に、リフティングに挑戦してみる。
 しかし何度やっても、十回ともたず、ボールが地面に落ちてしまう。
 中学生の頃に比べれば上達しているはずだが、傍から見ればまったく成長していないも同然であろう。
 試合の際のボール捌きは、それほど下手でもないと思うのだが、リフティングだけが何故こうも上達しないのだろうか。
 単純に不思議に思い、考え込んでいるうちに、やがて一人、二人と選手たちが集まって、五時からは全体練習が始まった。

     5
 「はなやん」の店内が、非常に賑わっている。
 テーブルも座敷も一杯だ。
 はなやんとは、野々部駅のそばにある焼肉屋である。
 満員なのは人気店だからというわけではなく、もともと狭い店に、今日は団体客が入ったというだけの話だ。
 ビールの匂いが、肉を焼く煙に燻されている。

「コウさん、ビール注ぎます」

 とどろきゆうは、先輩の空になったジョッキを目掛け、ビール瓶構えた手をぐっとを伸ばした。
 ありむらこうへいはジョッキを傾けて、行為を受け入れた。

「ほんとは、女の子の酌がいいんだけどねえ」

 有村耕平はしみじみと呟いた。

「コウさん、それ酷いっス。いろんな意味で」
「え、なにがさ」
「おれのごつい手じゃ嫌だっての分かりますけど、ほら、おれ幹事じゃないですか。本当は、女の子が何人か来るはずだったんスよ」
「え、そうなの?」
「事務室と工場、それぞれから二人ずつ。間際でキャンセルされましたけど。おれの手腕のいたらなさに、おれ自身が落ち込んでんですから、追い打ちかけるようなことをいわないでくださいよ」
「なんだあ、女の子が何人か来る予定だった? アホウ、そりゃいたらなさすぎだよ。お前サッカー馬鹿で、女の子とろくに話も出来ないから、きっと陰で気持ち悪がられてんだよ。一応社交辞令で行くといったものの、お前みたいなのがたくさんいそうな部じゃあ断っちゃおうかってドタキャンされたんだよ。幹事に向かねえ野郎だな。幹事ってのは、女性を何人集められるか、集めた女性でいかに男の気を良く出来るか、とどのつまりはそれだろうが。お前さあ、いつも女の子と話す時、なんだかワンテンポずれてるけど、きっと頭の中で相手のいってることサッカー用語に置き換えてんだろ。まあ、安心しろ、今度彼女らに会ったら、祐司はサッカーだけの人間じゃあない、スケベ人間だっていっといてやるから」
「いいっすよ、なにを人の悪口をさも恩着せがましく……。つーかさあ、追い打ちかけるなっていってんのに、畳み掛けるように捲し立てやがって。コウさん、あんた人でなしだ!」

 先輩に悲痛の訴えをする轟祐二であったが、

「うおおーっ!」

 と、先輩、全然聞いてない。有村耕平は、顔を轟祐二と反対の方へ向けて、激しく拍手をしている。つい先ほど座敷席でゲームをやっていて、なりひらばしきゆうとヨントスが、罰ゲームでショートコントをさせられることになっていたのだが、やっとネタ作りが終わって、披露することになったのである。

「どおもーーーーっ」

 と、始まったヨントスと業平橋のショートコント。
 だがそれは、見て聞いて不快にならない者などいるはずないというほどの、最低最悪レベルのコントであった。
 素人でも、もう少しみんなを笑わすことが出来るだろうにというくらいの。
 コントを終えた二人は、席に着いた。
 ヨントスは、受けたかどうか分からないというよりも、そもそも笑わすことが目的ということを理解していなかったようであった。その、あまりにも堂々とした態度から。
 もう、自分のやったばかりのコントを忘れて、突然、どうでもいい雑談を始めた。

「いや、日本の夏は本当に蒸し暑いね。最初さ、みんなムシアツイムシアツイいっているから、え、どこに熱い虫がいるのって探しちゃったよ。探したら、たまたま道路にでんでん虫がいたものだからさ、わたし最初、でんでん虫のことムシアツイだと思ってたよ。最初もなにも、真実知ったのつい昨日の話」

 楽しげに喋っているヨントスの顔を、みずきようすけは唖然とした表情で見ている。そして、非難するような顔を、くりんと業平橋球児へと向けた。

「……おい、ヨントス一人で喋らしてるほうが、よっぽど面白いぞ。キュージ、お前がセンスないんだよ。もっと相方がブラジル人なのを生かせよ! 面白いネタがないならさ、ケツに犬の顔でも描いておいて、突如ズボンとパンツ降ろして、うーワン! てやってりゃいいんだよ」
「それただの変態芸っすよ!」

 業平橋球児が、抗議の声をあげる。

「ネタがないならないで、勢いで笑わすのが芸人だろうが!」
「おれ、芸人じゃないっす!」
「おれが新入りの時なんか、もーっと凄いことやらされましたよね、瀬賀さん」

 水田は身を乗り出して、サッカー部OBのろうに声をかけた。
「ええ、そうでしたっけ?」

 瀬賀太郎は、そしらぬ顔でとぼけてみせる。

「そうですよ。もしもいつか映画ワイルドウルフ水田恭助物語が制作されたら、黒歴史すぎて絶対にはしょられるシーンですよね、おれの歓迎会の時の。映倫に引っかかること間違いし。……ねえ、瀬賀さん」
「近い席だからって、いちいちボクに振らないでくださいよ」

 瀬賀太郎は、非常に物腰が柔らかく、誰に対してでも敬語で接する。しかし、言葉遣いと性格がまったく一致していないことで有名なのである。

「近い席だから振ってんじゃないですよ。瀬賀さんがやらせたんじゃないですか。一発芸を拒否したら、そうですかスタメンに興味ないんですか、とかいって」
「記憶にないなあ……」

 瀬賀はにこにこと笑みを絶やさない。
 同じOBでも、瀬賀の隣に座っているなおは、外見的にも内面的にもまるで正反対である。
 瀬賀が現役引退して筋肉が落ちて痩せてしまったのに対し、木場は現役引退して別人かと思えるほどの激太りを果たした。
 瀬賀は物腰の柔らかさと裏腹にちょっと底意地の悪いところがあり、木場は顔のいかつさと裏腹に気配りが行き届き、人に親切である。
 どちらも後輩から好かれているOBであることに違いはないが。
 木場は今、あきたかてつとサッカーの話に夢中であった。

「だからよ、ここでお前がこう……プレスかけるわけよ。仮に失敗しても……ほら、業平橋がこう動いておきゃ、ヨントスにもそんな負担かからない」

 熊のような大男、木場はテーブルの上に置いたおちょこを選手に見立てて、後輩へと講釈をしてみせる。

「いや、それは理想論ですよ。相手がそう動くとは限らない。……おれなら、こう」

 秋高鉄二もおちょこを動かしてみる。

「そりゃ、今と変わらんだろ。行き詰まってんだよ」
「いや、もっと連係を深めたほうがいいですよ。変にいじらない」
「余裕ないだろ。本当に入れ替え戦に行くぞ。……まあ、おれたちがあれこれいってても仕方ねえか」
「監督次第ですからね。……J1から来た友井……あいつの能力次第によっちゃ、それに合わせて全体のシステムを変更するみたいなこといってるし」
「今までの熟練度はどうすんだよ?」
「木場さん矛盾してますよ。一か八かみたいなこといっといて、今度は連係の熟練度ですか」
「なんでもいいんだよ、おれはよ。入れ替え戦行きさえ回避出来れば」
「みんなそう思ってますよ」
「なら頑張ってくれや。ああ、そういえばよ、お前、駅前で高校生の女の子のバッグ取り戻してやったことあるだろ」

 木場は唐突に、サッカー戦術となんの関係もない話を切り出した。

「ああ、あったなそんなこと。もう何ヶ月も前だけど、なんで知ってんですか。つうかその顔で、高校生の女の子があ、とかいうんだ」
「バカ。でな、その女の子がよう、お前のことが気になって、なんとなく試合観るようになって、すっかりサポーターになっちまったようだぜ。ユニフォームまで着てさ」
「へえ、嬉しいな。お礼にって喫茶店でコーヒーおごってもらったんですよ。そこで色々話したんですけど、凄い変わった、面白い娘でしたよ。髪なんか、こう、獅子舞みたいな感じで」

 鉄二は、両手を振り上げ、髪の毛大爆発といった仕草をした。

「いや、すっごいショートで、とんでもなく可愛い顔してたぜ。確かフーコちゃんて呼ばれてたな、一緒にいた女の子に」
「とんでもないは大袈裟じゃないですか? しかし木場さんって、女の子の名前は絶対忘れないですよね。奥さんにぶん殴られますよ」
「お前こそぶん殴られてんじゃねえのか? もうじき産まれるってのに、くら、じゃなくてことさんに全然気遣い出来てなさそうだもんな。女の子だったら名前はジー子ちゃんとかくだらねえこといって、イライラさせてんだろ」
「失礼な。ちゃんと気を遣って接してますよ」

     6
 だいたい飲み会は水曜日に行われる。
 金曜日だと、日曜日の試合に差し支えが出るためだ。
 みんなおおいに飲んだようであるが、秋高鉄二はアルコールにはほとんど口を付けなかった。日課である就寝前のジョギングを、どんな日であれかかしたくないからだ。
 今日は練習を早めに切り上げて、六時から八時までの飲み会。しかし鉄二はお開きになる三十分前に、席を立った。
 みんな出来上がってくるので、強引に日本酒の一気のみなどさせられてはかなわない。
 それに、八時閉店のケーキ屋にも寄りたかった。
 琴美のために。
 親睦を深めるためとはいえ、自分だけ焼き肉屋で旨い物を食べるのも気が引けるから。
 ケーキショップ、ノワゼット。
 駅近くにある、小さい店舗だが意外に品揃えの充実したケーキ屋である。
 周囲にケーキ屋がないため市場独占状態であるが、それに驕ることなく、価格、品揃え、接客態度など、どれをとっても問題がない。雑誌に紹介されることはほとんどないが、地元の有名店である。
 鉄二は、閉店十五分前に店に入り、栗のモンブランと、いちごのショートケーキを二つずつ買った。
 ドライアイスと一緒に箱に詰めて貰っていると、店の奥で電話のベルが鳴った。

「フーコちゃん出て!」

 若いが野太い感じの男の声。

「はい」

 おそらくフーコちゃんと思われる女の子の声。電話を取ったようだ。
 ちょっとたどたどしい感じだが、大きな声だ。
 威勢がいい。
 生来のというよりは、必死に頑張っているだけという感じもするが、それがまた気持ちいい。

 あれ……フーコちゃんて、聞き覚えがあるような……

 この声、どっかで聞いたような。
 ……ま、いいや。

 秋高鉄二は、袋を右手に提げ店を後にした。

     7
 少し時間が短かったとはいえ今日もさんざん全体練習で汗をかいたというのに、飲み会を終えて帰宅するとすぐジョギングに出かけた。
 心肺を鍛える目的も勿論あるが、肉体をしっかり疲れさせて、深い睡眠を得たいのだ。
 鍛錬法であり、健康法であり、そもそも習慣付いておりやらないことには寝付きが悪い。
 雰囲気で酔えるタイプなので、酒はコップを舐めただけ。だからジョギングに問題はない。
 寮へ戻ると建物の前で軽くストレッチ、部屋に入って今度は床に寝そべってのストレッチ。これを怠ると、単に披露を蓄積させるだけになってしまうから。

「シャワー浴びて来て。ご飯並べとくから」

 妻のことが、壁にかけてあった座卓を引き寄せ、きゅいきゅいと音を立て脚を伸ばす。
 肉と枝豆だけとはいえ食べてはいるので、特に自宅で晩ごはんを食べずとも空腹に困らず寝ることは可能だ。ただ、必要な栄養を摂取出来ていない。だから、普段と同じ夕飯のメニューを少量づつ摂りたいのである。
 太らない体質の鉄二としては大量に食べても問題ないが、しかし今日はケーキも控えているので、やはり食事は控えめの方がよいのであろう。
 鉄二がシャワーを浴びて四畳半に戻って来ると、座卓の上には小皿がたくさんところ狭しと並んでいる。煮豆、ほうれんそうのごまあえ、ひじき、冷や奴、里芋の煮物。
 簡素な夕食とデザートを食べ終えると、不意に思い立ち、もうじきになる札幌の両親に、近況報告の電話をした。
 両親は、元気そうだった。


 秋高夫婦は十一時頃に、布団に入る。
 少し会話を交わすと、今度は思い思いに好きな雑誌を読み、十一時半頃に部屋は真っ暗になる。そしてまた、就寝前の軽い会話が始まる。

「……じゃ、しゅうと君はどうだ?」
「それも駄目」
「ごうる君」
「どんな漢字よ」
「はっと君」
「あのさ、サッカーから離れてよ。それになんで男の子と決めつけるの」
「じー子ちゃん」
「殴るよ」

 二人は生まれてくる子の性別を確認していない。
 事前に知っておいた方が便利ではあるかも知れないが、しかしそれは親になる楽しみの一つを捨てたようなものだ。と、二人の見解が一致しているからである。
 これから大変なことなどは分かっている。だから、少しでも子育てを楽しめるように工夫していきたい。先に分かってしまったら、つまらない。勿論それで愛情薄らぐわけではないとはいえ。
 暗闇の中、鉄二の寝息が聞こえてきた。
 琴美も追いかけるように、自らの夢の中へと入っていった。
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