初体験しないまま死にたくなかった悪役令嬢

ChaCha

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待ち望んだ夜

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「……えぇ……本当に、するの?」

ヴィンセントは、固まった。

ほんの一瞬。
けれどそれは、今まで見たことがないほど、
完全な停止だった。

視線が、私から逸れない。
瞬きもせず、言葉もなく、ただ――見ている。

……え。
なに、この沈黙。

さっきまで、あんなに余裕そうだったのに。

「……ヴィン?」

呼びかけると、ようやく彼の喉が動いた。

ごくり、と音がして。
次に来たのは、ため息でも笑いでもなく――

「…………」

沈黙。

長い。
想像以上に、長い。

さっきまでの披露宴。
抱き寄せる腕。
逃がさない視線。

あれは、どこへ行ったの?

「……えっと……」

急に、不安が顔を出す。

私、何かおかしなこと言った?
“本当にするの?”って……だめだった?

「……冗談だよ!」

そう言って誤魔化そうとした、その瞬間。

ヴィンセントが、ゆっくりと息を吐いた。

深く。
まるで、胸の奥に溜め込んでいたものを、
一度外へ逃がすみたいに。

そして――

「……ずるいな」

低い声。

怒っているわけじゃない。
呆れているわけでもない。

ただ、困っている。

「……その顔で、それを言うか」

え。
顔?

「……そんなつもりじゃ……」

言いかけた言葉は、途中で止まった。

ヴィンセントが、近づいてきたからだ。

一歩。
距離が詰まる。

二歩。
逃げ場がなくなる。

背中が、静かに壁に触れた。

……あ。

彼の手が、私の肩の横につかれる。
囲われた。

でも、触れない。
触れないのに、近い。

視線が絡む。

「……本当に」

低く、噛みしめるような声。

「……可愛いことを言う」

責める響きはない。
むしろ――耐えている。

「……俺が、どれだけ我慢してきたか」

ぽつり、と落とされる言葉。

責めでも、訴えでもない。
ただの、事実。

胸が、きゅっと鳴る。

「……三日」

囁くように続けられる。

「たった三日だ。
それだけ会えなかっただけで……」

彼は、そこで言葉を切った。

「……そこから、さらに二日だ」

視線が、私の唇に落ちる。
それから、すぐに逸らされる。

……避けた。

その仕草が、妙に胸に刺さる。

「……今、触ったら」

低く。

「……多分、止まらない」

その一言で、すべてが分かった。

ああ。
固まってたんじゃない。

――踏みとどまってたんだ。

私は、何も言えなくなった。

代わりに、そっと彼の服の裾を掴む。
ほんの、指先だけ。

逃げない、という意思表示。

ヴィンセントの肩が、わずかに揺れた。

「……やめろ」

静かな声。

でも、手は振り払われない。

「……それ以上されたら」

少しだけ、笑う。

「……俺の理性が、仕事を放棄する」

……なにそれ。

可笑しくて、でも、愛しい。

その感情が胸に広がる前に、
私はそっと一歩、彼の方へ近づいた。

逃げるんじゃない。
迎えに行く、でもない。

ただ――そこに、立つ。

ヴィンセントの腕の内側へ、自然に収まる距離。

彼の腕が、遅れて動いた。
背中に回る。

触れ方は、慎重だった。
確かめるようで、壊れ物を扱うみたいで。

……熱い。

触れられているのに、抱き締められていない。
それが、逆に落ち着かない。

私が少し身じろぎすると、
ヴィンセントの腕が、わずかに強くなる。

強くはない。
でも――逃げる方向だけを、きちんと潰す。

その瞬間、
不意に、神殿での声を思い出した。

「……安心した」

あの時も、同じ声だった。
低くて、抑えていて、でも本心が滲んでいる。

この人は、いつもそうだ。
感情を押さえ込んで、ぎりぎりで踏みとどまる。

「……ねえ、ヴィン」

私は、思い切って言った。

「私、今日……完璧でしょう?」

自画自賛。
いつもなら、呆れられて笑われるやつ。

でも、今は。

「完璧だ」

即答だった。
迷いも、照れもない。

……早い。

彼の目が、私から離れない。
顔を、表情を、息遣いを。

まるで、確認しているみたいだ。

逃げないか。
揺れないか。
別の答えを言わないか。

その視線に、少し照れてしまう。

私は、照れ隠しに視線を逸らした。

その瞬間。

きゅ、と指先が強く握られた。

「……っ」

思わず、小さく息が漏れる。

「痛い……?」

ヴィンセントの声は、優しい。
表情も、穏やかだ。

でも――手は、離れない。

私は冗談めかして、でも本音を混ぜて言った。

「……あのね。
私、恥ずかしくて、死にそう」

逃げ腰なのは、許してほしい。

なのに。

ヴィンセントの指が、私の手首に移った。

きゅ、と。

強くはない。
けれど、角度が完璧すぎて。

――逃げる、という選択肢だけが消える。

「……マリエッタ」

名を呼ばれる。

甘いのに、冷たい。
感情を押し込めた音。

「俺は、君を恐がらせたいわけじゃない」

「……うん。分かってる」

分かってる。
ちゃんと、分かってる。

それでも、胸の奥が鳴る。

彼は、私の額に口付けた。
神殿で感じたのと同じ、丁寧さ。

「君が、俺を選んでいるのなら」

囁きが、耳の内側に貼りつく。

「俺は、安心できる」

――あ。

私は、息を吸って、言葉を探した。

「……ヴィン。
私ね、五日間……会えなかったの、正直、寂しかった」

間髪入れず。

「寂しかったのは、俺だ」

即答。

そして、静かに続けられる。

「二度と、あんな時間は要らない」

背中を、ぞくりと冷たいものが走った。

怖い、じゃない。
重い、でもない。

――真剣だ。

「……マリエッタ」

ヴィンセントが、私の頬に手を添えた。
親指が、唇の端に触れる。

呼吸が、止まる。

「大丈夫だ」

優しい声。
優しい指。

優しいのに――逃げ場がない。

「君は、俺の妻だ」

その言葉が、胸に落ちた。

どくん、と心臓が跳ねて、
止まらなくなる。

私は、ちゃんと笑った。
笑って、頷いた。

「……うん。
私、ヴィンの妻」

言えた。
ちゃんと、妻だって。

きゃっ、恥ずかしい。

ヴィンセントの目が、細くなる。
笑みが、深くなる。

「……よかった」

その一言は、深く息を吐く音と一緒に落ちた。

抱き締める腕が、ほんの少しだけ強くなる。
逃げないと分かったからこそ、許された距離。

私は、彼の胸元に額を預けた。

硬い。
あたたかい。
ちゃんと、生きている人の身体。

……ああ、やっとだ。

「……ヴィン」

小さく呼ぶと、
彼の指が、すぐに背中をなぞった。

撫でる、というより、確かめるみたいな動き。

「ここにいるな」

独り言みたいな声。

「……うん。いるよ」

そう答えると、
ヴィンセントは、少しだけ笑った。

「分かってる。……でも、言葉にしないと、安心できない」

正直すぎる言い方。

「……俺は、君を失う想像をするのが、耐えられない」

胸の奥が、きゅっとなる。

「だから……」

言葉が、途切れる。

代わりに、
額に、頬に、髪に、
小さな口付けが落ちる。

ひとつひとつは軽い。
でも、数が多い。

……ちょっと待って。

「……ねえ、ヴィン」

「ん?」

「その……さっきから、ずっと近い」

近い、というか、
もう完全に囲われている。

彼は、少し首を傾げた。

「夫婦だろう?」

また、それ。

「……夫婦でも、段階ってものが……」

言い終わる前に、
くすっと低く笑われた。

「ちゃんと、段階は踏んでいる」

え?

「今は――確認の段階だ」

確認?

「君が、俺の腕の中にいて、
それを嫌がっていないかどうか」

……。

言われてみれば、
私は一度も「離して」と言っていない。

むしろ、自分から近づいた。

「……ほら」

ヴィンセントが、私の手を取る。

指を絡めるでもなく、
手のひらを合わせるだけ。

「こうしても、逃げない」

ぎゅ、と力がこもる。

「腰を抱いても」

抱き寄せられる。

「視線を合わせても」

顔が近づく。

「名前を呼んでも」

「……マリエッタ」

心臓が、跳ねる。

「拒まない」

全部、事実だ。

私は、観念して小さく笑った。

「……ずるい」

「そうか?」

「そうよ。
全部、私が好きなやつ」

その瞬間、
ヴィンセントの呼吸が、わずかに乱れた。

「……それを、今言うのか」

「言っちゃった」

自分でも驚くほど、素直だった。

彼は、少し黙ってから、低く言った。

「……君は、本当に……」

続きを言わず、
代わりに額を私の額に合わせる。

視線が合う。

近い。
息がかかる。

「……俺を信用しすぎだ」

「だって、ヴィンだもん」

即答。

一拍。

「……そういうところだ」

困ったように、でも嬉しそうに、息を吐く。

「……なあ、マリエッタ」

声が、少しだけ低くなる。

「今夜、君が嫌だと言えば、俺は止まる」

……。

「でも」

間が、落ちる。

「君が、俺の妻だと言った以上――」

指が、腰に回る。

「俺は、君を守る」

力強く。

「……大切にする」

約束みたいに。

私は、その言葉を胸で受け止めてから、
ゆっくり、頷いた。

「……うん」

怖さは、ない。

あるのは、緊張と、期待と、
少しの恥ずかしさ。

「……じゃあ」

私は、笑って言った。

「……優しく、ね?」

ヴィンセントは、一瞬目を見開いてから、
ゆっくり、深く笑った。

「もちろんだ」

でも、その目は――
獲物を見るものとは違う。

大切なものを、
手放さないと決めた人の目だった。

彼は、私を抱き締めた。

今度は、迷いなく。

私は、その腕の中で思う。

――ああ。

これは、
私がずっと欲しかった夜だ。

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