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オリエ高司祭
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神殿の最も奥まった一角にあるその部屋は『せせらぎの間』と名づけられている。
『聖なる泉』から湧き出した水の一部が、部屋のすぐ脇を流れているからなのだが、それ故にこの名になった、のではない。反対だ。
この部屋に水の音をもたらすために、小川がひかれたのである。
そして、『せせらぎの間』は久しぶり――先代の灘妃の折りから数えてちょうど百年ぶりに、その主と定められた相手を迎えていた。
「遠き灘よりお越しくださいました灘妃様のため、僅かなりともそのお心を安んじられるようにとの工夫でございます」
「灘の潮の流れとは違えど、水を近くに感じられるのはとてもうれしいわ」
選定の儀を終えた後、コラールはまっすぐにこの部屋へと通された。その間に接触したのはすべて女性ばかりだ。輿を担ぐのも体格の良い女性神職で固めるという徹底ぶりだった。
もしや陸では神職は女性ばかりなのだろうか、と。
海の最高神官が父王であったことを思い出し、こんなところにも違いがあるのかと思ったコラールだったが、どうやらそれは思い過ごしだったらしい。
「無論、男性もおります。ですが、おいでなられたばかりの灘妃様は、陸のあれこれについて戸惑うことも多かろうと存じます。ですので、少しでも話しやすきようにと、女の身をそろえてございます」
「何から何まで、よく考えてもらえているのですね。ありがたく、うれしく思います」
「もったいないお言葉でございます」
大変に雅な言葉遣いで応じるコラールに、女性神職――いい加減に、この呼び名はやめることにする。アンジールの国教である『双神教』の高司祭の一人で、名をオリエという。姓はない、正しくは『捨てた』。神殿に生涯をささげる事を誓った後は、貴族であろうが平民であろうが、等しく神の僕となるのだ。かつては貴族であり姓もあった彼女であるが、今はただのオリエとしてこの神殿にある。そのオリエ――は、恭しい礼を取りながらも、『さすがは灘の女神から遣わされた御方』と、内心で感激に打ち震えていた。
とりあえず、いまのところは、だが。
「それにしても、陸ではこのように、何度も衣を変える必要があるのですか?」
そしてコラールであるが、儀式の折に着せかけられた衣装を、ただいま絶賛はぎ取られ中である。
海でのお妃教育の折りに、『陸の者は、衣服と呼ばれるものを常に身に着けている』とは教えられていたが、教えられたのは実はそれだけであった。つまり、どのような場面でどのような衣装を着るかや、それをどの程度の頻度で変えるか――というよりも、『服は着替えるものである』事は、その内容に含まれていなかったりする。
「はい。先ほど、儀式の間では先を急ぐあまりに、灘妃様の御髪の水気が十分にふき取れませんでした。そのため、肩や背にそれが移ってしまいましたので、変えさせていただいております」
「それは、もしや――水が衣に付くのは、陸では忌み嫌われるということなのですか?」
「あ、いえ。決してそのような意味ではございません」
コラールの問いかけに、オリエが慌ててその誤解を解く。
「水は灘の女神の恩寵。アンジールは元より、全ての陸の国々がそれをありがたく尊いものと思っております。ですが、水を含んだ衣服をそのままにしておきますと、お体を冷やす元になります。それに因り、お体の具合が悪くなることもございますので、新たなものをお召しいただきたいのです」
「なるほど、そうでしたか。心遣い、ありがたく思います」
それにしても……と、声にならないほどに小さくつぶやけば、コラールの一挙一動に細心の注意を払っていたオリエがすぐに気が付く。
「他に何か、お心を煩わせることがございますか?」
「いいえ、そのようなわけではありません。ですが……わたくしは、灘で陸のことを学んだつもりでありましたのに、このような些細なことも知らないのだと、恥ずかしく感じているのです」
「まぁ、灘妃様――いえ、恐れながら、コラール様とお呼び申し上げることをお許しください。コラール様は、まだ灘よりお越しになられたばかりで、それは当然のことと存じます。代々の灘妃様も、最初は戸惑われることが多くあられたと、神殿に伝わる記録にございます。ですが、どうかご安堵くださいませ。どなた様も、やがてはお慣れになられた由。コラール様におかれましても、すぐにそうなりましょう。のために、わたくしも微力ながらお手伝いをさせていただきます」
「……あなたを頼りにしてもよい、のでしょうか?」
「無論にございます! どのような些細なことでありましても、お尋ねくださいませ」
「ありがとう。ああ、そういえばあなたの名を聞いていませんでした」
「オリエ、と申します」
「そう。オリエ、これからも良しなに」
灘妃御自らに、親しく名を呼んでいただけた。
これがコラールの御前でなければ、オリエはこぶしを突き上げ、感激に打ち震えていただろう(要するにガッツポーズだ)。
灘妃に夢を見るのは、何も男ばかりではない。アンジールの女性の多くもまた、百年に一度、遠い海から夫となる者を求めて(というわけでもないのだが)はるばる輿入れしてくるという浪漫にあこがれを抱いている。オリエもまたその一人であり、そのあこがれが高じるあまりに、家族親戚らの猛反対を押し切って、神殿に入ることを選んだのだ。海から現れた灘妃に最初に拝謁する誉れは、このアンジールの神殿の女性高司祭と定められていたからだ。
そのため、オリエは努力をした。貴族令嬢であったころには自分がそれをやるとは考えもしなかった掃除や洗濯、食事の用意といった雑事も嫌がらず、むしろ積極的に取り組んだ。
貴族としての教養、それなり以上に整っていた容姿に加えて、陰日向なく働くその姿が、上層部の目に留まらないはずがない。とんとん拍子に出世をし、つい先日、高司祭へ任命されたばかりである。他にも女性の高司祭は数人いるが、その中で最も若輩者のオリエがその栄誉を勝ち取れたのは、年齢が近い方が灘妃もより安心できるはず、という主張が認められたからである。その理由を聞いて、中年以上のその他の高司祭たちは、悔し涙を浮かべたものだ。
ところで、この会話の間にも、コラールの体には新たな衣装が着せかけられていた。
慣れない足で必死に立ち、よろめくたびに支えられながらなので、かなりな重労働である。しかも、最初のものは「とにかく早く体裁を整える」のが主目的であったために、羽織って袖を通し、前を止めれば終わりという簡単な作りであったのだが、今回のものはもっときっちりと仕立てられている。
陸では当たり前のことだが、今度は下着もつける必要がある。
尚、海では、陸の基準でいうところの『裸』が基本だ。そのため、コラールも裸身をさらすことに全く抵抗がない。
故に、今も堂々とその肌をさらけ出しているのだが、そのあまりにも動じない態度と、美の極致のごときプロポーションに、女性神官らはひそかに感嘆と、わずかな羨望のため息をこぼした。
「こちらは、下着と申します。お腰とお胸を守り、御不浄、湯あみの折り以外は、常に身に着けておくべきものにございます」
「こちらはおみ足を守るための靴下にございます」
「お靴にございます。柔らかなものをご用意いたしましたが、お痛みがあるようであればおっしゃってくださいませ」
「コルセットと申します。お体の線をより美しく見せるためのものでございます」
「同じく、ペチコートにございます」
「お上着とトップスカートにございます。これにて、お身支度を終わらせていただきます」
一方、コラールだが、正直、目が回りそうになっていた。着せかけられる度に、オリエとの会話を邪魔しない程度の小声で、それがどのようなものかを説明してくれるので、どうして必要なのかは理解できたが、それにしてもきついし、苦しいし、何より暑い。
陸の者たちは、よくもまぁ、四六時中こんなものを身に着けていられるものだと感心してしまう。
尤も、これはコラールが灘妃という高い地位にいるからであって、周りの神職たちはもっと簡素な、コラールが最初に着たようなものを身に着けている。ついでに言えば、まだ何事にも慣れないコラールを慮って、これでもかなり軽装なのだ。貴族の気楽な室内着程度、といえば大体のところはわかるだろう。本気で着飾らされれば、おそらく着付けが終わる前にコラールは気絶するに違いない。
着付けが終わり、同時進行で髪も梳られ、一部を残して緩やかに結い上げられて――化粧は無しだ。まだ肌に何かを塗るのは早いと判断された――身支度を整えたコラールは、質素な佇まいながらも、いやだからこそ。彼女本来の持つ魅力を十二分に見せつけていた。
髪は真珠の光沢をもった銀色の滝となって、小さく整った顔を包み込む。肌の色は青みがかかって見えるほどに白く、きめ細かい。触れれば、まるで最高級の陶磁器のようにしっとりとした手触りだろう。その顔に理想的なバランスで配置された各々のパーツもまた、絶妙だ。長いまつ毛に縁取られた瞳は、黄金。鼻の形も文句のつけようがなく、その下にある唇は、何も塗っていないのにつやつやと珊瑚色に輝いている。
体にしても、至高の腕を持つ彫刻家が、細心の注意と情熱をこめて彫り上げたようだ。顎から肩にかけてなだらかな曲線を描き、黄金律という言葉がふさわしい胸のふくらみに、細くくびれた胴回り。小さすぎず大きすぎない腰からすんなりと伸びた足。腕も細くたおやかで、その先にある手のひらは、それ自体が芸術品のようだ。四肢の先にある爪は、まるで桜貝のようである。
「お美しゅうございます。まるで灘の女神が降臨されたかのような……」
「媛神様と比されるなど、畏れ多い事。けれど、おかしく見えないのならば、安堵しました」
さりげなく自分の失言をたしなめられ、オリエはわずかに赤面する。けれど、それ以上とがめられることもなく、まばゆいばかりの微笑みを向けられて、有頂天を突破して頭を打ちそうなほどの喜びを感じていた。
「これほどにお美しい方を妻とできるのですから、当代の灘公殿下はなんとお幸せな方でいらっしゃるのでしょう――ああ、申し訳もございません。お疲れでいらっしゃいましょう、どうぞそちらの寝椅子でお休みくださいませ」
そして、そのあたりになって、やっとのことでコラールの顔色が悪くなっていることに気が付いた。
「大変な粗相をいたしました。どうかお許しください」
「いえ、大事ありません。けれど、こうして体を横たえると、確かに楽になりました、ありがとう」
神職たちにより抱きかかえられるようにして寝椅子に場所を移し、もたれかかるようにな姿勢を取ったことで、コラールが安堵のため息をつく。
「立つということが、これほどに大儀だとは想像しておりませんでした。歩むことにしても同じ……オリエたちから見れば、無様に見えてしまうでしょうね」
「そのようなことっ。金輪際、ございません。どうか、わたくし共のためにも、そのようなことはお思いにならないでくださいませ」
なお、移動の際に彼女たちの手を借りたのは、まだコラールが『歩く』という技術を身に着けていないためである。
ここに入って輿から降ろされたコラールを、着替えさせるために彼女たちは部屋の中央へと誘った。ところが、あろうことかコラールは左右の足を同時に前に出そうとして、床に倒れこみそうになったのだ。とっさに抱き留めて事なきを得たが、また新たな課題が発覚した瞬間でもあった。
「どのような者にでも、初めてというものはございます。幸い、正式なご婚儀の日までにはまだしばらくございますし、その間に、ゆるゆると慣れていかれればよろしいことかと。――それにしても、このような簡素な装いでもこのお美しさ。ご婚儀にて盛装され、ご夫君と並ばれたコラール様のお姿はどれほど麗しいことでしょう」
うっとりとつぶやくオリエの目には、清楚で、気高く、極上に美しい花嫁衣裳のコラールの姿が見えているらしい。もちろん、幻覚だ。
軽くイってしまっているオリエの様子に若干引くものを感じながらも、その言葉で大事なことを思い出す。
「……そういえば、わたくしはまだ、背の君となられるほとんど言葉を交わしておりません」
『儀式』の進行の都合もあり、互いが名乗りあってすぐに引き離されてしまっていた。
記憶をたどれば、最初に蘇るのはあの熱い眼差しだ。
異形と呼んでも差し支えなかった灘人としての姿に、臆する気配も見せず、ただひたすらに自分を見つめていたあの目。それは海の王女だったコラールが、初めて遭遇する類の視線だった。
その目の色は限りなく黒に近い青であったと記憶している。深い海の底の色に似ているとコラールは思ったが、この後、日が暮れて夜空を見上げれば、そちらに例える方がふさわしいとわかるだろう(たびたび竜宮を抜け出しては海上に出ていたコラールだが、さすがに夜はやったことがなかった)。
髪色はこげ茶で、陸にあこがれていたコラールにとって、それは『大地』を象徴する色であった。肌も彼女よりも随分と濃かったように思う。日焼け、というものをしていたのかもしれない。日の光を浴び続けるとそうなると教えられて以来、こちらもひそかにコラールの憧憬の対象になっていた。
夜空の色の目、大地の色の髪。日の恵みを存分に受けて焼けた肌。
アンジールではごくごくありふれた色彩であり、候補者の中にはそれと似たような色を持つ者もいたのであるが、重要なのはそれがコラールの目に留まったかどうかだ。
「我が背の君にお会いすることは叶いましょうか?」
灘妃を迎え入れるにあたり、基本的にその希望はすべて叶えられる体制になっている。
ましてや、『夫となる者にあいたい』というのは、当然の欲求である。
オリエはコラールの疲労具合が気になったようだが、それを理由に思いとどまらせるわけにもいかず、代わりに何か少しでも口にして英気を養ってからにした方がよい、という提案をするにとどめた。
すぐに軽いものが用意されたのだが、それらについてまたもコラールがカルチャーショック受けたりしたのであるが、これについて語るのはまた後として――。
「灘公殿下がおいでになられました」
移動の手間や、その他の問題を鑑みて、コラールをフレイが訪う形になったのは当然のことである。
ほぼ初対面の間柄ということで、大量の第三者がいては話がしにくかろうと、お茶の用意を済ませた後は、室内に残ったのはオリエだけだった。
「どうぞ、お入りになって」
先ぶれの声にコラールが入室を許可すると、しずしずと扉が開く。
その中央から姿を現したのは、先ほど見た通りのフレイの姿だった。
『聖なる泉』から湧き出した水の一部が、部屋のすぐ脇を流れているからなのだが、それ故にこの名になった、のではない。反対だ。
この部屋に水の音をもたらすために、小川がひかれたのである。
そして、『せせらぎの間』は久しぶり――先代の灘妃の折りから数えてちょうど百年ぶりに、その主と定められた相手を迎えていた。
「遠き灘よりお越しくださいました灘妃様のため、僅かなりともそのお心を安んじられるようにとの工夫でございます」
「灘の潮の流れとは違えど、水を近くに感じられるのはとてもうれしいわ」
選定の儀を終えた後、コラールはまっすぐにこの部屋へと通された。その間に接触したのはすべて女性ばかりだ。輿を担ぐのも体格の良い女性神職で固めるという徹底ぶりだった。
もしや陸では神職は女性ばかりなのだろうか、と。
海の最高神官が父王であったことを思い出し、こんなところにも違いがあるのかと思ったコラールだったが、どうやらそれは思い過ごしだったらしい。
「無論、男性もおります。ですが、おいでなられたばかりの灘妃様は、陸のあれこれについて戸惑うことも多かろうと存じます。ですので、少しでも話しやすきようにと、女の身をそろえてございます」
「何から何まで、よく考えてもらえているのですね。ありがたく、うれしく思います」
「もったいないお言葉でございます」
大変に雅な言葉遣いで応じるコラールに、女性神職――いい加減に、この呼び名はやめることにする。アンジールの国教である『双神教』の高司祭の一人で、名をオリエという。姓はない、正しくは『捨てた』。神殿に生涯をささげる事を誓った後は、貴族であろうが平民であろうが、等しく神の僕となるのだ。かつては貴族であり姓もあった彼女であるが、今はただのオリエとしてこの神殿にある。そのオリエ――は、恭しい礼を取りながらも、『さすがは灘の女神から遣わされた御方』と、内心で感激に打ち震えていた。
とりあえず、いまのところは、だが。
「それにしても、陸ではこのように、何度も衣を変える必要があるのですか?」
そしてコラールであるが、儀式の折に着せかけられた衣装を、ただいま絶賛はぎ取られ中である。
海でのお妃教育の折りに、『陸の者は、衣服と呼ばれるものを常に身に着けている』とは教えられていたが、教えられたのは実はそれだけであった。つまり、どのような場面でどのような衣装を着るかや、それをどの程度の頻度で変えるか――というよりも、『服は着替えるものである』事は、その内容に含まれていなかったりする。
「はい。先ほど、儀式の間では先を急ぐあまりに、灘妃様の御髪の水気が十分にふき取れませんでした。そのため、肩や背にそれが移ってしまいましたので、変えさせていただいております」
「それは、もしや――水が衣に付くのは、陸では忌み嫌われるということなのですか?」
「あ、いえ。決してそのような意味ではございません」
コラールの問いかけに、オリエが慌ててその誤解を解く。
「水は灘の女神の恩寵。アンジールは元より、全ての陸の国々がそれをありがたく尊いものと思っております。ですが、水を含んだ衣服をそのままにしておきますと、お体を冷やす元になります。それに因り、お体の具合が悪くなることもございますので、新たなものをお召しいただきたいのです」
「なるほど、そうでしたか。心遣い、ありがたく思います」
それにしても……と、声にならないほどに小さくつぶやけば、コラールの一挙一動に細心の注意を払っていたオリエがすぐに気が付く。
「他に何か、お心を煩わせることがございますか?」
「いいえ、そのようなわけではありません。ですが……わたくしは、灘で陸のことを学んだつもりでありましたのに、このような些細なことも知らないのだと、恥ずかしく感じているのです」
「まぁ、灘妃様――いえ、恐れながら、コラール様とお呼び申し上げることをお許しください。コラール様は、まだ灘よりお越しになられたばかりで、それは当然のことと存じます。代々の灘妃様も、最初は戸惑われることが多くあられたと、神殿に伝わる記録にございます。ですが、どうかご安堵くださいませ。どなた様も、やがてはお慣れになられた由。コラール様におかれましても、すぐにそうなりましょう。のために、わたくしも微力ながらお手伝いをさせていただきます」
「……あなたを頼りにしてもよい、のでしょうか?」
「無論にございます! どのような些細なことでありましても、お尋ねくださいませ」
「ありがとう。ああ、そういえばあなたの名を聞いていませんでした」
「オリエ、と申します」
「そう。オリエ、これからも良しなに」
灘妃御自らに、親しく名を呼んでいただけた。
これがコラールの御前でなければ、オリエはこぶしを突き上げ、感激に打ち震えていただろう(要するにガッツポーズだ)。
灘妃に夢を見るのは、何も男ばかりではない。アンジールの女性の多くもまた、百年に一度、遠い海から夫となる者を求めて(というわけでもないのだが)はるばる輿入れしてくるという浪漫にあこがれを抱いている。オリエもまたその一人であり、そのあこがれが高じるあまりに、家族親戚らの猛反対を押し切って、神殿に入ることを選んだのだ。海から現れた灘妃に最初に拝謁する誉れは、このアンジールの神殿の女性高司祭と定められていたからだ。
そのため、オリエは努力をした。貴族令嬢であったころには自分がそれをやるとは考えもしなかった掃除や洗濯、食事の用意といった雑事も嫌がらず、むしろ積極的に取り組んだ。
貴族としての教養、それなり以上に整っていた容姿に加えて、陰日向なく働くその姿が、上層部の目に留まらないはずがない。とんとん拍子に出世をし、つい先日、高司祭へ任命されたばかりである。他にも女性の高司祭は数人いるが、その中で最も若輩者のオリエがその栄誉を勝ち取れたのは、年齢が近い方が灘妃もより安心できるはず、という主張が認められたからである。その理由を聞いて、中年以上のその他の高司祭たちは、悔し涙を浮かべたものだ。
ところで、この会話の間にも、コラールの体には新たな衣装が着せかけられていた。
慣れない足で必死に立ち、よろめくたびに支えられながらなので、かなりな重労働である。しかも、最初のものは「とにかく早く体裁を整える」のが主目的であったために、羽織って袖を通し、前を止めれば終わりという簡単な作りであったのだが、今回のものはもっときっちりと仕立てられている。
陸では当たり前のことだが、今度は下着もつける必要がある。
尚、海では、陸の基準でいうところの『裸』が基本だ。そのため、コラールも裸身をさらすことに全く抵抗がない。
故に、今も堂々とその肌をさらけ出しているのだが、そのあまりにも動じない態度と、美の極致のごときプロポーションに、女性神官らはひそかに感嘆と、わずかな羨望のため息をこぼした。
「こちらは、下着と申します。お腰とお胸を守り、御不浄、湯あみの折り以外は、常に身に着けておくべきものにございます」
「こちらはおみ足を守るための靴下にございます」
「お靴にございます。柔らかなものをご用意いたしましたが、お痛みがあるようであればおっしゃってくださいませ」
「コルセットと申します。お体の線をより美しく見せるためのものでございます」
「同じく、ペチコートにございます」
「お上着とトップスカートにございます。これにて、お身支度を終わらせていただきます」
一方、コラールだが、正直、目が回りそうになっていた。着せかけられる度に、オリエとの会話を邪魔しない程度の小声で、それがどのようなものかを説明してくれるので、どうして必要なのかは理解できたが、それにしてもきついし、苦しいし、何より暑い。
陸の者たちは、よくもまぁ、四六時中こんなものを身に着けていられるものだと感心してしまう。
尤も、これはコラールが灘妃という高い地位にいるからであって、周りの神職たちはもっと簡素な、コラールが最初に着たようなものを身に着けている。ついでに言えば、まだ何事にも慣れないコラールを慮って、これでもかなり軽装なのだ。貴族の気楽な室内着程度、といえば大体のところはわかるだろう。本気で着飾らされれば、おそらく着付けが終わる前にコラールは気絶するに違いない。
着付けが終わり、同時進行で髪も梳られ、一部を残して緩やかに結い上げられて――化粧は無しだ。まだ肌に何かを塗るのは早いと判断された――身支度を整えたコラールは、質素な佇まいながらも、いやだからこそ。彼女本来の持つ魅力を十二分に見せつけていた。
髪は真珠の光沢をもった銀色の滝となって、小さく整った顔を包み込む。肌の色は青みがかかって見えるほどに白く、きめ細かい。触れれば、まるで最高級の陶磁器のようにしっとりとした手触りだろう。その顔に理想的なバランスで配置された各々のパーツもまた、絶妙だ。長いまつ毛に縁取られた瞳は、黄金。鼻の形も文句のつけようがなく、その下にある唇は、何も塗っていないのにつやつやと珊瑚色に輝いている。
体にしても、至高の腕を持つ彫刻家が、細心の注意と情熱をこめて彫り上げたようだ。顎から肩にかけてなだらかな曲線を描き、黄金律という言葉がふさわしい胸のふくらみに、細くくびれた胴回り。小さすぎず大きすぎない腰からすんなりと伸びた足。腕も細くたおやかで、その先にある手のひらは、それ自体が芸術品のようだ。四肢の先にある爪は、まるで桜貝のようである。
「お美しゅうございます。まるで灘の女神が降臨されたかのような……」
「媛神様と比されるなど、畏れ多い事。けれど、おかしく見えないのならば、安堵しました」
さりげなく自分の失言をたしなめられ、オリエはわずかに赤面する。けれど、それ以上とがめられることもなく、まばゆいばかりの微笑みを向けられて、有頂天を突破して頭を打ちそうなほどの喜びを感じていた。
「これほどにお美しい方を妻とできるのですから、当代の灘公殿下はなんとお幸せな方でいらっしゃるのでしょう――ああ、申し訳もございません。お疲れでいらっしゃいましょう、どうぞそちらの寝椅子でお休みくださいませ」
そして、そのあたりになって、やっとのことでコラールの顔色が悪くなっていることに気が付いた。
「大変な粗相をいたしました。どうかお許しください」
「いえ、大事ありません。けれど、こうして体を横たえると、確かに楽になりました、ありがとう」
神職たちにより抱きかかえられるようにして寝椅子に場所を移し、もたれかかるようにな姿勢を取ったことで、コラールが安堵のため息をつく。
「立つということが、これほどに大儀だとは想像しておりませんでした。歩むことにしても同じ……オリエたちから見れば、無様に見えてしまうでしょうね」
「そのようなことっ。金輪際、ございません。どうか、わたくし共のためにも、そのようなことはお思いにならないでくださいませ」
なお、移動の際に彼女たちの手を借りたのは、まだコラールが『歩く』という技術を身に着けていないためである。
ここに入って輿から降ろされたコラールを、着替えさせるために彼女たちは部屋の中央へと誘った。ところが、あろうことかコラールは左右の足を同時に前に出そうとして、床に倒れこみそうになったのだ。とっさに抱き留めて事なきを得たが、また新たな課題が発覚した瞬間でもあった。
「どのような者にでも、初めてというものはございます。幸い、正式なご婚儀の日までにはまだしばらくございますし、その間に、ゆるゆると慣れていかれればよろしいことかと。――それにしても、このような簡素な装いでもこのお美しさ。ご婚儀にて盛装され、ご夫君と並ばれたコラール様のお姿はどれほど麗しいことでしょう」
うっとりとつぶやくオリエの目には、清楚で、気高く、極上に美しい花嫁衣裳のコラールの姿が見えているらしい。もちろん、幻覚だ。
軽くイってしまっているオリエの様子に若干引くものを感じながらも、その言葉で大事なことを思い出す。
「……そういえば、わたくしはまだ、背の君となられるほとんど言葉を交わしておりません」
『儀式』の進行の都合もあり、互いが名乗りあってすぐに引き離されてしまっていた。
記憶をたどれば、最初に蘇るのはあの熱い眼差しだ。
異形と呼んでも差し支えなかった灘人としての姿に、臆する気配も見せず、ただひたすらに自分を見つめていたあの目。それは海の王女だったコラールが、初めて遭遇する類の視線だった。
その目の色は限りなく黒に近い青であったと記憶している。深い海の底の色に似ているとコラールは思ったが、この後、日が暮れて夜空を見上げれば、そちらに例える方がふさわしいとわかるだろう(たびたび竜宮を抜け出しては海上に出ていたコラールだが、さすがに夜はやったことがなかった)。
髪色はこげ茶で、陸にあこがれていたコラールにとって、それは『大地』を象徴する色であった。肌も彼女よりも随分と濃かったように思う。日焼け、というものをしていたのかもしれない。日の光を浴び続けるとそうなると教えられて以来、こちらもひそかにコラールの憧憬の対象になっていた。
夜空の色の目、大地の色の髪。日の恵みを存分に受けて焼けた肌。
アンジールではごくごくありふれた色彩であり、候補者の中にはそれと似たような色を持つ者もいたのであるが、重要なのはそれがコラールの目に留まったかどうかだ。
「我が背の君にお会いすることは叶いましょうか?」
灘妃を迎え入れるにあたり、基本的にその希望はすべて叶えられる体制になっている。
ましてや、『夫となる者にあいたい』というのは、当然の欲求である。
オリエはコラールの疲労具合が気になったようだが、それを理由に思いとどまらせるわけにもいかず、代わりに何か少しでも口にして英気を養ってからにした方がよい、という提案をするにとどめた。
すぐに軽いものが用意されたのだが、それらについてまたもコラールがカルチャーショック受けたりしたのであるが、これについて語るのはまた後として――。
「灘公殿下がおいでになられました」
移動の手間や、その他の問題を鑑みて、コラールをフレイが訪う形になったのは当然のことである。
ほぼ初対面の間柄ということで、大量の第三者がいては話がしにくかろうと、お茶の用意を済ませた後は、室内に残ったのはオリエだけだった。
「どうぞ、お入りになって」
先ぶれの声にコラールが入室を許可すると、しずしずと扉が開く。
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