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陸の生活(初心者編)
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さて。
一方のコラールだが、フレイとはまた別の意味で色々と濃い時間を過ごしていた。
昨日、フレイが部屋を辞した後は、コラールはほぼオリエと二人きりで、まずはコラールが海で学んできたことと、実際に陸でまかり通っている常識とのすり合わせをしていた。
この様なコラールへの対応についてだが、実は神殿には過去の灘妃についての膨大な資料が残されており、陸人の姿になったときに全裸であることや、最初はうまく歩行ができないことなども、そこには記されていた。
世話役となった者にはそのすべてに目を通す義務が課せられており、当然、オリエも時間をかけて熟読している。だからこそ、陸の常識に照らせば珍妙な(というと灘妃に対して不敬になるが)反応をするコラールを前にしても、落ち着いて対応ができていたのだ。
「まずは人が生きていく上で最低限必要な、衣食住についてでございますが、お衣装に関しましては、先ほど少しだけご説明申し上げましたが、ご理解いただけたでしょうか?」
「ええ。時と場所、それとお会いする方に合わせて、衣は変えねばならぬのでしたね」
「左様でございます。そしてこれは、お召しになられる衣のみならず、装飾品なども同じで、高貴な身分の方ほど厳格に定められた基準がございます」
「わたくしがそれを覚えること、叶いますかしら……?」
『陸ではみな、衣というものを身にまとって生活している』。そう教えられ、そういうものかと納得していたコラールだが、こうも細かいルールがあるなど想像していなかった。
ただ、これについては、コラールの師であった人物を非難することはできない。灘人と陸人。どちらも知性のある人類ではあるが、あまりにその在り様が違いすぎるので、その関りははるか昔から最低限のものでしかないのだ。細々とした交易は存在するが――そこでコラールの師も陸の言葉を会得したのだが――そんな状況で、相手の着ている服の細かいところ等に目が行くわけもない。
『服を着る習慣がある』と知っているだけで、十分なのである。
「歴代の灘妃様も、最初は色々とご苦労されていた由に存じます。ですが、時が経てば皆さま、お慣れになられました。コラール様も、そうなられるに違いございません。それに、わたくし共も精いっぱいお手伝いさせていただきますので、どうぞご安心くださいませ」
「そう言ってもらえるのは、ほんに心強いこと。ありがとう、オリエ」
そう告げるコラールの声は、高すぎず低すぎず。まだ陸の言葉になじみ切っていないせいもあり、ゆっくりと紡がれる言葉が耳になんとも心地よい。そして不思議なことに、水面を渡る風、あるいは小さな小川のせせらぎのような不思議な韻律も伴っていて、聴く者を自然と魅了してしまうのだ。
極上の美貌にわずかではあるが笑みを浮かべられた上で、その声で礼を言われてしまえば、オリエが天にも昇る心地になるのも仕方がない。役目として要求される以上の忠誠と熱意がめらめらとその胸の内で燃え上がるのも、だ。
「こほん……そ、それでは次に、お食事に関することでございますが」
思わずにやけそうになる顔を引き締め、オリエが軽く手をたたく。すると、静かに扉があいたかと思うと、世話係の巫女が何やら盆にのせて運び込んできた。それをテーブルの上に置くと、また静かに退出していく。
持ってきたのは水差しと小さめの器。そして、皮を剥き、一口大に切られた果物である。
「汲みたての清水と、陸で取れました新鮮な果実にございます。灘では、火を通しました食物はあまり食されないと伺っておりますので、まずはこの辺りから」
そう言いながら、ほんの一口か二口分の水を、器に注ぎ入れる。
「陸では、水を食する必要があるのでしたね」
「はい。左様でございます。コラール様は、お出ましになられて以来、何一つお口にされてはいらっしゃいませんので、さぞや喉がお渇きになられているかと存じます。お口を付けられ、ゆっくりと喉にお通しください」
「……たしかに、先ほどから少し不調を感じておりましたが、これが『喉が渇く』ということなのですね」
周り全てが水(海水)な状況で、わざわざ口を使って水を補給する必要があるわけがない。コラールのそれはもう消えてしまっているが、灘人には胸の両脇に魚のエラのような機関があり、そこから海水を取り入れて呼吸しているのだが、その際に生きていくのに必要な水分もまた補給ができていた。付け加えるなら、口や鼻を通しての肺呼吸も可能だ。まぁ、めったなことでは使うことはないのだが……。
そして、最初の水分補給が今になったのは、先にコラールがフレイに会いたがったせいである。別にフレイがいても喉を潤すくらいは……と考えるのは甘い。
「っ……ごほっ、けほっ……」
「ああ、コラール様っ。どうか、気にせずお口からお出しください。我慢などなさってはなりません。それからゆっくりと息をなさって……まだお苦しくていらっしゃいますか?」
「くふっ……い、え……けふっ。なん、とか……」
むせかえってしまったコラールの背を撫でさすりながら、やはり、とオリエが声に出さずにつぶやく。コラールの反応は、秘伝書に書かれていた通りだ。
曰く『灘妃様は、最初、水を口にされるときに誤って肺へ入れてしまわれる可能性がある。そのため、最初は極力少量を、ゆっくりと摂取していただくように注意すること』。
このことがあるために、フレイの訪問の際に茶すら出さなかったのだ。水でむせてしまうのだから、熱い茶など供した場合、どうなる事か……考えるだけでも恐ろしい。
「見苦、こほっ……見苦しい、ところを、みせました。せっかく、オリエが注意してくれていたのに」
「いえ。初めてのことでございますので、無理もございません。水や食物を喉に通される際には、少しの間、呼吸を止められるとよろしゅうございます」
「そうなの、ですね。また一つ、学びました」
涙目になりつつも、何とかそう答える。そして、もう一度、挑戦してみるコラールであった。
「少しずつ、ゆっくりと……ええ。お上手でいらっしゃいます」
「……ふぅ……」
何度か水差しから足しながら、およそ二杯分ほどの水を飲むことに成功する。次にオリエに勧められ果物にも手を伸ばすが、こちらは水で懲りた分、注意をして飲み込んだのでむせることはなかった。
「陸のものは、味が濃いのですね。とても美味でした」
美しく皿に盛られていた果実を無事に完食し、なにやらやり遂げた気分になるコラールであった。むせかえらなかったことと、味にまで気が回せたことで、ひそかに胸を張る。無論、オリエはそれにも気が付いていたが、口に出すようなことはしない。
「そうおっしゃっていただけてうれしゅうございますわ。足りぬようであれば、持ってまいらせますが……?」
「いえ。今はもうこれで十分です」
「左様でございますか? でしたら、夕餉の時にまたお持ちいたしましょう」
「ええ。そうしてもらえればうれしいわ」
「夕餉の折には、火を通したものもお持ちしようと思っております。お口に合う、合わないもございましょうから、どうか遠慮なく仰られてくださいませ」
確か夕食の献立は、スープとパン、それに温野菜と卵を調理したものだったはずだ。肉はもう少しコラールが慣れてからの予定で、魚は海から遠く離れたアンジールでは淡水魚しか手に入らないこともあり、こちらもしばらく様子を見てからということになっている。
とにかく『ゆっくり、焦らず』が基本であると、秘伝書にはくどいまでに書かれている。
「コラール様と灘公殿下のご婚儀は、半年の後となっております。先ほども申し上げたかもしれませんが、それまでの間、コラール様にはこの神殿にてご滞在いただき、諸々のことにお慣れになっていただく予定です」
半年という期間が長いのか短いのか……それはこの後のコラールとオリエの頑張りにかかっているといっていい。
ちなみに、このすぐ後に自然の欲求を覚えたコラールに、オリエ自らが見本を見せたうえで、介添えしつつすませたりもしたのだが、それについての詳しいことは二人の名誉のためにも秘させてもらう。無理は禁物なれど、また一つ、早く歩けるようになった方がいい理由ができた瞬間でもあった。
「陸の作法は、ほんに大変なこと……」
思わずといったコラールのつぶやきに、賢明にも沈黙を保つオリエであった。とにかく、コラールが一人で立って歩けるようになるまでは、介添えは続けねばならないのである。
その後、夕餉を済ませるあたりまでは、さしたる問題も起きなかった。
カトラリー類の使い方と、スープは音を立てて飲まないこと、パンは小さくちぎって口に運ぶことを覚えたコラールである。ちなみに、メニューの中では、何の変哲もないパンが一番お気に召したようだ。どうも、『水分が少なく、口の中でパサつく』感覚が非常に趣深かったらしい――ただ、たかがパンではあるが、最上級の小麦粉を用いて、腕利きの料理人が柔らかくしっとりとした口当たりに仕上げていたはずなのだが……。
また、その少し前に、本来は明日の予定だった教皇との面会が飛び入りであったりもしたのだが、そちらは特記すべきこともないので割愛する。
騒動――といっていいのか迷うところではあるが――が勃発したのは、就寝前の湯あみを、とオリエが言い出した時である。
「湯? 湯に体を浸したりすれば、死んでしまいます」
「申し訳ありません。わたくしの言い様が配慮に欠けておりました。湯、と申しましても、煮えたぎったようなものではございません。お体に最も心地よい温度に抑えてございます」
「そう……なのですか? ですが、やはり体を浸すのは水の方が心地よく思えます。わたくしは、そちらの方を所望いたします」
まぁ、このあたりのやり取りは定番だろう。今は熱期なので、水浴びでも問題はないのだが、オリエには引くに引けない理由があった。
秘伝書の、あれは確か六代ほど前の灘妃についての記述であったと記憶しているが、やはり湯浴みを嫌った灘妃の意を受けて水風呂を用意したところ、それを盾にとられた形で、熱期はともかく寒期のど真ん中であろうと、断固として湯につかることを拒否されたとある。普通ならそんな時期の水風呂など入れるものではないし、無理に入りでもしたら風邪をひくのがオチだ。だが、灘妃には女神の加護があるため、本人は全く平気な顔で、入浴の手伝いをする者たちの方が体調を崩してしまったらしい。火の気のない寒い浴室で、薄着で入浴の手伝いをしなければならないのだから当然だ。また、その灘妃の習慣については、夫であった当時の灘公より、神殿に対して厳重な抗議も来ていたと書かれている。
なんで、最初にちゃんと教えなかった? ということだ。
その轍を踏むわけにはいかない。
「広く美しい灘よりお越しのコラール様が、水を好まれるのは当然かと存じます。ですが、湯には水にない特別な効能もあるのでございます」
「特別な?」
「はい。お休みになられる前の湯浴みは、その日一日の体の強張りをほぐし、疲労を回復させ、より良い眠りに誘ってくれます。また、特別な行事の前にお使いいただくこともございますが、その折には香しい花びらなどを入れ、その香りを髪や体に移すのが高貴な女人が好まれることでございます」
「花びら……花? それは、陸の花のことでしょうか?」
食いついてくれた! と。オリエは内心、安堵するが、素知らぬ顔で話をつづけた。
「左様でございます。コラール様は、お花がお好きでいらっしゃいますか?」
「ええ。灘にも水中で咲く花がありました。けれど、陸の花はまだ目にしておりません。どのようなものがあるのでしょう?」
「どのような、と一言で申し上げるのは難しゅうございます。色、形、大きさと様々なものが、わたくしの知る限りでも数百はあるかと存じます」
「木、というものもあるのでしょう? 陸人が、灘を行く船をそれで作り、花が咲くものもあると学びました」
「はい。木につきましても見上げるほどに大きく育つものもあれば、小さなものもございます。おっしゃられましたように、花を咲かせるものも……特に薔薇と私共が呼びならわしているものは、華やかな色と素晴らしい香りとを併せ持った花を付けます」
「薔薇……ええ、確か、わが師が口にしておられたのもその名でした」
これほど興味を示すのならば、あらかじめ部屋に薔薇を用意しておけばよかったとオリエは思う。ただ、薔薇に限らず花は強い香りを放つものが多い。灘妃の中には、それに忌避を示したものもいるとあったので、念のために排除していたのだ。
「でしたら、本日の湯は、その薔薇の花びらを浮かせてみてはいかがでしょうか?」
「まぁ……けれど、花が哀れに思われます」
「灘の花も同じでございましょうが、花というものは一度咲きほこれば、後は朽ちていくのみでございます。でしたら、美しい姿を保っているうちに、様々に愛でてこそ、花も本望かと愚考いたします」
「そのような考え方もあるのですね」
数あるの花の中でも薔薇は比較的高価ではあるが、コラールに割かれている予算を考えれば、微々たるものだ。望むなら、部屋中を薔薇で埋め尽くしてもかまわない。
「香りがお気に召したら、この部屋にも飾りましょう。その用意もございますので、まずは湯殿へ……?」
「そう、ですわね……ええ、少し不安もありますが、オリエがそうまで勧めてくれるのですもの」
「きっと湯も、花の香りもお気に召しますわ」
そして、連れていかれた湯殿は、コラール一人には大すぎるほどに大きな湯舟が用意されていた。
湯気が上がっている様子に、またも怖気づいてしまうコラールだったが、巫女たちに抱え上げられ湯につけられると――あらかじめかなりぬるめにされていたのだが――それまでの様子が嘘のように、のびのびとふるまい始めた。
「コ、コラール様っ。湯舟はそのように泳ぐ為のものではございませんっ」
「あら?」
歩くのには難儀はしても、水中では別らしい。両足をそろえたまま、素晴らしい速度で湯舟の中を旋回し始めるとは、オリエも予想外であった。
まぁ、それでも、これを機にコラールが入浴を嫌がらなくなったのであるから、結果的には良かった、と言えるのだろう。
一方のコラールだが、フレイとはまた別の意味で色々と濃い時間を過ごしていた。
昨日、フレイが部屋を辞した後は、コラールはほぼオリエと二人きりで、まずはコラールが海で学んできたことと、実際に陸でまかり通っている常識とのすり合わせをしていた。
この様なコラールへの対応についてだが、実は神殿には過去の灘妃についての膨大な資料が残されており、陸人の姿になったときに全裸であることや、最初はうまく歩行ができないことなども、そこには記されていた。
世話役となった者にはそのすべてに目を通す義務が課せられており、当然、オリエも時間をかけて熟読している。だからこそ、陸の常識に照らせば珍妙な(というと灘妃に対して不敬になるが)反応をするコラールを前にしても、落ち着いて対応ができていたのだ。
「まずは人が生きていく上で最低限必要な、衣食住についてでございますが、お衣装に関しましては、先ほど少しだけご説明申し上げましたが、ご理解いただけたでしょうか?」
「ええ。時と場所、それとお会いする方に合わせて、衣は変えねばならぬのでしたね」
「左様でございます。そしてこれは、お召しになられる衣のみならず、装飾品なども同じで、高貴な身分の方ほど厳格に定められた基準がございます」
「わたくしがそれを覚えること、叶いますかしら……?」
『陸ではみな、衣というものを身にまとって生活している』。そう教えられ、そういうものかと納得していたコラールだが、こうも細かいルールがあるなど想像していなかった。
ただ、これについては、コラールの師であった人物を非難することはできない。灘人と陸人。どちらも知性のある人類ではあるが、あまりにその在り様が違いすぎるので、その関りははるか昔から最低限のものでしかないのだ。細々とした交易は存在するが――そこでコラールの師も陸の言葉を会得したのだが――そんな状況で、相手の着ている服の細かいところ等に目が行くわけもない。
『服を着る習慣がある』と知っているだけで、十分なのである。
「歴代の灘妃様も、最初は色々とご苦労されていた由に存じます。ですが、時が経てば皆さま、お慣れになられました。コラール様も、そうなられるに違いございません。それに、わたくし共も精いっぱいお手伝いさせていただきますので、どうぞご安心くださいませ」
「そう言ってもらえるのは、ほんに心強いこと。ありがとう、オリエ」
そう告げるコラールの声は、高すぎず低すぎず。まだ陸の言葉になじみ切っていないせいもあり、ゆっくりと紡がれる言葉が耳になんとも心地よい。そして不思議なことに、水面を渡る風、あるいは小さな小川のせせらぎのような不思議な韻律も伴っていて、聴く者を自然と魅了してしまうのだ。
極上の美貌にわずかではあるが笑みを浮かべられた上で、その声で礼を言われてしまえば、オリエが天にも昇る心地になるのも仕方がない。役目として要求される以上の忠誠と熱意がめらめらとその胸の内で燃え上がるのも、だ。
「こほん……そ、それでは次に、お食事に関することでございますが」
思わずにやけそうになる顔を引き締め、オリエが軽く手をたたく。すると、静かに扉があいたかと思うと、世話係の巫女が何やら盆にのせて運び込んできた。それをテーブルの上に置くと、また静かに退出していく。
持ってきたのは水差しと小さめの器。そして、皮を剥き、一口大に切られた果物である。
「汲みたての清水と、陸で取れました新鮮な果実にございます。灘では、火を通しました食物はあまり食されないと伺っておりますので、まずはこの辺りから」
そう言いながら、ほんの一口か二口分の水を、器に注ぎ入れる。
「陸では、水を食する必要があるのでしたね」
「はい。左様でございます。コラール様は、お出ましになられて以来、何一つお口にされてはいらっしゃいませんので、さぞや喉がお渇きになられているかと存じます。お口を付けられ、ゆっくりと喉にお通しください」
「……たしかに、先ほどから少し不調を感じておりましたが、これが『喉が渇く』ということなのですね」
周り全てが水(海水)な状況で、わざわざ口を使って水を補給する必要があるわけがない。コラールのそれはもう消えてしまっているが、灘人には胸の両脇に魚のエラのような機関があり、そこから海水を取り入れて呼吸しているのだが、その際に生きていくのに必要な水分もまた補給ができていた。付け加えるなら、口や鼻を通しての肺呼吸も可能だ。まぁ、めったなことでは使うことはないのだが……。
そして、最初の水分補給が今になったのは、先にコラールがフレイに会いたがったせいである。別にフレイがいても喉を潤すくらいは……と考えるのは甘い。
「っ……ごほっ、けほっ……」
「ああ、コラール様っ。どうか、気にせずお口からお出しください。我慢などなさってはなりません。それからゆっくりと息をなさって……まだお苦しくていらっしゃいますか?」
「くふっ……い、え……けふっ。なん、とか……」
むせかえってしまったコラールの背を撫でさすりながら、やはり、とオリエが声に出さずにつぶやく。コラールの反応は、秘伝書に書かれていた通りだ。
曰く『灘妃様は、最初、水を口にされるときに誤って肺へ入れてしまわれる可能性がある。そのため、最初は極力少量を、ゆっくりと摂取していただくように注意すること』。
このことがあるために、フレイの訪問の際に茶すら出さなかったのだ。水でむせてしまうのだから、熱い茶など供した場合、どうなる事か……考えるだけでも恐ろしい。
「見苦、こほっ……見苦しい、ところを、みせました。せっかく、オリエが注意してくれていたのに」
「いえ。初めてのことでございますので、無理もございません。水や食物を喉に通される際には、少しの間、呼吸を止められるとよろしゅうございます」
「そうなの、ですね。また一つ、学びました」
涙目になりつつも、何とかそう答える。そして、もう一度、挑戦してみるコラールであった。
「少しずつ、ゆっくりと……ええ。お上手でいらっしゃいます」
「……ふぅ……」
何度か水差しから足しながら、およそ二杯分ほどの水を飲むことに成功する。次にオリエに勧められ果物にも手を伸ばすが、こちらは水で懲りた分、注意をして飲み込んだのでむせることはなかった。
「陸のものは、味が濃いのですね。とても美味でした」
美しく皿に盛られていた果実を無事に完食し、なにやらやり遂げた気分になるコラールであった。むせかえらなかったことと、味にまで気が回せたことで、ひそかに胸を張る。無論、オリエはそれにも気が付いていたが、口に出すようなことはしない。
「そうおっしゃっていただけてうれしゅうございますわ。足りぬようであれば、持ってまいらせますが……?」
「いえ。今はもうこれで十分です」
「左様でございますか? でしたら、夕餉の時にまたお持ちいたしましょう」
「ええ。そうしてもらえればうれしいわ」
「夕餉の折には、火を通したものもお持ちしようと思っております。お口に合う、合わないもございましょうから、どうか遠慮なく仰られてくださいませ」
確か夕食の献立は、スープとパン、それに温野菜と卵を調理したものだったはずだ。肉はもう少しコラールが慣れてからの予定で、魚は海から遠く離れたアンジールでは淡水魚しか手に入らないこともあり、こちらもしばらく様子を見てからということになっている。
とにかく『ゆっくり、焦らず』が基本であると、秘伝書にはくどいまでに書かれている。
「コラール様と灘公殿下のご婚儀は、半年の後となっております。先ほども申し上げたかもしれませんが、それまでの間、コラール様にはこの神殿にてご滞在いただき、諸々のことにお慣れになっていただく予定です」
半年という期間が長いのか短いのか……それはこの後のコラールとオリエの頑張りにかかっているといっていい。
ちなみに、このすぐ後に自然の欲求を覚えたコラールに、オリエ自らが見本を見せたうえで、介添えしつつすませたりもしたのだが、それについての詳しいことは二人の名誉のためにも秘させてもらう。無理は禁物なれど、また一つ、早く歩けるようになった方がいい理由ができた瞬間でもあった。
「陸の作法は、ほんに大変なこと……」
思わずといったコラールのつぶやきに、賢明にも沈黙を保つオリエであった。とにかく、コラールが一人で立って歩けるようになるまでは、介添えは続けねばならないのである。
その後、夕餉を済ませるあたりまでは、さしたる問題も起きなかった。
カトラリー類の使い方と、スープは音を立てて飲まないこと、パンは小さくちぎって口に運ぶことを覚えたコラールである。ちなみに、メニューの中では、何の変哲もないパンが一番お気に召したようだ。どうも、『水分が少なく、口の中でパサつく』感覚が非常に趣深かったらしい――ただ、たかがパンではあるが、最上級の小麦粉を用いて、腕利きの料理人が柔らかくしっとりとした口当たりに仕上げていたはずなのだが……。
また、その少し前に、本来は明日の予定だった教皇との面会が飛び入りであったりもしたのだが、そちらは特記すべきこともないので割愛する。
騒動――といっていいのか迷うところではあるが――が勃発したのは、就寝前の湯あみを、とオリエが言い出した時である。
「湯? 湯に体を浸したりすれば、死んでしまいます」
「申し訳ありません。わたくしの言い様が配慮に欠けておりました。湯、と申しましても、煮えたぎったようなものではございません。お体に最も心地よい温度に抑えてございます」
「そう……なのですか? ですが、やはり体を浸すのは水の方が心地よく思えます。わたくしは、そちらの方を所望いたします」
まぁ、このあたりのやり取りは定番だろう。今は熱期なので、水浴びでも問題はないのだが、オリエには引くに引けない理由があった。
秘伝書の、あれは確か六代ほど前の灘妃についての記述であったと記憶しているが、やはり湯浴みを嫌った灘妃の意を受けて水風呂を用意したところ、それを盾にとられた形で、熱期はともかく寒期のど真ん中であろうと、断固として湯につかることを拒否されたとある。普通ならそんな時期の水風呂など入れるものではないし、無理に入りでもしたら風邪をひくのがオチだ。だが、灘妃には女神の加護があるため、本人は全く平気な顔で、入浴の手伝いをする者たちの方が体調を崩してしまったらしい。火の気のない寒い浴室で、薄着で入浴の手伝いをしなければならないのだから当然だ。また、その灘妃の習慣については、夫であった当時の灘公より、神殿に対して厳重な抗議も来ていたと書かれている。
なんで、最初にちゃんと教えなかった? ということだ。
その轍を踏むわけにはいかない。
「広く美しい灘よりお越しのコラール様が、水を好まれるのは当然かと存じます。ですが、湯には水にない特別な効能もあるのでございます」
「特別な?」
「はい。お休みになられる前の湯浴みは、その日一日の体の強張りをほぐし、疲労を回復させ、より良い眠りに誘ってくれます。また、特別な行事の前にお使いいただくこともございますが、その折には香しい花びらなどを入れ、その香りを髪や体に移すのが高貴な女人が好まれることでございます」
「花びら……花? それは、陸の花のことでしょうか?」
食いついてくれた! と。オリエは内心、安堵するが、素知らぬ顔で話をつづけた。
「左様でございます。コラール様は、お花がお好きでいらっしゃいますか?」
「ええ。灘にも水中で咲く花がありました。けれど、陸の花はまだ目にしておりません。どのようなものがあるのでしょう?」
「どのような、と一言で申し上げるのは難しゅうございます。色、形、大きさと様々なものが、わたくしの知る限りでも数百はあるかと存じます」
「木、というものもあるのでしょう? 陸人が、灘を行く船をそれで作り、花が咲くものもあると学びました」
「はい。木につきましても見上げるほどに大きく育つものもあれば、小さなものもございます。おっしゃられましたように、花を咲かせるものも……特に薔薇と私共が呼びならわしているものは、華やかな色と素晴らしい香りとを併せ持った花を付けます」
「薔薇……ええ、確か、わが師が口にしておられたのもその名でした」
これほど興味を示すのならば、あらかじめ部屋に薔薇を用意しておけばよかったとオリエは思う。ただ、薔薇に限らず花は強い香りを放つものが多い。灘妃の中には、それに忌避を示したものもいるとあったので、念のために排除していたのだ。
「でしたら、本日の湯は、その薔薇の花びらを浮かせてみてはいかがでしょうか?」
「まぁ……けれど、花が哀れに思われます」
「灘の花も同じでございましょうが、花というものは一度咲きほこれば、後は朽ちていくのみでございます。でしたら、美しい姿を保っているうちに、様々に愛でてこそ、花も本望かと愚考いたします」
「そのような考え方もあるのですね」
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「そう、ですわね……ええ、少し不安もありますが、オリエがそうまで勧めてくれるのですもの」
「きっと湯も、花の香りもお気に召しますわ」
そして、連れていかれた湯殿は、コラール一人には大すぎるほどに大きな湯舟が用意されていた。
湯気が上がっている様子に、またも怖気づいてしまうコラールだったが、巫女たちに抱え上げられ湯につけられると――あらかじめかなりぬるめにされていたのだが――それまでの様子が嘘のように、のびのびとふるまい始めた。
「コ、コラール様っ。湯舟はそのように泳ぐ為のものではございませんっ」
「あら?」
歩くのには難儀はしても、水中では別らしい。両足をそろえたまま、素晴らしい速度で湯舟の中を旋回し始めるとは、オリエも予想外であった。
まぁ、それでも、これを機にコラールが入浴を嫌がらなくなったのであるから、結果的には良かった、と言えるのだろう。
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