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絶賛特訓中
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フレイがその居を神殿から離宮に移すと同時に、コラールの『陸の生活に慣れる』訓練も本格的に開始された。
「お上手でございますわ、コラール様。そう、もう一度左足を前に、重心を左に移して、右……あと、もう少しでございます」
何をやっているかといえば、歩行訓練である。横に二本、腰よりもやや低い位置に平行に並べられた棒を両手でつかみ、体を支えながら何度も行き来する。
「お疲れ様でございます。見違えるほどに上達なさいました。これでございましたら、次は支え無しをお試しいただけるかと存じます」
「ありがとう、オリエ。他の者たちも、大儀でした」
「もったいないお言葉でございます」
傍らに用意されていたソファにぐったりと身を預けながらも、訓練に付き合ってくれた者たちをねぎらう。コラールの額に浮いた汗を、オリエが丁寧な手つきで拭った後、陶器の器を差し出してくる。
「果汁を清水で割ったものでございます。汗をかかれて、喉がお渇きでしょう」
「ありがとう……それにしても、この汗というのも、ほんに不思議なものですね。体が熱くなるとどこからともなく染み出してくるなど……」
「医術を修めた者が申しますには、肌に目に見えぬほどの小さな穴があり、そこから出てくるのだそうでございます」
海では、汗をかくことなどなかったコラールである。最初の訓練の折に、額や体が濡れていることに気が付いて大騒ぎをしたものだ。陸では当たり前のことだと説明され、ようやく落ち着きはしたものの、「ならば湯浴みせずとも汗で十分ではないのか?」とか「涙や小水のように我慢することはできないのか?」とかも聞かれたりもした。
その度に説明をするのだが、コラールはきちんと理屈を理解しないと納得しないため、実践が伴うこともしばしばだ。
『湯浴みの代わりに汗』の場合、放置しておくと不潔だし匂いを発すると説明したところ、「なぜ不潔になるのか」「どのような匂いになるのか」と更なる疑問を呈された。仕方なくしばらく放置をしたのちに、汗染みになった布が変色する様子や、自分の体が発する匂いを確認させるという、灘妃とは思えない状況になったものである。
言葉を覚えてしばらくした幼児が、あれやこれやと矢継ぎ早に質問したがる時期があるというが、今のコラールもそれに似た状況になっている。
「お衣装が汗で湿ってしまっておりますので、湯浴みされた後に、お着換えを」
「わかりました――ねぇ、オリエ? わたくし思うのですけれど、それならば衣をつけずにやればいいのではないかしら?」
裸でやれば、汗をぬぐうだけで済むのに、と。湯浴み自体は気に入っているからいいが、その前後の着替えが面倒だ。ならば、いっそ……と、名案を思い付いたコラールであるが、それは当然却下される。
「その状態で歩まれるのにお慣れになると、いざ衣をつけられた時に思うように動けぬことが予想されます」
「……確かにそうね」
別にコラールに露出の趣味があるわけではない。単に『服を着るのが当たり前』という陸の習慣を忘れがちなだけである。早い段階でそのことに気が付いていたオリエは、別の方面の懸念事項を提示することで、コラールを納得させることに成功する。
このあたり、すっかりコラールの扱いに熟達しているオリエであった。
「お着換えがお済みになられましたら、お茶にいたしましょう」
その言葉に、コラールはわずかに顔をしかめる。
「お茶というのは……あの苦い味のする熱い水のことでしたね?」
「はい。茶の木の葉や、香草などを湯で煎じたものをお茶と呼びならわしております」
「わたくしは清水か、果実で味をつけたものでよいのですが……」
陸に来て新たに判明したことなのだが、コラールはとんでもない猫舌だった。体温よりもやや熱い程度が限界で、それ以上の温度のものになるとわずかに口に含んだだけで『熱い!』と大騒ぎをする。
けれど、貴婦人にとってはお茶――というか、人を招いてのお茶会――は非常に重要なものである。人脈を作るにも、様々な情報を得るにも、これなしには語れない。
「湯浴みの後で清水はお持ちいたしますが、お茶もお飲みになっていただきたく思います」
「……吹いて冷ますのは禁止、なのですよね?」
「左様でございます」
食事の時など、スープをふうふうと吹いて食するコラールの姿は、たいそう愛らしいのだが、それをお茶会にまで持ち込むわけにはいかない。適温で淹れたお茶は、別に煮えたぎっているわけではないし、茶器に注がれた後も飲み頃になるまで会話で間をつなぐこともできる。ただ、コラールの好む温度――つまりは、完全に冷めてしまえば苦みも出てくるし、何よりその前に新しいものと交換されてしまう。
「火傷をするほどではございませんので」
厳しいようだが、オリエとしてもそういうしかないのである。
そして、コラールの苦行はこれだけではなかった。
「く、苦し……」
「もう少しだけご辛抱くださいませ」
歩行訓練は、体の動きを妨げないように、簡素な衣をまとって行われる。しかし、それが終われば、灘妃という身分にふさわしい衣装になるのは当然である。
救いがあるとすれば、アンジールの文化や気候の関係で、コルセットはあるものの下半身を巨大に膨らませるクリノリンやパニエは存在しないことだろう。コルセットも、蜂の胴のように極端に絞り込むのではなく、体型を少しきつめに整える程度のものだ。補正下着の強力版と思えばいい。
ただ、陸の人間にしてみれば『その程度』であるのだが、つい数日前に『生まれて初めて服を着た』コラールにとっては、ほとんど拷問に等しかったりする。
「い、息が、できま……せぬ」
「気のせいでございます。まだまだ余裕がございますわ」
動かずに直立するだけならば安定してきたコラールの背中の方に回った侍女(巫女)が、ほら、とコルセットを引っ張ると、確かに掌が入り込むほどの隙間が空く。本来ならば指が一本入るかどうか、というところまで締め付けるのだから、これは十分手加減をしてくれている。
「これ、で……茶を嗜む、のです、か?」
息がしづらいので、コラールの言葉も切れ切れである。
「締め付け、られて……何かを食せるとは、思えぬのです、が……」
「最初は苦しく思われましても、すぐになじまれます」
その間にも着々とお茶の用意は整いつつある。
コルセットで締め上げられた後、夏物の薄手ではあるが豪華な衣装を着せかけられた後、手を取られて、いつもの寝椅子ではなくテーブルと揃いの椅子に座らせられる。裾を美しい形に整えられ、目の前にはカップとソーサー、それに小さな茶菓子が乗せられた皿が並ぶ。
「では、コラール様。昨日のおさらいでございます」
「……カップは音を立てずに持ち上げる、のでしたね」
「はい。それから持ち上げられたお手は、もう少し脇をお締めになってくださいませ。指ももっと揃えられて――お口を近づけるのではなく、お手をお口元までお運びになられるほうが、美しい所作になるかと存じます」
海では水すら飲む必要がなかったのだから、お茶の作法などコラールが知るはずがない。
一から教え込む必要があるので、オリエの苦労もひとしおである。それでも、最初が肝心と、いつもはコラールには甘い彼女も、この時ばかりは鬼教官となる。
「菓子は、小さくお切りになってから、お口にお運びください。その時、小さなかけら一つもお落としになられぬよう――数回、咀嚼して飲み込まれた後は、お茶で口の中のものも洗い流すのもお忘れなく」
茶会は会話を楽しむ(?)ためのものでもある。口いっぱいにほおばるのは論外であるし、数回噛んで飲み込める程度でないと、その間に話しかけられた時の対応が困る。また、口内に茶菓子のかけらが残っていると見た目も悪いし、何より言葉を発したときに一緒に飛び出す可能性もある。
貴婦人がお茶を嗜むというのは、色々と気を遣うところが多いのだ。
「……ものを食している、という気が、いたしませぬ……」
「慣れ、でございます。それと、舌をお出しになって冷ますのも禁物でございます」
かなり温めに淹れたお茶であったが、それでもコラールには熱かったようだ。紅珊瑚の唇から、熱さにやられた舌を出したのを目ざとく見つけられ、オリエの叱責が飛ぶ。
「お夕食の時には、もう少し楽なものにお着換えいただきますが、それまではそのお衣装でお過ごしくださいませ」
「慣れるため……ですのね」
「はい」
さすがに食事の時は、きちんと食べられないと体に悪いので、今はまだ温情措置が取られている。尤も、これも今だけの話で、あとになればがっちりと固められた状態で食べることになるのだが……。
「ほんに、陸は……大儀なこと……」
「慣れでございますれば」
習うより慣れろ――いや、習ってもいるのだが――と繰り返すオリエに、思わずがっくりと肩を落とすコラールであった。
そして、お茶を飲み終えてもやることはまだまだあったりする。
「それでは、次は文字の書き取りでございます」
茶器が片付けられた後は、代わりにペンやインク壺、それに数枚の紙が用意される。
「まずは、お名をこちらにお書きになってくださいませ」
促されるままにペンを手に取り、先端にインクをつけると、紙に向かって名前を記入する。
コラール・パレレ・ユラ。
ペン先が引っ掛かったのか、ところどころにインクの塊の残る、見事なかな釘流であった。
「お上手でございます。文字の大きさもそろっておりますし、綴りも正確であられます」
「ありがとう、オリエ」
ドヤ顔で答えるコラールである。オリエが褒める点を探し出すのに苦労しているとは微塵も思わない。そして、オリエもそれを気取らせるようなへまはしない。コラールは褒めると伸びる質であるのはとっくの昔に把握済みなのだ。
「コラール様は、文字をお読みになられることに関しては何の問題もございません。また、ご自身のお手で、それをお書きになることもお出来になられる」
「ええ。灘で学びました」
「素晴らしい成果であると存じます」
ですが、一つだけ……と、オリエが続ける。
「先ほどと同じく、文字を記されることに関して、まだお慣れになっていらっしゃらない点のみが、気になります」
「ええ。さすがに灘ではこのように紙とインク、でしたか? それを用いるのは難しいことでありましたので」
海では、記録を残す為に紙とインクは用いない。では、何を使うかといえば、実は『真珠』である。陸では得難い宝石として珍重される真珠だが、海ではその辺の貝からいくらでも取れる。その真珠に特殊な波動を用いて、文字というか記録を刻むのである。そのため竜宮の書庫では、箱に入った真珠がうずたかく積み上げられていて、陸の者がみれば宝物殿と見まごうような光景になっているのだ。
「陸では文字によって、それを書き記した相手の人となりを判断することがございます。人柄がその手蹟(て)に現れる、と申しまして、それに倣いコラール様の文字を拝見いたしますに、これは少々……」
「障りがある、と?」
「はい、畏れながら、文字を書かれるになられるのにお慣れになっていらっしゃらないのがわかってしまいます。コラール様は文字を読むことに関しては大変に堪能でいらっしゃいますのに、それが伝わらぬ恐れがございます」
「まぁ……」
要するに、字を習い始めたばかりの子供のようだ、という意味であるが、それを率直に口に出すわけにもいかない。
「どのようにすればよいのでしょう?」
「こちらに関しましても、要は慣れの問題でございますので、幾たびも書いていただくのが一番の早道かと存じます。それと、ただいまのコラール様は一文字一文字を丁寧に離してお書きになられましたが、続けざまに記すという方法がございます。お名に関しましては、その方法で記されることが多ございますので、まずはそちらの練習を――よろしければ、こちらにその見本がございます」
そう言って差し出してきたのは、神殿で美しい字を書くと評判の数名により作られた『お手本』である。
「この中でお好きなものをお選びいただき、初めはそれに似せていただければ……もちろん、まったく同じに書かれる必要はございません。コラール様が最もなじむようにお書きいただければよろしいかと存じます」
そして、まだ何も書かれていない真っ新の紙を数枚、手元へと引き寄せる。
「とりあえずは、こちらに……そうですね、今日のところはきりよく百度ほど、お書きになってみてくださいませ」
「ひゃ、ひゃく……?」
「何事も慣れでございますれば」
かな釘流が、いくら手本があるといっても、一気に書の名人と言われる相手のそれと同じようになるはずもない。ただ、手紙などは代筆させることはできても、その最後の署名だけは本人がやらねばならないのだ。それに、婚儀の際の婚姻宣誓書にも。
数百年も保存されるそれに、かな釘流のたどたどしい筆跡で署名するなど、本人はそれでよくてもオリエが許せるはずがなかった。
「お励みくださいませ。努力は決して裏切りませぬ」
「……同じことを、灘での師も申されておりました」
いうことが同じなら、コラールの教育に関する姿勢も同じだろう――つまりは、抵抗しても無駄、ということだ。
「紙が足りぬようでありますればいくらでもお持ちいたしますので、どうぞご存分に」
「……ありがとう」
諦めた様子でペンを握り直し、書き取りを始めたコラールを見やりつつ、オリエの頭の中ではこの次に課すべき課題が山積みになっている。そのことをまだ知らないコラールは、ある意味幸せである――今だけの話ではあるのだが。
「お上手でございますわ、コラール様。そう、もう一度左足を前に、重心を左に移して、右……あと、もう少しでございます」
何をやっているかといえば、歩行訓練である。横に二本、腰よりもやや低い位置に平行に並べられた棒を両手でつかみ、体を支えながら何度も行き来する。
「お疲れ様でございます。見違えるほどに上達なさいました。これでございましたら、次は支え無しをお試しいただけるかと存じます」
「ありがとう、オリエ。他の者たちも、大儀でした」
「もったいないお言葉でございます」
傍らに用意されていたソファにぐったりと身を預けながらも、訓練に付き合ってくれた者たちをねぎらう。コラールの額に浮いた汗を、オリエが丁寧な手つきで拭った後、陶器の器を差し出してくる。
「果汁を清水で割ったものでございます。汗をかかれて、喉がお渇きでしょう」
「ありがとう……それにしても、この汗というのも、ほんに不思議なものですね。体が熱くなるとどこからともなく染み出してくるなど……」
「医術を修めた者が申しますには、肌に目に見えぬほどの小さな穴があり、そこから出てくるのだそうでございます」
海では、汗をかくことなどなかったコラールである。最初の訓練の折に、額や体が濡れていることに気が付いて大騒ぎをしたものだ。陸では当たり前のことだと説明され、ようやく落ち着きはしたものの、「ならば湯浴みせずとも汗で十分ではないのか?」とか「涙や小水のように我慢することはできないのか?」とかも聞かれたりもした。
その度に説明をするのだが、コラールはきちんと理屈を理解しないと納得しないため、実践が伴うこともしばしばだ。
『湯浴みの代わりに汗』の場合、放置しておくと不潔だし匂いを発すると説明したところ、「なぜ不潔になるのか」「どのような匂いになるのか」と更なる疑問を呈された。仕方なくしばらく放置をしたのちに、汗染みになった布が変色する様子や、自分の体が発する匂いを確認させるという、灘妃とは思えない状況になったものである。
言葉を覚えてしばらくした幼児が、あれやこれやと矢継ぎ早に質問したがる時期があるというが、今のコラールもそれに似た状況になっている。
「お衣装が汗で湿ってしまっておりますので、湯浴みされた後に、お着換えを」
「わかりました――ねぇ、オリエ? わたくし思うのですけれど、それならば衣をつけずにやればいいのではないかしら?」
裸でやれば、汗をぬぐうだけで済むのに、と。湯浴み自体は気に入っているからいいが、その前後の着替えが面倒だ。ならば、いっそ……と、名案を思い付いたコラールであるが、それは当然却下される。
「その状態で歩まれるのにお慣れになると、いざ衣をつけられた時に思うように動けぬことが予想されます」
「……確かにそうね」
別にコラールに露出の趣味があるわけではない。単に『服を着るのが当たり前』という陸の習慣を忘れがちなだけである。早い段階でそのことに気が付いていたオリエは、別の方面の懸念事項を提示することで、コラールを納得させることに成功する。
このあたり、すっかりコラールの扱いに熟達しているオリエであった。
「お着換えがお済みになられましたら、お茶にいたしましょう」
その言葉に、コラールはわずかに顔をしかめる。
「お茶というのは……あの苦い味のする熱い水のことでしたね?」
「はい。茶の木の葉や、香草などを湯で煎じたものをお茶と呼びならわしております」
「わたくしは清水か、果実で味をつけたものでよいのですが……」
陸に来て新たに判明したことなのだが、コラールはとんでもない猫舌だった。体温よりもやや熱い程度が限界で、それ以上の温度のものになるとわずかに口に含んだだけで『熱い!』と大騒ぎをする。
けれど、貴婦人にとってはお茶――というか、人を招いてのお茶会――は非常に重要なものである。人脈を作るにも、様々な情報を得るにも、これなしには語れない。
「湯浴みの後で清水はお持ちいたしますが、お茶もお飲みになっていただきたく思います」
「……吹いて冷ますのは禁止、なのですよね?」
「左様でございます」
食事の時など、スープをふうふうと吹いて食するコラールの姿は、たいそう愛らしいのだが、それをお茶会にまで持ち込むわけにはいかない。適温で淹れたお茶は、別に煮えたぎっているわけではないし、茶器に注がれた後も飲み頃になるまで会話で間をつなぐこともできる。ただ、コラールの好む温度――つまりは、完全に冷めてしまえば苦みも出てくるし、何よりその前に新しいものと交換されてしまう。
「火傷をするほどではございませんので」
厳しいようだが、オリエとしてもそういうしかないのである。
そして、コラールの苦行はこれだけではなかった。
「く、苦し……」
「もう少しだけご辛抱くださいませ」
歩行訓練は、体の動きを妨げないように、簡素な衣をまとって行われる。しかし、それが終われば、灘妃という身分にふさわしい衣装になるのは当然である。
救いがあるとすれば、アンジールの文化や気候の関係で、コルセットはあるものの下半身を巨大に膨らませるクリノリンやパニエは存在しないことだろう。コルセットも、蜂の胴のように極端に絞り込むのではなく、体型を少しきつめに整える程度のものだ。補正下着の強力版と思えばいい。
ただ、陸の人間にしてみれば『その程度』であるのだが、つい数日前に『生まれて初めて服を着た』コラールにとっては、ほとんど拷問に等しかったりする。
「い、息が、できま……せぬ」
「気のせいでございます。まだまだ余裕がございますわ」
動かずに直立するだけならば安定してきたコラールの背中の方に回った侍女(巫女)が、ほら、とコルセットを引っ張ると、確かに掌が入り込むほどの隙間が空く。本来ならば指が一本入るかどうか、というところまで締め付けるのだから、これは十分手加減をしてくれている。
「これ、で……茶を嗜む、のです、か?」
息がしづらいので、コラールの言葉も切れ切れである。
「締め付け、られて……何かを食せるとは、思えぬのです、が……」
「最初は苦しく思われましても、すぐになじまれます」
その間にも着々とお茶の用意は整いつつある。
コルセットで締め上げられた後、夏物の薄手ではあるが豪華な衣装を着せかけられた後、手を取られて、いつもの寝椅子ではなくテーブルと揃いの椅子に座らせられる。裾を美しい形に整えられ、目の前にはカップとソーサー、それに小さな茶菓子が乗せられた皿が並ぶ。
「では、コラール様。昨日のおさらいでございます」
「……カップは音を立てずに持ち上げる、のでしたね」
「はい。それから持ち上げられたお手は、もう少し脇をお締めになってくださいませ。指ももっと揃えられて――お口を近づけるのではなく、お手をお口元までお運びになられるほうが、美しい所作になるかと存じます」
海では水すら飲む必要がなかったのだから、お茶の作法などコラールが知るはずがない。
一から教え込む必要があるので、オリエの苦労もひとしおである。それでも、最初が肝心と、いつもはコラールには甘い彼女も、この時ばかりは鬼教官となる。
「菓子は、小さくお切りになってから、お口にお運びください。その時、小さなかけら一つもお落としになられぬよう――数回、咀嚼して飲み込まれた後は、お茶で口の中のものも洗い流すのもお忘れなく」
茶会は会話を楽しむ(?)ためのものでもある。口いっぱいにほおばるのは論外であるし、数回噛んで飲み込める程度でないと、その間に話しかけられた時の対応が困る。また、口内に茶菓子のかけらが残っていると見た目も悪いし、何より言葉を発したときに一緒に飛び出す可能性もある。
貴婦人がお茶を嗜むというのは、色々と気を遣うところが多いのだ。
「……ものを食している、という気が、いたしませぬ……」
「慣れ、でございます。それと、舌をお出しになって冷ますのも禁物でございます」
かなり温めに淹れたお茶であったが、それでもコラールには熱かったようだ。紅珊瑚の唇から、熱さにやられた舌を出したのを目ざとく見つけられ、オリエの叱責が飛ぶ。
「お夕食の時には、もう少し楽なものにお着換えいただきますが、それまではそのお衣装でお過ごしくださいませ」
「慣れるため……ですのね」
「はい」
さすがに食事の時は、きちんと食べられないと体に悪いので、今はまだ温情措置が取られている。尤も、これも今だけの話で、あとになればがっちりと固められた状態で食べることになるのだが……。
「ほんに、陸は……大儀なこと……」
「慣れでございますれば」
習うより慣れろ――いや、習ってもいるのだが――と繰り返すオリエに、思わずがっくりと肩を落とすコラールであった。
そして、お茶を飲み終えてもやることはまだまだあったりする。
「それでは、次は文字の書き取りでございます」
茶器が片付けられた後は、代わりにペンやインク壺、それに数枚の紙が用意される。
「まずは、お名をこちらにお書きになってくださいませ」
促されるままにペンを手に取り、先端にインクをつけると、紙に向かって名前を記入する。
コラール・パレレ・ユラ。
ペン先が引っ掛かったのか、ところどころにインクの塊の残る、見事なかな釘流であった。
「お上手でございます。文字の大きさもそろっておりますし、綴りも正確であられます」
「ありがとう、オリエ」
ドヤ顔で答えるコラールである。オリエが褒める点を探し出すのに苦労しているとは微塵も思わない。そして、オリエもそれを気取らせるようなへまはしない。コラールは褒めると伸びる質であるのはとっくの昔に把握済みなのだ。
「コラール様は、文字をお読みになられることに関しては何の問題もございません。また、ご自身のお手で、それをお書きになることもお出来になられる」
「ええ。灘で学びました」
「素晴らしい成果であると存じます」
ですが、一つだけ……と、オリエが続ける。
「先ほどと同じく、文字を記されることに関して、まだお慣れになっていらっしゃらない点のみが、気になります」
「ええ。さすがに灘ではこのように紙とインク、でしたか? それを用いるのは難しいことでありましたので」
海では、記録を残す為に紙とインクは用いない。では、何を使うかといえば、実は『真珠』である。陸では得難い宝石として珍重される真珠だが、海ではその辺の貝からいくらでも取れる。その真珠に特殊な波動を用いて、文字というか記録を刻むのである。そのため竜宮の書庫では、箱に入った真珠がうずたかく積み上げられていて、陸の者がみれば宝物殿と見まごうような光景になっているのだ。
「陸では文字によって、それを書き記した相手の人となりを判断することがございます。人柄がその手蹟(て)に現れる、と申しまして、それに倣いコラール様の文字を拝見いたしますに、これは少々……」
「障りがある、と?」
「はい、畏れながら、文字を書かれるになられるのにお慣れになっていらっしゃらないのがわかってしまいます。コラール様は文字を読むことに関しては大変に堪能でいらっしゃいますのに、それが伝わらぬ恐れがございます」
「まぁ……」
要するに、字を習い始めたばかりの子供のようだ、という意味であるが、それを率直に口に出すわけにもいかない。
「どのようにすればよいのでしょう?」
「こちらに関しましても、要は慣れの問題でございますので、幾たびも書いていただくのが一番の早道かと存じます。それと、ただいまのコラール様は一文字一文字を丁寧に離してお書きになられましたが、続けざまに記すという方法がございます。お名に関しましては、その方法で記されることが多ございますので、まずはそちらの練習を――よろしければ、こちらにその見本がございます」
そう言って差し出してきたのは、神殿で美しい字を書くと評判の数名により作られた『お手本』である。
「この中でお好きなものをお選びいただき、初めはそれに似せていただければ……もちろん、まったく同じに書かれる必要はございません。コラール様が最もなじむようにお書きいただければよろしいかと存じます」
そして、まだ何も書かれていない真っ新の紙を数枚、手元へと引き寄せる。
「とりあえずは、こちらに……そうですね、今日のところはきりよく百度ほど、お書きになってみてくださいませ」
「ひゃ、ひゃく……?」
「何事も慣れでございますれば」
かな釘流が、いくら手本があるといっても、一気に書の名人と言われる相手のそれと同じようになるはずもない。ただ、手紙などは代筆させることはできても、その最後の署名だけは本人がやらねばならないのだ。それに、婚儀の際の婚姻宣誓書にも。
数百年も保存されるそれに、かな釘流のたどたどしい筆跡で署名するなど、本人はそれでよくてもオリエが許せるはずがなかった。
「お励みくださいませ。努力は決して裏切りませぬ」
「……同じことを、灘での師も申されておりました」
いうことが同じなら、コラールの教育に関する姿勢も同じだろう――つまりは、抵抗しても無駄、ということだ。
「紙が足りぬようでありますればいくらでもお持ちいたしますので、どうぞご存分に」
「……ありがとう」
諦めた様子でペンを握り直し、書き取りを始めたコラールを見やりつつ、オリエの頭の中ではこの次に課すべき課題が山積みになっている。そのことをまだ知らないコラールは、ある意味幸せである――今だけの話ではあるのだが。
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