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第五話 眠りから覚めて
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私は昼間落ちたのと同じ木の上で眠っていた。
前世の社畜は木登りが出来なかった。
だから私はドロレス! と言いたいところなのだけれど、体が木登りの仕方を覚えていただけかもしれない。
木の上で眠っているのは、前世社畜の意識が出来なかった木登りをしてみたいと思ったのと、恨みがましい目で見てくるデロタが控えの間にいる寝室で眠る気になれなかったからである。
寝室は女主人のためのひとり部屋だ。
ヒメネス侯爵家の夫婦寝室には初夜以降一度も入っていない。デスピアダは離れで暮らしていて、三日に一度くらいイスマエルが通っているらしい。やっぱりデスピアダが二股かけてるのかな?
眠っているというより、私はウトウトしているのだった。
寝つきが悪いのは前世社畜の意識が主体だからなのだろうか。
もし今の私が悪霊で、いつかドロレスの意思が戻って来たとしたら、彼女は私の選択をどう思うのだろう。ぼんやりと考えながら眠りに落ちかけたとき──
「……ドロレス……」
イスマエルの声がして、私は木から落ちた。
「す、すまない。驚かせてしまったようだな。体は大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」
ウトウトも消え去って、完全に眠りから覚める。
このままでは朝まで眠れない。
前世社畜としても覚えがあるし、ドロレスとしても……王宮でもヒメネス侯爵家に嫁いでからも眠れぬ夜を何度も過ごしていた。
「待望の愛妾を迎え入れて幸せいっぱいの旦那様が、飼い殺しにするために娶った嫌われ者の我儘王女になんのご用なのかしら?」
前世社畜としてもドロレスとしても、彼とは離縁するのが一番良いと思う。
でも彼は離縁を受け入れないだろう。
愛も無い嫉妬も無い執着も無い。だけど正当な血筋の王女がだれかの子どもを産めば、忠誠を捧げたアストゥト王太子の玉座への道が揺らぐ。だからヒメネス侯爵イスマエルは絶対にドロレス王女を離さない。
王太子の忠臣の瞳が驚愕に見開かれる。
「飼い殺し……」
「そうでしょう? 私、言われているほど愚か者ではないのよ。周囲に愚か者と侮られることでしか生き残れなかっただけだわ」
少し喋り過ぎた。
言葉を選んだのは前世社畜なのかドロレスなのか。
私はだれなの、なんて記憶喪失か中二病くらいしか口にしない言葉だ。
「……君は、だれだ?」
「え?」
「昼間のときから違和感を覚えていた。陽光を月光を反射して虹色に光る美しい真珠色の髪は確かにドロレス王女のものだが、私を見る瞳が違う」
私はイスマエルを見つめた。胸の奥がざわめく。
この髪が美しいと、貴方は言うのね。
だけどざわめきは一瞬で静まった。
「そうよ。私はドロレス王女ではないわ。だれとも知れない悪霊よ」
「っ?」
イスマエルが息を呑む。
嘘は言っていない。私が前世社畜の悪霊だったとしたら、自分の名前も思い出せないでいるのだから。
彼の瞳に私が映っている。
先ほど言われた通り、私の髪は月光を浴びて虹色に煌めいていた。
海を知らない人魚だ。
私が木登りを好きなのは、高いところにいれば海からの風を感じられるかもしれないと思っていたからだ。
「ドロレスは、ドロレスはどうしたんだ!」
焦った声でイスマエルが尋ねてくる。
王女の血筋は絶やさなくてはいけないが、簡単に始末することは出来ない。
父王は一応王女を溺愛しているつもりだし、ドロレスが死んで一番に疑われるのは異母兄アストゥトだからだ。ましてや彼の忠臣のところで死んだとなれば、平民の恋人との関係を引き裂いてまでの略奪婚も策略の末だったと気づかれかねない。
「彼女は死んだの。……貴方が殺したのよ」
「ドロレスが、死んだ?」
「ふふ」
なにもかもが急に莫迦莫迦しく感じられて、私は笑みを漏らした。
これは夢かもしれない。社畜は頭を打っても死んでなくて、妙な夢を見ているだけのかもしれない。あるいはドロレスが、現実逃避でべつの人格を創り出しただけなのかもしれない。
どちらにしろ眠って目覚めれば終わるだろう。
「冗談よ、旦那様。貴方を見る私の瞳が変わったのだとしたら、それはきっと飽きたせい」
「飽きた?」
「そう、愛妾に夢中な旦那様に執着する愚かな侯爵夫人を演じるのに飽きたのよ」
「ほかに好きな男が出来たということか?」
「え?」
「あのモデストとかいう男が君の新しい想い人なのか?」
イスマエルはデロタがばら撒いた莫迦げた噂をすべて信じているのだろうか。それはヒメネス侯爵としても王太子の忠臣としても情けないんじゃない?
話しているうちに眠気が戻ってきた私は、この機を逃してはいけないと感じて、彼を無視して自室へ戻った。
後数分で眠りに落ちそうな状態になっていれば、控えの間のデロタの存在もどうでも良い。
ヒメネス侯爵家の女主人の部屋で熟睡して、翌朝眠りから覚めた私は、なんか昨夜は芝居がかった会話をしてしまったなあ、と自己嫌悪に陥った。
ああいう会話に抵抗を感じるのは、私が前世社畜だからなのかもしれない。
悪霊なのか、ドロレスがいなくなったのか、三十年間の追体験のせいでドロレスが変わってしまったのかはわからないけれど、とりあえず私は生きていく。
前世の社畜は木登りが出来なかった。
だから私はドロレス! と言いたいところなのだけれど、体が木登りの仕方を覚えていただけかもしれない。
木の上で眠っているのは、前世社畜の意識が出来なかった木登りをしてみたいと思ったのと、恨みがましい目で見てくるデロタが控えの間にいる寝室で眠る気になれなかったからである。
寝室は女主人のためのひとり部屋だ。
ヒメネス侯爵家の夫婦寝室には初夜以降一度も入っていない。デスピアダは離れで暮らしていて、三日に一度くらいイスマエルが通っているらしい。やっぱりデスピアダが二股かけてるのかな?
眠っているというより、私はウトウトしているのだった。
寝つきが悪いのは前世社畜の意識が主体だからなのだろうか。
もし今の私が悪霊で、いつかドロレスの意思が戻って来たとしたら、彼女は私の選択をどう思うのだろう。ぼんやりと考えながら眠りに落ちかけたとき──
「……ドロレス……」
イスマエルの声がして、私は木から落ちた。
「す、すまない。驚かせてしまったようだな。体は大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」
ウトウトも消え去って、完全に眠りから覚める。
このままでは朝まで眠れない。
前世社畜としても覚えがあるし、ドロレスとしても……王宮でもヒメネス侯爵家に嫁いでからも眠れぬ夜を何度も過ごしていた。
「待望の愛妾を迎え入れて幸せいっぱいの旦那様が、飼い殺しにするために娶った嫌われ者の我儘王女になんのご用なのかしら?」
前世社畜としてもドロレスとしても、彼とは離縁するのが一番良いと思う。
でも彼は離縁を受け入れないだろう。
愛も無い嫉妬も無い執着も無い。だけど正当な血筋の王女がだれかの子どもを産めば、忠誠を捧げたアストゥト王太子の玉座への道が揺らぐ。だからヒメネス侯爵イスマエルは絶対にドロレス王女を離さない。
王太子の忠臣の瞳が驚愕に見開かれる。
「飼い殺し……」
「そうでしょう? 私、言われているほど愚か者ではないのよ。周囲に愚か者と侮られることでしか生き残れなかっただけだわ」
少し喋り過ぎた。
言葉を選んだのは前世社畜なのかドロレスなのか。
私はだれなの、なんて記憶喪失か中二病くらいしか口にしない言葉だ。
「……君は、だれだ?」
「え?」
「昼間のときから違和感を覚えていた。陽光を月光を反射して虹色に光る美しい真珠色の髪は確かにドロレス王女のものだが、私を見る瞳が違う」
私はイスマエルを見つめた。胸の奥がざわめく。
この髪が美しいと、貴方は言うのね。
だけどざわめきは一瞬で静まった。
「そうよ。私はドロレス王女ではないわ。だれとも知れない悪霊よ」
「っ?」
イスマエルが息を呑む。
嘘は言っていない。私が前世社畜の悪霊だったとしたら、自分の名前も思い出せないでいるのだから。
彼の瞳に私が映っている。
先ほど言われた通り、私の髪は月光を浴びて虹色に煌めいていた。
海を知らない人魚だ。
私が木登りを好きなのは、高いところにいれば海からの風を感じられるかもしれないと思っていたからだ。
「ドロレスは、ドロレスはどうしたんだ!」
焦った声でイスマエルが尋ねてくる。
王女の血筋は絶やさなくてはいけないが、簡単に始末することは出来ない。
父王は一応王女を溺愛しているつもりだし、ドロレスが死んで一番に疑われるのは異母兄アストゥトだからだ。ましてや彼の忠臣のところで死んだとなれば、平民の恋人との関係を引き裂いてまでの略奪婚も策略の末だったと気づかれかねない。
「彼女は死んだの。……貴方が殺したのよ」
「ドロレスが、死んだ?」
「ふふ」
なにもかもが急に莫迦莫迦しく感じられて、私は笑みを漏らした。
これは夢かもしれない。社畜は頭を打っても死んでなくて、妙な夢を見ているだけのかもしれない。あるいはドロレスが、現実逃避でべつの人格を創り出しただけなのかもしれない。
どちらにしろ眠って目覚めれば終わるだろう。
「冗談よ、旦那様。貴方を見る私の瞳が変わったのだとしたら、それはきっと飽きたせい」
「飽きた?」
「そう、愛妾に夢中な旦那様に執着する愚かな侯爵夫人を演じるのに飽きたのよ」
「ほかに好きな男が出来たということか?」
「え?」
「あのモデストとかいう男が君の新しい想い人なのか?」
イスマエルはデロタがばら撒いた莫迦げた噂をすべて信じているのだろうか。それはヒメネス侯爵としても王太子の忠臣としても情けないんじゃない?
話しているうちに眠気が戻ってきた私は、この機を逃してはいけないと感じて、彼を無視して自室へ戻った。
後数分で眠りに落ちそうな状態になっていれば、控えの間のデロタの存在もどうでも良い。
ヒメネス侯爵家の女主人の部屋で熟睡して、翌朝眠りから覚めた私は、なんか昨夜は芝居がかった会話をしてしまったなあ、と自己嫌悪に陥った。
ああいう会話に抵抗を感じるのは、私が前世社畜だからなのかもしれない。
悪霊なのか、ドロレスがいなくなったのか、三十年間の追体験のせいでドロレスが変わってしまったのかはわからないけれど、とりあえず私は生きていく。
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