お見合い相手が改心しない!

豆狸

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第一章 狐とウサギのラブゲーム?

9・風が吹けば狐が儲ける?⑦

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「あなた、だれ? いきなり……」

 わたしを睨みつける彼女の頭には、もう角のような黒い影はない。
 それからふと、不思議そうな顔になる。

「なんだか体が軽い。頭もすっきりして……久しぶりだわ」

 彼女が愛しげに撫でた腕に絡みついていた、黒い影の鎖もなかった。
 でも──実体のある本物の銀の刃は今も地面に転がっている。
 目的はわからないものの、彼女に持たせていてはいけない気がした。
 体を起こしながら、こっそり刃物に手を伸ばす。
 冷たい金属の感触を指先に感じたとき、

「どうしたんです、璃々さん。……ああ」
「……信吾さん」

 やって来た狐塚さんを見て、彼女は顔色を曇らせた。

「あの節は……申し訳ありませんでした」
「父は気にしていませんよ、千羽さん。あなたが壊した作品の数なんて、父が壊した数の足元にも及びません。母も心配しています。気にしないで帰ってきてくださいね」
「そんな、私は釉薬も……」

 この人が狐塚さんのお父さんの押しかけ弟子だった人らしい。
 センバさん、でいいのかしら。
 わたしや狐塚さんよりも少し年上みたい。二十代の半ばかな。
 彼女は黒い影がなくなった今も、不安げな顔で自分の腕をいじり続けている。
 黒い影が流れ込んだときに感じたのは罪悪感。
 あの腕で狐塚さんのお父さんの作品を壊してしまったのだろうか。

 ……頭が重い。
 顔が熱い。
 体が怠い。

 これは狐さんに触っても、すぐには回復しないかも。
 思いながら、辺りを見回す。
 秋空に響き渡る獣の咆哮。
 ここは肉食獣のエリアだった。
 ちょうど狐の獣舎の前。幸いにも梨里ちゃんたちの姿はなかった。良かった良かった。
 こっそりと刃物を拾って、豆田少年にもらったお弁当と一緒のバッグに隠す。
 細い果物ナイフだが、切れ味は良さそうだった。
 センバさんの黒い影が流れ込んできたとき感じたのは、罪悪感と殺意。
 鋭い刃の感触が殺意を思い出させて、吐き気がする。

「璃々さん、大丈夫ですか?」
「信吾さんの恋人さん?」
「はい。結婚を前提におつき合いさせていただいている、兎々村璃々さんです。璃々さん、こちらは父の弟子の千羽美鶴さん。千羽の美しい鶴とお書きになるんですよ」
「……素敵なお名前ですね」

 ふむふむ、千羽さんか。
 千羽さんはわたしの言葉に、口の中だけで小さくありがとうと言って俯いた。
 彼女の腕にまた、黒い影が絡みついていく。
 さっきのものよりは薄く、影というより霧なのだけど、どうやらこれは彼女自身が生み出しているらしい。どんなに消してもなくなりそうにない。

「璃々さん、急に走り出してどうしたんですか?」

 わかっているくせに聞いてくる狐塚さんに、わたしは前の狐の獣舎を指差してみせた。

「……狐、好きなんです。だから早く見たくて。ごめんなさい、今日は朝から体調が悪かったのに無理をして。千羽さんもぶつかってしまってすみませんでした。痛いところはないですか?」
「私は大丈夫です。失礼ですけど兎々村さん、すごく顔色が悪いです。無理なさらず、今日はお帰りになったほうが……」

 わたしを案じることで一時的に罪悪感を忘れたのか、千羽さんの腕の霧が薄まる。
 頷いたわたしを狐塚さんが後ろから支えて立たせてくれた。
 頭上の狐さんが腕か尻尾で触れてくれたらしく、ほんの少し楽になる。
 足元はまだふらついているけどね。
 それに……狐塚さんはさっきの元気なわたしを見ている。
 朝から体調が悪かったなんて言ったところで、わたしの体調不良の原因には気づいているだろう。

 ……どうしたらいいのかな。

 このままでは千羽さんはまた、生死に関わる黒い影に覆われてしまう。
 わたしは、狐塚さんに謝りながら立ち上がっていく彼女を見つめた。
 手にしたバッグは側面が破れている。
 わたしが拾って自分のバッグに隠している果物ナイフは、おそらくそこに入っていたのだろう。
 鋭い刃がバッグを切り裂いて、勝手に飛び出してきたのだ。
 彼女はこれをなにに使うつもりだったんだろう。
 またしても殺意が蘇って、わたしは両手で口を押さえた。……吐きそう。

「あらイヤだ。もうとっくに順路を辿って出て行ったと思ったのに、まだいらしたの?」

 ……なんでこんなときに鹿川さんまで来るの。

 狐塚さんにつかまって、背後から聞こえた声に向けて振り返る。
 鹿川さんの隣に立つ理角さんが、メガネを動かして陽光を反射させた。

「狐塚くん、そちらのお嬢さんの調子が悪いようだね。もしかしておめでたかい、ハハハ」
「だったら嬉しいですが違いますよ。僕はどこかのだれかさんと違って、女性と見ればすぐに情欲の対象にするような男ではありません。愛しているからこそ、大切にするのが当たり前でしょう?」

 黒い霧に覆われていても、狐塚さんの言葉を聞いた鹿川さんが表情を変えるのがわかった。
 なんかこう……顔を覆う黒い霧が動いて歪んだのだ。
 彼女の両親は離婚していた。
 原因は父親の浮気だったという。

「ははは、では父親はべつの男性かな?」
「……面白い冗談をおっしゃいますね」

 鹿川さんに挨拶するのを諦めて、わたしは狐塚さんの肩に頭を預けた。
 気持ち悪い。
 吐き気がどんどん強まっていく。……吐き気?
 わたしは振り向いた。
 千羽さんの頭に黒い影の角が蘇っている。
 彼女はこちらを睨みながら、バッグに手を入れていた。

「おや、ほかにもだれか……美鶴、どうして……」

 わたしと狐塚さんの背後を覗き込んで、斬新メガネの理角が顔色を変える。
 斬新なのはメガネではなく服のほうです、念のため。
 彼を睨みながらバッグの中を探っていた千羽さんが、悔しそうに唇を噛んだ。
 刃物がないことに気づいたらしい。
 消したつもりでいたけれど、吸い取った黒い影は彼女とつながっているようだ。
 千羽さんの頭の角が鋭く大きくなればなるほど、わたしの吐き気が強くなる。
 わたしは狐塚さんのスーツの袖をつかんでいた手を離した。
 足にはもう、体を支える力がない。
 狐さんが触ってくれても、きっとこれが限界。

「大丈夫ですか?」

 いきなりしゃがんで倒れ込んだわたしを後ろにいた千羽さんが支えてくれる。

「あ、ありがとうございます。すいません、ご迷惑をおかけして」
「体調がお悪いんだから仕方ないですよ」

 千羽さんは、良い人なんじゃないかな。
 頭は燃え上がりそうに熱いのに、指先は冷たく硬かった。
 その手を伸ばして、支えてくれている彼女に触れる。
 角と鎖が薄れていって、代わりにわたしの吐き気と頭痛がひどくなっていく。

「信吾、さん……」

 霞んでいく視界の中の狐塚さんに呼びかけると、彼はわたしを抱き上げてくれた。
 鹿川さんの声が聞こえる。

「あ、あなた本当に大病ですの? もしかして……死ぬの?」
「死なせませんよ。ですが、璃々さんが死に至る病気だろうとただの体調不良だろうと関係ありません。彼女を侮辱した先ほどの悪趣味な冗談、僕は忘れませんからね。……千羽さん、僕の車で病院まで連れて行きます。申し訳ありませんが手伝っていただけますか?」
「あ、はい。私で良ければ」
「ちょっと待て、美鶴」
「……」
「知り合いなの、理角さん。美鶴さんってもしかして、千羽美鶴?」

 そんな会話を聞きながら、わたしは意識を手放した。
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