この幻が消えるまで

豆狸

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 私を見つけると、彼女の顔に期待が満ちる。
 名前を呼ぶと満面に笑みを浮かべ、気づかない振りをすると悲しみに沈む。
 そんな彼女の表情の変化が、私にはとても嬉しかった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 メプリと出会ったのは魔術学園最終学年の春、花祭りの夜だった。
 踊りの輪にいたメプリはだれよりも輝いて見えて、私は一目で虜になった。
 向こうも同じ気持ちだったようで、私達はその夜のうちに結ばれた。私はメプリのため下町に家を購入した。緑色の屋根の小さな家を、メプリはとても喜んでくれた。

 当時私には婚約者がいた。
 親同士が決めた政略結婚の相手だ。
 私にはそれ以上の意味はなかったけれど、彼女にとっては違ったようだ。ルグラン公爵令嬢クレールは、私のことを愛していた。おそらく初めて会ったときからだ。

 そのせいか、彼女はすぐに私の浮気に気づいた。
 幸いなことに、彼女は私の浮気相手が学園の生徒だと思い込んでいた。
 同級生や先輩後輩を疑い問いただす彼女は、次第に孤立していった。私がメプリと出会って数ヶ月が過ぎたある日の放課後、彼女に付き纏われて私は言った。

「君は自分が周りにどう見られているのかわかっているのかい? 幻に悋気を妬く頭のおかしい公爵令嬢だよ?」

 言葉をもっと選ぶべきだったと気づいたのは、口に出した後だった。
 好奇心に満ちた瞳で見つめていた周囲から吹き出す声が聞こえた。抑えてはいるものの聞こえているのをわかった上で漏らす笑い声が彼女を包んだ。やり手の公爵家は無能な貴族達に妬まれている。
 クレールの顔から表情が消えた。

 最近彼女の笑顔を見ていない、とふと思った。
 ドレスやアクセサリーはちゃんと贈っているのに、クレールは夜会に出てこない。どうしてなのかと尋ねても、どこか諦めたような顔で言葉を濁すだけだ。
 アクセサリーをいくつか多めに注文して従者に引き取りに行かせ、余分なものを売ってメプリの生活費に変えていることに気づいているのかもしれない。自分に贈られるもののほうがついでなのだと。

「お嬢様!」

 彼女の護衛騎士が駆け寄って来て、人形のように固まってしまった彼女を連れて行った。
 謝罪の手紙を送るべきかと悩みながら従者と馬車に乗った私は、緑色の屋根の小さな家に着くと、そのことを忘れてしまった。今日はメプリに会いに行く日だったので、どうしてもクレールに時間を取られたくなかったのだ。
 クレールは、翌日から魔術学園に来なくなった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 クレールは、王太子である私の婚約者として教育や公務で通っていた王宮へも来なくなった。
 彼女の父親で宰相であるルグラン公爵の姿も見かけなくなった。
 その分の仕事が私に回って来たのか、しばらくすると酷く忙しくなってきて、私はメプリのところへ行けなくなった。それでも従者に頼んで、手紙と生活費を届けさせていた。離れていても私達はつながっているのだと思っていた。

 一ヶ月ほどで仕事が落ち着いて、私は久しぶりに魔術学園に登校した。
 教室にクレールの姿はなかった。
 いや、彼女以外の生徒も減っていた。魔術学園に通う貴族の子女は裕福な家の出だけではない。資金繰りが上手く行かなくなり、子どもを学園に通わせる余裕もなくなった家が増えているようだった。

 教室にはいなかったものの、クレールは学園には登校していた。
 王太子の婚約者として幼いころから王宮で学んでいた彼女は、授業を受けなくても問題ないだけの知識と教養を身に着けている。登校さえしていれば卒業に問題はないようだ。
 昼休み、私は図書室の禁書庫にいるという彼女に会いに行った。会いに行ってどうするのか、なにを言えばいいのかは考えていなかった。

「……なにを読んでいるんだい?」

 埃だらけの禁書庫で床に座り込んで、制服が汚れるのも気にせず本を読んでいたクレールは顔も上げずに答えた。

「古い幻術の本です。……幻に悋気を妬くような頭のおかしい公爵令嬢が王太子殿下の妻になるわけにはいきませんので」

 自分が悪いのも忘れて、私はカッとなった。
 恥ずかしい話だが、私はクレールに疲れを癒してほしかったのだ。
 花祭りでメプリと出会う前、魔術学園に入学して新しい世界を知る前、社交界にデビューして華やかな令嬢達と出会う前──王宮での教育と公務、お互いの家でのお茶会がすべてだった幼いころのように、アンリ殿下は頑張っていらっしゃいます、私の自慢の婚約者様です、と微笑んでほしかったのだ。

「そうだな。君は一ヶ月以上教育も公務もおこなっていない。これでは婚約が解消になっても仕方がないね」
「え」

 本から顔を上げたクレールの瞳は期待に満ちていた。

「婚約が解消になったんですか?」
「……そうなるかもしれないという話だよ」
「そうですか……」

 悲しみに沈んだ顔で、彼女は視線を本に戻した。
 名前を呼んでも気付かれない気がして、私は無言でその場を去った。
 その日の授業が終わって教室を出るとき、私は思い出した。放課後メプリのところへ通い出す前は、クレールと同じ馬車で帰っていたことを。あの日の彼女は私に付き纏っていたのではない。いつものように帰宅を誘いに来ただけだった。後ろめたいことのある私が、勝手に興奮して暴言を吐いただけだったのだ。
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