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二日目 雨の記憶
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夢の中で雨が降っていました。
目覚めていたときの記憶を辿ります。
最近雨が降ったのは学園の卒業パーティがあった日の夜だったと聞いています。開催場所の学園の講堂から馬車で戻った侯爵親娘が、王都のビーヘル侯爵邸へ入ろうとした瞬間に土砂降りになったのだそうです。
雨が降り出したときのことは思い出せませんが、窓を濡らす雨がその夜のものだということはなぜかわかりました。
私はとても弾んだ気持ちで窓の外を見ています。
この日に心が弾んでいるということは、私は異母姉ハリエットから第二王子ルドフィクス殿下を略奪したフルーフだったのでしょうか。
……わかりません。
わかるのは、私の心が弾んでいるということだけです。
どうしてこんなに嬉しいのでしょう。幸せな気持ちになっているのでしょう。だれかを愛おしく思っているのでしょう。その人物がだれなのかもわからないのに。
私の部屋は侯爵邸の二階にありました。
長女ハリエットの部屋も次女フルーフの部屋も、父であるビーヘル侯爵の部屋も館の二階にあるのです。
今寝泊まりしている客間もそうです。
私は雨に濡れた窓の向こうの花畑を飽くことなく見つめていました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ビーヘル侯爵家の長女ハリエットは、今は亡き侯爵と政略結婚で結ばれた正妻の産んだ娘です。
十二歳で第二王子ルドフィクス殿下の婚約者になった彼女は、彼を婿に迎えて侯爵家を継ぐ予定でした。
ハリエットの母親は、彼女が十六歳のときに睡眠薬の飲み過ぎで亡くなっています。正妻が睡眠薬を飲むようになったのは気鬱の病で眠れなかったからでした。
亡き侯爵は正妻を愛さず、ハリエットが彼女のお腹にいるときに愛人を作ったのです。
それが次女フルーフの母親でした。
フルーフを身籠った愛人は自主的に姿を消したのですが、亡き侯爵は正妻が殺したか追い払ったかしたのだと責め立てて、正妻とハリエットに冷たく当たっていました。仕事以外で侯爵邸へ戻ることはなく、彼はフルーフ親娘の行方を探すことに人生の大半を注ぎ込んでいました。そんな状態だったのですから正妻が気鬱の病になるのも当然でしょう。
ずっと見つからなかったフルーフは、ハリエットが学園へ入学する十五歳の年に、母親が亡くなって身寄りがいなくなったといって、王都の侯爵邸へ現れました。
愛人そっくりの顔立ちに、自分と同じ紅玉のように光り輝く赤い髪。
亡き侯爵は喜んで彼女を迎え入れ、学園にも通わせたのです。
その結果正妻が亡くなろうとも、彼は少しも気にしませんでした。
遠方にある正妻の実家はそのときちょうど領地が自然災害に襲われていて、侯爵を叱責する余裕がなかったと言います。
そろそろ自然災害の後遺症から立ち直ろうとしているという話ですが、遠方のためハリエットが婚約破棄されたという報告が伝わるのも、それへの対応を講じるのも、まだ先のこととなるでしょう。
侯爵邸で暮らし、学園に通うようになったフルーフは、その明るく無邪気な性格で周囲を魅了しました。
ハリエットは明るくなく無邪気でもなかったのです。
母親が父親にそんな扱いを受けていて、婿入り予定とはいえ王子の婚約者として厳しい教育を受けていたら、明るく無邪気に振る舞えないのは当然のような気もします。
私がどちらの侯爵令嬢なのかは、一晩眠っても思い出せませんでした。
昨夜の夢を紙に記して渡すと、ビーヘル侯爵家の主治医は困惑した表情で首を傾げました。
「卒業パーティの夜に心が弾んでいたということは、貴方はフルーフお嬢様なのでしょうかね?」
「いいえ!」
侍女が首を横に振ります。
「先生、この紙の字をご覧になってください。この筆跡はハリエットお嬢様のもので間違いありません」
「ふむ。そう言われればそうかもしれませんな」
ハリエットかフルーフかわからない今の私は、侯爵令嬢達本来の部屋ではなく客間で過ごしています。
一早く火災に気づいた老庭師がほかの使用人を起こして消火活動に当たってくれたので、父の執務室周辺以外は延焼を免れたのです。
父の執務室も改修が進んでいます。
世話をしてくれているのはハリエットの専属侍女です。
彼女は私がハリエットだと確信しているようです。
幼いころから一緒だったというので深い絆があるのでしょう。
私は自分がハリエットだとは確信していません。
自分がだれなのか考えることもあるけれど、深く悩んではいません。
七日経って顔が治ったらわかることですもの。幻影魔法で赤い髪を真似ても結界で解かれてしまうように、顔を偽ることも出来ません。お家乗っ取りをされないよう、見かけを偽る類の魔法は結界が解いてくれるのです。
自分のことなのに思い悩んでいないのは、記憶がないからでしょう。
苦しみや悲しみは過去の記憶に由来します。
記憶のない今の私には未来への希望しかないのです。……ハリエットにしろフルーフにしろ、あまり楽しい状況ではなさそうなのは理解していますけれどね。
目覚めていたときの記憶を辿ります。
最近雨が降ったのは学園の卒業パーティがあった日の夜だったと聞いています。開催場所の学園の講堂から馬車で戻った侯爵親娘が、王都のビーヘル侯爵邸へ入ろうとした瞬間に土砂降りになったのだそうです。
雨が降り出したときのことは思い出せませんが、窓を濡らす雨がその夜のものだということはなぜかわかりました。
私はとても弾んだ気持ちで窓の外を見ています。
この日に心が弾んでいるということは、私は異母姉ハリエットから第二王子ルドフィクス殿下を略奪したフルーフだったのでしょうか。
……わかりません。
わかるのは、私の心が弾んでいるということだけです。
どうしてこんなに嬉しいのでしょう。幸せな気持ちになっているのでしょう。だれかを愛おしく思っているのでしょう。その人物がだれなのかもわからないのに。
私の部屋は侯爵邸の二階にありました。
長女ハリエットの部屋も次女フルーフの部屋も、父であるビーヘル侯爵の部屋も館の二階にあるのです。
今寝泊まりしている客間もそうです。
私は雨に濡れた窓の向こうの花畑を飽くことなく見つめていました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ビーヘル侯爵家の長女ハリエットは、今は亡き侯爵と政略結婚で結ばれた正妻の産んだ娘です。
十二歳で第二王子ルドフィクス殿下の婚約者になった彼女は、彼を婿に迎えて侯爵家を継ぐ予定でした。
ハリエットの母親は、彼女が十六歳のときに睡眠薬の飲み過ぎで亡くなっています。正妻が睡眠薬を飲むようになったのは気鬱の病で眠れなかったからでした。
亡き侯爵は正妻を愛さず、ハリエットが彼女のお腹にいるときに愛人を作ったのです。
それが次女フルーフの母親でした。
フルーフを身籠った愛人は自主的に姿を消したのですが、亡き侯爵は正妻が殺したか追い払ったかしたのだと責め立てて、正妻とハリエットに冷たく当たっていました。仕事以外で侯爵邸へ戻ることはなく、彼はフルーフ親娘の行方を探すことに人生の大半を注ぎ込んでいました。そんな状態だったのですから正妻が気鬱の病になるのも当然でしょう。
ずっと見つからなかったフルーフは、ハリエットが学園へ入学する十五歳の年に、母親が亡くなって身寄りがいなくなったといって、王都の侯爵邸へ現れました。
愛人そっくりの顔立ちに、自分と同じ紅玉のように光り輝く赤い髪。
亡き侯爵は喜んで彼女を迎え入れ、学園にも通わせたのです。
その結果正妻が亡くなろうとも、彼は少しも気にしませんでした。
遠方にある正妻の実家はそのときちょうど領地が自然災害に襲われていて、侯爵を叱責する余裕がなかったと言います。
そろそろ自然災害の後遺症から立ち直ろうとしているという話ですが、遠方のためハリエットが婚約破棄されたという報告が伝わるのも、それへの対応を講じるのも、まだ先のこととなるでしょう。
侯爵邸で暮らし、学園に通うようになったフルーフは、その明るく無邪気な性格で周囲を魅了しました。
ハリエットは明るくなく無邪気でもなかったのです。
母親が父親にそんな扱いを受けていて、婿入り予定とはいえ王子の婚約者として厳しい教育を受けていたら、明るく無邪気に振る舞えないのは当然のような気もします。
私がどちらの侯爵令嬢なのかは、一晩眠っても思い出せませんでした。
昨夜の夢を紙に記して渡すと、ビーヘル侯爵家の主治医は困惑した表情で首を傾げました。
「卒業パーティの夜に心が弾んでいたということは、貴方はフルーフお嬢様なのでしょうかね?」
「いいえ!」
侍女が首を横に振ります。
「先生、この紙の字をご覧になってください。この筆跡はハリエットお嬢様のもので間違いありません」
「ふむ。そう言われればそうかもしれませんな」
ハリエットかフルーフかわからない今の私は、侯爵令嬢達本来の部屋ではなく客間で過ごしています。
一早く火災に気づいた老庭師がほかの使用人を起こして消火活動に当たってくれたので、父の執務室周辺以外は延焼を免れたのです。
父の執務室も改修が進んでいます。
世話をしてくれているのはハリエットの専属侍女です。
彼女は私がハリエットだと確信しているようです。
幼いころから一緒だったというので深い絆があるのでしょう。
私は自分がハリエットだとは確信していません。
自分がだれなのか考えることもあるけれど、深く悩んではいません。
七日経って顔が治ったらわかることですもの。幻影魔法で赤い髪を真似ても結界で解かれてしまうように、顔を偽ることも出来ません。お家乗っ取りをされないよう、見かけを偽る類の魔法は結界が解いてくれるのです。
自分のことなのに思い悩んでいないのは、記憶がないからでしょう。
苦しみや悲しみは過去の記憶に由来します。
記憶のない今の私には未来への希望しかないのです。……ハリエットにしろフルーフにしろ、あまり楽しい状況ではなさそうなのは理解していますけれどね。
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