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その日 一年後
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笑顔でアルドと別れた夜に、泣いて泣いて泣いて、私は記憶を取り戻しました。
アルドがいなくなった悲しみだけでなく、仮面を外して鏡で自分の顔を確認したのも記憶が戻った原因のひとつかもしれません。
父が亡くなった時点で私がビーヘル侯爵家の当主でしたので、記憶が戻ったのはありがたいことでした。もし記憶が戻っていなかったら、貴族家の運営方法を一から学ばなくてはいけません。
新当主としてビーヘル侯爵家の運営に四苦八苦しているうちに、季節は移り変わっていきました。
侍女のリアを始めとする使用人達が支えてくれなかったら、記憶が戻っただけでは頑張れなかったかもしれません。遠方にある母の実家もやっと自然災害の後遺症から立ち直って、いろいろと助けてくれました。
私を支えてくれた人の中には老庭師もいます。彼は本格的に王家の影を引退して、庭師専門になってくれたのです。おかげで中庭の花畑ではいつも旬の花々が咲き乱れて、私の心を慰めてくれています。
書類をまとめていた手を休めて、私は机の端に置いていた膨らんだ日記帳を手に取りました。
新当主ですので、私がいるのは父も使っていた執務室(改修済み)です。
正直記憶が戻っても父の顔は思い出せません。フルーフがやって来るまで、父は王都の侯爵邸へはほとんど戻って来ませんでしたからね。彼女に反撃してくれたことについては感謝していますが、それだけです。
第二王子ルドフィクス殿下の新しい婿入り先はまだ見つかっていません。
ご自分で家を興すという話もあるようですけれど、それはそれで奥方候補が見つからないそうです。
私との婚約破棄のことが貴族女性に彼との結婚を躊躇わせているのでしょう。まあしょうがないですよね。
私は日記帳を開きました。
今使っているものではありません。記憶を失う前の私が使っていたものです。
膨らんでいるのは押し花を貼っているからです。
記憶の戻った私は押し花を貼った頁に文字がなくても、そこに籠もった自分の想いを思い出せるようになりました。
この花はアルドにもらったのです。
もちろん直接渡されたわけではありません。私は第二王子殿下の婚約者で、彼はそんな私を護衛する役目の王家の影なのですもの。
父に愛されず、母を喪い、婚約者の第二王子殿下には最初から疎まれている上に異母妹ということになっていたフルーフに彼を奪われて──当時の私はヒビの入った器のようなものでした。
ほんのちょっとの刺激で粉々になっていたのではないでしょうか。
そんな私を支えてくれたのはリアを始めとする使用人達と、アルドのくれる花でした。
風に飛ばされたかのように、鳥に運ばれたかのように、私の部屋の窓枠に置かれた花が私を癒してくれたのです。
二階にある私の部屋の窓枠に置くことが出来たのは、アルドが部屋の横に生えた木の剪定を任されていたからです。
やがて花の贈り主に気づいて、私は彼に恋をしました。彼が王家の影だということは、それよりも前に気づいていました。いざというときに彼らが護衛しやすいように匂わされていたのです。
搾り汁で色粉を作れる花をもらったのは、学園で第二王子殿下に、侯爵邸で父にフルーフを虐めていると決めつけられて叱責された後でした。
アルドは私の部屋の窓の下で花壇を手入れしながら大声で、花の使い方を呟いてくれたのです。リアも彼の正体や花の贈り主に気づいていたらしく、もう少し上手く伝えられるでしょうに、と呆れ顔でしたっけ。
お忍びで買い物に行ったときは、警備の人間だけでなくアルドも陰から護衛してくれていました。
「はい」
扉を叩く音がして、私は日記帳を閉じて立ち上がりました。
廊下からリアの声が聞こえます。
「ハリエット様、そろそろ魔法研究所の新しい所長様がいらっしゃるころです」
デヨング子爵が殺人、殺人教唆、他家の乗っ取りの罪で処刑されたので、魔法研究所の所長が変わりました。
相変わらず王家の影のまとめ役でもあるようですが、それは知っていても知らない振りをするのが貴族家当主の嗜みです。
新しい所長は私よりいつつ年上で、まだお若いのにたった一年で所長の座を射止めるほどの実力の持ち主です。
魔法研究所の所長になると、貴族家の当主なら陞爵され、平民や跡取り以外の貴族子息なら爵位を与えられ家を興すことを許されます。
……デヨング子爵は成人後お爺様にビーヘル侯爵家から追い出されて、自力で所長となり領地のない子爵位を得ました。
やったことは許されないものの、我が家を恨む気持ちは少しだけ理解出来ます。とはいえ、デヨング子爵が所長となったのは私が第二王子殿下の婚約者になった後で、王族の婚約者の親族として下駄を履かせてもらった部分もあったのだと思います。
私は執務室を出て、リアと一緒に応接室へ向かいました。
「彼は史上最年少の所長になるのだそうね」
「一年で所長様にまで登り詰めたのは大したものですよ。ただ領地のない男爵位というのがねえ。王子様の婚約者だったハリエット様の婿に立候補するのですから、同じ領地なしでも伯爵位くらいは授かっておいて欲しかったものです」
「あまり厳しいことを言わないで、リア。そんなことを言っていたら、私の婿になってくれる方がいらっしゃらなくなってしまうわ」
「ハリエット様はあの方に甘いですからねえ。リアがどんなにハリエット様だと言っても受け入れてくださらなかったのに、あの方に言われた途端……」
「それは……悪かったと思っています」
アルドと会うのは一年ぶりです。
魔法研究所の所長となって爵位を得たのは、私の婿に立候補してくれたのは、私を愛してくれているからだと期待しても良いのでしょうか。
あの夜、彼が炎に包まれた執務室周辺まで入って、倒れていた私を火の気のない玄関まで運んでくれたのだと老庭師に教えてもらいました。デヨング子爵を捕縛するまで侯爵邸から離れていたのは、そのときに負った火傷の治療をしていたからだったのだとも。
「……好きでもない女の子に花を贈る男なんていないと思いますけどね……」
「え? リア、なにか言った?」
「いいえ、なにも。所長様がいらしたときにお出しするお茶はなににいたしますか?」
「そうねえ……」
一年前に雨の夢を見たときのように、私の心は弾んでいました。
アルドがいなくなった悲しみだけでなく、仮面を外して鏡で自分の顔を確認したのも記憶が戻った原因のひとつかもしれません。
父が亡くなった時点で私がビーヘル侯爵家の当主でしたので、記憶が戻ったのはありがたいことでした。もし記憶が戻っていなかったら、貴族家の運営方法を一から学ばなくてはいけません。
新当主としてビーヘル侯爵家の運営に四苦八苦しているうちに、季節は移り変わっていきました。
侍女のリアを始めとする使用人達が支えてくれなかったら、記憶が戻っただけでは頑張れなかったかもしれません。遠方にある母の実家もやっと自然災害の後遺症から立ち直って、いろいろと助けてくれました。
私を支えてくれた人の中には老庭師もいます。彼は本格的に王家の影を引退して、庭師専門になってくれたのです。おかげで中庭の花畑ではいつも旬の花々が咲き乱れて、私の心を慰めてくれています。
書類をまとめていた手を休めて、私は机の端に置いていた膨らんだ日記帳を手に取りました。
新当主ですので、私がいるのは父も使っていた執務室(改修済み)です。
正直記憶が戻っても父の顔は思い出せません。フルーフがやって来るまで、父は王都の侯爵邸へはほとんど戻って来ませんでしたからね。彼女に反撃してくれたことについては感謝していますが、それだけです。
第二王子ルドフィクス殿下の新しい婿入り先はまだ見つかっていません。
ご自分で家を興すという話もあるようですけれど、それはそれで奥方候補が見つからないそうです。
私との婚約破棄のことが貴族女性に彼との結婚を躊躇わせているのでしょう。まあしょうがないですよね。
私は日記帳を開きました。
今使っているものではありません。記憶を失う前の私が使っていたものです。
膨らんでいるのは押し花を貼っているからです。
記憶の戻った私は押し花を貼った頁に文字がなくても、そこに籠もった自分の想いを思い出せるようになりました。
この花はアルドにもらったのです。
もちろん直接渡されたわけではありません。私は第二王子殿下の婚約者で、彼はそんな私を護衛する役目の王家の影なのですもの。
父に愛されず、母を喪い、婚約者の第二王子殿下には最初から疎まれている上に異母妹ということになっていたフルーフに彼を奪われて──当時の私はヒビの入った器のようなものでした。
ほんのちょっとの刺激で粉々になっていたのではないでしょうか。
そんな私を支えてくれたのはリアを始めとする使用人達と、アルドのくれる花でした。
風に飛ばされたかのように、鳥に運ばれたかのように、私の部屋の窓枠に置かれた花が私を癒してくれたのです。
二階にある私の部屋の窓枠に置くことが出来たのは、アルドが部屋の横に生えた木の剪定を任されていたからです。
やがて花の贈り主に気づいて、私は彼に恋をしました。彼が王家の影だということは、それよりも前に気づいていました。いざというときに彼らが護衛しやすいように匂わされていたのです。
搾り汁で色粉を作れる花をもらったのは、学園で第二王子殿下に、侯爵邸で父にフルーフを虐めていると決めつけられて叱責された後でした。
アルドは私の部屋の窓の下で花壇を手入れしながら大声で、花の使い方を呟いてくれたのです。リアも彼の正体や花の贈り主に気づいていたらしく、もう少し上手く伝えられるでしょうに、と呆れ顔でしたっけ。
お忍びで買い物に行ったときは、警備の人間だけでなくアルドも陰から護衛してくれていました。
「はい」
扉を叩く音がして、私は日記帳を閉じて立ち上がりました。
廊下からリアの声が聞こえます。
「ハリエット様、そろそろ魔法研究所の新しい所長様がいらっしゃるころです」
デヨング子爵が殺人、殺人教唆、他家の乗っ取りの罪で処刑されたので、魔法研究所の所長が変わりました。
相変わらず王家の影のまとめ役でもあるようですが、それは知っていても知らない振りをするのが貴族家当主の嗜みです。
新しい所長は私よりいつつ年上で、まだお若いのにたった一年で所長の座を射止めるほどの実力の持ち主です。
魔法研究所の所長になると、貴族家の当主なら陞爵され、平民や跡取り以外の貴族子息なら爵位を与えられ家を興すことを許されます。
……デヨング子爵は成人後お爺様にビーヘル侯爵家から追い出されて、自力で所長となり領地のない子爵位を得ました。
やったことは許されないものの、我が家を恨む気持ちは少しだけ理解出来ます。とはいえ、デヨング子爵が所長となったのは私が第二王子殿下の婚約者になった後で、王族の婚約者の親族として下駄を履かせてもらった部分もあったのだと思います。
私は執務室を出て、リアと一緒に応接室へ向かいました。
「彼は史上最年少の所長になるのだそうね」
「一年で所長様にまで登り詰めたのは大したものですよ。ただ領地のない男爵位というのがねえ。王子様の婚約者だったハリエット様の婿に立候補するのですから、同じ領地なしでも伯爵位くらいは授かっておいて欲しかったものです」
「あまり厳しいことを言わないで、リア。そんなことを言っていたら、私の婿になってくれる方がいらっしゃらなくなってしまうわ」
「ハリエット様はあの方に甘いですからねえ。リアがどんなにハリエット様だと言っても受け入れてくださらなかったのに、あの方に言われた途端……」
「それは……悪かったと思っています」
アルドと会うのは一年ぶりです。
魔法研究所の所長となって爵位を得たのは、私の婿に立候補してくれたのは、私を愛してくれているからだと期待しても良いのでしょうか。
あの夜、彼が炎に包まれた執務室周辺まで入って、倒れていた私を火の気のない玄関まで運んでくれたのだと老庭師に教えてもらいました。デヨング子爵を捕縛するまで侯爵邸から離れていたのは、そのときに負った火傷の治療をしていたからだったのだとも。
「……好きでもない女の子に花を贈る男なんていないと思いますけどね……」
「え? リア、なにか言った?」
「いいえ、なにも。所長様がいらしたときにお出しするお茶はなににいたしますか?」
「そうねえ……」
一年前に雨の夢を見たときのように、私の心は弾んでいました。
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