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九月・十月:謎めいて
初恋の末路【欺瞞】
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若き伯爵トンマーゾは、久しぶりに夜会へ来ていた。
妻のペルデンテが亡くなって一年が経つ。
そろそろ新しい人生に踏み出せと、母が招待状をもらってきたのだ。
母はペルデンテが亡くなったことを喜んでいるのだろう。
根っから貴族夫人の母は、トンマーゾが貴族令嬢との婚約を破棄して平民のペルデンテと結ばれたことに怒りを隠さなかった。
父を早くに亡くしたトンマーゾがすでに当主になっていなかったら、どんな手段を取ってでもペルデンテとの結婚を邪魔してきたに違いない。
(ペルデンテ……)
彼女はトンマーゾの初恋の相手だった。
まだ父が健在だったころ、貴族だけが行く避暑地で出会ったのだ。
この王国の貴族は強い魔力を持つ。伝説の時代ほど優れた魔法は使えないが、子どものうちはささやかな魔法を発動させるものもいた。
(彼女もそのひとりだった)
初恋の相手は、避暑地で両親と離れて泣いていたトンマーゾを見つけてくれた。
転んで怪我をしたトンマーゾを魔法で癒してくれた。
王都の下町で再会したペルデンテが初めて会ったときと印象が変わっていたのは、彼女が辛い人生を送ってきたからだとトンマーゾは思っている。結婚後、さらに変わったように感じたのは、母に疎まれていたからだろうとも。母はトンマーゾの初恋の成就よりも元婚約者の実家との関係を求めていた。
(それでも彼女は私の初恋の相手だ。あの黒い髪も緑色の瞳も……)
夜会の人混みに、トンマーゾは愛しい女性の姿を見た気がした。
緑色の瞳が見えたのは一瞬だけで、今は後姿しか見えない。
だけど艶やかな黒髪は視界から消えていない。トンマーゾは足を踏み出した。彼女に向かって手を伸ばす。
「待ってくれ!」
追いかけて肩に手を置くと、女性は驚いた表情で振り返った。春の新芽を思わせる薄く柔らかな緑色の瞳だ。
「……伯爵。妻から手を離していただけませんか?」
女性の背後から睨みつけてくる男をトンマーゾは知っていた。
この王国の貴族子女と裕福な平民が通う学園で二年上だった男ピエトロだ。
侯爵家の次男で、学園卒業後に男爵家へ婿入りしたと聞いている。
(妻……この男の妻ということは……)
トンマーゾは緑色の瞳の女性を見つめた。
ピエトロの妻カルラは、ペルデンテの父方の従姉に当たる。
(そして……彼女の仇だ)
ペルデンテが若い身空で亡くなったのは、両親を亡くしてからひとりで苦労をしていたからだとトンマーゾは考えていた。
(それだけではない。彼女は受け継ぐべき家を奪い取られたのだ、この女に!)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「伯爵とは、一度きちんとお話をしたいと思っていたのです」
夜会の主催者が用意してくれた小部屋で、ピエトロは言った。
彼の妻カルラは、親友だという夜会の主催者夫人と一緒に姿を消している。
「話とは?」
「学園に通っていたころ、僕の妻カルラが正当な後継者から男爵家を奪い取ったと噂を流したのは貴方ですね」
「……それは」
「勘違いも甚だしい。妻の父は男爵家の長男で、貴方の奥方の父親は次男だった。長子相続制の我が国において、正当な後継者は妻のほうです」
「跡取り令嬢の成人前に父親である兄が亡くなったのなら、普通は成人している弟が家を継ぐだろう?」
カルラの父親は、彼女が学園に入学した年に夫人とともに事故で亡くなっていた。
「普通なら、ですね。貴方の奥方の父親は、不貞の恋に溺れて婿入り予定だった婚約者を捨てたときに、男爵家の継承権を放棄しているのです。……ふふ、そういえば貴方も婚約者をお捨てになったのでしたね。貴方は婿入り予定ではありませんでしたが」
「ッ」
「娘というのは父親に似た男性を選ぶものなのでしょうか」
「ペルデンテが、私の妻が嘘を言ったというのか」
「さあ、僕にはわかりません。もしかしたら親に、自分が男爵家の正当な後継者だと教えられていて、それを信じ込んでいただけかもしれませんね。でも、そうだったとしても真実は揺らがない。妻は男爵家の正当な当主です」
「それは……申し訳なかった」
「わかっていただければ良いのです。貴方以外の方々には、すでにご理解いただいていますしね」
ピエトロは、彼とトンマーゾの間にある卓から茶碗を取り上げ唇を湿らせた。
トンマーゾも夜会の主催者が用意してくれた茶を口にする。
「ところで、風の噂で聞いたのですが、妻の従妹は貴方の初恋の相手だったとか」
「ああ、そうだ」
大して親しくもない相手に話したいことではないが、彼とその妻を憎んでいたのはトンマーゾの非だ。
名誉棄損で訴えられなかっただけ幸運だったと思うしかないのだから、この程度の軽口には付き合おうと考えて頷く。
「どこでお会いになったのです? 勝手に婚約を破棄した父親が男爵家から縁を切られていたので、彼女は平民として生まれ育ったはずです。若き伯爵とお会いする機会があったとは思えないのですが」
「……父が元気だったころ、王国の避暑地で会った。君も行ったことがあるのではないか? 大きな湖のあるところだ。彼女は魔法で私の怪我を治してくれたんだ」
「ああ……」
ピエトロが憐れむような視線を向けてくる。
彼は愛妻家だと聞いている。
トンマーゾの悲しみに共感してくれているのかもしれない。
(愛妻、か……)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
しばらく世間話をして、トンマーゾはピエトロから解放された。
彼を迎えに来たカルラにも誤解していたことを謝罪した。
黒い髪と緑色の瞳こそ同じだが、ペルデンテとカルラは従姉妹でもまるで違った。平民として生まれ育ったペルデンテは派手な顔立ちで性格も強気だった。カルラは少し地味な顔立ちで、性格は貴族令嬢らしくおっとりしているようだった。
帰りの馬車の中で、トンマーゾの胸にぼんやりとカルラの顔が浮かんでくる。
(ペルデンテと会っていなければ、彼女が初恋の相手だと思っただろうな)
彼女の柔らかな微笑みは、避暑地で会った少女を思い起こさせる。
(……待てよ?)
ピエトロの言葉が耳に蘇る。ペルデンテは平民として生まれ育ったと言っていた。
(平民はあの避暑地へは行けない。使用人として来たのだとしても……)
貴族と見紛うような恰好はしていないだろう。
魔法で怪我を治してもらったとき、トンマーゾは少しも違和感を覚えなかった。
相手が貴族令嬢と思われる格好をしていたからだ。貴族のように強い魔力を持たないはずの平民に魔法で治療をされたら、トンマーゾは戸惑っていたに違いない。
(もしかして……)
ペルデンテと王都の下町で再会したとき、少なくともトンマーゾがそう思ったとき、彼女はトンマーゾのことを覚えていなかった。
初恋の相手だと思い込んだトンマーゾが、勝手に避暑地の想い出をまくし立てたのだ。
彼女は自分がトンマーゾの初恋の相手だと肯定してくれたものの、そのときのことを自分から語ることはなかった。
(変わったと思っていたペルデンテの性格は、元からああだったのかもしれない。男爵家を奪い取られたと言っていたことも、本当は真実をわかった上で私を煽って……)
トンマーゾは、胸の奥でいつも煌めいていた初恋の想い出が、音を立てて崩れていくような気持ちになった。
★ ★ ★ ★ ★
「ねえカルラ」
夜会が終わり、王都の男爵邸へ戻ったピエトロは、愛しい妻に尋ねた。
「僕達、毎年湖のある避暑地へ行っていたよね」
カルラは笑顔で頷く。
「まだ元気だったころの父母と、貴方と貴方のお兄様とお義父様達とみんなで行っていましたわね。あの場所には楽しい記憶がいっぱいです。……私達の子どもが生まれたら、連れて行ってあげましょうね」
「うん、もちろんだよ。兄上一家と父上達も誘おうね。それはそうと、避暑地の記憶で一番心に残っているのはなぁに?」
「え……」
カルラは真っ赤になって俯いた。ピエトロから視線を外したままで答える。
「学園に入学する前の年に、湖のほとりで貴方に求婚されたときのことですわ。それまでも婚約はしていましたけれど、政略だけでなく心から愛し合える本当の夫婦になろうと言ってくださって……あのときの記憶があったから、翌年父母を喪った悲しみにも耐えられた気がしますの」
「そっか。……うん、僕にも特別な記憶だよ」
「ふふ。幼いころにふたりで町を歩いた記憶も心に残っていますわよ」
「僕以外の人間との記憶で印象深いものはない?」
カルラは顔を上げ、首を傾げた。
「亡くなった母と路地で猫を撫でたとか、大通りで父と駆けっこをしたこととかも覚えていますけれど」
「あはは、僕も覚えてるよ。令嬢がはしたないって、後で小母様に怒られてたね」
「貴方とお兄様が駆けっこしてらっしゃるのが羨ましかったんですわ。……今では良い記憶です」
「うん……」
ピエトロは、昔のことを思い出したのか悲し気な表情になった愛しい妻を抱き締めた。
(幼かった伯爵の怪我を魔法で治してあげたこと、全然覚えてないのかもしれないな。僕はカルラが魔法を使うのを見て、伝説に出てくるような魔法使いになって、王家に嫁げと言われるんじゃないかって心配してたけど)
今のカルラは魔法を使えない。あれは子ども時代だけの特別だった。
自分にとって大切な記憶が、他者にとっても大切なものだとは限らない。
初恋も同じ。恋した相手が同じように恋してくれている保証などない。
(まあ僕の初恋はカルラで、カルラの初恋は僕なんだけどね)
ピエトロは湖のほとりで求婚した際にそれを確認していた。
互いが初恋だったふたりが婚約者になって、こうして結ばれたことを幸運だと思っている。
いつも運命に感謝をしていた。
成人前だったもののピエトロの父を後見人として男爵家を継いだカルラが、その後に両親を亡くしたペルデンテを引き取らなかったのは、従妹が下町で悪い男と付き合っていたからだった。
男爵家の当主として、家が妙なことに巻き込まれるのを危惧したのだ。
伯爵と結婚したと聞いたときは案じていたが、そもそも叔父と絶縁しているのだから口出し出来ない。
悩んでいたカルラに相談されたので、ピエトロはペルデンテの下町での状況を知っている。
ひょっとしたら従姉妹ふたりの親達の死に、彼女が付き合っていた悪い男が関わっていたのではないだろうか、と疑いを持っていた。
しかし捕縛して尋問しようにも、問題の男はペルデンテと伯爵の結婚後、彼女の死の少し前に下町の悪党連中の間で起きた抗争で死んでいた。過去は終わったこととして飲み込むしかない。ピエトロに出来るのは、亡き先代夫婦のぶんも妻のカルラを愛し大切にしていくことだけだ。
(カルラが初恋じゃなくても、カルラの初恋が僕じゃなくても、僕達は婚約者同士として互いを愛する努力をしてたんだろうな)
先ほど会った伯爵トンマーゾもそうしていれば、今ごろ元の婚約者と幸せに過ごしていたのだろうにと、ピエトロは彼を憐れんだ。
<終>
妻のペルデンテが亡くなって一年が経つ。
そろそろ新しい人生に踏み出せと、母が招待状をもらってきたのだ。
母はペルデンテが亡くなったことを喜んでいるのだろう。
根っから貴族夫人の母は、トンマーゾが貴族令嬢との婚約を破棄して平民のペルデンテと結ばれたことに怒りを隠さなかった。
父を早くに亡くしたトンマーゾがすでに当主になっていなかったら、どんな手段を取ってでもペルデンテとの結婚を邪魔してきたに違いない。
(ペルデンテ……)
彼女はトンマーゾの初恋の相手だった。
まだ父が健在だったころ、貴族だけが行く避暑地で出会ったのだ。
この王国の貴族は強い魔力を持つ。伝説の時代ほど優れた魔法は使えないが、子どものうちはささやかな魔法を発動させるものもいた。
(彼女もそのひとりだった)
初恋の相手は、避暑地で両親と離れて泣いていたトンマーゾを見つけてくれた。
転んで怪我をしたトンマーゾを魔法で癒してくれた。
王都の下町で再会したペルデンテが初めて会ったときと印象が変わっていたのは、彼女が辛い人生を送ってきたからだとトンマーゾは思っている。結婚後、さらに変わったように感じたのは、母に疎まれていたからだろうとも。母はトンマーゾの初恋の成就よりも元婚約者の実家との関係を求めていた。
(それでも彼女は私の初恋の相手だ。あの黒い髪も緑色の瞳も……)
夜会の人混みに、トンマーゾは愛しい女性の姿を見た気がした。
緑色の瞳が見えたのは一瞬だけで、今は後姿しか見えない。
だけど艶やかな黒髪は視界から消えていない。トンマーゾは足を踏み出した。彼女に向かって手を伸ばす。
「待ってくれ!」
追いかけて肩に手を置くと、女性は驚いた表情で振り返った。春の新芽を思わせる薄く柔らかな緑色の瞳だ。
「……伯爵。妻から手を離していただけませんか?」
女性の背後から睨みつけてくる男をトンマーゾは知っていた。
この王国の貴族子女と裕福な平民が通う学園で二年上だった男ピエトロだ。
侯爵家の次男で、学園卒業後に男爵家へ婿入りしたと聞いている。
(妻……この男の妻ということは……)
トンマーゾは緑色の瞳の女性を見つめた。
ピエトロの妻カルラは、ペルデンテの父方の従姉に当たる。
(そして……彼女の仇だ)
ペルデンテが若い身空で亡くなったのは、両親を亡くしてからひとりで苦労をしていたからだとトンマーゾは考えていた。
(それだけではない。彼女は受け継ぐべき家を奪い取られたのだ、この女に!)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「伯爵とは、一度きちんとお話をしたいと思っていたのです」
夜会の主催者が用意してくれた小部屋で、ピエトロは言った。
彼の妻カルラは、親友だという夜会の主催者夫人と一緒に姿を消している。
「話とは?」
「学園に通っていたころ、僕の妻カルラが正当な後継者から男爵家を奪い取ったと噂を流したのは貴方ですね」
「……それは」
「勘違いも甚だしい。妻の父は男爵家の長男で、貴方の奥方の父親は次男だった。長子相続制の我が国において、正当な後継者は妻のほうです」
「跡取り令嬢の成人前に父親である兄が亡くなったのなら、普通は成人している弟が家を継ぐだろう?」
カルラの父親は、彼女が学園に入学した年に夫人とともに事故で亡くなっていた。
「普通なら、ですね。貴方の奥方の父親は、不貞の恋に溺れて婿入り予定だった婚約者を捨てたときに、男爵家の継承権を放棄しているのです。……ふふ、そういえば貴方も婚約者をお捨てになったのでしたね。貴方は婿入り予定ではありませんでしたが」
「ッ」
「娘というのは父親に似た男性を選ぶものなのでしょうか」
「ペルデンテが、私の妻が嘘を言ったというのか」
「さあ、僕にはわかりません。もしかしたら親に、自分が男爵家の正当な後継者だと教えられていて、それを信じ込んでいただけかもしれませんね。でも、そうだったとしても真実は揺らがない。妻は男爵家の正当な当主です」
「それは……申し訳なかった」
「わかっていただければ良いのです。貴方以外の方々には、すでにご理解いただいていますしね」
ピエトロは、彼とトンマーゾの間にある卓から茶碗を取り上げ唇を湿らせた。
トンマーゾも夜会の主催者が用意してくれた茶を口にする。
「ところで、風の噂で聞いたのですが、妻の従妹は貴方の初恋の相手だったとか」
「ああ、そうだ」
大して親しくもない相手に話したいことではないが、彼とその妻を憎んでいたのはトンマーゾの非だ。
名誉棄損で訴えられなかっただけ幸運だったと思うしかないのだから、この程度の軽口には付き合おうと考えて頷く。
「どこでお会いになったのです? 勝手に婚約を破棄した父親が男爵家から縁を切られていたので、彼女は平民として生まれ育ったはずです。若き伯爵とお会いする機会があったとは思えないのですが」
「……父が元気だったころ、王国の避暑地で会った。君も行ったことがあるのではないか? 大きな湖のあるところだ。彼女は魔法で私の怪我を治してくれたんだ」
「ああ……」
ピエトロが憐れむような視線を向けてくる。
彼は愛妻家だと聞いている。
トンマーゾの悲しみに共感してくれているのかもしれない。
(愛妻、か……)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
しばらく世間話をして、トンマーゾはピエトロから解放された。
彼を迎えに来たカルラにも誤解していたことを謝罪した。
黒い髪と緑色の瞳こそ同じだが、ペルデンテとカルラは従姉妹でもまるで違った。平民として生まれ育ったペルデンテは派手な顔立ちで性格も強気だった。カルラは少し地味な顔立ちで、性格は貴族令嬢らしくおっとりしているようだった。
帰りの馬車の中で、トンマーゾの胸にぼんやりとカルラの顔が浮かんでくる。
(ペルデンテと会っていなければ、彼女が初恋の相手だと思っただろうな)
彼女の柔らかな微笑みは、避暑地で会った少女を思い起こさせる。
(……待てよ?)
ピエトロの言葉が耳に蘇る。ペルデンテは平民として生まれ育ったと言っていた。
(平民はあの避暑地へは行けない。使用人として来たのだとしても……)
貴族と見紛うような恰好はしていないだろう。
魔法で怪我を治してもらったとき、トンマーゾは少しも違和感を覚えなかった。
相手が貴族令嬢と思われる格好をしていたからだ。貴族のように強い魔力を持たないはずの平民に魔法で治療をされたら、トンマーゾは戸惑っていたに違いない。
(もしかして……)
ペルデンテと王都の下町で再会したとき、少なくともトンマーゾがそう思ったとき、彼女はトンマーゾのことを覚えていなかった。
初恋の相手だと思い込んだトンマーゾが、勝手に避暑地の想い出をまくし立てたのだ。
彼女は自分がトンマーゾの初恋の相手だと肯定してくれたものの、そのときのことを自分から語ることはなかった。
(変わったと思っていたペルデンテの性格は、元からああだったのかもしれない。男爵家を奪い取られたと言っていたことも、本当は真実をわかった上で私を煽って……)
トンマーゾは、胸の奥でいつも煌めいていた初恋の想い出が、音を立てて崩れていくような気持ちになった。
★ ★ ★ ★ ★
「ねえカルラ」
夜会が終わり、王都の男爵邸へ戻ったピエトロは、愛しい妻に尋ねた。
「僕達、毎年湖のある避暑地へ行っていたよね」
カルラは笑顔で頷く。
「まだ元気だったころの父母と、貴方と貴方のお兄様とお義父様達とみんなで行っていましたわね。あの場所には楽しい記憶がいっぱいです。……私達の子どもが生まれたら、連れて行ってあげましょうね」
「うん、もちろんだよ。兄上一家と父上達も誘おうね。それはそうと、避暑地の記憶で一番心に残っているのはなぁに?」
「え……」
カルラは真っ赤になって俯いた。ピエトロから視線を外したままで答える。
「学園に入学する前の年に、湖のほとりで貴方に求婚されたときのことですわ。それまでも婚約はしていましたけれど、政略だけでなく心から愛し合える本当の夫婦になろうと言ってくださって……あのときの記憶があったから、翌年父母を喪った悲しみにも耐えられた気がしますの」
「そっか。……うん、僕にも特別な記憶だよ」
「ふふ。幼いころにふたりで町を歩いた記憶も心に残っていますわよ」
「僕以外の人間との記憶で印象深いものはない?」
カルラは顔を上げ、首を傾げた。
「亡くなった母と路地で猫を撫でたとか、大通りで父と駆けっこをしたこととかも覚えていますけれど」
「あはは、僕も覚えてるよ。令嬢がはしたないって、後で小母様に怒られてたね」
「貴方とお兄様が駆けっこしてらっしゃるのが羨ましかったんですわ。……今では良い記憶です」
「うん……」
ピエトロは、昔のことを思い出したのか悲し気な表情になった愛しい妻を抱き締めた。
(幼かった伯爵の怪我を魔法で治してあげたこと、全然覚えてないのかもしれないな。僕はカルラが魔法を使うのを見て、伝説に出てくるような魔法使いになって、王家に嫁げと言われるんじゃないかって心配してたけど)
今のカルラは魔法を使えない。あれは子ども時代だけの特別だった。
自分にとって大切な記憶が、他者にとっても大切なものだとは限らない。
初恋も同じ。恋した相手が同じように恋してくれている保証などない。
(まあ僕の初恋はカルラで、カルラの初恋は僕なんだけどね)
ピエトロは湖のほとりで求婚した際にそれを確認していた。
互いが初恋だったふたりが婚約者になって、こうして結ばれたことを幸運だと思っている。
いつも運命に感謝をしていた。
成人前だったもののピエトロの父を後見人として男爵家を継いだカルラが、その後に両親を亡くしたペルデンテを引き取らなかったのは、従妹が下町で悪い男と付き合っていたからだった。
男爵家の当主として、家が妙なことに巻き込まれるのを危惧したのだ。
伯爵と結婚したと聞いたときは案じていたが、そもそも叔父と絶縁しているのだから口出し出来ない。
悩んでいたカルラに相談されたので、ピエトロはペルデンテの下町での状況を知っている。
ひょっとしたら従姉妹ふたりの親達の死に、彼女が付き合っていた悪い男が関わっていたのではないだろうか、と疑いを持っていた。
しかし捕縛して尋問しようにも、問題の男はペルデンテと伯爵の結婚後、彼女の死の少し前に下町の悪党連中の間で起きた抗争で死んでいた。過去は終わったこととして飲み込むしかない。ピエトロに出来るのは、亡き先代夫婦のぶんも妻のカルラを愛し大切にしていくことだけだ。
(カルラが初恋じゃなくても、カルラの初恋が僕じゃなくても、僕達は婚約者同士として互いを愛する努力をしてたんだろうな)
先ほど会った伯爵トンマーゾもそうしていれば、今ごろ元の婚約者と幸せに過ごしていたのだろうにと、ピエトロは彼を憐れんだ。
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