最後のカードは、

豆狸

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第五話 歌姫が仮面を外すとき

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 力の抜けた手から酒杯が落ちる。
 硝子製の酒杯は、王都にあるデュフール伯爵邸の中庭に落ちて石にぶつかり砕け散った。

「何故……?」
「……あなた」

 酒杯を落としたのはクレマンだった。
 毒が入っていたわけではない。
 ジョゼフィンの様子に変化がないことに驚き、硬直してしまったのだ。共犯者であるフォリーも不安げな顔で体を寄せてくる。空になった杯を笑顔で黒髪の執事に渡しているジョゼフィンの後ろでは、マティスとピヤージュが青い顔をしていた。

 クレマンは近くに立っていたダンビエ侯爵に視線を送ったが、彼にも理由がわからなかったのだろう。視線に気づかぬ振りをされただけだった。

(そうだ、焦ってどうする。機会はまだある)

 誕生パーティが終わる前、ペラン公爵の派閥の人間が残っている間にジョゼフィンが死ねば良いのだ。
 彼女に『最後のカード』が効かないとしても、医学薬学に長けたダンビエ侯爵ならなにか方法を考えてくれるだろう。
 クレマンは落ちた杯の破片を片付けに来た使用人に動揺を気づかれぬよう、鷹揚に礼を言った。やけに逞しいその男も見覚えの無い人間だった。

 ジョゼフィンが再び声を上げる。

「改めて、私のためにお集まりいただいたことを感謝いたします。感謝の証として、今日は特別なお客様をお呼びしています。……ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。仮面の歌姫として名高いシャンターラ様です。彼女の美声をお楽しみください」

 ジョゼフィンが後ろに下がり、庭に面した建物の扉から見知らぬ人間が現れた。
 クレマンは有名な仮面の歌姫を噂でしか知らなかった。
 フォリーとはよく劇場や他家の園遊会に行っている。彼女は歌が好きなのだ。しかしフォリーは甲高い声の歌姫よりも低い声で歌う若手の男性歌手のほうを好んでいた。

 現れた仮面の人物を見て、クレマンは首を傾げた。
 仮面の歌姫はフォリーの娘ピヤージュと同じような金の巻き毛だと聞いていたのに、その人物の髪は、金は金でも薄赤いストロベリーブロンドだったのだ。
 クレマンの隣で、フォリーが足を踏み出した。

「どうしたんだい、フォリー?」
「……あ、なんでもありませんわ、あなた。髪の色が違うので、本当にあの噂の仮面の歌姫なのかしらと不思議に思ったのです」
「そうだね。ジョゼフィンは幼いころから伯爵家の運営を手伝ってきた賢い子だけれど、その反面世間知らずのところがあるからね。だれかに騙されたのかもしれないよ」

 招かれた周囲の貴族達もそう思ったようで、歌姫を歓迎する拍手は聞こえない。
 ジョゼフィンは自信に満ちた表情で、黒髪の執事に合図した。
 気づけばその黒髪の執事は竪琴を手にしている。彼の周囲にクレマンの知らない使用人達が楽器を持って集まっていた。ジョゼフィンの合図で、彼らが演奏を始める。

 仮面の人物が唇を開いた。

「────」

 女性にしては低く、男性にしては高く、それでいてだれが聞いても心地良い歌声が辺りに満ちていく。
 そこにいるだれもが確信していた。髪の色が違っていても本物だ、と。こんなに天才的な歌唱力を持つ人間はほかにはいない。
 クレマンの隣のフォリーが、震える声で呟いた。

「……シャンタール様……」

 仮面の歌姫に似たその名前は、クレマンも知っていた。
 二十年ほど前にこの王国を席巻した歌手の名前だ。
 美しいストロベリーブロンドの巻き毛の青年で、甘く艶やかな彼の声は数多の女性を虜にした。中には彼に貢ぐために体を売る女性もいたという。人気の絶頂で、ある日突然姿を消した。そんなことを思い出した途端、クレマンの耳に昔兄に言われた言葉が蘇ってきた。

『下位貴族の令嬢が玉の輿を狙って高位貴族の令息に擦り寄るのは珍しいことじゃない。相手に婚約者がいても気にしないのは問題だが。……けれど、あの娘は違う。ほかの男に貢ぐための金欲しさに、令息達に体を開いているんだ』

 男爵家からの縁談を断ったと教えられたのと同時に聞かされた言葉だ。
 そんなことはない、とクレマンは反論した。
 フォリーはそんな娘じゃない。高位貴族の令息達と関係を持っていたとしても、それは純粋な恋心からだと、真実の愛なのだと、自分が恋した少女は清らかなのだと、クレマンは叫ばずにはいられなかった。

 ……フォリーのことなど、なにも知らなかったのに。
 叫んだクレマンを見た兄は悲しげな顔をした。
 今、庭の隅からクレマンを見ているのと同じ顔だ。

 やがて、仮面の歌姫の歌が終わった。
 今度はもうだれも疑うものはない。
 いや、ニセモノだったとしてもこれだけの力量を示されれば十分だった。王都にあるデュフール伯爵邸の中庭に割れんばかりの拍手が満ちた。惜しむらくは、黒髪の執事の伴奏がいささか未熟だったことだ。

「ありがとうございます」

 仮面の歌姫は微笑んで、そして仮面を外した。
 王都の大劇場でも、高位貴族の園遊会でも、王宮で密かに開かれたという独演会でも外さなかったという仮面をだ。
 仮面の下の素顔はどこか中性的で、けれど美しく、美しく──クレマンとフォリーの娘であるはずのピヤージュにそっくりだった。彼女本人はジョゼフィンと一緒にシャンターラの後ろにいるせいか、辺りの視線が自分に集まっている理由がわからないらしく、戸惑った表情を浮かべている。

「……見つけた」

 不意に厳しい表情を浮かべたシャンターラの眼光が、クレマンの隣に立つフォリーを射る。

「あなたですね」
「な、なんのことです?」

 フォリーは怯えたようにクレマンの腕を掴んできたが、クレマンは彼女の手を自分の手で包んで勇気づけてやるつもりにはなれなかった。
 初恋に浮かされてずっと目を塞いできた真実、フォリーと再会してからはおそらく自分の意思以外のもので目を塞がれてきた事実が、やっと理解出来たのだ。
 シャンターラがフォリーに答える。

「私の父シャンタールに汚い金を貢ぎ、それでも父が思い通りにならないと知ると、母を殺して独占しようとした人です。あのとき、私は母に外で遊ぶよう言われて家を出ましたが、不穏なものを感じたのでこっそり戻ってきて覗いていたのです」
「う、嘘よ。シャンタール様の子どもは男の子だったわ!」
「ええ、あの日の私は男の子の格好をしていました。当時は母の周りでおかしなことが多かったので、母を守るために動きやすい格好をしていたのですよ」

 でも、それで良かった、とシャンターラは続ける。

「あなたは父の周りにいる女性が許せない人です。私が女の子の格好をしていたら外まで探しに来て殺していたでしょう。娘さんだって……」

 シャンターラはジョゼフィンのほうを振り返った。
 いや、彼女の後ろにいるピヤージュを見たのだ。
 ここで初めて仮面を外したシャンターラの素顔を見て、ピヤージュの顔に衝撃が走る。同じようにシャンターラを見たマティスも驚きを隠せないようだ。

「父が生きていたら邪魔者だったのではないですか? 私に母のことを聞いた父は、あなたと話をつけると言って出て行ったきり戻りませんでした。……あなたが殺したんでしょう? 父を独占するために」
「う、煩い、煩い、煩いっ!」

 フォリーがシャンターラを睨みつける。彼女は半狂乱だった。

「あたしのほうが! あたしのほうがシャンタール様を愛しているのに、どうしてあんな役立たずの婆あの産んだお前のほうがシャンタール様に似てるのよ!」
「父は母を愛していました。麻薬密売の手先になり、麻薬で惑わした男達に体を開いて巻き上げた金で父に独演会を依頼し、そうして呼びつけた父にも麻薬を与えて体を重ねたあなたになど愛されたくはなかったでしょう」
「嘘よ! シャンタール様はあたしを愛してくれたもの! どこかにいると思っていたのに、シャンタール様の心を受け継いだ彼の息子が。女だったと知っていれば、あのとき殺していたのに! シャンタール様の側にいていい女はあたしだけよ!」

 フォリーがシャンターラに掴みかかる。
 避けようともしないシャンターラにぶつかって、フォリーが崩れ落ちた。
 仰向けに倒れた彼女の胸には短刀が刺さっていて、ドレスは赤く染まっている。

(死んだのか……)

 不思議なほど淡々とクレマンは思った。
 さっきジョゼフィンの死を想像したときと違い、胸の奥が痛むことはなかった。
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