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第一話 雨の日
この王国の王都には大きな河が流れています。
手続きをして大門を通ってから、私とジャコブは脇道に入りました。
伯母の経営する商会の店舗には河横の大通りを歩いたほうが早く着くのですが、昨日は雨でした。三年前のあの日から、私は雨の後で増水した河が苦手になったのです。
「ごめんなさいね」
大きな荷物を背負ったジャコブに狭い道を歩かせるのが申し訳なくて謝ると、彼は厳つい顔を和らげて優しく微笑みました。
「俺は図体が大きいから、人通りの少ない道のほうが邪魔にならなくていい」
ジャコブの顔は厳ついながらも整っていて、私には美男子に思えます。
彼が差し出してくれた大きな手を握って、住宅街の狭い道を進みました。
家屋に邪魔されて伯母の大きな店は見えなくなりました。でも昔取ったなんとやらで、私はこの辺りの地理がわかりました。生まれ育ったのは橋を渡った河向こうの町だったのですけれど、理由があって王都の地理に詳しいのです。
「オルタンシア。紫陽花が咲いているよ」
ジャコブに言われて、私は道を挟む家の庭に目をやりました。
彼の言った通り、綺麗な紫陽花が咲いています。
たくさんの小さな花を大きな装飾花が守るように囲んでいる、この辺りの紫陽花ではなく、遠い東国で改良されたという中央にもたくさんの大きな花が咲いて丸くなっている品種でした。伯母の店で取り扱っている商品です。
「俺はこっちの紫陽花のほうが好きだけど、こういう紫陽花も綺麗だな。……紫陽花はみんな綺麗だ」
そう言いながらジャコブが軽く叩いた彼の袖なし上着には、大きな装飾花と小さな花の紫陽花が刺しゅうされています。
私の刺しゅうです。
今の季節に生まれたこともあり、昔から紫陽花が好きでした。今日の私のヴェールにもジャコブとお揃いの紫陽花を刺しゅうしてあります。
「ジャコブ」
「うん、ありがとう」」
私はヴェールの端を彼に差し出しました。
少し雨がパラパラしてきたのです。
そういう季節なので仕方がありません。豪雨にならなければ良いのですが……三年前のことを思い出して、背筋が凍るような気持ちになります。
ジャコブは大きな体のわりに器用なので、手をつないだままで私のヴェールを頭に載せます。
「大丈夫? オルタンシアは濡れてない?」
「大丈夫です。ああ、でもすぐやみそう。邪魔なだけだったかしら?」
「そんなことない。君と同じヴェールの下で嬉しいよ」
「……私も」
とっくに問題はなくなっていたのですけれど、三年経ったので気分もすっきりしました。
今日は店に私の刺しゅうとジャコブが作った農業器具を納めた後で、伯母達と夕飯を食べて店舗の裏にある家に泊めてもらいます。
明日は五人で神殿へ行って結婚の届けを出すのです。
二度目なので派手な式をする予定はありません。
それでも立ち並ぶ家々の庭で咲く色とりどりの紫陽花達が、私達を祝福してくれているように思えました。
紫陽花を家に植えるのは良くないという場所もあるようですが、この都では愛されているようです。
伯母の販売戦略もあるでしょうし、大きな河に面したこの都では、多くの水を吸収するという紫陽花の性質が逆に歓迎されたのかもしれません。
花や葉に毒があるのは事実です。
でもそれは鈴蘭や水仙も同じですものね。……薔薇には棘がありますし。
住宅街の終わりが近づいています。
ぽつぽつと店舗が見えてきました。
河にかかった一番大きな橋へと続く、大きな道に出るのはもうすぐです。
狭い道を出ると視界が開けて──
「エリザベト!」
だれかが、もうこの世にいない女性の名前を叫びました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
三年前、私は豪雨に打たれながら暗闇の中を走っていました。
愚かなことです。
紫陽花を刺しゅうしたヴェールくらいでは、叩きつけるような雨粒は防げていません。
それでも私は走っていました。
だって聞いてしまったのです。
数年前から王都で噂になっていた強盗団が、伯母の店を襲う計画を立てているのを。
すぐにではありません。
今は初夏、この辺りでは雨の季節です。
強盗団は三ヶ月ほど後、秋の始まりに伯母の店を襲うのだと言っていました。
秋には王都の治安を守る衛兵隊の配置変更がおこなわれるからでしょう。
そのどさくさに紛れて伯母の店を襲い、それを最後の仕事にして王都を出るつもりだと話していました。
衛兵隊の捜査で尻に火が尽きそうなのだと零していました。
そんな話、聞きたくて聞いたわけではありません。
もちろん知らずに伯母の店が襲われるよりは良かったと思います。
でも今の状況で、どうしたら良いのでしょうか。
今は真昼です。暗闇に包まれているのは真っ暗な雨雲と豪雨のせいです。
買い物が終わって店を出てしばらくしたところで、雨が降り出したのです。
狭い道の左右にはみ出した屋根で雨宿りしながら家へ戻ろうと思ったら、路地裏で話しているところに遭遇してしまったのです。
近所の家に助けを求めるわけにはいきません。
どこの家も横殴りの雨を避けて窓も扉も固く閉じていますので、叩いても気づかれないでしょう。
気づいてくれたとしても……私を追う強盗団が噂になっているのは、襲った店の人間を皆殺しにしているからです。騒がれないように、先に近くの家々の人間を殺してから店を襲うこともあったからです。強盗団は助けを求める振りをして扉を開けさせ、集団で一気に家人を殺害したのだと聞きます。
私は王都の地理には詳しいほうです。
好みの色の刺しゅう糸を求めて、生前の母と一緒に王都中の店を巡ったからです。
激しい雨の中、次の角を曲がれば小さな橋があるのを知っています。
王都を流れる大きな河は、場所によって幅が違います。
小さな橋ならば追っ手もひとりずつしか追って来られません。
それで自衛出来るとまでは思っていませんが、その小さな橋を渡るとこの地区の衛兵隊の詰所があるのです。そこまで、そこまで行ければ、きっと彼が……
角を曲がっても雨は降り続いていました。
真っ暗な中、小さな橋があるのがわかります。
橋まで走り抜けようとして、私は腕を掴まれました。後ろからではありません。横からです、角のところで待ち伏せされていたのです。
「聞いたテメェが悪ィんだ。とっとと死んじまいなッ!」
壁に激しく打ち付けられても、私は意識を失いませんでした。
大声で叫んだつもりなのに、自分の声が聞こえません。雨音のほうが強いのです。
私は泥まみれで引きずられて、増水した河に放り込まれました。濁流に揉まれて、私の意識は薄れていったのです。
手続きをして大門を通ってから、私とジャコブは脇道に入りました。
伯母の経営する商会の店舗には河横の大通りを歩いたほうが早く着くのですが、昨日は雨でした。三年前のあの日から、私は雨の後で増水した河が苦手になったのです。
「ごめんなさいね」
大きな荷物を背負ったジャコブに狭い道を歩かせるのが申し訳なくて謝ると、彼は厳つい顔を和らげて優しく微笑みました。
「俺は図体が大きいから、人通りの少ない道のほうが邪魔にならなくていい」
ジャコブの顔は厳ついながらも整っていて、私には美男子に思えます。
彼が差し出してくれた大きな手を握って、住宅街の狭い道を進みました。
家屋に邪魔されて伯母の大きな店は見えなくなりました。でも昔取ったなんとやらで、私はこの辺りの地理がわかりました。生まれ育ったのは橋を渡った河向こうの町だったのですけれど、理由があって王都の地理に詳しいのです。
「オルタンシア。紫陽花が咲いているよ」
ジャコブに言われて、私は道を挟む家の庭に目をやりました。
彼の言った通り、綺麗な紫陽花が咲いています。
たくさんの小さな花を大きな装飾花が守るように囲んでいる、この辺りの紫陽花ではなく、遠い東国で改良されたという中央にもたくさんの大きな花が咲いて丸くなっている品種でした。伯母の店で取り扱っている商品です。
「俺はこっちの紫陽花のほうが好きだけど、こういう紫陽花も綺麗だな。……紫陽花はみんな綺麗だ」
そう言いながらジャコブが軽く叩いた彼の袖なし上着には、大きな装飾花と小さな花の紫陽花が刺しゅうされています。
私の刺しゅうです。
今の季節に生まれたこともあり、昔から紫陽花が好きでした。今日の私のヴェールにもジャコブとお揃いの紫陽花を刺しゅうしてあります。
「ジャコブ」
「うん、ありがとう」」
私はヴェールの端を彼に差し出しました。
少し雨がパラパラしてきたのです。
そういう季節なので仕方がありません。豪雨にならなければ良いのですが……三年前のことを思い出して、背筋が凍るような気持ちになります。
ジャコブは大きな体のわりに器用なので、手をつないだままで私のヴェールを頭に載せます。
「大丈夫? オルタンシアは濡れてない?」
「大丈夫です。ああ、でもすぐやみそう。邪魔なだけだったかしら?」
「そんなことない。君と同じヴェールの下で嬉しいよ」
「……私も」
とっくに問題はなくなっていたのですけれど、三年経ったので気分もすっきりしました。
今日は店に私の刺しゅうとジャコブが作った農業器具を納めた後で、伯母達と夕飯を食べて店舗の裏にある家に泊めてもらいます。
明日は五人で神殿へ行って結婚の届けを出すのです。
二度目なので派手な式をする予定はありません。
それでも立ち並ぶ家々の庭で咲く色とりどりの紫陽花達が、私達を祝福してくれているように思えました。
紫陽花を家に植えるのは良くないという場所もあるようですが、この都では愛されているようです。
伯母の販売戦略もあるでしょうし、大きな河に面したこの都では、多くの水を吸収するという紫陽花の性質が逆に歓迎されたのかもしれません。
花や葉に毒があるのは事実です。
でもそれは鈴蘭や水仙も同じですものね。……薔薇には棘がありますし。
住宅街の終わりが近づいています。
ぽつぽつと店舗が見えてきました。
河にかかった一番大きな橋へと続く、大きな道に出るのはもうすぐです。
狭い道を出ると視界が開けて──
「エリザベト!」
だれかが、もうこの世にいない女性の名前を叫びました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
三年前、私は豪雨に打たれながら暗闇の中を走っていました。
愚かなことです。
紫陽花を刺しゅうしたヴェールくらいでは、叩きつけるような雨粒は防げていません。
それでも私は走っていました。
だって聞いてしまったのです。
数年前から王都で噂になっていた強盗団が、伯母の店を襲う計画を立てているのを。
すぐにではありません。
今は初夏、この辺りでは雨の季節です。
強盗団は三ヶ月ほど後、秋の始まりに伯母の店を襲うのだと言っていました。
秋には王都の治安を守る衛兵隊の配置変更がおこなわれるからでしょう。
そのどさくさに紛れて伯母の店を襲い、それを最後の仕事にして王都を出るつもりだと話していました。
衛兵隊の捜査で尻に火が尽きそうなのだと零していました。
そんな話、聞きたくて聞いたわけではありません。
もちろん知らずに伯母の店が襲われるよりは良かったと思います。
でも今の状況で、どうしたら良いのでしょうか。
今は真昼です。暗闇に包まれているのは真っ暗な雨雲と豪雨のせいです。
買い物が終わって店を出てしばらくしたところで、雨が降り出したのです。
狭い道の左右にはみ出した屋根で雨宿りしながら家へ戻ろうと思ったら、路地裏で話しているところに遭遇してしまったのです。
近所の家に助けを求めるわけにはいきません。
どこの家も横殴りの雨を避けて窓も扉も固く閉じていますので、叩いても気づかれないでしょう。
気づいてくれたとしても……私を追う強盗団が噂になっているのは、襲った店の人間を皆殺しにしているからです。騒がれないように、先に近くの家々の人間を殺してから店を襲うこともあったからです。強盗団は助けを求める振りをして扉を開けさせ、集団で一気に家人を殺害したのだと聞きます。
私は王都の地理には詳しいほうです。
好みの色の刺しゅう糸を求めて、生前の母と一緒に王都中の店を巡ったからです。
激しい雨の中、次の角を曲がれば小さな橋があるのを知っています。
王都を流れる大きな河は、場所によって幅が違います。
小さな橋ならば追っ手もひとりずつしか追って来られません。
それで自衛出来るとまでは思っていませんが、その小さな橋を渡るとこの地区の衛兵隊の詰所があるのです。そこまで、そこまで行ければ、きっと彼が……
角を曲がっても雨は降り続いていました。
真っ暗な中、小さな橋があるのがわかります。
橋まで走り抜けようとして、私は腕を掴まれました。後ろからではありません。横からです、角のところで待ち伏せされていたのです。
「聞いたテメェが悪ィんだ。とっとと死んじまいなッ!」
壁に激しく打ち付けられても、私は意識を失いませんでした。
大声で叫んだつもりなのに、自分の声が聞こえません。雨音のほうが強いのです。
私は泥まみれで引きずられて、増水した河に放り込まれました。濁流に揉まれて、私の意識は薄れていったのです。
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