だから今夜は眠れない

東雲紫雨

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姫君には鍵をかけて

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       Ⅲ

「本当に、身に覚えはないんですか?」
 グランドセンチュリー・ハイアットの最上階で、由樹彦が白々しらじらと訊ねた。
「あるわけないだろう。初対面だぞ⁉ どうやったら二言三言の会話でこんなでかい子供ができるんだ」
 浩平は不機嫌に煙草たばこを吹かしている。
 傍らで祐介が笑い転げた。
口説くどくだけで子供ができるんなら、こいつの場合一人や二人じゃすまねえよ」
「日頃の行ないが行ないですからね」
 呆れ顔で呟いた由樹彦を浩平はサングラス越しに睨みつけたが、由樹彦のほうは意に介さず、手にした紙片に目を落とした。

  この子は、
  あなたの子供です。

 細い女文字で書かれたフランス語の短い文に、浩平が連れてきた少女を重ねる。
 少女は、まるで生きたビスクドールのように愛らしかった。
 大きな青みを帯びた暗灰色の瞳にチェリーブラッドの唇。ミルク色の頬にはほんのりと赤みが差し、背中まで伸ばしたきれいな黒髪ブルネットを丁寧にロールしている。
「あなたに似ていないこともないですよね、鏑木さん」
「どこらへんがだ」
 短くなった煙草をもみ消した浩平は、立て続けに二本目の煙草に火をつけた。
「でも、変ですわねえ…」
 ふと、京極冴子が不思議そうに呟いた。
「その女性、フランスの方だとおっしゃいましたわよね」
「それが、どうかしましたか?」
 由樹彦が聞き返すと、冴子は少女に目をやり、首をかしげながら応えた。
「通じないようなんですのよ、フランス語」
 彼女の言葉に、由樹彦たちの視線が一斉に少女に注がれた。
「それって、どーゆうこと⁉」
 祐介のせき込むような問いに、冴子は肩を竦めて言った。
「ですから…よろしいですか―――お嬢ちゃん、おいくつ?」
 正確な発音のフランス語だったが、少女は冴子の顔を見上げたまま無反応だった。
「もしかして、耳が不自由なんじゃないの」
「そんなことありませんわよ、ほら」
 冴子は傍らの卓上ベルに手を伸ばした。
 チリンというベルの音に、少女はさっとそちらに顔を向けた。
「なるほど。じゃあ、ほかの言葉で試してみましょう。外見からいって中国語やアラビア語ではありえないでしょうから…」
 由樹彦がそう促すと冴子は頷き、まず英語で訊ねた。
 だが、少女はじっと黙っている。
 それから冴子はスペイン語やイタリア語を試した。しかし、少女がまったく反応を示さないので、少し考えたあと、別の言葉で同じことを訊ねてみた。
 すると、少女は小さな手を広げ、指を四本立てた。
「おおー、通じた!」
 祐介は感嘆を洩らした。
 冴子はほっとしたように溜め息をつき、由樹彦を返り見た。
「ドイツ語かロシア語か迷ったんですけど」
「京極さんの習得された語学圏内でよかったですね」
「で、どっちだったわけ?」
「ドイツ語ですわ」
 冴子がにこやかに応えた。しかし、祐介は再び混乱して頭をかきむしった。
「…全然よかねーって。ますますわけわかんねーじゃん。なんでフランス女が、ドイツ語はなす子供をコーヘイの子供だなんて…」
「おれに聞くな」
 浩平は苛立いらだたしげに眉を寄せた。
「本当に、心当たりはないですか」
 由樹彦の探るような問いかけに、浩平は不愉快そうに舌打ちした。
「そもそも、あなたはその女性とどうやって知り合ったんです?」
「それは、大使の公邸で―――」
 うんざりした様子で煙草をくわえかけた浩平の手がふと止まった。
 彼が急に押し黙ったので、ほかの三人は顔を見合わせた。すると、浩平はやおら冴子に向かってこう言った。
「…ここ2週間ばかりの、新聞のストックはあるか?」
「ええ、ありますけど…」
「朝刊と夕刊、両方持ってきてくれ」
「ああ、おれ手伝うよ」
 何事か心得た祐介がいぶかしむ冴子を急き立てるように言い、二人は部屋を出ていった。
 まもなく、祐介たちが新聞を抱えて戻ってくると、浩平はさっそく古いほうから順にめくりはじめた。
 社会面ばかり4・5日分、流すように目を通した彼は、やがてある小さな囲み記事を食い入るように見つめて呟いた。
「……これだ」
 祐介たちが広げた紙面を覗き込むと、そこには、首都高速で起きた追突事故の第一報が載っていた。
「―――…乗用車を運転していたのは、ローゼンシュタイン公国領事館職員で秘書官のフランツ・ミュラーさん。ミュラーさんは全身を強く打ち、意識不明の重体。事故当時は雨が降っており、後続のトラック運転手の前方不注意とみて事情を聞いている」
 記事を読み上げた祐介が浩平を見やると、彼は顎をしゃくって言った。
「おれが公邸で、たまたまその件がらみの話を耳にした直後、あの女が現われて妙な言いがかりをつけてきたんだ」
「どー見ても、フランス女が関わるような話とは思えないけどなぁ…」
「ところが、そいつがどうもただの事故じゃないらしい」
「ただの事故じゃないって?」
「おれが知るか。話してた奴らがそう言ってたんだ。それをあの女、しつこく付き纏った挙げ句にこんな厄介ものまで…!」
 神経質に煙草の灰を落とした浩平は、相当腹に据えかねている様子だった。
 祐介は、うーんとうなって腕組みをした。
 そのとき、それまで黙っていた由樹彦が不意にぽつりと呟いた。
「この国は、確か西ヨーロッパの小国でしたよね。ドイツ語圏の・ ・ ・ ・ ・―――」
 困り果てて天井をさまよっていた祐介の視線が、彼のほうに流れた。
「…ってことは、関わってるのはフランス女じゃなくて、こっち?」
 祐介がそのまま少女に目を移すと、由樹彦は飄々ひょうひょうと肩を竦めた。
「さあ…。ドイツ語を理解するからといって確証があるわけじゃありませんけど」
「どっちにしろ、おれには関係ない」
 浩平が冷ややかに言い放った。そのぶっきらぼうな態度に苦笑した祐介は、人形ビスクドールを相手におとなしく一人遊びをしている少女を改めて見下ろした。
「まあ、さしあたって当面の問題は、この子をどーするかってことだよな」
 同情を含んだような彼の言葉に、由樹彦が応えた。
「僕ならかまいませんよ」
「かまわないって、おまえ―――…」
 由樹彦の普段の性格は嫌というほど知っている。それだけに、一抹の不安を感じた祐介は露骨に顔をしかめた。
「だって、鏑木さんにはとても任せられそうにありませんし」
「当然だ」
 沈み込んだソファから浩平が有無を言わさぬ低い声で凄んだが、由樹彦は素早くそれを遮って続けた。
「といって、まさかここから放り出すわけにもいかないでしょう。有栖川さんだって、頼まれても困るんじゃありませんか?」
「そりゃまあ、そうだけど……」
「その点、ここには通訳のできる京極さんもいますし」
 そう言いながら、由樹彦は少女をあやしている冴子を振り返った。
「すみません、京極さん。ベビーシッターは本来の仕事ではないのに」
「かまいませんわ。おとなしくて、とてもいい子ですもの」
 冴子は笑みを返した。由樹彦は彼女に目礼して、再び祐介に視線を戻した。
「第一、あなた方に預けていかがわしい場所に連れ回されるより、よっぽど安全じゃないですか」
「―――どーゆう意味だよ☆」
 憮然ぶぜんと唇を歪めた祐介だったが、やがて目を細めて由樹彦を見返した。
「けど、意外だったな。おまえのことだからもっと迷惑がるかと思ったぜ」
「そうですか? 別にどうってことありませんよ、僕の婚約者がちょうど同じくらいの年頃ですからね」
 そのしれっとした応えに祐介はのけぞった。
「ち、ちょっと待て。婚約者って……それ、いくつだ⁉」
「たしか、数えで三つになったばかりだと」
「さ、3歳―――⁉」
「なに驚いてるんです? 政略結婚なんて、よくあることじゃないですか」
「いや、だけど…おまえはいいのかよ?」
「いいも悪いも、大道寺家うちでは個人の意思なんて、ないも同然ですから」
 祐介は啞然として言葉を失った。
「なにも3歳の子と結婚するわけじゃなし、そんなに騒ぐほどのことではないと思いますけど」
 心外そうな顔つきで言う由樹彦の淡々とした様子に、祐介は思わず呟いた。
「…由樹彦、おまえって偉大だな…」

 ちょうどその頃、ホテルの前の通りに一台の白い乗用車セダンが停まっていた。
 乗っているのは外国人の若い男で、しきりにミラーを覗きながら携帯電話で話し込んでいる。
「…ジル、本当に大丈夫なのかい? あんな見ず知らずの人間に預けたりして」
 しゃべっているのはフランス語である。彼は、あのフランス大使公邸の駐車場にいた人物であった。
『大丈夫よ、ウィラード。あなたが心配する必要はないわ』
 応対した声は女のものだった。浩平ならば、間違いなく聞き覚えがあったはずである。
「でも、もし奴らにこのことが知れたら…」
『彼らは日本人よ、この国の法律で守られているの。滅多なことはできやしないわ。その意味では、私たちのところよりずっと安全でしょう?』
「しかし、万が一のときには彼らではとても保護しきれない。彼らは訓練された人間じゃない、民間人だぞ⁉」
『そうね。でも、この際それを大いに利用させてもらうわ。この国では、私たちガイジン・ ・ ・ ・は目立ちすぎるの。それは向こうも同じことよ。だから、市街地で争奪戦を始めるようなバカな真似はしないわ』
「だが、現に奴らは人を使って秘書官を襲わせている。日本の暴力団マフィアを金で雇ったのかもしれない。だとすると、今後またどんな手を使ってくるか…」
『ウィラード、私たちのことをもっと信頼してほしいわね。あの男・ ・ ・が本国から乗り込んできた以上、こちらもあらゆる手段を講じる必要があるのよ。心配ばかりしていたらキリがないわ。とにかく、あなたは文官なんだから危ないことはこちらに任せて、動向を見守ってちょうだい』
「……ああ……」
 辛うじてそう応えた若い男の唇から、図らずも溜め息が洩れた。
 自国の特殊機関の手法はそれなりに熟知しているつもりだったが、勝手の違うアジアの島国で不慮の事態が起きれば、国内はおろかヨーロッパでの自らの信用を失墜させることにもなりかねない。
 信用を失うことは、他国で窓口となるべき外交官としては致命的である。
 不安げな彼の重苦しい沈黙を察してか、女は重ねて力強く言った。
『―――リトル・プリンセス・ ・ ・   ・ ・ ・ ・ ・は、我々の威信にかけて必ず守り抜いてみせるわ』
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