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姫君には鍵をかけて
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ⅩⅡ
青い闇に、シルエットが浮かび上がった。
潮風になびく髪を押さえながら、彼女は男たちの間近で足を止めた。
「…SDECE…」
黒髪の若者が譫言のように呟いた。
「周辺に潜んでいた者たちは、すべて我々が身柄を拘束したわ」
フランス訛りの英語が唇からこぼれた。
「悪あがきはやめてちょうだい」
厳しい目つきで銀髪の男を見据えたあと、彼女はふと目を伏せた。
「本国のアジトも、国軍とともに制圧したわ。証拠も押収したそうよ。…騒乱の計画に加担した者はみな、反逆罪に問われることになるでしょうね」
「…クーデターは、失敗に終わったわけか」
「ええ」
それを、黒髪の若者が叫ぶように遮った。
「嘘だ‼ 策略に決まっている! 聞いては駄目です、少佐‼」
「では、領事館へ電話なさい。領事は今ごろ本国から派遣された捜査官に拘束されているはずよ。あなたのその目と耳で確かめてみるといいわ」
「嘘だ、私は信じない!」
「見苦しいぞ、ハインツ」
「NEIN‼」
たしなめる声をも振り切った彼は、銀髪の男の手から銃を奪い取ると、自らのこめかみに押し当てた。
「よせ、ハインツ!」
引き金に指がかかったその刹那、彼の手を銃もろとも弾き飛ばしたのは、祐介の放った鉄の弾丸だった。
黒髪の若者は痺れる腕を押さえ、愕然とうなだれた。
銀髪の男が青ざめた顔で祐介を見た。
「礼を言う。高潔な男ゆえに、反逆罪などという屈辱に耐えられず、逆上したのだろう」
祐介は、ふんと鼻を鳴らした。
「子供に見せるもんじゃねーだろーが」
彼の呟いたスラングの日本語を、フランス訛りの英語が有り体に訳した。
すると、銀髪の男はふと目を細めた。
「王女を彼らに託したのは、誤りではなかったようだな」
「…彼らは誇りを持って、プリンセスを守りぬいてくれたわ」
そう応えた女の声はどこか切なげであった。
銀髪の男は、改めて静かに目を伏せた。
「国軍が動いたということは、大公の下知があったということだな」
「命令書にサインするその瞬間まで、ずっと苦渋していらしたそうよ。そして、執行官にこう付け加えられたそうよ―――罪状に留意し、彼らをすみやかに逮捕せよ、と」
「討伐命令ではなかったわけか…」
「信じておられたのよ、あなたたちを」
噛みしめるように言った彼女は、再び引き締まった表情で顔を上げた。
「…フリードリヒ公の居城も包囲され、公は現在、国軍の監視下で軟禁状態にあるわ。静養中の大公も、数日後には帰国されることになるでしょう」
「―――終わったな、すべて」
「…ええ…」
傍らでは、彼の若い部下たちが蒼白な顔で俯き、打ちのめされたように茫然と立ち尽くしている。
銀髪の男は暮れかかる空を仰ぎ見た。
「私の役目も、これで終わったわけだな」
彼女は眉をひそめると、重々しく口を開いた。
「あなたの任務は完了です。ご苦労様でした、リーツェンベルガー少佐」
「そちらの協力に感謝する」
その一言に耳を疑ったローゼンシュタイン公国の若者たちが、血の気のない顔をのろのろと上げた。
「……どういう……ことです……?」
言葉がもどかしく喉に絡んだ。応えを求め、ぎこちなく首をめぐらせる。
「―――聞いたとおりだ」
銀髪の男に、驚愕の眼差しが注がれた。
「……裏切り者は、あなただったのか……」
黒髪の若者の声がかすれて、揺れた。
「なぜだ⁉」
銀髪の男は、彼に向き直った。
「国家のためだ」
冷徹な口調だった。
微動だにしないその声色に圧倒され、若者たちは押し黙った。
「私は国家に忠誠を誓っている。国家のためならば、この身が汚辱にまみれることも厭わぬ」
「……あなたが…どうして……。言ったではありませんか。我々は選ばれた民族だ、国を本来あるべき姿に戻せ、そして…あの異国の女に国を穢されるな、と―――!」
「ハインツ、口を慎め。不敬だぞ」
若者の顔には嫌悪感が滲んでいた。
「あなたが、シュタルトバルト家の犬だったとは……。あなたが、正当なるわが国王家に叛くとは……」
彼は恨みがましい目つきで銀髪の男を見据えた。しかし、相手は動じなかった。
「私は、王家のためにあるのではない。私は国家に仕えている」
若者の口元に歪んだ嘲笑が浮かんだ。
「初めから、我々を裏切っていたんですね」
「フリードリヒ公に王位をお譲りするかどうかは、国王陛下がお決めになること。私は、国家に内紛が起きることなど望んでおらぬ」
「それが、あなたの答えですか」
「そうだ」
「だが、扇動したのはあなただ!」
彼の責めるようなその眼差しを、銀髪の男は真っ向から受け止めた。
「無論、罪を免れる気はない。首謀者は私だ。もとよりその覚悟はできている」
冷淡なアイスブルーの瞳は、確固たる意志を秘めていた。
黒髪の若者はぎゅっと唇を噛んだ。
「―――本国でお待ちします、少佐」
銀髪の男は頷くように目を伏せた。
ドイツ語の応酬が済むと、どこからか別の外国人が現われ、黒髪の若者ともう一人を連行して宵闇の彼方へ去っていった。
浜辺に残ったのは外国人の男女と幼い少女、そして、祐介と浩平だった。
やがて、澱んだ青い景色の中に溶けてゆく部下の姿を見送っていた銀髪の男が、浩平を返り見て英語で言った。
「幸運な男だ。神の加護があるらしいな」
浩平は新しい煙草に火をつけながら飄々と肩を竦めた。
「どうかな。小悪魔と契約はしているが」
一部始終を見届けながら、平然と落ち着き払っている様子には感服するほどだった。
「迷惑をかけたな」
「殊勝だな、書記官どの。それとも、少佐とお呼びしようか」
「…相変わらず、可愛げのない男だな」
「おれは男に愛想を振り撒く趣味はない」
その素っ気ない淡々とした応えに、銀髪の男は目を細めた。
「私は、クラウス・ベルンハルト・フォン・リーツェンベルガー。公国の近衛部隊の将校だ」
「フォン…。生粋の貴族将校だな」
「父も、祖父も、その父も、代々わが国の大公家に仕えてきた」
リーツェンベルガー少佐は、誇らしく胸を張った。浩平は、くわえ煙草で物憂げに髪を掻き揚げた。
「要するに、あんたの目的は最初からクーデターを未遂で終わらせることだったのか」
少佐は頷いた。
「そのためにネオ・ナチ擬いの妄想を持ち出して、奴らをとことん信用させたわけだ」
「…気付いていたのか」
「現・大公家に莫大な財宝があると吹き込んだのは誰なのか、考えればわかることだ。それを信じさせることができるのは当然、部下にも、返り咲きを狙っている人間にも信頼の厚い人物だとな」
「なるほどな。やはり、ただ運がいいというだけではなさそうだな」
少佐は、彼が銃口を向けられても顔色一つ変えなかった理由をようやく悟った。浩平の手には、すでに負けなしの切り札が握られていたのである。
「―――信じさせることが、重要だったのだ」
言葉が深い溜め息に変わり、視線が遠くへ流れた。
「ルードヴィヒ大公のご成婚当初から、国内の、ことに宮廷貴族の間では平民出身の妃に対して不満が燻っていた。身分の低いものに臣下として仕えることが我慢ならなかったのだろう。―――かくいう私も、その一人だった。口にこそ出さなかったが、どこかであの方を蔑んでいた。そういう気質が、王宮の周りには浸透していたのだろう」
ふと自嘲気味に笑った少佐は、問わず語りに続けた。
「異国の、平民の血が受け入れがたかったのかもしれない。だが、若者たちの間に根付いた思想が次第に過激になるにつれ、私は不安になった。彼らの感情を煽っている流れには、明確な意思が窺えたからだ」
その目が、砂浜に移った。
祐介のジャケットを羽織った少女が、彼に手を引かれてやってくるところだった。
少佐は、感情的になるのを押さえるように深呼吸すると、再び黄昏の空を仰いだ。
「幼少の頃から培ってきた価値観をそう簡単に覆せるものではない。無分別な、血気逸る若い貴族子弟の中で、クーデターが叫ばれるのは時間の問題だった。それを、彼らのうちの誰かが言い出す前に、私がナチズムを提唱したのだ」
「ナチを装ったのは、フランスの注意を引くためか」
浩平が抜け目なく口を挟む。
その非凡な洞察力に舌を巻いた少佐は、感嘆しながら頷いた。
「…王后陛下が不慮の死を遂げられて以来、フランスの諜報機関が国内を探っているのは知っていた。私がネオ・ナチだとふれ回れば、当局は必ず私をマークする。私は、国粋主義とナチズムの規律に陶酔する若者たちを抑制しながら、当局が接触してくるのを待った」
「自分の血を餌に、SDECEを釣り上げたんだな」
「―――当時の少佐は、本当に危険人物だったのよ」
浩平の皮肉っぽいせりふに、フランス訛りの英語が割り込んだ。視線が集まると、彼女は不貞腐れたように顔を背けた。
「半世紀前に侵略を受けてから、フランスはナチには敏感だ。あんたは、それを見越していた」
「そうだ。潜在的な思想と、意図的に操られた風潮に刺激された若者たちを無理に押さえ込んでも、末路は見えている。彼らの不毛な野望を完膚なきまでに打ち砕くには、国軍に勝る組織力が必要だった」
「…残酷だな。裏切りの準備を着々と進めながら、一方では計画に現実味を持たせる用意をしていたわけか」
薄く笑った浩平の口元が紫煙に煙った。
少佐は、静かに目を伏せた。
「幸い、我が家は大公家の近衛師団長として長く仕えてきた家柄だ。歴代の王家の内情や秘密には誰よりも通じている。私は、シュタルトバルト家に格好の材料となるものが秘蔵されていることを知っていたからな」
「それが、あの宝石か」
浩平が少女の抱えている人形に顎をしゃくると、少佐は驚きを隠しきれない様子で彼を凝視した。
「本当に…どこまでわかっているんだ?」
浩平は涼しい顔で肩を竦めた。
少佐は溜め息をついて首を振ると、伏し目がちに眉を寄せた。
「陛下がご成婚後、妃殿下に贈られたものが二つある。一つはフランス人のあの方のために求められたアンティークのビスクドール。そしてもう一つが、あの人形と同じ名を持つエメラルド《リトル・プリンセス》だ」
「…つまり―――それが、計画の最大のキーワードになったのか」
浩平の言葉に、少佐は硬い表情で俯いた。
「宝石の存在は、より効果的だった」
「信じただろうな。もっとも、あれだけ精巧に作られた贋物なら、一瞥では見分けはつかんだろうが」
「貴様、そこまでわかって……」
少佐は、珍しく動揺したように反応した。しかし、すぐにあきらめた様子で顔をしかめると、銀髪に指を差し入れて言った。
「誰にも…疑いを持たせたくなかった。この蜂起は、若者たちの人生を確実に狂わせる。こんな愚かなことのために名を汚すのは、私一人でたくさんだ」
煙草の先が赤く光った。
「そのために、王女を囮にしたわけか」
嘲るような浩平の口調は、容赦なく少佐の胸を貫いた。
「―――囮か…。そうなじられても仕方がないな」
溜め息混じりに呟いた彼のその苦しげな視線が、あどけない少女に注がれた。
「償いは、一生を賭けてするつもりだ」
冷えてきた風が頬を叩いた。海岸線は闇に沈み、辺りにはただ、打ち寄せる波の音だけが物悲しく響いていた。
青い闇に、シルエットが浮かび上がった。
潮風になびく髪を押さえながら、彼女は男たちの間近で足を止めた。
「…SDECE…」
黒髪の若者が譫言のように呟いた。
「周辺に潜んでいた者たちは、すべて我々が身柄を拘束したわ」
フランス訛りの英語が唇からこぼれた。
「悪あがきはやめてちょうだい」
厳しい目つきで銀髪の男を見据えたあと、彼女はふと目を伏せた。
「本国のアジトも、国軍とともに制圧したわ。証拠も押収したそうよ。…騒乱の計画に加担した者はみな、反逆罪に問われることになるでしょうね」
「…クーデターは、失敗に終わったわけか」
「ええ」
それを、黒髪の若者が叫ぶように遮った。
「嘘だ‼ 策略に決まっている! 聞いては駄目です、少佐‼」
「では、領事館へ電話なさい。領事は今ごろ本国から派遣された捜査官に拘束されているはずよ。あなたのその目と耳で確かめてみるといいわ」
「嘘だ、私は信じない!」
「見苦しいぞ、ハインツ」
「NEIN‼」
たしなめる声をも振り切った彼は、銀髪の男の手から銃を奪い取ると、自らのこめかみに押し当てた。
「よせ、ハインツ!」
引き金に指がかかったその刹那、彼の手を銃もろとも弾き飛ばしたのは、祐介の放った鉄の弾丸だった。
黒髪の若者は痺れる腕を押さえ、愕然とうなだれた。
銀髪の男が青ざめた顔で祐介を見た。
「礼を言う。高潔な男ゆえに、反逆罪などという屈辱に耐えられず、逆上したのだろう」
祐介は、ふんと鼻を鳴らした。
「子供に見せるもんじゃねーだろーが」
彼の呟いたスラングの日本語を、フランス訛りの英語が有り体に訳した。
すると、銀髪の男はふと目を細めた。
「王女を彼らに託したのは、誤りではなかったようだな」
「…彼らは誇りを持って、プリンセスを守りぬいてくれたわ」
そう応えた女の声はどこか切なげであった。
銀髪の男は、改めて静かに目を伏せた。
「国軍が動いたということは、大公の下知があったということだな」
「命令書にサインするその瞬間まで、ずっと苦渋していらしたそうよ。そして、執行官にこう付け加えられたそうよ―――罪状に留意し、彼らをすみやかに逮捕せよ、と」
「討伐命令ではなかったわけか…」
「信じておられたのよ、あなたたちを」
噛みしめるように言った彼女は、再び引き締まった表情で顔を上げた。
「…フリードリヒ公の居城も包囲され、公は現在、国軍の監視下で軟禁状態にあるわ。静養中の大公も、数日後には帰国されることになるでしょう」
「―――終わったな、すべて」
「…ええ…」
傍らでは、彼の若い部下たちが蒼白な顔で俯き、打ちのめされたように茫然と立ち尽くしている。
銀髪の男は暮れかかる空を仰ぎ見た。
「私の役目も、これで終わったわけだな」
彼女は眉をひそめると、重々しく口を開いた。
「あなたの任務は完了です。ご苦労様でした、リーツェンベルガー少佐」
「そちらの協力に感謝する」
その一言に耳を疑ったローゼンシュタイン公国の若者たちが、血の気のない顔をのろのろと上げた。
「……どういう……ことです……?」
言葉がもどかしく喉に絡んだ。応えを求め、ぎこちなく首をめぐらせる。
「―――聞いたとおりだ」
銀髪の男に、驚愕の眼差しが注がれた。
「……裏切り者は、あなただったのか……」
黒髪の若者の声がかすれて、揺れた。
「なぜだ⁉」
銀髪の男は、彼に向き直った。
「国家のためだ」
冷徹な口調だった。
微動だにしないその声色に圧倒され、若者たちは押し黙った。
「私は国家に忠誠を誓っている。国家のためならば、この身が汚辱にまみれることも厭わぬ」
「……あなたが…どうして……。言ったではありませんか。我々は選ばれた民族だ、国を本来あるべき姿に戻せ、そして…あの異国の女に国を穢されるな、と―――!」
「ハインツ、口を慎め。不敬だぞ」
若者の顔には嫌悪感が滲んでいた。
「あなたが、シュタルトバルト家の犬だったとは……。あなたが、正当なるわが国王家に叛くとは……」
彼は恨みがましい目つきで銀髪の男を見据えた。しかし、相手は動じなかった。
「私は、王家のためにあるのではない。私は国家に仕えている」
若者の口元に歪んだ嘲笑が浮かんだ。
「初めから、我々を裏切っていたんですね」
「フリードリヒ公に王位をお譲りするかどうかは、国王陛下がお決めになること。私は、国家に内紛が起きることなど望んでおらぬ」
「それが、あなたの答えですか」
「そうだ」
「だが、扇動したのはあなただ!」
彼の責めるようなその眼差しを、銀髪の男は真っ向から受け止めた。
「無論、罪を免れる気はない。首謀者は私だ。もとよりその覚悟はできている」
冷淡なアイスブルーの瞳は、確固たる意志を秘めていた。
黒髪の若者はぎゅっと唇を噛んだ。
「―――本国でお待ちします、少佐」
銀髪の男は頷くように目を伏せた。
ドイツ語の応酬が済むと、どこからか別の外国人が現われ、黒髪の若者ともう一人を連行して宵闇の彼方へ去っていった。
浜辺に残ったのは外国人の男女と幼い少女、そして、祐介と浩平だった。
やがて、澱んだ青い景色の中に溶けてゆく部下の姿を見送っていた銀髪の男が、浩平を返り見て英語で言った。
「幸運な男だ。神の加護があるらしいな」
浩平は新しい煙草に火をつけながら飄々と肩を竦めた。
「どうかな。小悪魔と契約はしているが」
一部始終を見届けながら、平然と落ち着き払っている様子には感服するほどだった。
「迷惑をかけたな」
「殊勝だな、書記官どの。それとも、少佐とお呼びしようか」
「…相変わらず、可愛げのない男だな」
「おれは男に愛想を振り撒く趣味はない」
その素っ気ない淡々とした応えに、銀髪の男は目を細めた。
「私は、クラウス・ベルンハルト・フォン・リーツェンベルガー。公国の近衛部隊の将校だ」
「フォン…。生粋の貴族将校だな」
「父も、祖父も、その父も、代々わが国の大公家に仕えてきた」
リーツェンベルガー少佐は、誇らしく胸を張った。浩平は、くわえ煙草で物憂げに髪を掻き揚げた。
「要するに、あんたの目的は最初からクーデターを未遂で終わらせることだったのか」
少佐は頷いた。
「そのためにネオ・ナチ擬いの妄想を持ち出して、奴らをとことん信用させたわけだ」
「…気付いていたのか」
「現・大公家に莫大な財宝があると吹き込んだのは誰なのか、考えればわかることだ。それを信じさせることができるのは当然、部下にも、返り咲きを狙っている人間にも信頼の厚い人物だとな」
「なるほどな。やはり、ただ運がいいというだけではなさそうだな」
少佐は、彼が銃口を向けられても顔色一つ変えなかった理由をようやく悟った。浩平の手には、すでに負けなしの切り札が握られていたのである。
「―――信じさせることが、重要だったのだ」
言葉が深い溜め息に変わり、視線が遠くへ流れた。
「ルードヴィヒ大公のご成婚当初から、国内の、ことに宮廷貴族の間では平民出身の妃に対して不満が燻っていた。身分の低いものに臣下として仕えることが我慢ならなかったのだろう。―――かくいう私も、その一人だった。口にこそ出さなかったが、どこかであの方を蔑んでいた。そういう気質が、王宮の周りには浸透していたのだろう」
ふと自嘲気味に笑った少佐は、問わず語りに続けた。
「異国の、平民の血が受け入れがたかったのかもしれない。だが、若者たちの間に根付いた思想が次第に過激になるにつれ、私は不安になった。彼らの感情を煽っている流れには、明確な意思が窺えたからだ」
その目が、砂浜に移った。
祐介のジャケットを羽織った少女が、彼に手を引かれてやってくるところだった。
少佐は、感情的になるのを押さえるように深呼吸すると、再び黄昏の空を仰いだ。
「幼少の頃から培ってきた価値観をそう簡単に覆せるものではない。無分別な、血気逸る若い貴族子弟の中で、クーデターが叫ばれるのは時間の問題だった。それを、彼らのうちの誰かが言い出す前に、私がナチズムを提唱したのだ」
「ナチを装ったのは、フランスの注意を引くためか」
浩平が抜け目なく口を挟む。
その非凡な洞察力に舌を巻いた少佐は、感嘆しながら頷いた。
「…王后陛下が不慮の死を遂げられて以来、フランスの諜報機関が国内を探っているのは知っていた。私がネオ・ナチだとふれ回れば、当局は必ず私をマークする。私は、国粋主義とナチズムの規律に陶酔する若者たちを抑制しながら、当局が接触してくるのを待った」
「自分の血を餌に、SDECEを釣り上げたんだな」
「―――当時の少佐は、本当に危険人物だったのよ」
浩平の皮肉っぽいせりふに、フランス訛りの英語が割り込んだ。視線が集まると、彼女は不貞腐れたように顔を背けた。
「半世紀前に侵略を受けてから、フランスはナチには敏感だ。あんたは、それを見越していた」
「そうだ。潜在的な思想と、意図的に操られた風潮に刺激された若者たちを無理に押さえ込んでも、末路は見えている。彼らの不毛な野望を完膚なきまでに打ち砕くには、国軍に勝る組織力が必要だった」
「…残酷だな。裏切りの準備を着々と進めながら、一方では計画に現実味を持たせる用意をしていたわけか」
薄く笑った浩平の口元が紫煙に煙った。
少佐は、静かに目を伏せた。
「幸い、我が家は大公家の近衛師団長として長く仕えてきた家柄だ。歴代の王家の内情や秘密には誰よりも通じている。私は、シュタルトバルト家に格好の材料となるものが秘蔵されていることを知っていたからな」
「それが、あの宝石か」
浩平が少女の抱えている人形に顎をしゃくると、少佐は驚きを隠しきれない様子で彼を凝視した。
「本当に…どこまでわかっているんだ?」
浩平は涼しい顔で肩を竦めた。
少佐は溜め息をついて首を振ると、伏し目がちに眉を寄せた。
「陛下がご成婚後、妃殿下に贈られたものが二つある。一つはフランス人のあの方のために求められたアンティークのビスクドール。そしてもう一つが、あの人形と同じ名を持つエメラルド《リトル・プリンセス》だ」
「…つまり―――それが、計画の最大のキーワードになったのか」
浩平の言葉に、少佐は硬い表情で俯いた。
「宝石の存在は、より効果的だった」
「信じただろうな。もっとも、あれだけ精巧に作られた贋物なら、一瞥では見分けはつかんだろうが」
「貴様、そこまでわかって……」
少佐は、珍しく動揺したように反応した。しかし、すぐにあきらめた様子で顔をしかめると、銀髪に指を差し入れて言った。
「誰にも…疑いを持たせたくなかった。この蜂起は、若者たちの人生を確実に狂わせる。こんな愚かなことのために名を汚すのは、私一人でたくさんだ」
煙草の先が赤く光った。
「そのために、王女を囮にしたわけか」
嘲るような浩平の口調は、容赦なく少佐の胸を貫いた。
「―――囮か…。そうなじられても仕方がないな」
溜め息混じりに呟いた彼のその苦しげな視線が、あどけない少女に注がれた。
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