だから今夜は眠れない

東雲紫雨

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姫君には鍵をかけて

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       ⅩⅢ

「ご連絡くださって、よかったですわ」
 出迎えた京極冴子が、口元にほっとしたような笑みを湛えた。
 エレベーターホールは煌々こうこうと明るく、正面には「清掃中」の立て札が立っている。7時半を回った閉館後の水族館は、人気ひとけがない分、ひっそりとした静けさに包まれていた。
「さっきは非常口から抜けちゃって、途中までしか見られなかったからさ」
「貸し切りでも構わなかったんですのよ」
「じゅーぶんだよ、これで」
 祐介は苦笑しながら肩を竦めると、入り口に掛けられた太いチェーンを軽くまたいだ。
「けど、よく開けてもらえたね」
「このビルのオーナーは、大道寺グループとは懇意にされていらっしゃるので、テナントに直接交渉してくださり、快諾していただきました。こちらのスタッフの方にはわたくしどもから臨時に手当を支給させていただきます」
「さんきゅ、女史」
「お礼でしたら、あの方に。すべてあの方のご指示ですわ」
「へえ…。―――大道寺の名前、使ったんだ、あいつ」
 不本意そうな由樹彦の顔が目に浮かび、祐介は再び苦笑した。
「正直、あんまり期待してなかったんだけどさ。あんなことあったあとだし…」
 彼が両手をピストル型に構えると、冴子はゆったりと微笑んだ。
「昼間の騒ぎのことでしたら、ご心配なく。警察に介入されないよう、こちらから手を回しておきました。照明設備の不具合で破損が起きたことになっています。傘下の施工会社に委託して、すでにメンテナンスが入っていますから、明日から通常どおりの営業ができますわ」
「さーすがぁー…」
 祐介は感嘆した。
 オーナーが快諾・ ・するわけである。一日に百万円単位の収益をあげるテナントが警察の捜査で一週間営業を差し止められた場合の損害は計り知れない。まして、ビル全体の影響を考えれば、たとえ大道寺の名を出さなくとも、否やNOは言えないはずである。
 徹底した周到さに感心する一方で、祐介は早くもげんなりと肩を落とした。
「このツケ、また倍返しとかなんだろーな」
 冴子は目を細めて、ふふっと笑った。
「これはプリンセスへの、ささやかなお餞別せんべつだそうですわ」
 細い眼鏡の奥の知的なその眼差しが、人形を抱えてたたず黒髪ブルネットの少女に注がれた。
 青みがかった暗灰色の瞳が大きく見開かれている。その子供らしい目の輝きを見れば、彼女の気持ちは容易に想像がついた。
 祐介が、仕切りの向こうから慣れたように少女をひょいと抱き上げた。
「んじゃ、行ってくるよ」
「ごゆっくり」
 冴子の微笑みに送られ、祐介たちがゲートをくぐると、BGMとアナウンステープが彼らのためだけに流れはじめた。
ゼリーフィッシュクラゲの次はなんだろうな」
 祐介の呟きを、少女が黙って聞いている。
 水中を模した青い揺らぎが、再び彼らを包み込んだ。

 館内の、少し離れた場所から二人の様子を眺めていたアイスブルーの瞳が、そっと細められた。
「内親王殿下のあんなお顔は、久方ぶりだ」
 その目には、円柱型の水槽にかじりつき、熱帯魚の華麗な群舞に屈託のない笑みを見せる少女の姿が映っている。
 感嘆の洩れた唇が、自嘲に歪んだ。
「この1年、ついぞ見たことがなかった…。無理もないがな。幼い殿下には、王后陛下のご逝去せいきょが大変なご心痛だったのだ。侍従たちは誰一人、殿下のお心をやわらげることができなかったというのに」
 低く響く渋い美声が、それに応えた。
「あれは、あいつの特技だからな」
 トレードマークの黒いサングラスが仄暗ほのぐらい照明に鈍く光った。
「動物と子供には無条件に好かれるらしい」
「それだけ、心が純粋な証拠だろう」
「レベルが同じなだけだ」
「―――毒舌だな…」
 彼は苦笑し、銀色の髪を掻き揚げた。指の間から微かにこぼれた磯の香りが、ふと先刻の海岸を思い出させた。

 波間に、街のが揺れていた。
「―――気の長い話だ」
 浩平が、コンクリートの波消しブロックに短くなった煙草たばこを押しつけて呟いた。
「帰国後の立場は最悪だろうな」
 街灯が黒いサングラスの上を滑る。
 クラウス・リーツェンベルガー少佐は銀髪に指を差し入れ、静かに息をついた。
「軍法会議で裁かれるだけのことだ」
「反逆の首謀者としてか。……黒幕は長生きするな」
 紫煙に煙ったとげのある皮肉っぽい口調には、露骨なあざけりが滲んでいた。
「名誉ある家だ、ここですたれさせるわけにはいかない。…だが、若者たちの国を思う心を利用するのはやめていただく。それが私の、公僕としての最後の仕事だ」
「国のために泥をかぶり、一人身を引く…か。先の国王にならったような結末だな」
「ラーフェンス公になぞらえてもらえるとは光栄だ。私の些細な行ないなどラーフェンス公あの方の気高さにはとても及ばぬが、私はあの方を尊敬している」
 少佐はその名を口にするとき、敬意を払うように目を伏せていた。
 その穏やかな態度からは、帰国後の不安は微塵みじんも感じられなかった。彼は当初から、逆賊の汚名も裏切りの非難も、何もかも引き受ける覚悟をしていたのである。
 車のヘッドライトが砂浜をよぎった。
 ポケットに両手を突っ込み、無機質な黒いサングラスを鈍く光らせた浩平が、低い声で言った。
「王位への執着と野心が、この程度でえるとは思えんが」
「自重していただくさ。主筋の君が誤った道を進もうとされるときは命に代えてもおいさめ申し上げるのが、わがリーツェンベルガー家の家訓だ」
「…忠義なことだな」
 浩平は、呆れたように肩をそびやかした。
 少佐はいつしか、彼のその辛辣しんらつな口振りにもすっかり慣れた様子で苦笑していた。

「―――礼を…言わねばならんな」
 壁一面の魚に夢中になっている少女を遠く見つめていた少佐は、浩平に向き直ると、改めて頭を下げ、最大の謝意を示した。
「感謝している。王女を守り抜けたのは、君たちの尽力によるところが大きい」
 浩平は、薄く笑って肩を竦めた。
「おれたちは迷惑しただけだ。礼を言われる筋合いはない」
 シニカルな物言いは相変わらずである。
 あきらめ顔で軽く首を振った少佐は、再びふと苦笑した。
「奪回には、精鋭の部下を送り込んだつもりだったのだがな」
「それも、本国の反勢力を弱化させるためと、国軍が動くまでの時間稼ぎだろう」
 畳みかける皮肉には閉口したが、あえて否定はしなかった。
「民間人を相手にするのは本意ではなかったが、私は、部下に手加減するよう命じた覚えはないからな」
 そして、彼はすうっと目を細めた。
「―――我々をあしらった手並みは尋常ではない。……一体、何者なんだ・ ・ ・ ・ ・?」
 浩平はククッと笑った。
「小悪魔に雇われた、ただの番犬・ ・だ」
「それで納得するとでも…?」
「してもらうしかない。おれたちに肩書きなどないからな」
 強化ガラスの壁の中で、半透明のクラゲがふわふわと浮遊していた。
 ガードロープの向こうでは、揃いの作業服つなぎを着た男たちが、黙々とフロアの破損部分を修繕している。
 動きに一切の無駄がなく、一般の施工業者でないことは一目でわかる。大道寺グループの関連企業の専門集団プロたちであろう。
「雇い主は、よほどの人物のようだな」
 少佐はその場を横目にやり過ごしながら、静かに言った。
「物の本質を見抜く、老練な目を持っていると見える」
 探るような眼差しに、浩平が口元を歪めた。
「ただの金持ちのドラ息子だ。それも17歳のな」
 17歳と聞いて、少佐は絶句した。
「―――信じられんな…」
「だから、買いかぶるなと言っただろう」
「それで満足しているのか? その腕なら、もっといい条件を望めるものを」
生憎あいにくと、そういうものには興味がない」
「…宝の持ち腐れだな…」
 少佐の呟きには溜め息と、微かな失望が混じっていた。
「それほどの腕を持ちながら、それをただ遊ばせておくとは、私に言わせれば罪悪だ」
 浩平は薄く笑った。
少佐メイジャー。おれたちは、あんたと違って義理や使命があるわけじゃない。どんないい条件があっても、所詮しょせん傭兵ようへいは傭兵だ」
「傭兵は傭兵…か。とても飼い犬に収まっているような器とは思えんが、卑下しているようにも見えんな」
「この気楽な立場が気に入ってるんでな」
「二人揃ってか」
Sureそうだ
 飄々と肩を竦めた浩平に、少佐はまた軽く首を振った。
「変わり者だな。十代の少年ティーンエイジャーに雇われて満足とは…」
 そう言いかけて、彼はふと真顔になった。
「いや……やはり、その雇い主に見る目があるのかもしれん。―――…末恐ろしい少年だな」
 出口が近付いていた。
 ロビーの売店で白いアザラシのぬいぐるみを買った祐介が、少女にそれを手渡すところだった。
「お別れだな、おチビちゃんフロイライン
 言葉はわからなくとも雰囲気は察しているようで、少女はアザラシをぎゅっと抱いて俯いた。
「そんな顔するなよ。おれは、けっこー楽しかったぜ」
 祐介はふと笑って、少女を抱き上げた。
 やわらかなミルク色の頬を紅潮させた少女は、泣きだしそうな表情で祐介の首にしがみついた。
 祐介は、その小さな背中を精一杯やさしくでてやった。
 浩平と、銀髪の少佐が歩み寄った。
 染みついた煙草ダンヒルの匂いに振り向いた少女が、おもむろに浩平の顔に手を伸ばした。
「痛いとこないかって」
 祐介が自分のこめかみを指しながら浩平に言った。
 欠けたサングラスの下の、左のこめかみは応急処置テープで血止めがしてある。同じ場所で体験した銃撃の恐怖も思い出したのか、少女の顔は曇っていた。
 浩平は薄く笑って小さな手を取り、その甲にそっとキスした。
「お心遣い恐悦に存じます、殿下ユアハイネス
 しびれるような渋い美声が彼女のためだけに囁かれた。
 たった2日間のことだったが、彼らが少女のかたくなな心に何らかの影響を与えていたのは明らかだった。
「―――世話になったな」
 リーツェンベルガー少佐が二人に目礼した。
 浩平は、少女の抱えているビスクドールに目を落として呟くようにたずねた。
「本当のところはどうなんだ」
 サングラスの奥の視線が、アイスブルーの瞳を射抜いた。
現・大公家シュタルトバルト家の財宝は、存在するのか?」
 少佐は静かに目を伏せた。
伝説・ ・だ」
「エメラルドをイミテーションに仕立てたのは王妃か?」
「恐らくな」
 視線の隅に、栗色の髪の美女がたたずむ。浩平は薄笑いを浮かべながら、さらに言った。
「王妃の死は、陰謀か?」
 少佐は顔を上げると、きっぱりとした口調で応えた。
事故・ ・だ。陰謀など、わがローゼンシュタイン公国には起こり得ない」
 フランスの干渉を牽制する言葉に、美女は顔をしかめながら歩み寄った。
「秘書官の意識が戻ったそうよ」
「…そうか。よかった、それだけが気掛かりだった」
 ほっとしたように息をついた少佐が、彼女に向き直った。
「君にも世話になった、ジル・クレール」
 彼は、両方の手首を合わせて差し出した。
 美女は戸惑った顔で眉をひそめ、沈んだ声で言った。
「あなたには、必要ないでしょう。それに…王女の前では…」
 ためらう彼女に、少佐は目を細めた。
「それでは示しがつかんだろう」
 視線の先にはグレーのスーツを着た金髪の青年の姿がある。
「王女の無事を確かめるって聞かないんですもの」
 頬をふくらませた美女は、渋々ハンドバッグから手錠を取り出した。
「これは、形式上ですからね」
 断わりながら少佐に手錠をかけた彼女は、金髪の青年にフランス語で言い放った。
「ウィラード、彼をお願い」
 美女は歩きだした少佐の背を見つめていたが、やがて浩平に向き直り、茶色い瞳で彼をきつく睨みつけた。
「意地悪な人ね」
 形のいい唇からフランス語がこぼれた。
 ポケットに両手を突っ込んだ浩平は、口元に冷笑をたたえた。
「他の連中は、奴のこと・ ・ ・ ・を知らんようだな」
「…知っているのは、私と、私の直属の上司と、それから長官だけよ」
 ぎゅっと眉を寄せた彼女は、美貌を惜し気もなく歪めて重く言った。
「少佐の名誉は、私たちが必ず回復するわ。彼の犠牲的精神がなければ、この作戦は成功しなかったんですもの」
 浩平が、ふと鼻で笑った。
「―――美談だな」
 遠い目で少佐を見ていた美女がむっとしたように振り返り、彼を睨み上げた。
 浩平は構わず冷ややかに吐き捨てた。
「おまえたちのやり方は気に入らない。無関係の人間を平気で巻き込んで、正義面せいぎづらをする。他人の生活を踏み荒らしておいて、ご立派な大義のためには、些細な、仕方のないことだとうそぶく。厚かましくて、不愉快な連中だ」
 容赦のないあざけりだった。
 美女は唇を噛みしめ、ひるみそうになる自分を懸命に叱咤しったしながら黒いサングラスを睨み続けた。
「おれたちが王女を守るのも、当然のことと思っていたんじゃないのか? でなければ、ネオ・ナチ気取りの若造にられても構わない、ていのいい使い捨てと思っていたか」
 侮蔑に耐える手が白くなり、握り締められた手のひらに長い爪が食い込んでいた。
 だが、おもむろに目を伏せた彼女は、やっとの思いで震える指を広げると、深く吐息をついて彼を見上げた。
「何を言っても、あなたのお気に召さないんでしょうね。だけど…使い捨てなんて相応ふさわしくないわ、あなた自身をおとしめる言葉よ」
 そして、気を落ち着けるように、もう一度大きく息をついた。
「巻き込んだことは謝ります。不愉快な思いをさせたことも…。でも―――」
 美女は顔を上げ、真直ぐに浩平を見た。
「私の目に狂いはなかったわ。あなたは、私の期待以上の人だったもの」
 美しい微笑みを浮かべた彼女は浩平に身を寄せると、その肩に手を掛け、両腕を首に回しながら爪先つまさき立ちして彼の唇にきれいな赤いルージュの唇を重ねた。
 浩平は身じろぎもしなかった。
 彼女を見下ろす黒いサングラスは、憎らしいほど淡々としている。
 そんな彼を軽く睨み、美女は目を伏せた。
「―――覚えていて、ムシュウ。いつかあなたの言ういい女・ ・ ・になって、あなたをきっと後悔させてみせるわ」
 浩平は薄く笑って低く応えた。
「楽しみにしておこう」
 体を離した美女は、祐介の抱いている少女に目を移した。
 祐介は心得たように少女を床に降ろした。
「じゃあな、おチビちゃん」
 片膝をつき、少女の大きな瞳を覗き込んで目を細めた祐介が立ち上がると、美女が少し間を置いて
流暢りゅうちょうな日本語で言った。
「あなたの言葉は身に染みたわ、ムシュウ・ラフルール。ありがとう」
「今度は、ちゃんと守ってやれよな」
「ええ…もちろんよ」
 切なげな笑みを残して、美女は少女の手を引いていった。
 少女は、祐介たちの姿が見えなくなるまで何度も何度も振り返っていた。
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