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後日譚〜今日があり、明日へ〜⑥
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それから、美矢乃さまと共に美矢乃さまのご実家に戻ると、手を洗って食堂へと通された。
前にビュッフェ形式で大量のお料理やデザートを目の前に運ばれた記憶があるため、やや警戒していたけれど、今回はどうやら違うらしい。素材の味を活かした無糖のオレンジジュースが運ばれ、少しだけかしこまった雰囲気に緊張しながらジュースで喉を潤す。
「千香、かしこまらなくとも大丈夫よ。マナーに厳しいコース料理でもないのだし」
「……はい、美矢乃さま。ありがとうございます」
本当に美矢乃さまは私を良く見ていらっしゃる。包まれて嬉しいような、暴かれて照れくさくなるような、そんな感情に胸が少し騒いだ。
──と、そこでスープが出された。コンソメスープだった。けれど、今までに見たこともない黄金色に澄みきったスープだ。香りも芳醇で、どれほど手間をかけて作られたのか素人の私にも伝わってくる。
「さ、頂きましょう、千香」
「はい。とても綺麗で美味しそうです」
「良かったわ。うちのシェフが聞いたら喜ぶわよ」
素直に感嘆する私に、美矢乃さまは柔らかい笑みを浮かべて下さる。せっかくのスープが冷めてしまう前にとスプーンをとり、そっと口に運ぶと、何とも言えない深い味わいがした。様々な野菜や素材が旨味を出して溶け合い、少しのハーブが絶妙に味を締めている。旨味の香りで口内が満たされ、一口飲む度にスープに使われて溶け込んた材料の生命の力が美味しさと共に全身に沁みわたるようだった。
「お味は口に合って?」
「はい、こんなに美味しいコンソメスープは生まれて初めてです。シンプルな味のようで、とても複雑な味わいがします」
「このコンソメスープは私のお気に入りでもあるのよ。千香が気に入ってくれて嬉しいわ」
それにしても美矢乃さまの優雅な頂き方。私も恥にならないように美矢乃さまをお手本にしているけれど、一朝一夕で身につくものではない。美矢乃さまは私が美味しく頂けているだけで満足そうになさっているものの、やはり最低限のマナーは守りたい。
スープの美味しさに舌鼓を打ちながら味わい頂くと、次にはメインが運ばれてきた。この匂い──深いグラタン皿のような容器に収まったお料理には見覚えがあった。
「美矢乃さま、これは」
それは、いつか私が美矢乃さまにご用意したビーフシチューのパイ包み焼きだった。美矢乃さまは蕩けるような笑顔で軽く片頬に手をあてた。
「前に千香が食べさせてくれたでしょう、その味が忘れられなくて。うちのシェフが一般人コースの厨房からレシピを教わってもらって再現させてくれたのよ」
「そうなんですね……」
まさか、そんなにも喜んで頂けていたとは。心に温かいものが満ちてくる。
シチューは赤ワインで煮込まれた牛肉が口でほろほろとほぐれ、ブラウンソースが絡んで美味しかった。美矢乃さまも嬉しそうに頂いておられる。
「千香と二人でお食事を頂くのは久しぶりね。だからかしら、尚さら美味しく感じるわ」
「私、も……美味しいです」
美矢乃さまのストレートなお言葉には少しずつ慣れてきているようで、でもこそばゆい。ましてや、この美貌が目の前にあって美しい満面の笑みを浮かべているのだ。気を抜けば放心してしまう。私はせっかくのお食事に集中しようとスプーンを口に運んだ。
美矢乃さまは、あの時の初めて私が用意して頂いたお弁当を覚えて下さっていた。まして、レシピを再現させるほど喜んで頂けていたのだ。嬉しくない訳がない。
気がつくと、私は緊張もお料理の美味しさと美矢乃さまのお心遣いによってほぐれていた。シチューを半分ほど食べ進めた頃には、純粋に美味しさを楽しめていて、目の前の美矢乃さまは私が見遣ると必ず微笑みかけて下さるので、「本当に美味しいです」と笑みを返しているうちにシチューも完食してしまった。
次に運ばれたデザートは、プディングにカラメルの飴を張ったものだった。スプーンでカラメルを割って頂くものらしい。美矢乃さまの見よう見まねでデザートを頂くと、プディングの滑らかで控えめな甘さに、ほろ苦いカラメルの甘みが絶妙に合っていた。よほど手をかけないと作り出せないデザートだ。私は、このお食事が一般人向けに作られたという事も気づいていた。それも、思い出までも籠めて腕を振るって頂けたと思うと、どれほど大切に思われているのか……おそらく美矢乃さまのお父君が同席していないのも、美矢乃さまと私の二人きりで過ごせる休日を思いやっての事だろう。心からありがたく、美味しいお食事で身体が満たされると共に心もまた頂いた優しさで満たされてゆく。
お食事で満たされた後は、香り高い紅茶を頂いた。お砂糖がいらないほど美味しい。紅茶の茶葉の味わいと香りで、心が落ち着く。
「千香、お食事の後にお父さまが会いたいと仰っていたけれど──千香の争奪戦になってしまうわ。私は負ける気がしないのだけれど、千香は大丈夫かしら?」
何やら物騒なお言葉を聞いた気がするけれど、美矢乃さまのお父君にはお世話になったのだし、否やはない。それに、おそらく私を心配してくれての事だろう。もう大丈夫ですと感謝と共にお伝えしたい。
「私は大丈夫です、美矢乃さま。お父君には貴重なお時間を使って頂いたのにご挨拶もなしでは不義理で却って申し訳なく落ち着きませんし」
「千香なら、そう言うと思ったわ。けれど良かった。千香、今とても良い顔をしていてよ」
「美矢乃さまが救って下さったお蔭です。……ありがとうございます。演目に関しては、少し思いついた事があるので、休み明けに顧問の先生に相談してみます」
「まあ、それは前向きな変化ね。お父さまにも感謝しなくてはならないわ。──千香、私の言葉を忘れないでちょうだいね」
「はい、美矢乃さまのお心ですから、絶対に忘れません」
力強く頷くと、美矢乃さまは満足そうに破顔して席を立ち、私の元に来て、「大好きな千香……」と抱きしめて下さった。
──それから、美矢乃さまのお父君が待つお部屋へ美矢乃さまと一緒に伺った。今朝とは違う私の顔をご覧になり、お父君も気づいたのだろう。私を見るなり表情が柔らかくなった。
「千香くん、どうやら大丈夫そうだ。美矢乃の卒業公演は私も観劇に赴くから楽しみにしている」
「はい、ありがとうございます。これも、お二方のお蔭です。私は自分の悪い癖で思いつめて、過去に囚われて……見守って下さる方々のお心にも気づけずにいました。」
「進む時には未来しかない。過去は消せないが……未来は自分次第でいくらでも素晴らしいものに出来ると覚えておいて欲しい」
「はい、心に刻みます」
「──千香……先ほどからお父さまと話してばかりだわ。私が拗ねてしまいそうよ。ああでも、千香が救われたのだから喜ぶべきなのね」
「美矢乃さま……美矢乃さまにも本当に感謝していますよ?」
「役に立てて嬉しいわ。ならば、帰りの車では手を繋いでいてね」
一体何が、ならばなのか。疑問は抱かずにいられなかったものの、美矢乃さまが私に心を配って思いやって下さったからこそ、私は美矢乃さまを殺めた過去に演じられずにいた今と、それらを乗り越えられた。未来も恐れずに済むだろう。
「……特別ですよ?」
「ふふ、千香の特別ね」
「美矢乃が密室で手を……」
美矢乃さまのお父君は、美矢乃さまを心配なさっておいでなのか、美矢乃さまが私に何かするのが心配なのか今ひとつ分かりかねる。しかし、これもまた愛情の形だと分かるので安心して聞いていられた。
「千香くん、君は独りではない。美矢乃が寄り添い、私も応援している。部活の仲間達も見守ってくれている。君ならば大丈夫だ」
「──はい」
「さ、千香。そろそろ帰りましょう。車を出させるわ」
「……美矢乃。千香くんを独り占めして夕食も共にさせないつもりか?」
「お父さま、明日から稽古が再開されますのよ? 千香は万端を期さなければなりませんの」
「いや、だがしかし……」
「この先、千香はずっと私と共におりますのよ? 食事の機会ならば、いくらでもありますでしょう」
「それは、そうだが……今日は千香くんと過ごせる時間が少なすぎたのではないか?」
「時間の長短ではありませんわ。お父さまは千香の助けに十分なりましたでしょう」
美矢乃さまがお父君をばっさりと斬り捨てる。少しお父君が不憫になった。
──でも、何はともあれ明日の朝から練習は再開される。私は美矢乃さまの為にも、応援して下さる皆さまの為にも全力を尽くすのみだ。
大丈夫。そう確信出来る。私は何と恵まれて今を生きているのだろう。
「──お嬢さま、お車の準備が整いました」
襖の向こうから控えめな声が聞こえる。美矢乃さまのお父君が僅かに寂しそうなお顔になられたが、あまり長居は出来ない。思いついた事で、考えなければならない事もある。物語の大筋を変えるものではないのだし、より良くする為ならば顧問の先生も許して下さるだろう。何より、私が演目を演じきられるのであれば。
精一杯、今この時を頑張ろう。美矢乃さまと掴んだ共にあれる今という幸福を。
「──それでは、失礼致します。お時間を作って下さって本当にありがとうございました」
正座をしたまま深くお辞儀をする。美矢乃さまのお父君は温かく微笑んで、「千香くん、君は私の娘のようなものだと思っていると言っただろう? 大切な娘の為に惜しむ時間などないのだから」と仰って下さった。
「お父さま、私からもお礼を言いますわ。千香は将来養子縁組で我が家の一員になる身ですし、私のかけがえない存在ですもの」
養子縁組については、薄々そうなるだろうとは思っていたけれど、魂の契りを交わした後に、美矢乃さまは吸血鬼としての牙を失ない、見た目こそ変わらなくとも一般人とは変わらない。そうなるまでに鍛えた身体は強靭だけれど、契りを交わした私の血は、この先二度と吸血出来ない。
それでも、美矢乃さまは私と生きる人生を選んで下さった。──いや、私と生きる為に吸血鬼としての生を手放して下さったのだ。
「……あの、美矢乃さま。手を」
だから、私は初めて自分から手を差し出した。
美矢乃さまは目を見張り、それからとても嬉しそうに目を細めて両手で私の手を押し包んだ。
「千香から手を繋いでくれるだなんて……私は幸せで蒸発しそうよ。千香、何て愛らしいのかしら」
「言い過ぎです、美矢乃さま……手を繋いでいられなくなってしまいます」
美矢乃さまは私への想いを口にするのに、躊躇いなく直球な言葉を惜しまない。嬉しいけれど、当たり前のように慣れる事は到底出来そうにない。その私の反応さえも美矢乃さまからすれば愛くるしいらしいのだから、美矢乃さまも私も大概重症だ。
「あら、それは困るわね。私は千香と触れ合える時間も機会も貴重なのよ。──手を離したら嫌よ?」
「……離しません、から……」
そこで、美矢乃さまのお父君が咳払いした。私とした事が、人前で──まして美矢乃さまのお父君の目の前で大胆になりすぎてしまった。恥ずかしさで顔から凄まじく放熱しそうだ。
「す、すみません……」
「いや、私も狭量だった。美矢乃と千香くんの絆は分かっているつもりではあったが……目の前で二人の世界を見せられると、どうにも……」
「お父さま、慣れて下さいませ。これから先、この程度で妬いていては、いつか憤死しますわよ」
美矢乃さまは、お父君にも直球を躊躇わない……。
「──では、お父さま、私達は寮に帰りますわね。卒業公演をどうか楽しみになさっていて下さいませ。私と千香、部活の皆さんの努力してきた結果を堂々とお見せ致しますわ」
「ああ、楽しみにしている。気をつけて帰りなさい」
お父君のお言葉を潮に、退室して玄関に向かう。広い廊下は美矢乃さまと私が手を繋いで歩いていても余裕がある。
私はもう、悪夢にうなされる事はないだろう。独り思い詰める事も。
美矢乃さまと共にあれる今があり、共に今日より明るい明日へと目指して歩める未来を信じられるのだから。
前にビュッフェ形式で大量のお料理やデザートを目の前に運ばれた記憶があるため、やや警戒していたけれど、今回はどうやら違うらしい。素材の味を活かした無糖のオレンジジュースが運ばれ、少しだけかしこまった雰囲気に緊張しながらジュースで喉を潤す。
「千香、かしこまらなくとも大丈夫よ。マナーに厳しいコース料理でもないのだし」
「……はい、美矢乃さま。ありがとうございます」
本当に美矢乃さまは私を良く見ていらっしゃる。包まれて嬉しいような、暴かれて照れくさくなるような、そんな感情に胸が少し騒いだ。
──と、そこでスープが出された。コンソメスープだった。けれど、今までに見たこともない黄金色に澄みきったスープだ。香りも芳醇で、どれほど手間をかけて作られたのか素人の私にも伝わってくる。
「さ、頂きましょう、千香」
「はい。とても綺麗で美味しそうです」
「良かったわ。うちのシェフが聞いたら喜ぶわよ」
素直に感嘆する私に、美矢乃さまは柔らかい笑みを浮かべて下さる。せっかくのスープが冷めてしまう前にとスプーンをとり、そっと口に運ぶと、何とも言えない深い味わいがした。様々な野菜や素材が旨味を出して溶け合い、少しのハーブが絶妙に味を締めている。旨味の香りで口内が満たされ、一口飲む度にスープに使われて溶け込んた材料の生命の力が美味しさと共に全身に沁みわたるようだった。
「お味は口に合って?」
「はい、こんなに美味しいコンソメスープは生まれて初めてです。シンプルな味のようで、とても複雑な味わいがします」
「このコンソメスープは私のお気に入りでもあるのよ。千香が気に入ってくれて嬉しいわ」
それにしても美矢乃さまの優雅な頂き方。私も恥にならないように美矢乃さまをお手本にしているけれど、一朝一夕で身につくものではない。美矢乃さまは私が美味しく頂けているだけで満足そうになさっているものの、やはり最低限のマナーは守りたい。
スープの美味しさに舌鼓を打ちながら味わい頂くと、次にはメインが運ばれてきた。この匂い──深いグラタン皿のような容器に収まったお料理には見覚えがあった。
「美矢乃さま、これは」
それは、いつか私が美矢乃さまにご用意したビーフシチューのパイ包み焼きだった。美矢乃さまは蕩けるような笑顔で軽く片頬に手をあてた。
「前に千香が食べさせてくれたでしょう、その味が忘れられなくて。うちのシェフが一般人コースの厨房からレシピを教わってもらって再現させてくれたのよ」
「そうなんですね……」
まさか、そんなにも喜んで頂けていたとは。心に温かいものが満ちてくる。
シチューは赤ワインで煮込まれた牛肉が口でほろほろとほぐれ、ブラウンソースが絡んで美味しかった。美矢乃さまも嬉しそうに頂いておられる。
「千香と二人でお食事を頂くのは久しぶりね。だからかしら、尚さら美味しく感じるわ」
「私、も……美味しいです」
美矢乃さまのストレートなお言葉には少しずつ慣れてきているようで、でもこそばゆい。ましてや、この美貌が目の前にあって美しい満面の笑みを浮かべているのだ。気を抜けば放心してしまう。私はせっかくのお食事に集中しようとスプーンを口に運んだ。
美矢乃さまは、あの時の初めて私が用意して頂いたお弁当を覚えて下さっていた。まして、レシピを再現させるほど喜んで頂けていたのだ。嬉しくない訳がない。
気がつくと、私は緊張もお料理の美味しさと美矢乃さまのお心遣いによってほぐれていた。シチューを半分ほど食べ進めた頃には、純粋に美味しさを楽しめていて、目の前の美矢乃さまは私が見遣ると必ず微笑みかけて下さるので、「本当に美味しいです」と笑みを返しているうちにシチューも完食してしまった。
次に運ばれたデザートは、プディングにカラメルの飴を張ったものだった。スプーンでカラメルを割って頂くものらしい。美矢乃さまの見よう見まねでデザートを頂くと、プディングの滑らかで控えめな甘さに、ほろ苦いカラメルの甘みが絶妙に合っていた。よほど手をかけないと作り出せないデザートだ。私は、このお食事が一般人向けに作られたという事も気づいていた。それも、思い出までも籠めて腕を振るって頂けたと思うと、どれほど大切に思われているのか……おそらく美矢乃さまのお父君が同席していないのも、美矢乃さまと私の二人きりで過ごせる休日を思いやっての事だろう。心からありがたく、美味しいお食事で身体が満たされると共に心もまた頂いた優しさで満たされてゆく。
お食事で満たされた後は、香り高い紅茶を頂いた。お砂糖がいらないほど美味しい。紅茶の茶葉の味わいと香りで、心が落ち着く。
「千香、お食事の後にお父さまが会いたいと仰っていたけれど──千香の争奪戦になってしまうわ。私は負ける気がしないのだけれど、千香は大丈夫かしら?」
何やら物騒なお言葉を聞いた気がするけれど、美矢乃さまのお父君にはお世話になったのだし、否やはない。それに、おそらく私を心配してくれての事だろう。もう大丈夫ですと感謝と共にお伝えしたい。
「私は大丈夫です、美矢乃さま。お父君には貴重なお時間を使って頂いたのにご挨拶もなしでは不義理で却って申し訳なく落ち着きませんし」
「千香なら、そう言うと思ったわ。けれど良かった。千香、今とても良い顔をしていてよ」
「美矢乃さまが救って下さったお蔭です。……ありがとうございます。演目に関しては、少し思いついた事があるので、休み明けに顧問の先生に相談してみます」
「まあ、それは前向きな変化ね。お父さまにも感謝しなくてはならないわ。──千香、私の言葉を忘れないでちょうだいね」
「はい、美矢乃さまのお心ですから、絶対に忘れません」
力強く頷くと、美矢乃さまは満足そうに破顔して席を立ち、私の元に来て、「大好きな千香……」と抱きしめて下さった。
──それから、美矢乃さまのお父君が待つお部屋へ美矢乃さまと一緒に伺った。今朝とは違う私の顔をご覧になり、お父君も気づいたのだろう。私を見るなり表情が柔らかくなった。
「千香くん、どうやら大丈夫そうだ。美矢乃の卒業公演は私も観劇に赴くから楽しみにしている」
「はい、ありがとうございます。これも、お二方のお蔭です。私は自分の悪い癖で思いつめて、過去に囚われて……見守って下さる方々のお心にも気づけずにいました。」
「進む時には未来しかない。過去は消せないが……未来は自分次第でいくらでも素晴らしいものに出来ると覚えておいて欲しい」
「はい、心に刻みます」
「──千香……先ほどからお父さまと話してばかりだわ。私が拗ねてしまいそうよ。ああでも、千香が救われたのだから喜ぶべきなのね」
「美矢乃さま……美矢乃さまにも本当に感謝していますよ?」
「役に立てて嬉しいわ。ならば、帰りの車では手を繋いでいてね」
一体何が、ならばなのか。疑問は抱かずにいられなかったものの、美矢乃さまが私に心を配って思いやって下さったからこそ、私は美矢乃さまを殺めた過去に演じられずにいた今と、それらを乗り越えられた。未来も恐れずに済むだろう。
「……特別ですよ?」
「ふふ、千香の特別ね」
「美矢乃が密室で手を……」
美矢乃さまのお父君は、美矢乃さまを心配なさっておいでなのか、美矢乃さまが私に何かするのが心配なのか今ひとつ分かりかねる。しかし、これもまた愛情の形だと分かるので安心して聞いていられた。
「千香くん、君は独りではない。美矢乃が寄り添い、私も応援している。部活の仲間達も見守ってくれている。君ならば大丈夫だ」
「──はい」
「さ、千香。そろそろ帰りましょう。車を出させるわ」
「……美矢乃。千香くんを独り占めして夕食も共にさせないつもりか?」
「お父さま、明日から稽古が再開されますのよ? 千香は万端を期さなければなりませんの」
「いや、だがしかし……」
「この先、千香はずっと私と共におりますのよ? 食事の機会ならば、いくらでもありますでしょう」
「それは、そうだが……今日は千香くんと過ごせる時間が少なすぎたのではないか?」
「時間の長短ではありませんわ。お父さまは千香の助けに十分なりましたでしょう」
美矢乃さまがお父君をばっさりと斬り捨てる。少しお父君が不憫になった。
──でも、何はともあれ明日の朝から練習は再開される。私は美矢乃さまの為にも、応援して下さる皆さまの為にも全力を尽くすのみだ。
大丈夫。そう確信出来る。私は何と恵まれて今を生きているのだろう。
「──お嬢さま、お車の準備が整いました」
襖の向こうから控えめな声が聞こえる。美矢乃さまのお父君が僅かに寂しそうなお顔になられたが、あまり長居は出来ない。思いついた事で、考えなければならない事もある。物語の大筋を変えるものではないのだし、より良くする為ならば顧問の先生も許して下さるだろう。何より、私が演目を演じきられるのであれば。
精一杯、今この時を頑張ろう。美矢乃さまと掴んだ共にあれる今という幸福を。
「──それでは、失礼致します。お時間を作って下さって本当にありがとうございました」
正座をしたまま深くお辞儀をする。美矢乃さまのお父君は温かく微笑んで、「千香くん、君は私の娘のようなものだと思っていると言っただろう? 大切な娘の為に惜しむ時間などないのだから」と仰って下さった。
「お父さま、私からもお礼を言いますわ。千香は将来養子縁組で我が家の一員になる身ですし、私のかけがえない存在ですもの」
養子縁組については、薄々そうなるだろうとは思っていたけれど、魂の契りを交わした後に、美矢乃さまは吸血鬼としての牙を失ない、見た目こそ変わらなくとも一般人とは変わらない。そうなるまでに鍛えた身体は強靭だけれど、契りを交わした私の血は、この先二度と吸血出来ない。
それでも、美矢乃さまは私と生きる人生を選んで下さった。──いや、私と生きる為に吸血鬼としての生を手放して下さったのだ。
「……あの、美矢乃さま。手を」
だから、私は初めて自分から手を差し出した。
美矢乃さまは目を見張り、それからとても嬉しそうに目を細めて両手で私の手を押し包んだ。
「千香から手を繋いでくれるだなんて……私は幸せで蒸発しそうよ。千香、何て愛らしいのかしら」
「言い過ぎです、美矢乃さま……手を繋いでいられなくなってしまいます」
美矢乃さまは私への想いを口にするのに、躊躇いなく直球な言葉を惜しまない。嬉しいけれど、当たり前のように慣れる事は到底出来そうにない。その私の反応さえも美矢乃さまからすれば愛くるしいらしいのだから、美矢乃さまも私も大概重症だ。
「あら、それは困るわね。私は千香と触れ合える時間も機会も貴重なのよ。──手を離したら嫌よ?」
「……離しません、から……」
そこで、美矢乃さまのお父君が咳払いした。私とした事が、人前で──まして美矢乃さまのお父君の目の前で大胆になりすぎてしまった。恥ずかしさで顔から凄まじく放熱しそうだ。
「す、すみません……」
「いや、私も狭量だった。美矢乃と千香くんの絆は分かっているつもりではあったが……目の前で二人の世界を見せられると、どうにも……」
「お父さま、慣れて下さいませ。これから先、この程度で妬いていては、いつか憤死しますわよ」
美矢乃さまは、お父君にも直球を躊躇わない……。
「──では、お父さま、私達は寮に帰りますわね。卒業公演をどうか楽しみになさっていて下さいませ。私と千香、部活の皆さんの努力してきた結果を堂々とお見せ致しますわ」
「ああ、楽しみにしている。気をつけて帰りなさい」
お父君のお言葉を潮に、退室して玄関に向かう。広い廊下は美矢乃さまと私が手を繋いで歩いていても余裕がある。
私はもう、悪夢にうなされる事はないだろう。独り思い詰める事も。
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